第10話 いつもの朝、鍵は三本とも
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
貴族フェルン家に仕える住み込みメイド、セラ・ミルト。飛び抜けて器用ではないけれど面倒見が良く、頼まれごとには何でも即答してしまう性分。主人一家に振り回され、時にはドジも重ねながら、新人指導や屋敷の困りごとを人と人の繋がりでほどいていく。小妖精の噂も囁かれるこの屋敷で、セラは今日も手一杯の一日を駆け回る、心温まる日常物語。
本文
祭りの翌朝、フェルン館は変わらぬ静けさで目覚めた。
セラは鍵束をエプロンのポケットへ入れ、使い慣れた裁縫箱を脇に抱え、編みかけのリボンを手に洗濯場へ向かった。窓から差す朝の光は柔らかく、昨日までの喧騒が嘘のようだった。
疲労は残っている。だが、その重さは失敗の後のものではなかった。
洗濯場では、ノーラがすでに火を起こしていた。
「おはよう。よく眠れたか」
「まあまあです。ノーラは」
「片付けで疲れたけど、ぐっすりだったよ」
セラは笑って、洗濯物の仕分けを始めた。
昨夜、マルタが去り際に言った言葉が、まだ胸の奥に残っている。
「あんたがいたから、みんな繋がってすぐ動けた」
その言葉を、まだ完全には自分のものにできていない。だが、消えてもいない。
廊下でミレイユに会った。
「セラ、朝でいいから、この袖口を直してもらえる?」
見ると、昨日の祭りで引っかけたらしい小さな綻びがあった。
「かしこまりました」
そう答えかけた矢先、リディアの声が別の方向から聞こえた。
「セラ、応接間の花、そろそろ入れ替えてほしいのだけれど」
「はい、承知いたしました」
続けて、マルタが帳簿を片手に廊下の角から現れた。
「セラ。月の帳簿、今日中に見ておいてほしい」
「かしこまりました」
三つの頼みごとが、ほぼ同時に重なった。
セラの中で、いつもの反射が動きかけた。
繕い物を先に。いや、帳簿が先か。花はどちらでもいいから後回しにできる。
――全部、あたしがやります。
喉元まで出かかった言葉を、セラは飲み込んだ。
一呼吸。
昨日の中庭で、飾り付けの一式が見つからないと分かった時のことが、ふっと浮かんだ。あの時も、こうして一瞬、立ち止まった。
セラは、洗濯物を仕分けていたノーラの方を振り返った。
「ノーラ、すみません。ちょっと相談したいんです」
ノーラが布を置いて顔を上げる。
「ん、何」
「お嬢様の繕い物と、奥様の花の入れ替えと、マルタさんの帳簿確認が、みんな今日中で重なってしまって。これだけ重なってるので、順番を一緒に考えたいんです」
ノーラは、少し考える顔になった。
「あんたが全部やろうとしたら、絶対どれかが遅れる。花はエルシーに振ろう。あたしはマルタと帳簿を見る。あんたは繕い物に専念しな」
「ありがとうございます」
セラは、その場で頭を下げた。
昨日までなら、ここで「大丈夫です、あたしがなんとかします」と言い張っていたかもしれない。今朝は、その前に、誰かの手を借りることを選べた。
マルタのもとへ、セラは先に報告に向かった。
「マルタさん。花の入れ替えはエルシーに、帳簿はノーラさんとご一緒に見ていただくことになりました。あたしは繕い物を進めます。それでよろしいでしょうか」
マルタは帳簿の紙をめくる手を止め、セラの顔をじっと見た。
その視線に、昨夜と同じやわらかさがあった。
「いい判断だ」
短い言葉だった。だが、セラの胸に、じんわりと沁みた。
洗濯場に戻ると、エルシーがすでに花瓶を運ぶ支度をしていた。
「先輩、花の入れ替え、聞きました」
「お願いします。応接間の窓側、日が強く当たるところは避けて置いてください」
「はい」
エルシーは頷いて出ていった。その後ろ姿を見送りながら、セラは繕い物の布を広げ、針に糸を通し始めた。
指先に、古い癖の傷が触れる。何年も繰り返してきた動きだ。
袖口の綻びは、そう大きくない。丁寧に針を運べば、昼前には終わる。
半刻ほど経った頃、洗濯場の隅で、エルシーが戻ってきていた。花瓶を抱えたまま、動きが止まっている。
セラは針を止めずに、その様子を目の端で捉えた。
「エルシー、どうしました」
「あ……すみません、先輩。花瓶の水、替える順番と、洗濯物を畳む順番、どっちを先にすればいいのか分からなくて」
いつもなら、セラは自分の作業を優先して「後で聞くから、先にどちらかやっておいて」と流していたかもしれない。あるいは、自分がすべてを引き受けて、余計に手を取られていたかもしれない。
だが今朝は、迷いなく手を止めた。
「一緒にやろう」
セラは針を置き、エルシーの隣に立った。
「花瓶の水は、そんなに急がなくていい。今、洗濯物の方が乾く時間との勝負だから、そっちを先に。花は、その後でゆっくりでいい」
「あ……そうですね」
エルシーの肩から、小さく力が抜けるのが見えた。
「先輩、ありがとうございます」
「こういうのは、迷ったらすぐ聞いていいから」
セラはそう言って、また針の元へ戻った。だがその前に、エルシーが洗濯物を畳み始める手元を、もう一度だけ確かめた。
昼が近づく頃には、繕い物は仕上がっていた。糸を結び、余分を切り、袖口を整える。
洗濯物もすでに畳み終わり、花の入れ替えも済んでいた。
ノーラが戻ってきて、「帳簿、終わったよ。マルタも満足してた」と軽く報告した。
「ありがとうございます」
セラは、深く息をついた。
三つの頼みごとが、どれも詰まることなく、片付いていた。
夕方、セラは自室に戻ると、鍵束を取り出した。
一本ずつ、確かめる。
学校室の戸棚の鍵。北のリネン室の鍵。西の書斎の鍵。
打ち直された刻印を、一つずつ確かめる。
三本とも、今日は取り違えていない。
エルシーがフェルン館へ来たあの朝、この三本の鍵をすべて取り違えて右往左往した自分を、セラは静かに思い出した。あの日、ノーラとエルシーに助けられて、ようやく収まった。
今日は違った。
助けを求める前に、誰に相談すればいいかを、自分で選べた。
それだけの違いだった。だが、その違いは、セラの手の中で確かに重みを持っていた。
廊下から、マルタの足音がした。
いつもと同じ、淡々とした歩調。だがその足は、セラの部屋の前で、一度だけ止まった。
「セラ」
「はい」
「今朝の動き、いい判断だった」
それだけだった。マルタは、それ以上何も言わず、また歩き出した。
セラは、閉まっていく戸の向こうへ、小さく頭を下げた。
夜、セラは編みかけのリボンを取り出した。
窓の外には、祭りの後片付けの途中で積まれた枝や布の残りが、夕闇の中にぼんやり見えた。
針を進めながら、セラは今日一日を振り返った。
完璧に変わったわけではない。廊下の角には、今朝も一度ぶつかりそうになった。頼まれた瞬間、反射的に「かしこまりました」と口が動きかけたのも、一度や二度ではなかった。
けれど、その手前で、一呼吸だけ置けた。
「一緒に考えたい」と言えた。
エルシーに「一緒にやろう」と、迷わず言えた。
それは、劇的な変化ではない。マルタが言うような「みんなを繋げられる人」だという実感も、まだ完全には自分のものになっていない。
母から言われた「役に立つためだけに生きてるのか」という問いにも、答えは出ていない。
けれど今夜、セラはその答えを急いで探そうとは思わなかった。
まだ途中でいい。
そう思えることが、以前とは違う何かだった。
編みかけのリボンに、また一針を通す。
明日も、鍵は三本。頼まれごとは、また重なるだろう。
その時、今日と同じようにできるかは分からない。
けれど、少なくとも今日は、できた。
フェルン館の夜は、いつもと変わらぬ静けさの中で更けていく。
セラは針を進める手を止めず、その静けさに身を委ねていた。
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