ビルオーナー(五)
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
長編&連作 作品集
本文
王都のまんなかにある「魔導マルチテナントビル」。それぞれの部屋に不思議な結界が張られた、ちょっと特別な賃貸ビル。
管理人の佐藤 純は、戦う力のないふつうの人間。だけど、ビルのなかでは絶対的な力を持っている。入居者に迷惑がかからない範囲なら、部屋の広さも、温度や重力まで、思いのままに変えることができる。とはいえ彼の目的はとてもシンプルで、ちゃんと家賃をもらうことと、お店のみんなが安全に過ごせるように見守ることだけ。
ギルドから派遣されてきた担当者は、大の物語好き。このビルで起こるいろんな出来事を眺めては、一人でこっそり感動している。
【深海のバー】
ビルの地下深くに、古い配管だらけの、使われていないボイラー室があった。広さにして10坪ほど。埃と錆の匂いが染みついた、忘れられた場所。
「大家さん、地下の空っぽのボイラー室、入居者きまったんですね!」
担当者が台帳をめくりながら聞いてくる。
「ああ。水魔法を使うマスターが、あそこでバーを開きたいと言ってきてな」
「あんな薄暗いところにバーですか。お客さん、来るんでしょうか」
「本人は自信ありげだったよ。まあ、見てみよう」
数日後、担当者を連れて純が地下へ降りると、錆びた鉄扉の向こうから、かすかに潮の香りが漂ってきた。扉を開けた瞬間、思わず息を呑む。
10坪しかないはずの空間は、壁一面が本物の深海と繋がっていた。分厚いガラス越しに広がるのは、青と紫が幾重にも溶け合う、果てのない水の世界。巨大なジンベエザメが、まるで空を泳ぐようにゆったりと横切り、その周りを、光る古代魚の群れが、無数の星屑をまき散らすように瞬きながら旋回している。時折、深海クラゲの群れが、淡いピンクや水色の光を明滅させながらふわりと浮かび上がり、まるで水中に咲く花畑のようだった。天井からは青白い光が波紋のように降り注ぎ、店内のグラスや酒瓶の縁を、きらきらと美しく縁取っている。床には、細かな砂粒に混じって夜光貝のかけらが敷き詰められ、歩くたびに小さな光の粒がふわりと舞い上がった。
カウンターの向こうには、人魚族のマスターが静かに佇んでいる。長い髪が、光を受けるたびに銀色にきらめいた。
「いらっしゃいませ、大家さん」
「これは……見事なものだな」
「地上の喧騒から離れて、少しだけ深く潜れる場所にしたかったんです」
マスターはグラスを一つ取り出し、透き通った水を注ぐ。グラスの中で、小さな光の粒がゆっくりと渦を巻き、まるでグラスの中に星空を閉じ込めたようだった。
「よろしければ、一杯どうぞ。深海の澄んだ水で作った特製の一杯です」
口に含むと、ひんやりとした涼しさが喉を通り抜け、体の芯まで静かに落ち着いていく。
担当者は手帳を握りしめたまま、しばらく呆然と壁のガラスを見つめていた。
「地下の物置が、まさかこんな幻想的なバーになるなんて……!これは記録しないと!」
そう言って、震える手でメモを取り始める。
バーは静かな評判を呼び、疲れた仕事帰りの住人たちが、ふらりと立ち寄っては、光り輝く深海の景色を眺めながら杯を傾けていくようになった。誰もが扉をくぐった瞬間、青い光に包まれて、肩の力がふっと抜けて、深く息をつく。ビルの最下層に、静かな安らぎの場所が生まれていた。
そんなある日、純は思いがけない人物が地下へ続く階段を降り、バーの中へ入っていくのを目撃する。
「あれは……」
「大家さん、あの人って……」
全身に傷を負い、鎧のあちこちが欠けた、大物オーガの女戦士。激しいダンジョン攻略から帰ってきたばかりなのだろう、足取りは重く、纏う空気にもいつもの覇気がない。
純と担当者は、そっと後を追い、バーの扉の隙間から中を覗いた。
女戦士は鎧を脱ぎ捨てて、ソファに沈み込み、ガラスの向こうをゆらゆらと流れる、深海の青い光をじっと見つめていた。頭上を、光る古代魚の群れがゆっくりと通り過ぎ、その光の残像が、彼女の疲れた頬の上を、淡く滑るように流れていった。普段は高潔でプライドが高く、誰にも弱みを見せないと評判の彼女が、今はただ疲れ果てた一人の女性として、深く息を吐いていた。
「……生き返るわ」
マスターが差し出したグラスを両手で受け取り、静かに口をつける。グラスの中で揺れる光の粒が、彼女の瞳にも小さく映り込んでいた。
「今日は、随分と手強い相手だったようですね」
「ええ……三日三晩、休む間もなかった。でも、ここに来ると、不思議とその記憶も薄れていく気がする」
彼女はそう言って、微笑んだ。普段は見せない、穏やかな微笑みだった。
「……あれが、あのオーガの女戦士……いつも隙のない顔しかしてないのに」
担当者が小声で呟く。純は静かに頷いた。
「誰にだって、鎧を脱げる場所は必要なんだろうな」
しばらくして、女戦士は純たちの気配に気づき、少し気まずそうに姿勢を正した。
「……大家、見苦しいところを」
「見苦しくなんてないですよ。お疲れ様でした」
純は穏やかにそう告げた。
「うちのビルの地下は、どんな戦士でも、武器を置いて休める場所ですから。ゆっくりしていってください」
女戦士は一瞬驚いたように目を見開き、それからふっと表情を緩めた。水面を漂う光が、二人の間をゆっくりと通り過ぎていく。
「……ありがとう、大家。今度から、ここを私の避難所にさせてもらう」
「いつでもどうぞ。マスターも、腕によりをかけて待ってると思いますよ」
「もちろんです」
マスターは静かに微笑み、グラスをそっと磨き始めた。磨かれたグラスの表面に、深海の青い光がゆらゆらと映り込んでいる。
翌月、管理室に家賃を届けにやってきたマスターの手には、深海の宝石のように輝く魔石があった。透明な石の中には、小さな光の粒がいくつも閉じ込められ、傾けるたびに、まるで水中で瞬く星のように色を変えた。純はそれを台帳の上に並べ、しばらく光の揺らめきを眺めた。
「湿気対策だけは、魔法できっちりお願いしますね」
「もちろんです、大家さん。この空間、湿気には人一倍気を遣っていますので」
「そういうところ、ちゃんとしてて助かる」
魔石を一緒に覗き込んでいた担当者は、手帳を胸に抱えながら、感嘆したように呟いた。
「マルチテナントビルの可能性は無限大ですね……!次はどんなお店が入るのか、楽しみで仕方ありません」
その夜も、地下の奥では、青く輝く深海の光が静かに揺れ、疲れた誰かが、ゆっくりと階段を降りてくるのを待っていた。
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