第132話 新年の二本立て
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1942年12月31日の夜、ヒトラーは自宅の居間でラジオを聞いていた。
年越しの放送演奏会では、管弦楽団がいささか荘重すぎる曲を演奏している。年が変わるというだけで、なぜ音楽まで大階段を上るような顔をしなければならないのか。ヒトラーにはよく分からなかった。
ブロンディは暖炉の前に伏せ、演奏にも年越しにも関心を示さず眠っていた。
テーブルには夕刊が広げられていた。
ヨーロッパの記事には、各国首脳の新年向け声明、鉄道の冬季運行、翌年の博覧会や競技大会の予定が並んでいる。だが紙面をめくると、太平洋の地名が途端に増えた。
ソロモン諸島では、アメリカ軍と日本軍の戦闘がなお続いている。
ニューギニアでは、日本軍の沿岸陣地に対する圧力が強まっている。
どちらも損害を発表していたが、どちらの数字も相手側の数字ばかり大きかった。
ヒトラーは新聞を少し遠ざけた。
「大晦日まで同じことをしている」
ブロンディは片耳だけを動かした。
「こちらは翌年の予定を数えているのに、太平洋では沈んだ船を数えている」
返事はなかった。
ヒトラーは文化欄へ移った。
小さな記事に、見覚えのある題名があった。
アメリカで流行中の風刺歌『The Emperor’s Portrait(天皇の御真影)』と同名のウォルト・ディズニー作品が、1月1日に公開される。製作中は『Donald Duck in Japland』と呼ばれていたが、レコードの成功を受けて題名が変更されたという。
「歌が映画の看板を奪ったのか」
その曲なら、ヒトラーも一度だけ聞いたことがあった。
数週間前、カフェで茶を飲んでいたとき、店の蓄音機から流れてきたのである。騒々しい軍楽調の伴奏に合わせて、男たちが皇帝の肖像へ頭を下げろと繰り返していた。
途中から客同士の話に紛れて聞こえなくなったが、頭を下げろ、もっと下げろという歌だったことだけは覚えている。
「姿勢にうるさい曲だ」
ブロンディが顔を上げた。
「君のことではない」
ブロンディは再び顎を前脚へ載せた。
記事によれば、映画の舞台は物資統制下の日本である。ドナルド・ダックは家で眠っているところを憲兵と軍楽隊にたたき起こされ、宮城の方角へ遥拝させられる。頭を下げる角度が浅いと怒鳴られ、町へ出れば、あらゆる壁に戦時標語が貼られている。
朝食は麦飯と魚の目刺しだけ。
ただしドナルドは、誰にも見つからないように、ベーコンエッグ味のパウダーを麦飯へかけるという。
ヒトラーはそこで記事を読み直した。
「ふりかけるだけで、ベーコンエッグになるのか」
新聞は答えなかった。
「これは味ではなく、気分だけではないのか」
ラジオの曲が終わり、拍手が流れた。
やがて日付が変わり1943年1月1日となり、遠くで教会の鐘が鳴った。窓の外からも、通りを歩く人々の声がかすかに聞こえてきた。
ヒトラーは新聞を畳んだ。
「新年だぞ、ブロンディ」
ブロンディは目を開けたが、立ち上がりはしなかった。
「それだけか」
尻尾が床を一度だけ叩いた。
「まあよろしい。騒がないだけ立派だ」
翌朝、ヒトラーは台所でパンを焼いた。
薄く切ったハムとリンゴを皿へ載せ、茶を淹れる。焼いたパンの端を切り分けようとすると、いつの間にかブロンディが足元に座っていた。
「これは私の朝食だ」
ブロンディはハムを見ていた。
「君はもう食べただろう」
ヒトラーはブロンディの皿を指差したが、視線は動かなかった。
「新年だからといって、朝食が2度出るわけではない」
ヒトラーはハムをパンに載せ、見えないように皿を反対側へ寄せた。
食事を終えると、しばらく居間で過ごすつもりだった。ところが窓の外を眺めているうちに、1939年の元日を思い出した。
あの年は、早くからヒムラーが東プロイセン展の案と資料を抱えて現れた。
新年の挨拶だけだと言いながら、紙筒を3本も持っていた。挨拶が済んだころには、居間のテーブルが案で埋まっていた。
ヒトラーは時計を見た。
「出かけるぞ、ブロンディ」
ブロンディはすぐに立ち上がった。
「ヒムラーが来る前にな」
元日のミュンヘンは静かだった。
昨夜の雪が道端に残り、通りを走る自動車も少ない。教会から帰る家族や、親類の家へ向かうらしい人々が、ときどきブロンディを見て道を譲った。
ブロンディは雪の匂いを嗅ぎ、先へ進んでは振り返った。
「急ぐな。今日は事務所へ行くのではない」
やがてリヒトシュピール・パラストの前へ出た。
正面入口は閉まっていたが、支配人のヴァイスが、中で新年興行の掲示を直していた。
ガラス越しにヒトラーへ気づくと、ヴァイスは脇の扉を開けた。
「明けましておめでとうございます、所長」
「おめでとう、ヴァイス」
ヴァイスはブロンディを見た。
「散歩ですか」
「そうだ。今日は客ではない」
「犬を連れて映画を見る方は、さすがにいませんからね」
「ブロンディも暗い場所で2時間も座っていられん」
ヒトラーを引っ張りブロンディは扉の中へ入ろうとした。
「入ると言ったのではない。映画は見ないと言ったのだ」
ヴァイスは笑い、事務室で茶を飲んでいくよう勧めた。
ブロンディには水が出された。ヒトラーには茶が出された。
ヴァイスの机にも、昨夜ヒトラーが読んだものと同じ、天皇の御真影についての文化記事が置かれていた。
「アメリカでは今日からだそうです」
ヴァイスが記事を指した。
「頭を下げろとうるさい曲の映画か」
「もう御存じでしたか」
「曲は聞いた。映画については新聞で読んだだけだ」
ヴァイスは配給会社から届いた業界資料を取り出した。
長屋、軍楽隊、憲兵、宮城遥拝、麦飯と目刺し。その先ではドナルドが軍需工場へ連れていかれ、壁という壁に掲げられた標語へ従いながら働かされるらしい。
「町中に標語を貼るそうだな」
「『贅沢は敵だ』『欲しがりません勝つまでは』『ガソリン1滴、血の1滴』。そういう言葉が、店にも工場にも電柱にも並ぶそうです」
「電柱にまで貼ったら、道路標識まで見えなくなるではないか」
「そこを心配する映画ではないと思います」
「見る者の注意を奪うという点では同じだ」
ヴァイスは資料を机へ戻した。
「ドイツでも公開されると思いますか」
「公開を止める理由はないだろう」
ヒトラーは茶を飲んだ。
「ドイツは日本と戦っていないが、味方でもない。防共協定も白紙に戻った。日本が西欧諸国の植民地へ手を出しておいて、映画まで遠慮してくれとは言えんだろう」
「日本大使館から何か言ってくるかもしれません」
「それは配給会社が聞けばよい。私はポスターの文字が読めればよい」
ヴァイスは少し考えた。
「そのときは、また御相談するかもしれません」
「元日に仕事を増やすな」
映画館を出たころには、ブロンディの足取りがさらに軽くなっていた。
昼になると、ヒトラーは行きつけの食堂へ入った。
元日で休む店が多い中、そこだけは常連客のために昼から店を開けていた。客は少なく、ストーブの近くに老人が2人と、窓際に子ども連れの家族がいるだけだった。
ヒトラーはいつもの黒パンと野菜のスープ、ジャガイモ、それに少量のチーズを選びブロンディにも、いつもの通り脂身の少ない部位の肉とジャガイモを茹でたのを頼んだ。
鼻をひくつかせながらブロンディは椅子の脇へ伏せた。
「おめでとうございます。ヒトラーさん。ブロンディは今年もちゃんと、おとなしいですね」
店の女主人が言った。
「食べ物が来るまではな」
やがて茹でた肉とジャガイモを混ぜたものを入れた皿がブロンディの前に置かれた。
「まだだ、姿勢をちゃんとしなさい…よろしい」
ブロンディが皿に鼻を擦り付けるように食べ始めたときに、彼の注文した分も運ばれてきた。
ヒトラーが食事を始めると、女主人が夕食用の持ち帰りを勧めた。
新年用のレンズ豆の煮込みと、甘みを抑えた酵母生地の新年菓子が用意されているという。
「では、煮込みを貰おう。それから新年菓子も小さいものを」
「ブロンディには?」
ヒトラーは足元を見た。
既に食べ終えたブロンディも見上げていた。
「煮込みへ味を付ける前の肉とジャガイモを少し分けてくれ。玉ねぎも入っていないところだ」
「持ち帰る分もしっかり犬用にされるのですね」
「同じものを食べさせるわけにはいかん。味が濃すぎるのは犬の健康によろしくない」
「ブロンディは新年から御馳走ですね」
「私のも新年用だ」
女主人は笑いながら厨房へ戻った。
午後、ヒトラーが自宅へ戻ると、玄関前に男が立っていた。
片手に帽子を持ち、もう片方に紙挟みを抱えている。
ゲッベルスだった。
ヒトラーは足を止めた。
「出かけた意味がなかった」
「明けましておめでとうございます、所長」
「おめでとう、ゲッベルス」
ヒトラーは紙挟みを見た。
「案件なら明日事務所を開けてからにしろ」
「案件ではありません。業界情報です」
「紙を抱えた者は、いつも最初にそう言う」
ゲッベルスを居間へ通すと、ブロンディは真っ先に暖炉の前へ戻った。
ゲッベルスは紙挟みから、アメリカの映画業界紙を翻訳した資料を取り出した。
「今朝の新聞に『天皇の御真影』の記事がありましたでしょう」
「あった。頭を下げろと、うるさい曲と同じ題名になったらしいな」
「実は、ディズニーはもう1本、同じ形式の短編を作っているそうです」
「今度は誰の顔を笑ってるんだ」
「ムッソリーニです。題名は『The Duce’s Face』ドゥーチェのお顔…と言ったところでしょうな」
ヒトラーは椅子の背へもたれた。
「また肖像か」
「冒頭は日本版と似ています。ドナルドが黒シャツ隊と軍楽隊に起こされ、ローマ式敬礼を強いられる。ただし、連れていかれる先は工場ではありません」
「どこだ」
「サッカー場です」
ヒトラーの眉が動いた。
ゲッベルスは資料を読み上げた。
試合が始まると、黒シャツ隊と役人たちが、選手へ次々に命令する。
前進せよ。後退は禁止。守備は臆病者のすることだ。全員で攻撃せよ。国家の威信のため必ず5点取れ。相手へボールを渡すな。規則は守れ。ドゥーチェの観覧席へ背を向けるな。
「待て」
ヒトラーが止めた。
「観覧席へ背を向けずに、どうやって相手のゴールを見る」
「ドナルドも同じことを言うそうです」
「当然だ」
さらに審判まで黒シャツ隊に囲まれ、ドナルドだけがファウルを取られる。得点しても1対0では国家の威信に足りないと言われ、相手に得点されれば公式記録から削除される。
ヒトラーは腕を組んだ。
「それでは試合にならん」
「そこを笑う映画です」
「守備を禁止する馬鹿があるか。全員を前へ出せば、後ろが空く」
「それも笑うところです」
「観覧席に巨大な肖像を置くのも悪い。選手と客の視線が、試合ではなく肖像へ逃げる」
「所長、この映画の批判対象は肖像の配置ではありません」
「配置が悪ければ、それも批判されて当然だ」
最後には命令が重なりすぎ、ドナルドがボールを抱えて怒り出す。そこで悪夢から覚め、ミッキーたちに野球へ誘われるという。
ヒトラーはしばらく黙っていた。
「アメリカ人は、何でも最後は野球にするのか」
「自分たちの生活へ戻ったことを示すのでしょう」
「サッカーの混乱から逃げて、規則の多い野球へ行くのも妙な話だ」
ゲッベルスは資料を揃えた。
「ドイツの配給会社は、『天皇の御真影』と『ドゥーチェのお顔』を同時に買い付けるつもりだそうです」
「2本ともか」
「ええ。日本とイタリアを1本ずつ。政治的にも釣り合いが取れます。公開時には新年の風刺短編2本立てとして売り出せるでしょう」
「釣り合いのために映画を並べるな」
「しかし、広告としては分かりやすい」
「ゲッベルス」
「はい」
「それは業界情報ではなく、もう宣伝案になっている」
ゲッベルスは紙挟みを閉じた。
「それでは続きは明日にいたします」
「そうしろ」
夕方、ヒトラーは食堂から持ち帰った包みを開いた。
皿にはレンズ豆の煮込みとジャガイモを盛り、新年菓子を小さく切った。ブロンディの器には、味付けされていない肉とジャガイモが入った。
器を置くと、ブロンディは周囲のことをすべて忘れたように食べ始めた。
ラジオは新年の音楽から、太平洋の戦況速報へ切り替わった。
ソロモン諸島では、元日も戦闘が続いている。
ニューギニアでも砲声は止んでいない。
窓の外では、教会の鐘が穏やかに鳴っていた。
ヒトラーはラジオの音量を少し下げた。
ブロンディは自分の器をきれいにすると、今度はヒトラーの新年菓子を見た。
「これは私の分だ」
ブロンディはじっと見つめた。
「君の夕食は終わった」
視線は動かなかった。
「映画と違う、2本立てではない」
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