『神威無効(ゴッド・デバイザー) ──スマホの女神と条約枠外の神使』
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あらすじ
四畳半のアパートから始まる、全神話巻き込み型のバトルファンタジー! 東京・阿佐ヶ谷の古びたアパート「302号室」。そこで暮らす合気道の達人・迅雷鏡介のもとに身を寄せたのは、世界神話秩序維持機構の追手から逃れる元査問官のカテリーナ、そして癖の強い異神たちだった。 ちゃぶ台を囲み、夕飯の献立に頭を悩ませるささやかな「日常」。だが、世界の均一化と人間の個性の消滅を目論む最高神ゼウスの脅威が、彼らのささやかな幸福を切り裂こうとする。 シベリア、インド、エジプトの死闘を経て、舞台はオリュンポス十二神宮の最終決戦へ。 素盞嗚尊・月読尊・天照大御神という高天原「三貴神」の神使たちの加護と、阿佐ヶ谷で紡いだ仲間たちの熱い絆を胸に、鏡介は一切の力を抜いた木刀を構える——。 「どんなに世界が理不尽でも、僕たちはあの部屋へ帰る」 圧倒的なスケールで描かれる神話バトルと、心温まる日常の対比。極限状態の中で解き放たれる合気道の「理(ことわり)」と、愛おしい絆のドラマが胸を打つ長編エンターテインメント! 【こんな人におすすめ!】 「日常×非日常」のギャップや絆ドラマが好きな人 (殺伐とした神話バトルと、四畳半で囲むごはんや他愛ないやり取りの温かさの対比に胸が熱くなります) 武道・合気道や「力を受け流す」バトル表現にロマンを感じる人 (無意味な暴力ではなく、理(ことわり)と自然体で絶大な神威を完封・昇華させるカタルシスが味わえます) 世界各国の神話や神々、神使(八咫烏・白蛇など)の競演・共闘が好きな人 (ギリシャ神話、高天原の三貴神、エジプトやインドの神格が入り乱れる豪華な神話バトルが見どころです) 「自己犠牲からの救済」や熱い再会シーンで泣きたい人 (孤独を抱えたヒロインが、主人公たちのまっすぐな言葉とぬくもりに心を溶かされる人間ドラマが響きます)
本文
上巻
第1話:画面の向こうの君
雨は、世界の輪郭をぼかす。
古びた木造道場の屋根を叩く雨音は、どこか遠い太鼓の鳴動に似ていた。
湿り気を含んだ畳の匂いと、長年染みついた汗の匂い。拳を固め、すり足で間合いを詰めるたび、足の裏からひんやりとした板間の冷たさが伝わってくる。
迅雷鏡介(じんらいきょうすけ)は、漆黒の道着の裾を静かに整えた。
正面に立つのは、稽古相手を務める道場の先輩ではない。ただの空間だ。誰もいない踏み込みの軌道に、己の軸を置く。左手をゆるやかに滑らせ、右手で仮想の拳を受け流す。呼吸を吐き切り、相手の重力が下へと落ちる瞬間を思い描く。
——合わせる。力で抗うのではない。相手の呼吸、相手の重心の傾ぎ、その「波長」に己の肉体を重ね合わせる。
「……ふぅ」
長い呼気を吐き出すと、汗が眉間から滴り落ち、畳に小さな黒い染みを作った。
鏡介が修めるのは、一般的な合気道と、そこから派生した古い当身(あて)の技法を混ぜ合わせた古流の型だ。父から教わり、父が去った後も独りで守り続けてきた小さな道場。高校に上がってからは、放課後の大半をこの静寂の中で過ごしている。
時計の針が午後七時を指していた。
鏡介は道着を脱ぎ、濡れた髪をタオルで拭いながら、ポケットから見慣れたスマートフォンを取り出した。黒い液晶画面には、通知のアイコンひとつない。
「今日も、静かだな」
呟きは雨音に呑み込まれた。
世間では、不吉な噂が囁かれている。都市の暗がりで人が突如として消えるだの、夜の路地裏で人間離れした跳躍を見る者がいるだの。だが、この古い街並みと、雨に濡れる瓦屋根の下にある日常には、そんな非日常が入り込む余地などないように思えた。
道場の鍵を閉め、ビニール傘を開く。
街灯がぽつぽつと灯る帰り道を、鏡介は足早に歩いた。水たまりを避ける足取りは無意識のうちに静かで、揺れがない。長年の歩法が、日常の動作にまで染み付いているのだ。
違和感を覚えたのは、商店街の街頭が途切れ、薄暗い住宅街の路地へと折れた瞬間だった。
雨音が、消えた。
正確には、雨が止んだのではない。水滴が地面を叩く音が、何重もの透明な膜で遮断されたかのように遠のいたのだ。肌を刺す空気の質が変わる。冷気ではなく、肌の毛穴が収縮するような、粘りつくような「殺気」。
(……なんだ、これ)
鏡介は足を止めた。傘を差したまま、息を殺す。
前方、十メートルほど先の暗がり。街灯の光が届かない電柱の陰から、ぬっとひとつの影が現れた。
男だ。黒いスポーツウェアに身を包み、大柄な体躯を誇示するように立っている。だが、その足元には靴がない。裸足に薄いバンテージのようなものを巻きつけた足先が、雨で濡れたアスファルトを静かに踏みしめていた。
「……見つけたぞ」
男の口から漏れたのは、低い、奇妙な抑揚の言葉だった。日本語ではあるが、明らかに異国の訛りが混じっている。
男の視線は、鏡介の顔を見ていなかった。鏡介の右ポケット——正確には、彼が手に持っているスマートフォンへと注がれていた。
「八百万の残党か。まさか、こんな極東の片隅に隠れていたとはな」
「……何の話だ? 人違いじゃないか」
鏡介は一歩、後歩ざりをした。傘を低く構え、間合いを保つ。
だが、男は応じない。その目が、肉肉しいほど太い太ももの筋肉を収縮させるのを、鏡介の眼が捉えた。
——速い。
踏み込みの音がしなかった。
男の身体が、雨の糸を切り裂いて爆進する。距離が瞬時に消失した。
空中へと躍り出た男の右脚が、しなる鞭のように鏡介の首筋を狙って振り抜かれる。旋風のような風圧が、鏡介のビニール傘を半ばから吹き飛ばした。
「くっ……!?」
間一髪、鏡介は首を後ろへ倒し、半身を切った。
耳元をかすめた足先から、破空音が響く。直後、男の踵が後ろのコンクリート塀に激突した。ドガァン!と、爆音とともに激しい落石音が響き、分厚い塀がクレーター状に粉砕される。
人間の蹴り技ではない。重戦車が壁に激突したかのような破壊力だ。
(なんなんだ、こいつは……! 蹴り一発で塀を粉砕した……!?)
「ほう、かわすか。日本のひ弱な神使にしては、いい反応だ」
男は着地と同時に、ニヤリと浅黒い顔を歪めた。
その両脚から、目に見えるほどの白い蒸気が立ち上っている。筋肉の動き、重心の移動、どれをとっても常人の域を遥かに踏み外していた。
「だが、次で終わりだ。我が『東方新興神族』の領域を脅かす芽は、ここで摘む」
男が再び低く身構える。
鏡介の額から、冷や汗が流れた。雨の水滴と混ざり合い、目に入る。痛む。
間合いは三歩。古武術の間合いでは死点だ。あの音速の蹴りを、武器も防具もない生身で受けることなど不可能。体さばきでかわそうにも、相手の速度が自分の思考を上回っている。
死。その一文字が、はっきりと頭をよぎった。
その時だった。
手の中で、固まっていたスマートフォンが猛烈に熱を帯びた。
画面が、眩いばかりの純白の光を放つ。
『ちょっと! なにぼさっと突っ立っとんのよ、このアホたれ!!』
静まり返った路地に、甲高い、だが透き通った少女の声が響き渡った。
抑揚の効いた、コテコテの関西弁だ。
「な……!?」
鏡介も、襲いかかろうとしていた男も、思わず動きを止めた。
光を放つスマホの画面に、一人の少女の姿が映し出されていた。
長い髪を揺らし、フリルのついた不意な衣装を纏った、この世のものとは思えないほど美しい少女——しかし、その顔は怒りで真っ赤に染まり、両手を腰に当てて画面の向こうから鏡介を睨みつけいていた。
『なにしてんのよ鏡介! 敵が目と鼻の先に居るんやで! ウチを捕まえに来た刺客や! ぼーっと撃たれとったら、ウチもあんたも一発でグチャミソやで!!』
「い、言い方……! っていうか、お前誰だ!? なんで俺の名前を……!」
『誰やないわ! ウチは【万魂通音乃神(よろずたま・かよひのね の かみ)】様や! スマホの女神様やで! 感謝しぃや!』
画面の中の女神は、ぷくーっと頬を膨らませてドヤ顔を決めた。だが、次の瞬間に男が不気味に踏み出すと、きゃっと短い悲鳴を上げて画面の隅へ縮こまった。
『ひえっ……! え、エグい脚しとるやんあのオッサン! 鏡介、早く逃げてぇな! あんたが死んだら、ウチの神格もゼロになってまう!!』
「逃げられるわけないだろ、あの速度だぞ!」
「会話は終わったか?」
男の冷酷な声が割り込む。
男の全身の筋肉が隆起し、雨水を弾き飛ばすほどの神威(しんい)が脚部に集束していく。音速の蹴り——今度は確実に鏡介の頭部を砕く軌道だ。
「戯れ言はそこまでだ。消えろ」
男が地面を蹴った。踏み切ったアスファルトが破裂するように弾け飛ぶ。
(届かない……! 自分の目で見てから動いたんじゃ、間に合わない……!)
鏡介の視界の中で、世界が遅延する。死の恐怖が、肉体の感覚を研ぎ澄ます。
その時、スマホから少女の切羽詰まった、泣き出しそうな声が響いた。
『あーもう、分かったわよ! べ、別にあんたのためにやってあげるわけやないんやからね! ウチが、ウチの意思で加護してあげるんやから! 感謝して使い倒しなさいよねっ!!』
画面から溢れ出た光の粒子が、鏡介の右手に吸い込まれていく。
熱い。血が沸騰するような感覚。鏡介の指先が自動的に動き、スマホの画面に自身の血——先ほどの擦り傷で出た一滴——を擦り付けた。
【契 約 完 了】
脳内に、機械音のような、だが神聖な鈴の音が響く。
次の瞬間、鏡介の視界が変貌した。
世界が、幾何学的な「データ」の色彩に塗り替えられる。
襲いかかってくる男の肉体。その腿の筋肉がどの角度で収縮し、どの骨格に負荷がかかり、コンマ何秒後にどの軌道で足先が到達するか——それらの膨大な数値と予測ラインが、思考を介さずに鏡介の脳内に直接流れ込んできた。
『右脚の筋肉収縮率、98%! 0.08秒後に首筋へ到達! 鏡介、見えとる!? ウチの超絶データ解析(加護)があれば、こんな大雑把な蹴りなんて止まって見えるはずやで!!』
女神の声が、脳内で響く。
思考が消えた。
「かわさなければ」「受けなければ」という迷いが、完全に削ぎ落とされる。
無。
タケミカヅチの道場で叩き込まれた型。父から受け継ぎ、独りで研ぎ澄ませていた古流合気道の真髄。己の存在を消し、相手の力、相手の動きにただ身を委ねる境地——【無想転成(むそうてんせい)】。
その片鱗が、死の極限状態において、奇跡的に噛み合った。
鏡介は、一歩前に踏み出した。
死地へと自ら飛び込むような、絶望的な前進。
「なに……!?」
男の目が驚愕に見開かれる。
音速の蹴撃が、鏡介の首筋を掠める——そのわずか数ミリの手前。
鏡介の身体はすでに、男の懐深く、軸足の真横へと滑り込んでいた。
相手の蹴りの勢い、旋風のエネルギー、そのすべてを殺さない。鏡介は左手で男の蹴り足の膝裏をわずかに押し上げ、右手で相手の腰の帯線を静かに引っ掛けた。
力はいらない。ただ、相手が自分で倒れようとする力に、ほんの少しの「方向」を与えてやるだけだ。
「なっ……体勢が……!?」
空中での軸を失った男の巨体が、自身の放った音速の遠心力によって、滑稽なほど激しく回転する。
鏡介は無表情のまま、引き寄せた相手の重力を地面へと誘導した。
合気道——「崩し」。
ドガァァァァンッ!!
激しい衝撃音が路地に響き渡った。
男の巨体は、頭部からアスファルトの路面へと垂直に叩きつけられた。舗装が蜘蛛の巣状に割れ、水たまりの雨水が泥とともに高く跳ね上がる。
「カハッ……!?」
肺から空気を吐き出し、白目を剥いた男が、痙攣しながら動きを止めた。即死ではないが、自身の威力をそのまま叩きつけられたショックで、完全に意識を失っている。
静寂が戻ってきた。
雨音が、再びぽつぽつと世界を覆い始める。
鏡介はゆっくりと呼吸を整え、低く身構えていた体勢を起こした。
自分の手を見る。震えている。相手を倒した感触が、手のひらに残っていた。
(今のは……俺がやったのか? 相手の力を、ただ流しただけで……)
『ほ、ほんまに倒しちゃった……』
スマホの画面から、呆然とした声が漏れた。
画面の向こうで、女神が目を丸くして固まっている。
『うそやん……あんな化け物みたいな足技、一瞬で車道に叩き落としたで……あんた、ほんまにただの人間なん……?』
「……お前のサポートのおかげだろ。データが、頭に直接流れてきたから」
鏡介がそう言うと、画面の中の女神は一瞬だけ顔を赤くし、すぐにそっぽを向いてぷいっと横を向いた。
『べ、別に感謝されたくてやったわけやないし! あんたが負けたらウチの神格が下がるから、ちょっと手伝ってあげただけや! 勘違いせんといてよね!』
ツンとすました態度。だが、その瞳は鏡介の怪我がないかを確かめるように、じっと画面越しに見つめていた。
「助かったよ。俺は迅雷鏡介。……君の名前は?」
『さっき言ったやろ! 【万魂通音乃神】様や! 長かったら……そうね、好きに呼びぃな。ただし、敬意を込めて呼ぶんやで!』
「じゃあ……万魂(よろず)」
『呼び捨てかい! まぁええわ……鏡介。あんたとウチは、これで一蓮托生や。ウチを追ってきた連中は、あいつ一人やない。これからどんどん、化け物みたいな奴らが押し寄せてくるで』
雨が、二人の間を濡らし続ける。
鏡介は壊れたビニール傘を捨て、路面に倒れる男を一瞥した。非日常の扉が、音を立てて開いたのだと理解した。
「望むところだ。俺の日常を壊されるくらいなら、いくらでも相手になってやる」
『ふふん、言ったわね! なら、ウチを世界一の神様にするまで、死ぬことは許さへんからね!』
強がる女神の声が、少しだけ温かく感じられた。
だが、二人にはまだ分かっていなかった。
倒れた男の胸元から、不気味な「黒い術式」の残光が静かに消えていったことを。
そして、この小さな街で起きた戦闘が、やがてオリンポス、崑崙、そして世界の神々を巻き込む巨大な渦の、最初の「一滴」に過ぎないということを。
街灯の光が、二人の影を長く路地に引き伸ばしていた。
第2話:0.1秒の通信(あい)と無想転成
雨粒が跳ねる。その一瞬が、果てしなく永い時間に引き延ばされていた。
静寂。
路地裏を支配していた重苦しい沈黙が、一瞬の破砕音によって完全に破られる。
倒れた男の呼吸は浅く、途切れ途切れだった。アスファルトに刻まれたクレーターと、飛び散った泥水。その真っ只中で、迅雷鏡介(じんらいきょうすけ)は自身の右手をじっと見つめていた。
拳は握られていない。手のひらは緩やかに開かれ、指先には微かな痺れが残っていた。
(今のは……本当に俺が?)
肉体の深部に残る冷たい熱。相手の凄まじい質量と速度を、自らの骨格を通り抜けさせて地面へと叩き落とした、あの奇妙な感触。言葉にできない違和感が、胸の奥で重く蠢いていた。
『……ちょっと、鏡介。ぼーっとしとる場合ちゃうで!』
手の中で、スマートフォンの液晶画面が明滅した。
画面に映る少女——万魂通音乃神(よろずたま・かよひのね の かみ)が、両手を画面に押し当てるようにして覗き込んでいる。その瞳には、隠しきれない動揺と、それを押し隠そうとする必死な強がりが入り混じっていた。
『あ、あいつの仲間がまだ近くにおるかもしれへんねん! さっさとその場を離れな、巻き込まれてウチら二人とも消し炭にされてまうわ!』
「……ああ。そうだな」
鏡介は短く答え、路面に沈む男を一瞥した。
男の胸元から、黒い煤のような気体がゆらりと立ち上り、雨の中に溶けて消えていく。その光景の異様さに背筋を冷たいものが走ったが、鏡介は深く問うことをしなかった。選ばなかった問いの代わりに、ただ深く息を吐き出す。
足裏で地面を確かめながら、静かに歩き出す。
水たまりを踏む音が、静まり返った住宅街にぽつり、ぽつりと響いた。
雨は止みそうになかった。だが、その冷たさが、沸騰しかけていた頭をゆるやかに冷やしていく。
◇
道場を兼ねた自室に戻り、濡れた衣服を脱ぎ捨てて黒い道着に着替えた頃には、時計の針は夜の九時を回っていた。
畳の匂い。柱に刻まれた古い傷。長年見慣れたはずの「日常」の景色が、どこか遠い世界の出来事のように思えた。ほんの数十分前まで、自分はあの暗がりで命を奪われかけていたのだ。
鏡介は机の上にスマートフォンを静かに置いた。
画面がふっと暗転し、周囲に静寂が戻る。
(あいつ……万魂は、どうなったんだ)
問いかけるより早く、机の上の端末が青白い光を帯びた。
光は空間に滑らかな粒子となって溢れ出し、実体を持たない透過した光の輪郭を形作っていく。光が収束した場所には、先ほど画面の向こうにいた少女が立っていた。
光の残像をまとった姿。裾の長い衣装が、存在しない風に微かに揺れている。
実体として現れた彼女の存在感は、写真や映像のそれとはまるで違っていた。だが、その足元は畳に触れておらず、数ミリほど宙に浮いている。
「……本当に出てくるんだな」
鏡介の呟きに、少女はびくっと肩を跳ねさせた。
一瞬、素の驚きを露わにしたものの、すぐにフンと鼻を鳴らして胸を張る。フリルのついた袖を翻し、威風堂々と(しようとして)鏡介を見上げてきた。
『当たり前やんか! ウチを誰やと思ってんの? 八百万(やおよろず)の神々の中でも、通信と絆を司る高貴な女神様やで! 実体化の1つや2つ、朝飯前……とまでは言わんけど、これくらい余裕や!』
「そうか。……なら、その震えてる手は何なんだ?」
『っ……!?』
少女は慌てて自分の両手を背中に隠した。指先が微かに震えていたのを、鏡介の目は見逃さなかった。
強烈な高飛車な態度の裏に隠された、剥き出しの怯え。
彼女もまた、恐ろしかったのだ。あの異形な力を持つ刺客に追われ、消滅の危機に瀕していたのだから。
言葉が途切れる。
沈黙が、二人の間に横たわった。
雨音が屋根を叩く規則的な音だけが、部屋の空気を満たしていく。
「……怪我は、なかったか?」
鏡介が選んだのは、問い詰める言葉でも、追及する言葉でもなく、静かな問いかけだった。
少女は驚いたように目を丸くした。
それから、居心地悪そうに視線を泳がせ、畳の端の模様をじっと見つめる。
『……な、何言っとんのよ。怪我なんかあるかいな。ウチは神様やぞ? 心配される筋合いなんか……』
言いかけて、少女は言葉を詰まらせた。
鏡介の視線が、嘘偽りのない真っ直ぐな懸念を帯びて自分に向けられていることに気づいたからだ。
『……あんたの方こそ、どうなんよ』
ぽつりと、少女の声のトーンが変わった。
コテコテの張りのある関西弁から、どこか幼さを残した素の音色へ。
『あの男の蹴り、かすったやろ。腕……見せてみ』
「たいしたことない。ただの擦り傷だ」
『ええから見せなさい! ウチが加護してあげとるんやから、あんたの身体はウチの管理下なんや! 黙って見せたらええの!』
強い口調に戻ったが、そこには先ほどのような攻撃性はなかった。
鏡介は諦めたように溜息をつき、黒い道着の右袖をゆっくりと捲り上げた。
肘から腕にかけて、黒紫色の激しい鬱血と、擦り剥けた皮膚から血が滲んでいた。音速の蹴りが生み出した衝撃波に触れただけで、肉体はこの有様だ。直撃を受けていれば、骨ごと破砕されていたのは間違いなかった。
少女はその傷口をじっと見つめ、小さく息を呑んだ。
半透明の小さな手が、鏡介の腕にそっと近づく。触れようとして、触れられない。その手が微かに震えていた。
『……痛そう』
ぽつりと漏れた呟きに、どれほどの痛切な感情が込められていたか。
少女の瞳に、薄く涙の膜が張る。
『ごめん……ウチがもっとしっかりしとったら、あんたにこんな怪我させんで済んだのに……』
「万魂」
『ウチのせいなんや。ウチが力のない無名神で、刺客に追われて……あんたを巻き込んで……っ』
ぽろぽろと、光の粒のような涙が少女の頬を伝う。
それは床に落ちる前に消えていく、儚い神威の残片だった。
自分のために涙を流す女神。
鏡介は、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
道場で一人、ひたすらに型を繰り返す日々の中では、決して味わったことのない感情の揺らぎ。自分のために誰かが泣いてくれるという事実が、こんなにも重く、温かいものだとは知らなかった。
「泣くなよ。俺が勝手に助けたんだ」
鏡介は落ち着いた声で言った。言葉を選びながら、ゆっくりと紡ぎ出す。
「それに……お前の『データ』がなかったら、俺は今頃死んでた。お前が俺に力を貸してくれたから、俺は生きてる。感謝してるのは俺の方だ」
少女は涙を拭い、恨めしそうな、それでいてどこか愛おしそうな目で鏡介を見上げた。
『……ほんま、アホやな鏡介は。ウチはツンデレの女神様なんやで? もっと「女神様のおかげで助かりました」って平伏したらええねん』
「それはいやだ」
『なんでやねん!』
思わず吹き出してしまうような、他愛のないやり取り。
二人の間にあった緊張の糸が、ふっと緩んだ瞬間だった。
少女は鼻をすすると、画面から飛び出していた身体をすっと引かせ、再びスマートフォンの画面の中へと戻っていった。光の粒子が収束し、液晶の中で彼女がちょこんと座り込む。
『……まぁ、ええわ。今回のところは、あんたの根性に免じて許してあげる』
画面の向こうで、少女は少し顔を赤くしながら、そっぽを向いて胸を張った。
『でもな、勘違いせんといてよ! ウチが加護してあげてるのは、あんたをウチの『第一号神使』として認めてあげたからなんやからね! 私が加護してあげてるんだから、感謝しなさいよね!』
「ああ。感謝してるよ、万魂」
『……万魂って呼ぶな言うとるやろ、このアホ!』
照れくさそうに画面の端へ隠れてしまう少女——万魂通音乃神。
その姿を見つめながら、鏡介の唇の端に、自然と小さな笑みが浮かんでいた。
◇
夜が深まっていく。
静まり返った部屋で、鏡介は机の上のスマートフォンを見つめていた。
「万魂」
『なんやの、もう寝る時間やで』
画面の隅から、不機嫌そうな(だがどこか期待するような)声が返ってくる。
「お前は……世界一になりたいのか?」
唐突な問いだった。
だが、それは鏡介の中で芽生えた、揺るぎない決意の現れだった。
画面の中の少女が、ゆっくりと姿現す。その表情から冗談の色が消えていた。
『……世界一、か。ウチみたいな無名の神様が、そんな高望みしてええんかな』
「なれるよ」
鏡介は静かに、しかし断固とした口調で言った。
自分の手を見る。古流合気道の型を刻み込んできた、傷だらけの手。そして、その手に宿った『無想転成』という未知の可能性。
「俺とお前の力が合わされば、どんな敵だって倒せる。お前の名を、万魂通音乃神という名を、世界中に轟かせてやる。だから——」
鏡介は一瞬、言葉を区切った。
選んだ言葉を、噛み締めるように口にする。
「俺を、お前の神使にしてくれ。世界一の神様の、神使に」
沈黙が落ちた。
雨音さえも消え去ったかのような、濃密な静寂。
画面の向こうで、少女の瞳が大きく見開かれていた。
みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていく。耳の先まで熟した林檎のように赤くなり、少女は両手で顔を覆った。
『あ、アホ……! 何を恥ずかしいこと堂々と言っとんのよ、このバカ鏡介……っ!』
「本気だ」
『し、知らん! ウチはもう寝る! 勝手にしぃ!!』
画面が眩しい光を放ち、プツンと消灯した。
完全な闇と静寂が部屋を支配する。
鏡介は、闇の中でぽつりと呟いた。
「……お休み、万魂」
返事はなかった。だが、胸のポケットに入れたスマートフォンから、かすかに伝わってくる温もりだけが、確かな現実としてそこに存在していた。
雨はいつしか上がり、雲の切れ間からかすかな月光が差し込み始めていた。
まだ誰も知らない、名もなき神と一人の少年による、世界を揺るがす物語の幕が、静かに上がろうとしていた。
◇
翌朝。
青空が広がる爽やかな朝の空気を切り裂くように、道場の重い引き戸が叩かれた。
ガン、ガン、ガン!!
「迅雷鏡介! おるか!!」
不躾で、張り詰めた声。
鏡介は目を開け、静かに布団から起き上がった。
枕元のスマートフォンが、不安そうに微かな光を放っている。
「来たか……」
鏡介は道着に袖を通し、帯をきつく締め上げた。
日本の神々を統括する組織——そして、世界の覇権を握るオリンポスからの「使者」が、ついにこの小さな道場へと足を踏み入れようとしていた。
運命のギアが、音を立てて回り出す。
(第3話へ続く)
第3話:スマホの中の日常
踏み込みの衝撃で、道場の引き戸がキシキシと悲鳴を上げた。
「迅雷鏡介! おるか!!」
早朝の凛とした静寂を切り裂いた粗暴な声。だが、その声の主が強引に鍵をこじ開けて上がり込んでくる気配はない。固いブーツの底が敷居の外で止まり、苛立ちを隠そうともしない足踏みの音だけが、濡れた踏み石の上に重く響いていた。
鏡介は、静かに帯を結び直した。
黒い道着の結び目を指先で強く確かめ、深く息を吐き出す。肺に満ちる冷気が、昨夜の激闘と熱をキレイに洗い流していく感覚があった。
「……鏡介」
枕元に置いたスマートフォンから、ぽつりと小さな声が漏れた。
画面の明かりが薄っすらと灯り、その中央で少女——万魂通音乃神(よろずたま・かよひのね の かみ)が、不安そうに膝を抱えてこちらを見上げている。昨夜、顔を真っ赤にして隠れてしまった時の面影は消え、その瞳には明確な動揺の色が浮かんでいた。
『外におる奴……ただ者やないで。昨日の足技のオッサンとは桁が違う。威圧感(神威)が、ここまでビンビン伝わってきとる……』
「大丈夫だ。逃げるつもりはない」
鏡介は端末を手に取り、右胸のポケットへと静かに収めた。布越しに伝わる微かな熱と振動。それが、一人ではないという事実を鏡介の身体に教える。
「行くぞ、万魂」
『……うん。変な真似しようとしたら、ウチがまたデータ流してやるからな。しっかりしぃや』
強がるような言葉。だが、ポケットの中で端末が小さく震えたのは、彼女自身の動揺ゆえか、それとも鏡介の心拍に同調したからなのか。
鏡介は裸足のまま廊下を渡り、玄関の重い引き戸へと手をかけた。
ガラリ、と音を立てて戸を開ける。
そこに立っていたのは、朝の眩い逆光を背負った一人の老人だった。
小柄だ。鏡介の胸ほどまでしか背丈がない。薄汚れた灰色の羽織を羽織り、白髪交じりの白髪を後ろに結い上げている。だが、その背筋は鉄柱のように真っ直ぐに伸び、羽織の隙間から覗く首筋の筋肉は、樹齢数百年を数える大木の幹のように固く引き締まっていた。
老人の眼が、ゆっくりと鏡介へと向けられた。
鋭い。鷹のそれよりも深く、すべてを見透かすような眼光。
「……ほう」
老人はかすれた低い声で呟き、地面を踏みしめていた足の力をわずかに抜いた。それだけで、周囲の空間を支配していた張り詰めた気が、潮が引くように収まっていく。
「昨夜、東方新興神族の刺客を一人、車道へ叩き落としたアホの小僧というのは……貴様か」
「……迅雷鏡介です。あなたは?」
「八百万(やおよろず)神族管理部門・特務執行。タケミカヅチの神使を務める者だ。名は……まあ、老いぼれの道楽者とでも思っておけ」
老人は鼻で笑い、袖に手を突っ込んだまま道場の中へと足を踏み入れた。土足ではない。玄関で手際よく草履を脱ぎ捨て、一切の足音を立てずに板間へと上がってくる。その動作の無駄のなさに、鏡介の背筋が冷たく冷えた。
(強い……。昨日の刺客とは、次元が違う)
鏡介の呼吸が自ずと深くなる。身構えるでもなく、引き下がるでもなく、ただ自然体で老人の動きを視界の端に収める。
老人は道場の中央で足を止め、柱に刻まれた古い傷や、畳の擦れ具合をじっと見つめた。それからゆっくりと振り向き、鏡介の胸のポケットに視線を落とした。
「通信の無名神か。……妙な神を拾ったな、小僧。条約の『95人枠』からも外れた、いわばバグだ」
『だ、誰がバグやねんクソジジイ!! ウチは由緒正しき【万魂通音乃神】様やぞ!! 撤回せぇ!!』
ポケットの中でスマホが激しく振動し、怒りに満ちた声が響いた。
老人は眉ひとつ動かさず、ただ冷ややかな目を端末へと向ける。
「口の減らない神だ。……まあいい。小僧、着替えろ。本部に連行する」
「……連行?」
「そうだ。条約外の不法な神使契約、および東方勢力との不法戦闘。本来ならその場で首を跳ねて処分するところだが……天照の管轄から待ったがかかった。上が貴様のツラを見たいそうだ」
老人の言葉には、一切の感情が含まれていなかった。ただ事実を淡々と宣告する冷酷さ。
鏡介は沈黙を守った。抗弁も、言い訳も選ばない。選ばなかった言葉の代わりに、固く拳を握りしめる。
「……少し、時間をください。身支度を整えます」
「三分だ。それを過ぎたら、道場ごと叩き潰す」
老人は背を向け、道場の真ん中に腕組みをして仁王立ちした。
◇
自室に戻った鏡介は、机の上の荷物を手早く鞄に詰めた。
着替えの道着、タオル、そしていくつかの日用品。戻ってこられる保証のない旅立ちの準備だ。
『……鏡介』
スマートフォンの画面が光り、実体化した万魂が姿を現した。
宙に浮いた小さな足。昨夜よりも光の輪郭がはっきりと引き締まっているのは、鏡介との契約が深まった証だろうか。
少女の表情は、暗かった。
『なぁ……ごめんな。ウチのせいで、あんたの平穏な日常、無茶苦茶になってまう』
部屋を見渡す少女の瞳。積み上げられた古武術の目録、父が残した掛軸、使い古された木刀。そのすべてが、鏡介が守ってきた「日常」だった。それが今、自分の存在によって破破されようとしている。
「気にすんなと言ったはずだ」
鏡介は鞄のジッパーを閉め、少女と正面から向き合った。
二人の距離は、ほんの数十センチ。手を伸ばせば触れられそうなほど近いのに、彼女の体は光の粒子で透けている。
「俺は、自分の意志で手を伸ばした。お前を助けると決めたのは俺だ。だから、お前が謝る必要なんてどこにもない」
『……ほんま、アホやな。意地っぱりで、頑固で、自分のことばっかり後回しにして……』
少女はぽろぽろと涙をこぼした。昨夜と同じ、床に落ちる前に消えていく光の残片。
だが、その表情は昨夜とは違っていた。恐怖から来る涙ではない。自分に向けられた、まっすぐで不器用な情熱に対する、溢れ出す感情の昂ぶり。
『ウチな……怖かったんや。誰にも知られへんまま、誰の記憶にも残らへんまま、暗闇の中で消えていくのが。……でも、あんたがウチの名前を呼んでくれた。世界一にしてやるって、言ってくれた』
少女は小さく鼻をすする。
『だから……ウチも決めたんや。あんたがどれだけ傷ついても、どれだけ絶望しても、ウチだけは絶対に味方でいてやるって。あんたの目の前で、一番近くで、ずっと加護してあげるって!』
「万魂……」
『べ、別に愛の告白とかやないんやからね!! 勘違いすんなよ!! あんたがウチの第一号神使やから、特別に目をかけてやるって言うとんの!!』
顔を真っ赤にして、両手をブンブンと振る少女。
ツンとすました態度の中に隠しきれない、愛おしいほどの素直さと健気さ。
鏡介の口元に、自然と笑みがこぼれた。胸の奥に溜まっていた重苦しい塊が、彼女のその一言で一気に吹き飛んでいく感覚。
「ああ。分かってるよ。頼りにしてる、俺の女神様」
『ふ、ふんっ! 当然や! ウチの超絶データ解析があれば、どんな敵だってイチコロなんやから!』
胸を張る少女。その姿は、小さな画面の中から飛び出し、鏡介の「日常」のど真ん中に、決して消えない絆として刻み込まれていた。
「……時間だ」
階下から、老人の冷たい声が響く。
鏡介はスマートフォンを手にとり、画面の中へと戻っていく少女を見つめた。
液晶の中で、彼女が小さく手を振る。
『行こう、鏡介。ウチらの伝説、ここからスタートやで!』
「ああ!」
鏡介は鞄を背負い、自室のドアを静かに閉めた。
見慣れた道場、畳の匂い、静かな朝の光。すべてを背中に押し込め、彼は階段を下りていく。
◇
八百万神族の本部へと向かう車中、雨は完全に上がっていた。
濡れたアスファルトが朝日を浴びてキラキラと輝き、車窓を流れていく景色はどこまでも平穏な「日常」の姿をしていた。
だが、鏡介が足を踏み入れようとしているのは、その平穏の裏側に存在する、血と鉄の匂いが漂う世界だ。
助手席に座るタケミカヅチの老神使は、一度もバックミラー越しに鏡介を見ようとしなかった。ただ、深く目を閉じ、腕組みをしたまま静かに言った。
「小僧。昨夜の戦い……『無想転成』の真似事をしたようだな」
「……知っているんですか」
「当たり前だ。タケミカヅチの系譜において、あの境地を知らん者は破門だ。……だがな」
老人がゆっくりと目を開ける。その瞳に宿るのは、一切の情を排した激しい「武」の鬼気だった。
「力をいなすだけでは、神は殺せん」
「え……?」
「東方新興神族の連中も、オリンポスの神使どもも、その肉体は人間を超越した鋼の塊だ。合気で体勢を崩したところで、打撃が通らねばいずれ押し潰される。……今の貴様の攻撃は、ハエ叩き程度の痛痒にしかならん」
鏡介は息を呑んだ。
昨夜の勝利。あの音速の刺客を車道へ叩きつけた感触。自分の中では手応えがあったはずの技が、老人の前では「ハエ叩き」と一蹴されたのだ。
「明日から、地獄の稽古を始める。骨の隙間に、相手の肉体の最奥に『当身(寸勁)』を流し込む打撃術を叩き込んでやる。……死にたくなければ、喰らいついてこい」
老人の言葉は、宣告だった。
専守防衛の武術から、神を殺すための「絶対の武術」へ。鏡介の戦いが、新たな段階へと引き上げられようとしていた。
ポケットの中で、スマートフォンが微かに熱を帯びる。
『鏡介……大丈夫や。ウチがついてる。どんな酷い稽古でも、ウチのデータでサポートしてあげるからな!』
画面は見えなくとも、彼女の声が直接脳内に響いてくる。
恐れはない。背中を押してくれる存在が、自分にはいるのだから。
「よろしくお願いします、師匠」
鏡介は深々と頭を下げた。
窓の外では、巨大な管理施設の黒いシルエットが、朝靄の向こうから姿を現し始めていた。
そしてその上空、雲の切れ間から覗く蒼穹の彼方では、世界の表舞台を統べる「オリンポス」の影が、静かにこの東の島国を睨みつけていた。
少女との「日常」を守るための、果てしない戦いの火蓋が、今まさに切られようとしていた。
(第4話へ続く)
第4話:タケミカヅチの拳 ──当身の伝授
その衝撃は、音よりも先に骨へ届いた。
「——甘い」
ドスッ、という鈍い炸裂音が道場内に響き渡る。
鏡介の視界がぐにゃりと歪んだ。みぞおちの奥、横隔膜が硬直し、呼吸という概念そのものが強制的に停止させられる。膝から崩れ落ちそうになる肉体を、気力だけでどうにか繋ぎ止めた。
「……ッ、ハぁ……っ!」
喉の奥から這い出たのは、情けないほどの掠れ声だった。
床に滴り落ちた汗が、磨き抜かれた黒光りする板間に小さな輪を作る。鏡介は膝に手を置き、全身を襲う激痛と痺れに耐えながら、目の前の老人を見上げた。
八百万神族管理部門の最奥に位置する、地下大道場。
外の陽光すら届かないその空間で、タケミカヅチの神使——老達人は、羽織の袖に両手を突っ込んだまま立っていた。息ひとつ乱れていない。鏡介の拳を受け流し、胸元へ軽く指先を突いた、ただそれだけの動作で鏡介の全身を機能不全に陥れていた。
「言ったはずだ、小僧」
老人の冷ややかな声が、広大な道場に反響する。
「合気とは、相手の威力を利用する術。だがな、世界には『いなされることすら拒絶する暴力』が存在する。カウンターを警戒して防衛を固めた敵、あるいは投げの威力を骨格で耐えきる怪物に対し、貴様の合気は何の役にも立たん」
鏡介は歯を喰いしばり、ゆっくりと上体を起こした。
黒い合気道着の胸元には、老人の指先が触れただけの小さな皺が残っている。
「崩すだけでは足りない……ということですか」
「そうだ。崩した先に待つのは、殺傷だ。神使の肉体は、人間が練り上げた常識の硬度を超えておる。どれほど完璧に体勢を崩そうと、核となる部位を破壊せねば、相手は次の瞬間に貴様の首を跳ね飛ばす」
老人はゆっくりと右手を掲げた。
老木のように皺刻まれた手。だが、その指先がわずかに動いた瞬間、空気が物理的な質量を持って歪むのを鏡介の皮膚が感じ取った。
「骨の隙間。筋肉と筋肉の繋ぎ目。神威が及ばぬ肉体の『継ぎ目』を探し出し、そこに衝撃を穿つ。力を表面で受け止めさせるな。内部へ、極小の点として流し込め——それが『寸勁(当身)』の真価よ」
『き、鏡介……! 大丈夫か!? 息しとるか!?』
右胸のポケットの中で、スマートフォンが激しく振動した。
画面越しに、万魂通音乃神の切羽詰まった声が脳内へとダイレクトに届く。
『むちゃくちゃやあのクソジジイ! 内臓の数値が一瞬で異常域まで跳ね上がったんやで!? 頼むから無理せんといて! ウチのデータ、解析が追いつかへん……っ!』
「……大丈夫だ、万魂。解析を……続けろ」
鏡介は心の中で呟いた。
ポケットの中の温もり。彼女が必死に鏡介の生体データを計測し、負担を和らげようと神威を振り絞っているのが伝わってくる。その加護がなければ、今の一撃で鏡介のアバラは数本折れていただろう。
『当たり前や! ウチが加護してあげとるんやから、あんたは倒れたらアカン! 感謝して、あのジジイの動きを全部盗み取りなさいよね!』
強がる声の裏にある、狂おしいほどの心配。
鏡介は深く息を吐き出し、胸の内の恐怖をすべて吐き出すように意識を「無」へと落とし込んだ。
(流し込む……点として、内部へ)
鏡介は再び構えをとった。
漆黒の道着の裾が静かに揺れる。右足をわずかに引き、左手を前へ。合気道の円運動の構えから、余分な力みを極限まで削ぎ落とした自然体。
老人の目が、微かに細められた。
「来い」
踏み込みの瞬間、時間が遅延する。
鏡介は地を蹴った。踏み込みの音はない。すり足で間合いを詰め、老人の右側腹部へと手を伸ばす。
老人は動かない。鏡介の手首がその掌に触れる直前、滑らかな受けの手動作。合気の円運動を、老人自身が完璧に相殺してみせる。
(そこだ——!)
鏡介の脳内に、万魂の解析データが雪崩のように流れ込んだ。
老人の腕の筋肉の弛緩、重力のかかり方、そして肩口から胸筋にかけての「隙間(継ぎ目)」。
思考を介さない。
『無想転成』の片鱗が、鏡介の肉体を勝手に動かした。
左手で受け流された力をそのまま利用し、鏡介は右拳を握り込まず、掌底の形で老人の胸板からわずか数センチの間合いへと滑り込ませた。
ゼロ距離。寸勁。
「ぬ……!?」
鏡介は全身の軸を固定し、踏み込んだ足の波動を、腰、背筋、そして右腕の突きへと一直線に伝達させた。拳を叩きつけるのではない。掌底を相手の皮膚に密着させ、その奥にある深部へと「衝撃の波」を押し込む。
ドンッ!!
道場の空気が爆ぜた。
老人の灰色の羽織が、背中側から豪快に跳ね上がった。衝撃波が肉体を貫通し、背後の空間へと抜けた証だ。
老人の身体が、ほんの数センチだけ後方へと滑った。
沈黙。
雨上がりの地下道場に、二人の呼吸音だけが低く響く。
鏡介は右手を引いた。指先が微かに震えている。完膚なきまでに叩き込んだ感触。だが、老人の顔に苦悶の色はなかった。
「……フン」
老人は胸元を軽く手で払い、静かに息を吐いた。
「六割、というところか」
「……っ」
「形にはなった。だが、本物の神使の筋肉はこんなものではない。内部で威力が拡散しておる。……だが、よし」
老人は背を向け、道場の隅に置かれた木刀の手入れ道具へと歩み寄った。その足取りに、先ほどまでの冷酷な圧迫感は消えていた。
「基礎は教えた。あとは実戦で磨け。相手の攻撃をいなし、崩し、その死角から寸勁を流し込む——それが貴様の『専守防衛』の全貌だ」
鏡介は深く一礼した。
「ありがとうございました、師匠」
『ふふん! 見たかクソジジイ! ウチの鏡介の当身、ちょっとは効いたやろ! 鏡介、凄いで! ウチの加護とあんたのセンスが合わされば最強や!』
ポケットの中で、万魂がドヤ顔で快哉を叫んでいる。
鏡介は苦笑しながら、道着の胸元を軽く叩いた。「静かにしろ」という合図だ。
しかし、老人の背中は依然として重かった。老人は立ち止まり、振り返ることなく静かに告げた。
「浮かれるな、小僧。そして通信の神よ」
『な、なんやの……』
「間もなく、査問部が到着する。オリンポスの主導する『神使条約』の監視者どもだ。……彼らは貴様らを『不確定要素(バグ)』とみなしておる。心してかかれ」
老人の言葉が終わると同時に、地下道場の巨大な鉄製扉が、重々しい音を立てて開き始めた。
◇
地下道場へと続く長い廊下に、二つの異質な足音が響いていた。
ひとつは、鋭く固い軍用ブーツの足音。規則正しく、一切の乱れがない。
もうひとつは、軽快で弾むようなゴム底の足音。ボクサーのフットワークを思わせる、独特のズレを持ったリズム。
道場の入口から差し込む光の中に、二つの影が浮かび上がった。
「ここが、日本の『枠外』が隠されている場所かい?」
陽気な、だがどこか相手を見下すような英語交じりの声。
姿を現したのは、鍛え上げられた褐色の肉体を惜しげもなく晒した青年だった。上半身は裸に近く、腰には派手なボクサーパンツとトランクス、足元にはしなやかなボクサーシューズを履いている。アフリカ系の精悍な顔立ちに、軽薄な笑みを浮かべていた。
「静かにしなさい、カシム。ここは他神族の聖域よ。非礼は外交問題に発展するわ」
後ろから歩み出てきたのは、一人の女性だった。
深く被った軍帽の隙間から、美しい金の髪が覗いている。彼女が身に纏っていたのは、異様というほかない衣服だった。体にピタリと密着した軍用デザインのレオタード。その下からは、肌がうっすらと透けて見える絶妙な厚みの黒いストッキングに包まれた、隙のないしなやかな美脚が伸びている。体操選手のような無駄のないシルエットと、軍人の冷徹な威圧感が同居していた。
カテリーナ・パパドプロス。ギリシャ神話・ヘスティアの系譜を継ぐ、オリンポス査問部の中位監視役。
そして、隣に立つ軽薄な男はカシム・ディアロ。カイロスの神使にして、下位査問員。
二人の視線が、道場の中央に立つ鏡介へと向けられた。
「……ハッ」
カシムが鼻で笑い、鏡介の黒い合気道着を上から下へと品定めするように見つめた。
「なんだい、これは? オリンポスの調査要請でわざわざ極東まで来させられてみれば……出てきたのはひょろい東洋のガキか。おい、ジャップ。お前が例の『バグ』か?」
「カシム」
カテリーナが冷たい声で制したが、その瞳もまた、鏡介を人間として見ているとは言い難かった。彼女の視線は鏡介の顔ではなく、右胸のポケット——そこに潜むスマートフォンの神力へと注がれていた。
「違法な神使契約、および東方勢力との戦闘行為。……事情聴取を行うわ、スマホの」
「スマホの……?」
鏡介は呟き、ゆっくりと二人と向き合った。
相手から放たれる圧倒的な神威。タケミカヅチの老達人とは異質の、ギリシャ神話特有の誇り高き、そして排他的な圧倒的圧力。
ポケットの中で、万魂通音乃神が激しい恐怖と怒りで震えているのが伝わってきた。
『鏡介……! こいつら、オリンポスの連中や! ウチらを処分しに来たんや……!』
「落ち着け、万魂」
鏡介は静かに息を吐き出した。
相手の侮蔑、相手の冷淡さ。それらすべてを受け止めながら、鏡介は決して視線を逸らさなかった。
「初めまして。迅雷鏡介です。……カテリーナさん、カシムさん」
静かで、揺らぎのない声。
ジャップと呼ばれても怒らず、不気味な物体扱いされても引かない。そのたたずまいに、カテリーナの眉が微かに動いた。
「……名前を呼ぶ資格を許可した覚えはないけれど」
カテリーナは冷たく言い放ち、手に持った羊皮紙状の神力文書を開いた。
「これより、東方新興神族の暴走に対する『正当な軍事調査令』を発令する。あなたたち二人——いえ、あなたとスマホの無名神は、オリンポスの監視下において調査隊に同行してもらうわ」
「同行……ですか」
「拒否権はないわ。拒否すれば、その場で『条約違反者』として排除する」
殺気。
カテリーナの全身から、揺らめく聖火のような熱気が立ち上った。レオタードに包まれたしなやかな肉体が、一瞬で戦闘態勢へと移行する。
カシムもまた、拳を軽く握り締め、ボクサーシューズの爪先で軽く床を叩いた。その拳から、かすかな摩擦熱の火花が散る。
鏡介は二人の間合いを測った。
届く。だが、勝てるかどうかは別だ。二人の背後には、世界を統べる「オリンポス」という巨大な影が存在している。
「分かりました」
鏡介は合気道の構えを解き、深く一礼した。
「同行します。ただし——」
鏡介は真っ直ぐにカテリーナの瞳を見つめた。
「俺の神(パートナー)を、不気味な物扱いするのはやめてください。彼女には名前があります」
「……ッ」
カテリーナが息を呑んだ。
監視対象として、ただの「バグ」として処理するはずだった高校生の瞳に宿る、譲れないプライド。
カシムが興味深そうに口笛を吹いた。
「へえ……威勢だけは一人前だな、ジャップ。ソウルで足手まといになったら、後ろからぶち抜いてやるから覚悟しとけよ」
「手厳しく指導してください、カシムさん」
鏡介の返答に、カシムは苦々しい顔をしてチッと舌を鳴らした。
雨上がりの空の下、極東の島国で巡り合った異質な三人。
日本の専守防衛、オリンポスの統制、そしてスマホの画面に宿る名もなき神。
交わるはずのなかった運命が、東方新興神族の待つ暗雲立ち込める大陸へと、静かに走り出そうとしていた。
(第5話へ続く)
第5話:監視者と「ジャップ」
靴底が踏みしめる畳の音が、異様に重かった。
地下道場の広大な空間に、一瞬の静寂が落ちる。
外の光を完全に遮断したその部屋では、湿り気を含んだ板間の匂いと、老達人が放った神威(しんい)の名残りである焦げたような残り香が混ざり合っていた。
正面に立つ二人から放たれる気配は、これまで鏡介が触れてきたどの人間とも異なっていた。
押し潰すような重圧ではない。それは、優位に立つ者が当然のように纏う、冷ややかで排他的な「支配の空気」だった。
「……同行してもらうわ」
静かに言い放った女性——カテリーナ・パパドプロスは、一歩前へ踏み出した。
軍用デザインのレオタードが、彼女の無駄のない身体のラインを際立たせている。その下から伸びる、透け感のある薄い黒ストッキングに包まれた脚。しなやかな筋肉の躍動が、黒地越しにうっすらと肌の質感を感じさせながらも、隙のない軍人としての威厳を物語っていた。
彼女の鋭い視線が、鏡介の顔を通り抜け、胸のポケットへ注がれる。
「事情聴取を行うわ、スマホの」
言葉に込められたのは、明確な侮蔑ではなく、ただの「分類」だった。まるで、そこに意志を持った神が存在することすら認めず、ただの奇妙な不具合(バグ)の端末として処理するかのような、底冷えする冷淡さ。
右胸のポケットの中で、スマートフォンが熱を帯びた。
鏡介の肌に伝わる端末の振動は、小さな少女が怒りと恐怖で全身を震わせている証拠だった。
『……な、何やのあいつ! ウチのことモノ扱いしやがって! 人の顔見んとポケットばっかり睨みつけて、感じ悪いにも程があるわ!!』
脳内に直接響く、万魂通音乃神の金切り声。
強がる関西弁の語調はいつも通りだが、その声の奥に潜むかすかな怯えを、鏡介は見逃さなかった。古代から世界の覇権を握るオリンポス——その直属の査問部という存在が持つ絶対的な権威は、知名度の低い無名神にとって、生存そのものを脅かす巨大な脅威なのだ。
「落ち着け、万魂。声が出てるぞ」
心の中で静かに語りかけ、鏡介は右手でそっと胸のポケットを上から押さえた。手のひらの温もりを伝えるように。布地を隔てた微かな圧力が伝わると、端末の激しい振動が、少しだけ穏やかになった。
『っ……分かっとるわ! あんな高飛車なオンナに日和ってなんかへん! 鏡介、あんたも気ぃつけや。あの目、ウチらのこと人間とも神様とも思ってへん顔やで!』
「ああ。分かってる」
鏡介は一歩前へ出て、カテリーナと正面から視線を交わした。
引くことも、威嚇することもない。ただ、相手の瞳の奥にある冷徹な光をまっすぐに見つめ返す。
「断る理由はありません。ただし……カテリーナさん」
言葉を選びながら、鏡介は低く落ち着いた声で口を開いた。
「俺のパートナーは『スマホの』ではありません。万魂通音乃神——万魂という名前があります。次からは、そう呼んでいただけますか」
沈黙が訪れた。
カテリーナの美しい眉が、微かに跳ね上がる。
彼女の隣で、褐色の肌をした青年——カシム・ディアロが、思い切り吹き出した。
「ハハッ! 聞いたかよカテリーナ! このガキ、自分たちが対等な立場だとでも思ってやがるぞ!」
カシムは派手なボクサーパンツの腰紐を指で引っ張り直し、トントンと軽快なステップを踏みながら鏡介の間合いへと侵入してきた。ボクサーシューズが板間を滑る、独特の摩擦音が響く。
上半身の引き締まった筋肉が、光を浴びて褐色に躍動していた。首から下げたドッグタグが、シャリシャリと金属音を立てる。
「おいおい、勘違いするなよ、ジャップ」
カシムは鏡介の顔の前に、鍛え上げられた自身の大きな拳を突き出してみせた。バンテージが固く巻かれたその拳から、かすかに焦げたような熱気が放たれている。
「お前たちがここに生かされているのはな、オリンポスの寛大な法と、このカテリーナさんの温情のおかげだ。東洋の極小の島国で、正体不明のスマホに手を出した哀れな不法分子。……お前はただの『バグの所有者』に過ぎねぇんだよ」
カシムの嘲笑を含んだ視線。
東洋人を見下し、歴史も知名度もない弱小神族を「不要物」と決めつける、無遠慮なまでの全能感。
「ジャップ。ソウルへ行く道中、余計な口を叩いてカテリーナさんの機嫌を損ねてみろ。その瞬間にお前をそのボロ道着ごと殴り飛ばして、そのスマホを叩き割ってやるからな」
至近距離での威嚇。
放たれる圧倒的な熱量と威圧感に、普通の高校生であれば腰を抜かしていてもおかしくはない。
だが、鏡介の瞳は、凪いだ水面のように静かだった。
タケミカヅチの老達人との地獄のような稽古。みぞおちを貫く寸勁の痛み、そして死の淵で掴み取った『無想転成』の感覚。それらを経験した鏡介にとって、カシムの放つ挑発は、ただの「表面的な荒波」に過ぎなかった。
鏡介は、カシムの突き出された拳を見つめた。
筋肉の収縮、指関節の角度、体重の乗り方。すでに無意識のうちに、相手の「型」を分析しようとする武術家の本能が働いている。
「ご忠告、ありがとうございます。カシムさん」
「……あ?」
感情を交えず、ただ礼儀正しく返された言葉に、カシムは拍子抜けしたように目を丸くした。
「俺は自分の日常を守りたいだけです。そして、万魂との契約を果たしたい。足手まといになるつもりはありません。だから……よろしくお願いします」
鏡介は静かに頭を下げた。
怒りでもなく、従属でもない。ただ己の足で立ち、己の意志でその場に留まるという、圧倒的な「個」の静けさ。
カシムの頬がひきつった。嘲笑っていたはずの男の顔から笑みが消え、苛立ち混じりの目つきへと変わる。言葉で揺さぶろうとした自分が、まるで暖簾に腕押しのように受け流されたのだと気づいたからだ。
「……ケッ。気取りやがって」
カシムは舌を打ち、鏡介から視線を外して背を向けた。
「カテリーナさん、こんな気味の悪いガキと長居したくねぇ。さっさと出撃の準備をしようぜ。ソウルの東方新興神族どもを片付けて、さっさとヨーロッパに帰りてぇんだ」
カテリーナはカシムの言葉に応じず、ただ黙って鏡介を見つめ続けていた。
彼女の瞳の奥で、何かが微かに計算されているのが分かった。
ただの無知な少年ではない。かといって、オリンポスに刃を向ける反逆者でもない。掴みどころのない、異質な存在。
「……出立は明朝五時よ」
カテリーナの冷ややかな声が、地下道場に響いた。
「八百万の施設から提供される軍用輸送機で、東方新興神族の潜伏領域へ向かう。それまでに身の回りの整理を済ませておきなさい。……言っておくけれど、遅刻は認めないわ。一分でも遅れれば、置き去りにして『処分』の手続きに入る」
「分かりました」
「行くわよ、カシム」
カテリーナは翻し、軍用ブーツの音を響かせて出口へと歩き出した。透け感のある黒ストッキングに包まれた脚が、洗練された動作で無駄なく地を踏みしめていく。カシムもまた、胸ポケットから取り出したガムを口に放り込みながら、鏡介を不機嫌そうに一瞥してその後に続いた。
重い鉄製の扉が、ギギギ……と鈍い音を立てて閉まっていく。
二人の気配が完全に遠のくまで、鏡介はその場を動かなかった。
◇
沈黙が、道場を包み込む。
静まり返った空間で、鏡介は深く息を吐き出した。止めていた呼気が喉を通り、肺の緊張が少しずつ解けていく。
『……鏡介』
ポケットから、スマートフォンの画面が眩しい光を放った。
光の粒子が宙に集束し、実体化した万魂通音乃神が姿を現す。
宙に浮いた小さな足。フリルのついた衣装の裾をぎゅっと握りしめ、彼女は真っ赤になった目で鏡介の顔を見つめていた。
『あんた……何であんな奴らにペコペコ頭下げとんのよ! ジャップとかスマホのとか言われて、悔しくないんか!? あんたはウチの第一号神使やで!? もっと堂々と威張っとったらええねん!』
怒鳴り散らす声。だが、その声の端々は微かに震えていた。
彼女が怒っているのは、自分たちが侮辱されたこと以上に、鏡介が傷つけられたと感じたからだ。
「悔しくないと言ったら、嘘になる」
鏡介は静かに答えた。畳の上に着座し、自身の両手を見つめる。
「でもな、万魂。ここで感情的になって言い返したところで、何も変わらない。あいつらは『オリンポス』という巨大な背景を背負ってる。今の俺たちが力で挑んだところで、ただの暴走として処分されるだけだ」
『っ……それは、そうやけど……!』
「言葉で戦う必要はない」
鏡介の瞳に、静かな熱が宿った。
「カテリーナさんも、カシムさんも、俺たちのことを『バグ』だと思ってる。なら、実力で証明するしかない。俺たちがお前(万魂)のデータと俺の合気で戦えるってことを、ソウルの現場で見せるんだ」
万魂は言葉を失った。
目の前に座る少年の横顔。
激昂することなく、冷徹に状況を見極め、己のやるべきことだけを見据えている。その強さは、タケミカヅチの老達人が誇るような圧倒的な暴力ではなく、どんな濁流に呑み込まれても決して折れない「芯の強さ」だった。
『……ほんま、あんたはアホやな』
万魂はぽつりと呟き、浮遊していた体をすっと下げて、畳に座る鏡介の膝のすぐ隣へ降り立った。実体化していても重さはないが、彼女の纏う温かい神力の気が、鏡介の衣服越しに伝わってくる。
『ウチのこと……万魂って呼んでくれて、ありがとな』
小さな、消え入りそうな声だった。
『あの女に「名前がある」って言った時……ちょっとだけ、胸がキュッてなったわ。……べ、別に勘違いせんといてよ! ウチの名前をちゃんと覚えさせるのは神様として当然の権利やからね!』
慌てて補足し、顔を真っ赤にしてそっぽを向く少女。
鏡介の口元に、小さな笑みがこぼれた。
「ああ。当然だろ。俺の神様の名前なんだから」
『も〜っ! そうやってすぐ恥ずかしいこと言う! アホ! 鏡介のアホ!!』
ポカポカと、実体のない小さな拳で鏡介の肩を叩く万魂。
そのコミカルなやり取りが、これから立ち向かう過酷な戦いを前にした二人の、唯一の「日常」の温もりだった。
◇
道場の隅の暗がりから、冷ややかな視線が二人を注いでいた。
腕組みをしたまま壁に寄りかかっていたタケミカヅチの老達人——老神使は、二人の会話を静かに聞き終えると、鼻で短く息を吐いた。
「甘いな、小僧」
老人の声に、鏡介と万魂はハッと振り向いた。
老人はゆっくりと歩み寄り、鏡介の目の前で足を止めた。その瞳には、甘えを一切許さない古武術家の厳格さが宿っていた。
「オリンポスの査問部……あの女(カテリーナ)も、あの男(カシム)も、伊達に『神使』を名乗っておらん。カテリーナの纏うヘスティアの聖火は、接触したあらゆる物体を内部から焼き尽くす。カシムの連打は、カイロスの加護によってコンマ数秒の隙間に十数発の音速打を叩き込む」
老人の言葉に、万魂がゴクリと息を呑む。
「奴らの前で『甘さ』を見せれば、東方新興神族に殺される前に、後ろから奴らに処理されるぞ。……ソウルは、ただの調査地ではない。オリンポスと崑崙(コンロン)、そして新興勢力が渦巻く『血の実験場』だ」
「血の……実験場」
「そうだ」
老人は袖から一冊の古い巻物を取り出し、鏡介の膝元へ放り投げた。
「我が八百万(やおよろず)の領域を侵した東方の刺客……奴らが使っていた足技、そして肉体の異常発達。あり得るはずのない神威の膨張だ。……裏に何がいるか、その目で確かめてこい」
鏡介は巻物を手にとり、強く握りしめた。
「師匠……ありがとうございます」
「礼などいらん。……死んで我が八百万の名を汚すことだけは許さん。行け」
老人は背を向け、暗がりの中へと消えていった。
◇
夜が訪れ、出撃の時が刻一刻と近づいていた。
滑走路に佇む黒い軍用輸送機のエンジンが、重低音を響かせて回転を始める。
暗闇の中、ランプの光に照らし出されるカテリーナの冷艶なシルエットと、退屈そうにストレッチをするカシムの姿。
鏡介は、道着を収めた鞄を背負い、静かにタラップを上った。
胸のポケットで、スマートフォンが静かに熱を帯びている。
『鏡介。準備はええか?』
「ああ。いつでもいける」
『ふふん、任せとき! ウチの超絶データ解析で、ソウルの奴らもオリンポスの気取り屋どもも、全員ギャフンと言わせてやるからな!』
強気な女神の声とともに、機体は夜の空へと飛び立った。
眼下に広がる日本の街並みの明かりが、小さく遠ざかっていく。
見慣れた平穏な日常から切り離され、鏡介たちは大陸の暗雲へと突入していく。
東方新興神族の潜伏する都市・ソウル。
そこで待ち受けるのは、音速を超える足技の達人たちと、歴史の裏に潜む「黒い術式」の存在。
そして、不揃いな三人による、命がけの「調査ミッション」が、今まさに始まろうとしていた。
(第6話へ続く)
第6話:東方新興神族領域への非公式潜入
夜の闇を切り裂く双発ジェットエンジンの重低音が、機内に絶え間なく鳴り響いていた。
軍用輸送機の貨物室は、暗い。
天井に取り付けられた非常用誘導灯が、淡い赤色と緑色の光を交互に落とし、床に固定された無骨なコンテナの影を不気味に揺らしていた。窓はなく、自分たちが今どの高度を飛び、どのような速度で海を渡っているのかすら窺い知ることはできない。ただ、機体が気流を拾うたびに底底から伝わってくる鈍い揺れだけが、ここが空中であることを教えいていた。
迅雷鏡介は、壁際の金属製折りたたみベンチに腰を下ろしていた。
膝の上には、黒いナイロン製のボストンバッグ。中には畳み込まれた漆黒の合気道着と、手拭い、そしてタケミカヅチの老達人から手渡された一冊の古い巻物が入っている。
「……静かすぎないかい、ジャップ」
通路を挟んだ向かい側から、声が飛んできた。
カシム・ディアロだ。派手なボクサーパンツの上から軍用の防寒ジャケットを羽織り、足元は変わらずボクサーシューズのまま、長い脚を無造作に放り出している。指先でコインを弄び、カチャカチャと金属音を立てていた。
「飛行機に乗るのが初めてってわけでもなさそうだが。死地に向かう人間の顔にしては冷めすぎだ」
「……考え事をしていただけです、カシムさん」
鏡介は視線を上げず、静かに答えた。
「フン。気取りやがって」
カシムはコインを空中に弾き、器用に手の甲で受け止めた。その動作には一切の無駄がなく、ボクサー特有のしなやかな反射神経が凝縮されている。
「言っておくがな、これから向かう場所は観光地じゃねぇぞ。東方新興神族の領域——都市ソウルの裏街だ。神使条約の『95人枠』に縛られた俺たちオリンポスの正規ルートじゃ入れねぇから、こうして非公式の闇ルートで潜入する。見つかれば即、国際問題だ。お前みたいなガキが足をもつれさせたら、その瞬間に俺が背中から吹き飛ばして証拠隠滅してやるからな」
嘲笑うような言葉。だが、その声には先ほどまでの単なる侮蔑だけではない、ピリピリとした緊迫感が混ざっていた。
鏡介は返買いをしなかった。選ばなかった反論の代わりに、ただ深く息を吐き出す。
この不穏な空気の中で、最も静かな存在——カテリーナ・パパドプロスは、機首寄りの座席に一人腰掛けていた。
深く被った軍帽。体にピタリと吸い付く軍用レオタードと、その下から伸びる透け感のある黒ストッキング。無駄のないしなやかな脚を美しく組み、彼女は膝の上に広げたホログラム状の端末を静かに見つめている。照明の赤緑の光が、彼女の美しい金髪と、横顔の硬質なラインを浮かび上がらせていた。
「カシム。無駄口は叩かないで」
彼女は視線を端末に向けたまま、冷淡な声で言った。
「今回のミッションの主目的は、条約を破って日本領域へ侵攻した『東方新興神族』の拠点特定、および不法神使の『処分』よ。我がオリンポスは表向き、この件に関与していない。……万が一、敵の主力と遭遇した場合、こちらの救援(バックアップ)は一切期待できないと考えなさい」
「分かってるよ、カテリーナさん」
カシムはつまらなさそうに溜息をつき、コインをポケットへ押し込んだ。
「要するに、ヘマをしたらゴミみたいに捨てられるってことだろ? 慣れっこさ。だが……」
カシムの鋭い視線が、再び鏡介の胸元へと注がれる。
「気になるのは、その『バグ』の出方だ」
鏡介は右胸のポケットにそっと手を当てた。
布地越しに伝わるスマートフォンは、今や冷たくなっていた。機内の強力な電磁波と神威のシールドによって、外部との通信が遮断されているためだ。液晶画面は消え、画面の中の少女——万魂通音乃神の気配も、今は深く沈んでいる。
(万魂……)
離陸直前の、あの瞬間が脳裏に蘇る。
滑走路の端、機内へ乗り込む直前に一瞬だけスマホの画面が強く光り、実体化した彼女が半透明の姿で現れたのだ。
『鏡介……!』
涙を浮かべ、今にも崩れ落ちそうな顔で、少女は鏡介の袖を掴もうとしていた。実体化の神力が弱まり、指先は何度も空を切っていたけれど。
『絶対……絶対に無事に帰ってきてね……! あんたが死んだら、ウチは誰の名を呼べばええの!? 世界一の神様にしてくれるって、言ったやんか……っ!』
『……帰るよ。お前を置いて、死ぬわけがない』
『べ、別に寂しいから言うとるんとちゃうで! あんたがウチの第一号神使やから、途中で投げ出されたら困るって言っとるんや! 感謝して、絶対に生きて戻りなさいよねっ!!』
強がりと、溢れ出す涙。
あの涙の温もりが、今も胸の奥に強く残っていた。
自分には、帰るべき「日常」がある。
古い道場、畳の匂い、そして画面の向こうで怒ったり笑ったりする、あの小さなツンデレな女神のいる場所へ。
「そろそろ降下領域に入るわ」
カテリーナの声が、鏡介の思索を打ち切った。
彼女は端末を閉じ、立ち上がった。レオタードの生地が引き締まった筋肉の動きに合わせて微かに揺れ、黒ストッキングで覆われた長脚が、一切の足音を立てずに床を踏みしめる。
「高度三千。これより個別降下(エアドロップ)を行う。現地座標はソウル郊外の廃墟群。潜入後は分散せず、私の指揮下で行動しなさい」
「へいへい」
カシムがジャケットのジッパーを上げ、ボクサーシューズの紐を固く結び直した。その顔から軽薄さが消え、野獣のような鋭い殺気が立ち上る。
輸送機の後部ハッチが、重々しい油圧音とともに開かれ始めた。
ゴォォォォォッ!!
上空の猛烈な寒気と強風が、濁流のように機内へと雪崩れ込んでくる。
闇。眼下には、雲の切れ間から覗く都市の灯火が、まるで地上に散らばった星屑のように小さく明滅していた。
「行くわよ」
カテリーナが真っ先にハッチの縁へと立った。風に金髪をなびかせ、彼女は躊躇なく闇の深淵へと身を躍らせた。黒ストッキングのシルエットが、夜空の中に吸い込まれていく。
「ヘッ、遅れるなよ、ジャップ!」
カシムも口笛を吹きながら、空へと飛び出した。
鏡介はハッチの縁に立ち、強風に道着の鞄を強く抱きかかえた。
胸のポケットのスマートフォンを、右手で強く上から押さえる。
「行くぞ、万魂」
返事はない。だが、端末の底から、かすかな、本当に微かな熱が手のひらに伝わってきた気がした。
鏡介は息を吐き切り、暗黒の空へと足を踏み出した。
◇
着地の衝撃を、合気の受け身で殺す。
湿った土と、腐敗したコンクリートの臭い。
鏡介は素早く身を起こし、周囲の気配を探った。そこは、かつて高層マンションが建ち並んでいたと思われる、広大な廃墟群の一角だった。鉄骨がむき出しになった建造物の残骸が、月光を浴びて巨人の骨のように立ち聳えている。
「合格ね」
頭上から、静かな声が降りてきた。
カテリーナが、倒壊したコンクリート壁の上からふわりと舞い降りた。体操選手特有の無重力のような着地。衝撃音すら発生しない。
「受け身の技術は本物のようね。……カシムは?」
「ここだヨ」
闇の中から、カシムが舌を鳴らしながら歩み出てきた。
「なんだこの街は。カビと鉄の臭いが鼻につくぜ。東方新興神族の連中は、こんな肥溜めみたいな場所に隠れてるのか?」
「静かに」
カテリーナが短く制した。彼女の指先が、空中に透明な神力の円を描く。
「この領域全体に、特殊な『結界』が張り巡らされているわ。普通の人間には見えないけれど、神威を感知する特殊な術式……間違いなく、新興神族の拠点(セーフハウス)よ」
その時だった。
端末——鏡介の胸ポケットにあるスマートフォンが、突如として眩い熱を放ち始めた。
『……っ! 鏡介、気をつけて!!』
通信遮断を破り、脳内に万魂の悲鳴のような声が直接飛び込んできた。
『上や! 結界の隙間から、ヤバい奴が降ってくるで!!』
「なに……!?」
鏡介が反応するより早く、天空から「音」が消えた。
大気が圧縮される強烈な圧迫感。
次の瞬間、鏡介たちが立っていた廃墟の広場の中央に、隕石が落下したかのような激しい爆発音が轟いた。
ドガァァァァンッ!!
爆風と土砂が吹き荒れ、コンクリートの破片が弾丸のような速度で飛び散る。
カテリーナとカシムが即座にバックステップで距離を取る。鏡介もまた、腕で顔を覆いながら瞬時に後方へ飛んだ。
煙塵が渦巻く爆心地に、一人の男が立っていた。
黒い伝統的な武道服に身を包んだ男。
その足元には、クレーター状に粉砕されたアスファルト。男はゆっくりと立ち上がり、冷徹な細い目を鏡介たちへと向けた。
男の両脚——その腿から足首にかけて、凄まじい密度の神威がホワイトアウトするほどの蒸気となって立ち上っている。風圧だけで、周囲のコンクリートの壁にハサミで切ったような無数の傷が刻まれていく。
「……オリンポスの狗(いぬ)どもか」
男の声は、金属を擦りあわせたように低く、冷たかった。
「そして……我が同胞を倒した、日本の出来損ないの神使」
男の視線が、鏡介へと固定される。
「私は東方新興神族・四大高位が一角——桓因(ファニン)。我らが領域へ踏み入った非礼、その命をもって支払ってもらう」
男が足先をわずかに動かした。
それだけで、大気が切り裂かれ、鏡介の頬からツッと一筋の血が流れた。
音速を超える、足技の領域。
カシムが不敵な笑みを浮かべ、拳を固めた。
「ヘッ……挨拶代わりにしては、いいジャブじゃねぇか」
「下がりなさい、カシム」
カテリーナが冷たい声で制し、前に出た。レオタードに包まれた身体から、揺らめく聖火の熱気が立ち上る。
だが、桓因の目は二人を見ていなかった。
ただ一直線に、黒い道着を纏う迅雷鏡介だけを射抜いていた。
「我が同胞を屠った技……見せてもらおうか、小僧」
空気が凍りつく。
東方新興神族の四大高位との、最初の死闘の火蓋が切られようとしていた。
鏡介は静かに右足を下げ、合気の構えをとった。
胸のポケットで、スマートフォンが狂おしいほどの熱を帯びて振動している。
『鏡介……! 解析データ、送るで! 負けたら承知せぇへんからな!!』
「ああ……いくぞ、万魂!」
漆黒の闇の中、音速の蹴撃が交錯する瞬間が、刻一刻と近づいていた。
(第7話へ続く)
第6話:東方新興神族領域への非公式潜入
夜の闇を切り裂く双発ジェットエンジンの重低音が、機内に絶え間なく鳴り響いていた。
軍用輸送機の貨物室は、暗い。
天井に取り付けられた非常用誘導灯が、淡い赤色と緑色の光を交互に落とし、床に固定された無骨なコンテナの影を不気味に揺らしていた。窓はなく、自分たちが今どの高度を飛び、どのような速度で海を渡っているのかすら窺い知ることはできない。ただ、機体が気流を拾うたびに底底から伝わってくる鈍い揺れだけが、ここが空中であることを教えいていた。
迅雷鏡介は、壁際の金属製折りたたみベンチに腰を下ろしていた。
膝の上には、黒いナイロン製のボストンバッグ。中には畳み込まれた漆黒の合気道着と、手拭い、そしてタケミカヅチの老達人から手渡された一冊の古い巻物が入っている。
「……静かすぎないかい、ジャップ」
通路を挟んだ向かい側から、声が飛んできた。
カシム・ディアロだ。派手なボクサーパンツの上から軍用の防寒ジャケットを羽織り、足元は変わらずボクサーシューズのまま、長い脚を無造作に放り出している。指先でコインを弄び、カチャカチャと金属音を立てていた。
「飛行機に乗るのが初めてってわけでもなさそうだが。死地に向かう人間の顔にしては冷めすぎだ」
「……考え事をしていただけです、カシムさん」
鏡介は視線を上げず、静かに答えた。
「フン。気取りやがって」
カシムはコインを空中に弾き、器用に手の甲で受け止めた。その動作には一切の無駄がなく、ボクサー特有のしなやかな反射神経が凝縮されている。
「言っておくがな、これから向かう場所は観光地じゃねぇぞ。東方新興神族の領域——都市ソウルの裏街だ。神使条約の『95人枠』に縛られた俺たちオリンポスの正規ルートじゃ入れねぇから、こうして非公式の闇ルートで潜入する。見つかれば即、国際問題だ。お前みたいなガキが足をもつれさせたら、その瞬間に俺が背中から吹き飛ばして証拠隠滅してやるからな」
嘲笑うような言葉。だが、その声には先ほどまでの単なる侮蔑だけではない、ピリピリとした緊迫感が混ざっていた。
鏡介は返買いをしなかった。選ばなかった反論の代わりに、ただ深く息を吐き出す。
この不穏な空気の中で、最も静かな存在——カテリーナ・パパドプロスは、機首寄りの座席に一人腰掛けていた。
深く被った軍帽。体にピタリと吸い付く軍用レオタードと、その下から伸びる透け感のある黒ストッキング。無駄のないしなやかな脚を美しく組み、彼女は膝の上に広げたホログラム状の端末を静かに見つめている。照明の赤緑の光が、彼女の美しい金髪と、横顔の硬質なラインを浮かび上がらせていた。
「カシム。無駄口は叩かないで」
彼女は視線を端末に向けたまま、冷淡な声で言った。
「今回のミッションの主目的は、条約を破って日本領域へ侵攻した『東方新興神族』の拠点特定、および不法神使の『処分』よ。我がオリンポスは表向き、この件に関与していない。……万が一、敵の主力と遭遇した場合、こちらの救援(バックアップ)は一切期待できないと考えなさい」
「分かってるよ、カテリーナさん」
カシムはつまらなさそうに溜息をつき、コインをポケットへ押し込んだ。
「要するに、ヘマをしたらゴミみたいに捨てられるってことだろ? 慣れっこさ。だが……」
カシムの鋭い視線が、再び鏡介の胸元へと注がれる。
「気になるのは、その『バグ』の出方だ」
鏡介は右胸のポケットにそっと手を当てた。
布地越しに伝わるスマートフォンは、今や冷たくなっていた。機内の強力な電磁波と神威のシールドによって、外部との通信が遮断されているためだ。液晶画面は消え、画面の中の少女——万魂通音乃神の気配も、今は深く沈んでいる。
(万魂……)
離陸直前の、あの瞬間が脳裏に蘇る。
滑走路の端、機内へ乗り込む直前に一瞬だけスマホの画面が強く光り、実体化した彼女が半透明の姿で現れたのだ。
『鏡介……!』
涙を浮かべ、今にも崩れ落ちそうな顔で、少女は鏡介の袖を掴もうとしていた。実体化の神力が弱まり、指先は何度も空を切っていたけれど。
『絶対……絶対に無事に帰ってきてね……! あんたが死んだら、ウチは誰の名を呼べばええの!? 世界一の神様にしてくれるって、言ったやんか……っ!』
『……帰るよ。お前を置いて、死ぬわけがない』
『べ、別に寂しいから言うとるんとちゃうで! あんたがウチの第一号神使やから、途中で投げ出されたら困るって言っとるんや! 感謝して、絶対に生きて戻りなさいよねっ!!』
強がりと、溢れ出す涙。
あの涙の温もりが、今も胸の奥に強く残っていた。
自分には、帰るべき「日常」がある。
古い道場、畳の匂い、そして画面の向こうで怒ったり笑ったりする、あの小さなツンデレな女神のいる場所へ。
「そろそろ降下領域に入るわ」
カテリーナの声が、鏡介の思索を打ち切った。
彼女は端末を閉じ、立ち上がった。レオタードの生地が引き締まった筋肉の動きに合わせて微かに揺れ、黒ストッキングで覆われた長脚が、一切の足音を立てずに床を踏みしめる。
「高度三千。これより個別降下(エアドロップ)を行う。現地座標はソウル郊外の廃墟群。潜入後は分散せず、私の指揮下で行動しなさい」
「へいへい」
カシムがジャケットのジッパーを上げ、ボクサーシューズの紐を固く結び直した。その顔から軽薄さが消え、野獣のような鋭い殺気が立ち上る。
輸送機の後部ハッチが、重々しい油圧音とともに開かれ始めた。
ゴォォォォォッ!!
上空の猛烈な寒気と強風が、濁流のように機内へと雪崩れ込んでくる。
闇。眼下には、雲の切れ間から覗く都市の灯火が、まるで地上に散らばった星屑のように小さく明滅していた。
「行くわよ」
カテリーナが真っ先にハッチの縁へと立った。風に金髪をなびかせ、彼女は躊躇なく闇の深淵へと身を躍らせた。黒ストッキングのシルエットが、夜空の中に吸い込まれていく。
「ヘッ、遅れるなよ、ジャップ!」
カシムも口笛を吹きながら、空へと飛び出した。
鏡介はハッチの縁に立ち、強風に道着の鞄を強く抱きかかえた。
胸のポケットのスマートフォンを、右手で強く上から押さえる。
「行くぞ、万魂」
返事はない。だが、端末の底から、かすかな、本当に微かな熱が手のひらに伝わってきた気がした。
鏡介は息を吐き切り、暗黒の空へと足を踏み出した。
◇
着地の衝撃を、合気の受け身で殺す。
湿った土と、腐敗したコンクリートの臭い。
鏡介は素早く身を起こし、周囲の気配を探った。そこは、かつて高層マンションが建ち並んでいたと思われる、広大な廃墟群の一角だった。鉄骨がむき出しになった建造物の残骸が、月光を浴びて巨人の骨のように立ち聳えている。
「合格ね」
頭上から、静かな声が降りてきた。
カテリーナが、倒壊したコンクリート壁の上からふわりと舞い降りた。体操選手特有の無重力のような着地。衝撃音すら発生しない。
「受け身の技術は本物のようね。……カシムは?」
「ここだヨ」
闇の中から、カシムが舌を鳴らしながら歩み出てきた。
「なんだこの街は。カビと鉄の臭いが鼻につくぜ。東方新興神族の連中は、こんな肥溜めみたいな場所に隠れてるのか?」
「静かに」
カテリーナが短く制した。彼女の指先が、空中に透明な神力の円を描く。
「この領域全体に、特殊な『結界』が張り巡らされているわ。普通の人間には見えないけれど、神威を感知する特殊な術式……間違いなく、新興神族の拠点(セーフハウス)よ」
その時だった。
端末——鏡介の胸ポケットにあるスマートフォンが、突如として眩い熱を放ち始めた。
『……っ! 鏡介、気をつけて!!』
通信遮断を破り、脳内に万魂の悲鳴のような声が直接飛び込んできた。
『上や! 結界の隙間から、ヤバい奴が降ってくるで!!』
「なに……!?」
鏡介が反応するより早く、天空から「音」が消えた。
大気が圧縮される強烈な圧迫感。
次の瞬間、鏡介たちが立っていた廃墟の広場の中央に、隕石が落下したかのような激しい爆発音が轟いた。
ドガァァァァンッ!!
爆風と土砂が吹き荒れ、コンクリートの破片が弾丸のような速度で飛び散る。
カテリーナとカシムが即座にバックステップで距離を取る。鏡介もまた、腕で顔を覆いながら瞬時に後方へ飛んだ。
煙塵が渦巻く爆心地に、一人の男が立っていた。
黒い伝統的な武道服に身を包んだ男。
その足元には、クレーター状に粉砕されたアスファルト。男はゆっくりと立ち上がり、冷徹な細い目を鏡介たちへと向けた。
男の両脚——その腿から足首にかけて、凄まじい密度の神威がホワイトアウトするほどの蒸気となって立ち上っている。風圧だけで、周囲のコンクリートの壁にハサミで切ったような無数の傷が刻まれていく。
「……オリンポスの狗(いぬ)どもか」
男の声は、金属を擦りあわせたように低く、冷たかった。
「そして……我が同胞を倒した、日本の出来損ないの神使」
男の視線が、鏡介へと固定される。
「私は東方新興神族・四大高位が一角——桓因(ファニン)。我らが領域へ踏み入った非礼、その命をもって支払ってもらう」
男が足先をわずかに動かした。
それだけで、大気が切り裂かれ、鏡介の頬からツッと一筋の血が流れた。
音速を超える、足技の領域。
カシムが不敵な笑みを浮かべ、拳を固めた。
「ヘッ……挨拶代わりにしては、いいジャブじゃねぇか」
「下がりなさい、カシム」
カテリーナが冷たい声で制し、前に出た。レオタードに包まれた身体から、揺らめく聖火の熱気が立ち上る。
だが、桓因の目は二人を見ていなかった。
ただ一直線に、黒い道着を纏う迅雷鏡介だけを射抜いていた。
「我が同胞を屠った技……見せてもらおうか、小僧」
空気が凍りつく。
東方新興神族の四大高位との、最初の死闘の火蓋が切られようとしていた。
鏡介は静かに右足を下げ、合気の構えをとった。
胸のポケットで、スマートフォンが狂おしいほどの熱を帯びて振動している。
『鏡介……! 解析データ、送るで! 負けたら承知せぇへんからな!!』
「ああ……いくぞ、万魂!」
漆黒の闇の中、音速の蹴撃が交錯する瞬間が、刻一刻と近づいていた。
(第7話へ続く)
第7話:第一の刺客・桓因(ファニン)
空気を切り裂く刃は、音を置き去りにしていた。
ヒュ、というかすかな風切り音が耳に届いた時には、すでに皮膚が裂けていた。
頬を伝う一筋の血。熱い痛みが遅れて脳に届く。鏡介は瞬き一つせず、視線を数十メートル先の闇へと固定していた。
月光が照らし出す廃墟の広場。崩落したコンクリートの粉塵が白く漂う中、東方新興神族の四大高位の一角——桓因(ファニン)は、両腕を胸前で交差させた独特の構えをとっていた。黒い武道服の裾が、彼自身の腿から立ち上る凄まじい密度の白煙に煽られて不気味に揺れている。
「……気づいたか、小僧」
桓因の声は、氷を叩くように冷たかった。
「私が脚を振るうのではない。私の放つ神威そのものが音速を超え、大気を圧縮して刃となす。お前が間合いだと思っているその場所は、すでに私の『間合(間合い)』の中だ」
言葉が終わると同時に、桓因の足元のアスファルトが粉砕した。
消えた。
目視ではない。動体視力すら置き去りにする異次元の踏み込み。 鏡介の網膜に映ったのは、次の瞬間、目前数センチまで迫っていた男の歪んだ笑顔と、右膝から解き放たれた極太の真空の刃だった。
「しまっ——!?」
後方に構えていたカシムが息を呑む音が聞こえる。カテリーナの手から聖火の粒子が弾ける気配がする。 だが、誰も届かない。音速の攻撃に対して、人間の肉体が介入する余地など存在しない。
死の直感が、鏡介の背筋を凍りつかせた。
(速い……! 追いきれない……!)
視覚を捨てろ。感覚に頼るな。 タケミカヅチの老達人の声が、脳裏で鋭く響く。
『合気とは、相手の威力を利用する術。崩した先に待つのは、殺傷だ——』
(——まだだ!!)
右胸のポケットが、焦げるほどの熱を帯びて発光した。
『データ解析——82%……89%……! 鏡介、来るで! 骨格運動パターン、衝撃波の到達予測、全部脳内に叩き込む!!』
通信の途絶を神威の破砕で強行突破した、万魂通音乃神の切羽詰まった声。 鏡介の脳内に、雪崩のようにデータが流れ込んでくる。
男の右脚の筋肉の収縮。軸足となる左足首の角度。足裏にかかる重力のベクトル。大気を圧縮して生じる衝撃波の軌道、その全ての極小の数値が、感覚を超えた「光の像」として脳裏に完璧に描かれた。
解析率——100%(フルコンプリート)。
大気が裂ける。 音速の蹴りが、鏡介の左首筋を断ち切るために肉迫した。 風圧だけで道着の襟が弾け飛び、皮膚から血が噴き出す。
だが、鏡介の体は、すでにそこにはなかった。
(——無想転成)
思考を介さない。 肉体が、空間の歪みそのものと同化するように滑らかに滑り落ちる。
旋風のごとき蹴りが、鏡介の頭上数ミリの空間を空切りした。ドオッ! という遅れて届いた衝撃波が、背後のコンクリート壁を縦一文字に破砕する。
「な……ッ!?」
桓因の目に、初めて驚愕の色が走った。 音速の蹴りを、至近距離で完璧にかわされた。それも、避けたのではない。相手の攻撃の軌道の中に、まるで最初からそこにいたかのように自然に滑り込まれたのだ。
空中での空振り。 どれほど鍛え上げられた達人であっても、音速の威力を放った直後の肉体には、必ず「戻し」の負荷がかかる。軸足である左足に、全身の質量の何倍もの遠心力が集中するその一瞬。
(隙間(継ぎ目)は……そこだ!)
鏡介の目が、鋭く見開かれた。
崩し。 鏡介は沈み込ませた体勢から、左手を桓因の蹴り脚の膝裏へそっと添えた。押さない。引かない。ただ相手の持つ凄まじい運動エネルギーの「流れ」に、自分の力をわずかに同調させる。
そして、右足を低く滑らせた。 狙うは、地面を踏みしめる桓因の左足首——その関節の「継ぎ目」。
「受け流すだけでは……神は殺せない!!」
鏡介は踏み込んだ。 古武術の払いの動作。だが、ただの足払いではない。タケミカヅチの老達人から叩き込まれた『当身(寸勁)』の波動を、足裏から相手の軸足関節へと叩き込む!
ドスッ!!
極小の点が、桓因の左足首の骨格の隙間を貫いた。
「なに——ッ!?」
軸足の関節が、内側から破壊された。 音速の蹴りを放ち、全身の威力を右脚に乗せていた桓因の均衡が、完璧に崩壊する。自身が放った音速の遠心力と、軸足を砕かれたことによる体勢の崩れ。二つの巨大なエネルギーが、逃げ場を失って桓因自身の肉体へと跳ね返った(自爆)。
バキィッ!! という凄惨な骨折音が、闇夜に響き渡った。
「ぐ、あぁぁぁぁぁぁっ!?」
桓因の巨体が、空中でのたうち回りながら猛烈な勢いで回転し、地面へと叩きつけられた。 ドガァン! とアスファルトを削り取りながら滑落し、倒壊したビル壁の瓦礫の中に埋もれていく。
白煙が風に流れていく。
沈黙。
完全なる静寂が、広場を支配した。
破砕されたアスファルトの真ん中で、鏡介はゆっくりと呼吸を整えながら立ち上がった。 右手の指先が微かに痺れている。首筋と頬から流れる血が道着の襟を赤く染めていたが、その立ち姿には微かな揺らぎすら存在しなかった。
瓦礫の奥で、桓因がピクリと動いた。 右脚は異常な方向へ折れ曲がり、軸足を砕かれた衝撃で自らの神威が暴走し、全身の血管が浮き出ている。立ち上がることすら叶わない。男は血を吐きながら、信じられないものを見る目で鏡介を見上げていた。
「お前……その技は……ただの人間が……なぜ……」
「俺は、ただの神使です」
鏡介は静かに言った。手に持った鞄を抱え直し、深々と息を吐き出す。
「ですが、俺の神様がくれたデータを、無駄にするつもりはありません」
選ばなかった罵倒の言葉。選ばなかった勝利の誇示。 ただ淡々と、事実だけを告げる姿に、桓因は悔しそうに歯を噛み締め、そのまま意識を失って倒れ伏した。
「……おいおい」
背後から、呆れたような声が漏れた。
カシム・ディアロが、両腕を組んだまま硬直していた。その褐色の顔には、今まで浮かべていた軽薄な笑みは一切なかった。ボクサーとして、武闘家として、今目の前で起きた「現象」の異常さを、誰よりも理解していたからだ。
音速の蹴りを、至近距離で滑るようにかわし、相手の力そのものを利用して軸足を叩き折った。 それは力と力のぶつかり合いではない。武術の極致——極小の力で巨大な暴力を制する『無想転成』の神業。
カシムはガムを力任せに噛み潰し、チッと小さく舌を鳴らした。 そして、鏡介へとゆっくり歩み寄ると、その肩をポンと乱暴に叩いた。
「……フン、やるじゃねえか、迅雷」
言葉のニュアンスが変わっていた。 東洋人を見下す『ジャップ』という蔑称ではない。一人の武道家として、己の隣に立つ資格を持つ者へ贈る、確かな尊敬を含んだ名前の響き。
鏡介はカシムを見つめ、静かに頷いた。
「ありがとうございます、カシムさん」
「けっ、礼なんていらねぇよ。だが……まあ、ソウルでの夜道、背中くらいは預かってやる」
不機嫌そうに背を向けるカシム。その耳の先が、わずかに赤くなっているのを鏡介は見逃さなかった。
「無茶な戦い方ね」
冷ややかな、だがどこか微かな揺らぎを含んだ声が響いた。
カテリーナ・パパドプロスだ。 彼女は軍用ブーツの音を静かに響かせながら歩み寄り、失神した桓因を一瞥した。軍用レオタードの胸元から取り出した特殊な封印札を男の額に貼り付け、神威の暴走を抑え込む。
「解析データに頼り切った限界ギリギリの回避。一歩間違えれば、あなたの首は飛んでいたわ」
「そうですね。……でも、勝てました」
「……そうね」
カテリーナは短く答え、薄い黒ストッキングに包まれた脚を翻した。
「敵の拠点は近いわ。この男の身柄は回収部隊に引き渡す。……行くわよ」
冷徹な命令。だが、彼女の瞳は先ほどまでの「奇妙な端末を見る目」ではなかった。鏡介の持つ『凄み』を、そして彼が背負う覚悟を、確かにその眼光に焼き付けたかのように。
鏡介は右胸のポケットにそっと手を当てた。
『……鏡介、すごかったで! ウチのデータとあんたの武術、完璧や!!』
脳内に直接響く、泣きじゃくるような、それでいて誇らしげな女神の声。
「ああ。お前のおかげだ、万魂」
『ふ、ふんっ! 当たり前や! ウチは世界一になる神様なんやからな!』
強がる少女の声に包まれながら、鏡介は夜のソウルの街並みへと、確かな一歩を踏み出した。
敵の拠点は、暗雲の深淵の中に広がっていた。
(第8話へ続く)
第8話:小さな休息とツンデレのスープ
夜の冷気が、崩れかけたコンクリートの隙間から滑り込んでくる。
ソウル郊外の廃ビル。かつて何かの事務所だったらしい一室は、打ち捨てられたスチールデスクと引き裂かれたソファーが転がり、足元にはガラス片が散らばっていた。雨は上がっていたが、湿ったアスファルトと鉄錆の匂いが、暗闇の底に澱んでいる。
「……痛ッ、冷てえな! カテリーナさん、もうちょい加減ってものをさ!」
部屋の隅、倒れた棚に腰掛けたカシムが、痛みに顔を歪めて叫んだ。 上半身のジャケットを脱ぎ捨てた彼の褐色のアスリートの肉体には、先の戦いで飛び散ったコンクリート片による細かな切り傷が幾つも刻まれている。
「静かにしなさい、カシムくん」
カテリーナの声は、どこまでも平坦だった。 軍帽を脱ぎ、艶やかな金髪を背中に流した彼女は、救急キットから取り出した消毒綿を無造作にカシムの肩へ押し当てていた。身に纏う軍用レオタードの生地が、膝を折る動作に合わせてしなやかに引き締まる。透け感のある黒ストッキングに包まれた膝が、瓦礫の散らばる床に躊躇なくつけられていた。
「文句を言える立場? 音速の蹴りに巻き込まれて回避が遅れたのはあなたの落ち度よ。戦場で不覚を取る人間に優しくする義理はないわ」
「そうは言ってもなぁ……」
カシムは苦々しい顔で口を噤んだが、それ以上は抗弁しなかった。刺すような消毒液の痛みの奥で、彼女の手つきが迅速かつ的確に傷口の砂を拭い去っているのを知っていたからだ。
部屋の中央、古びたパイプ椅子に腰を下ろしていた迅雷鏡介は、自分の右腕を静かに見つめていた。
黒い合気道着の右袖はズタズタに引き裂かれ、桓因の音速の衝撃波をかすめた前腕部が、痛々しく黒紫色に鬱血している。指先を曲げ伸ばすたび、神経を直接刺されるような鈍痛が走った。
「次、あなたよ」
カテリーナが立ち上がり、軍用ブーツの足音を忍ばせて鏡介の前へと歩み寄ってきた。
彼女は鏡介の前にしゃがみ込むと、迷いのない手つきで傷んだ右袖を肩口まで破り取った。露出した痛々しい腕の肉。その痛烈な惨状を目にしても、彼女の美しい面容には一切の動揺が浮かばない。
「……随分と手荒な戦い方をしたものね。当身の威力を自分の骨格でも受け止めているわ。タケミカヅチの伝承者とはいえ、身体構造そのものはただの人間。このままではあと一戦で腕の神経が焼き切れるわよ」
「……すみません。ですが、あれしか勝ち筋がありませんでした」
「謝罪を求めているのではないわ」
冷たい手袋が、鏡介の肘の関節に触れた。 その瞬間、カテリーナの指先から、ほんのりと温かい熱の波が染み込んできた。熱いのではない。お湯に浸かったかのように心地よく、強張った筋肉と鬱血した血管をゆるやかに解きほぐしていく温もり。
ギリシャ神話・ヘスティアの系譜。 竈(かまど)と聖なる火を司る神威。それは破壊の炎であると同時に、傷ついた者を包み込み、生命の灯火を維持する「庇護の火」でもあった。
鏡介の右腕の鬱血が、目に見える速さで淡い赤みを取り戻していく。
「勘違いしないでちょうだい」
消毒綿で血を拭いながら、カテリーナは鏡介の目を一度も合わせずに言った。
「これは手当てではなく、資産の維持管理よ。あなたがここで行動不能になれば、私とカシムくんの負担が増える。監視対象を生かしておくのは、私に課せられた義務に過ぎないわ」
「……はい。ありがとうございます、カテリーナさん」
鏡介が静かに頭を下げると、彼女の手が一瞬だけ止まった。 ほんのコンマ数秒の沈黙。カテリーナは包帯の終わりを固く結び直すと、そっけなく立ち上がった。
『……ちょっと、そこの姉ちゃん!』
その時、鏡介の右胸のポケットから、甲高い少女の声が響き渡った。
液晶画面が光を放ち、空間に滑らかな光の粒子が溢れ出す。実体化した万魂通音乃神が、半透明の姿で宙に浮き上がっていた。 フリルのついた衣装の裾を両手でぎゅっと掴み、少女はぷくーっと頬を膨らませてカテリーナを見上げている。
『何が「資産の維持管理」や! 鏡介は一生懸命戦ったんやで! あんたらに文句言わせんくらい、見事にあのオッサン倒したやんか! 素直に「すごかった」って言ったら死ぬんかいな!?』
「万魂……」
鏡介が制そうとしたが、少女は止まらない。実体化した小さな足でエアステップを踏み、カテリーナの顔の前まで詰め寄っていく。
『ウチの鏡介の腕に触って……あ、いや、手当てしてくれたのは感謝してあげるけどな! 言い方が冷たすぎるねん! ツンツンすんのはウチのキャラや! 被せんといてもらえる!?』
カシムが「ハハッ!」と腹を抱えて爆笑した。
「おいおい、凄ぇなそのスマホ! 査問部の中位(カテリーナさん)に面と向かって説教かよ!」
カテリーナは眉ひとつ動かさず、目の前に浮遊する万魂を静かに見つめた。 その視線には、かつて地下道場で向けていた「不気味な端末を見る目」はなかった。ただのバグではない。一人の少年を想い、身を挺して加護を与え、共に死線を潜り抜けてきた「神」としての存在を、彼女は無言のうちに認めていた。
カテリーナは溜息をつき、部屋の隅に置かれていた小型のキャンプ用バーナーと、金属製のクッカー(手鍋)へと歩み寄った。
「騒がしいわね。神なら神らしく、端末の中で大人しくしていなさい」
「なっ……! 誰が端末や! ウチは【万魂通音乃神】様やぞ!!」
「カシムくん、水を」
「へいへい」
カシムが手際よくペットボトルの水を手鍋に注ぎ込む。 カテリーナは救急キットの隣に置かれていたスープの素と、乾燥させた根菜のパケットを取り出し、鍋の中へと投入した。
彼女が指先を鍋の底に触れさせると、ポッと小さな淡い橙色の炎が灯った。 バーナーの火ではない。彼女の指先から直接放たれる、ヘスティアの聖なる火。その熱は微小ながらも完璧にコントロールされ、鍋の中の水を一瞬にして沸騰させ、具材の旨味を極限まで引き出していく。
数分もしないうちに、殺風景でカビ臭かった廃ビルの一室に、香ばしい根菜と出汁の豊かな香りが漂い始めた。
「……ええ匂いやんか」
万魂が思わず鼻をひくひくさせ、宙でゴクリと喉を鳴らした。
「出来たわ」
カテリーナは器用に金属製のカップ三つへ温かいスープを注ぎ分けた。 湯気が立ち上るカップを、まずカシムへ。カシムは「おっ、待ってました!」と受け取り、熱がる素振りも見せずに豪快に口へ流し込んだ。
「うっひょー! 効くねぇ! カテリーナさんのスープは相変わらず絶品だぜ。身体の芯まで温まる」
「あなたには配給品の味で十分よ」
冷たくあしらいながらも、カテリーナは二つ目のカップを鏡介の前へと差し出した。
「お上がりなさい」
「……いただきます」
鏡介は両手で熱いカップを受け取った。 ふうふうと息を吹きかけ、一口含んでみる。 優しい、野菜の甘みと旨味が凝縮された温かい味が、痛む喉を通り、疲弊しきった身体の隅々へと染み渡っていく。ただの非常食のはずなのに、料亭の出汁のような深い味わいがあった。
「おいしいです……すごく」
mirrorの素直な感想に、カテリーナはほんのわずかだけ、背中を向けたまま肩を揺らした。
「……ヘスティアの資質は、家庭と竈を護る力でもあるの。冷えた肉体に温かい食事を与えるのは、戦力を維持するための基本よ。感動されるようなことではないわ」
「でも、本当に温かいです」
鏡介が微笑むと、カテリーナは言葉に詰まったように沈黙した。
彼女は三つ目のカップを手に取り、壁に背をもたせかけながら、ゆっくりとスープを口に運んだ。金髪の隙間から覗く横顔。どこか遠くを見るような、冷徹な軍人とは異なる、静かな表情があった。
「……あなたの戦い方、見せてもらったわ」
沈黙を破ったのは、カテリーナだった。
「合気道で相手の威力を殺し、極小の当身で内部を破壊する。概念としては理にかなっているけれど、あまりにも余白がない。データ解析があるとはいえ、一歩間違えれば死んでいたわ」
「分かっています。でも……万魂が信じてくれたから、俺も自分の間合いを信じられました」
鏡介の言葉に、胸のポケットの端末が微かに熱を帯びた。 実体化を解いた万魂が、画面の向こうで嬉しそうに照れているのが伝わってくる。
カテリーナはカップを見つめたまま、静かに息を吐き出した。
「あなたは……不思議な人ね」
「え?」
「オリンポスの神使も、崑崙の神使も、皆己の力と神威の誇りを誇示するために戦う。けれど、あなたは違う。自分のためではなく、その小さな神と、自身の『日常』を守るためだけに、あの死地に踏み込んだ」
カテリーナの視線が、ゆっくりと鏡介へと向けられた。 その瞳に宿っていたのは、査問員としての冷徹な観察眼ではない。ひとりの人間として、一人の戦士としての鏡介を認める、柔らかな光。
「名前……覚えたわ」
「え……?」
「『スマホの』とは、もう呼ばないわ。……見事な戦いだったわよ、鏡介くん」
鏡介は目を丸くした。
鏡介くん。 監視対象としてではなく、一人の個人として、彼の名前を呼んだ。
「へぇ〜!」
カシムがスープを飲み干し、ニヤニヤしながら二人を見比べた。
「カテリーナさんが『枠外』のガキに名前をつけるなんて、珍しいこともあるもんだ。認めたってことかい、鏡介の強さをよ」
カシムもまた、先の戦闘の後に呼んだ『迅雷』から、さらに一歩踏み込んだ親しみを込めて『鏡介』と呼んだ。
「無駄口を叩かないで、カシムくん」
カテリーナは冷たく一蹴したが、その頬がごくわずかに朱に染まっているのを、部屋の誰も指摘しなかった。
「……ふんっ! カテリーナさんも、最初から素直にそう呼べばええねん!」
画面の中から、万魂のドヤ顔の声が響く。
「鏡介はウチの最高の神使なんやからな! スープもおいしかったし、今回のところはウチの加護の力で免じて許してあげるわ!」
「あなたに免じられた覚えはないけれど?」
「なっ……! またそうやって冷たいこと言うー!」
ぷくーっと膨れる万魂の声と、カシムの笑い声、そしてカテリーナの呆れたような溜息。 カビ臭い廃ビルの一室に、確かな「温もり」が生まれていた。 それは、極東の島国から来た少年と、オリンポスの監視者たちが、国境も神話の違いも超えて結びついた、小さなチームの絆の瞬間だった。
◇
夜がさらに深まり、外の湿った風が強まってきた。
カテリーナは空になったカップを片付け、軍帽を深く被り直した。その表情は、再び冷徹な指揮官のそれへと戻っていた。
「休息はここまでよ。東方新興神族の主力は、ここから数キロ離れた地下物流センターを拠点にしているわ。桓因(ファニン)を倒したことで、向こうもこちらの存在に気づいたはずよ」
カシムが立ち上がり、首の骨をゴキゴキと鳴らした。褐色の肌に走る擦り傷は、カテリーナの手当てのおかげですでに痛みが引いている。
「次は誰が出てくるかねぇ。音速の蹴りの次は、重戦車か?」
「油断は禁物よ。相手は共産圏の過激派……神使条約の枠組みすら無視する連中よ。何をしてくるか分からないわ」
カテリーナの視線が、鏡介へと注がれる。
「行くわよ、鏡介くん」
「はい、カテリーナさん」
鏡介は立ち上がり、補強された右腕を軽く振った。痛みの奥で、万魂の加護とカテリーナの温かいスープの熱が、確かな活力となって全身を巡っていた。
「万魂、データの準備はいいか?」
『当たり前やんか! いつでもいけるで! 鏡介、次の奴も一発で叩き落としたろ!』
画面の中で、少女が強く拳を握りしめている。
廃ビルの階段を下り、夜のソウルの路上へとおどり出る。 濡れたアスファルトに映る、四人の影。
だが、彼らはまだ知らなかった。 次の闇の向こうで待ち受ける「第二の刺客」が、桓因を遥かに凌ぐ、絶望的な重圧を纏った怪物であるということを。
街灯の明かりが届かない闇の奥から、地鳴りのような重低音が、静かに響き始めていた。
(第9話へ続く)
第9話:第二の刺客・檀君(タングン)
ドウン、と地鳴りが響いた。
落雷の音ではない。 数キロ先にある地下物流センターの地上構造物——その分厚いコンクリートの屋根が、内側からではなく「上空から」何かが叩きつけられた衝撃によって粉砕される音だった。
夜の冷気が立ち込めるソウル郊外の路上。街灯の光が途切れる廃物流パークの広場に、四人の足音が重なった。
湿ったアスファルトの匂い。錆びついた大型トレーラーのコンテナが巨人の墓標のように並ぶ暗がりの中、先頭を歩くカテリーナ・パパドプロスが足を止めた。
「来るわ」
彼女の声は静かだった。軍用レオタードの生地が夜風にわずかに擦れ、薄い黒ストッキングに包まれた脚が、寸分の狂いもなく戦闘の姿勢をとる。
上空から、怪物が降りてきた。
パラシュートも、神力による浮遊術すら伴わない。ただ純粋な重力と、脚力による跳躍の軌道。
ドガァァァァンッ!!
アスファルトが炸裂した。 激しい爆風と、粉砕されたコンクリート片が弾丸のような速度で四方へ跳ね飛ぶ。周囲に並んでいたトレーラーの金属壁が、衝撃波によってベコベコに凹み、甲高い悲鳴を上げた。
煙塵の向こうから、立ち上がる巨体があった。
身長は二メートルに迫る。だが、何よりも異異を放っていたのは、その身に纏う「衣服」だった。 赤を基調とした、擦れと汗に塗れた半袖のスポーツユニフォーム。胸元には猛虎をあしらったエンブレムの刺繍——韓国代表レプリカのユニフォームだ。その下から覗く太ももは、樹齢数千年の大木の幹のように異常に太く隆起し、太い血管が青黒い蛇のようにのたうち回っていた。
「……ハッ」
男は太い首をゴキゴキと鳴らし、足元のアスファルトの破片を、まるでサッカーボールでも扱うかのように足の甲でトントンと軽快にリフティングしてみせた。
「オリンポスの狗どもが、一匹増えてゾロゾロと……。桓因(ファニン)の兄貴を落としたのは、どの小僧だ?」
男の声は、地底から響くドラムのように太かった。
かつて半プロのサッカー選手としてピッチに立ち、相手選手の骨を折る過激なラフプレーで追放された男。テコンドーの苛烈な蹴撃術と、サッカーのダイナミックな跳躍力を融合させた異端の神使——檀君(タングン)。
その赤いレプリカユニフォームから溢れ出す神威(しんい)は、一速の風を纏っていた桓因とは異なり、まるで超重量の鉄球そのものだった。
「俺か?」
カシム・ディアロが、トントンとボクサーシューズの底を地面に打ち付けながら一歩前へ出た。褐色の胸板を晒し、拳を軽く握り締める。
「残念だったな、赤ユニフォームのオッサン。あの刺客を路上に沈めたのは、俺たちの『鏡介』だ」
カシムの口から出た言葉。 かつて見下していた『ジャップ』ではなく、一人の相棒として認めた『鏡介』という名前。
鏡介は一瞬だけ驚きに目を細めたが、すぐに深く息を吐き出し、漆黒の道着の裾を整えてカシムの隣へと並んだ。
「ほう……そのひょろいガキか」
檀君の目が不気味に細められた。 男は足元のアスファルトの塊——直径五十センチはある巨大なコンクリートの破片を、右足のインサイドでトンと軽く突き上げた。
「ピッチ(戦場)に立てば、ルールなど存在せん。削り、潰し、壊した者が勝者だ!!」
男の右脚がしなった。 サッカーのボレーシュートのフォーム。だが、放たれたのはボールではない。超重量のコンクリートの塊が、音速に近い速度で空気を引き裂き、鏡介とカシムの首元を目がけて一直線に飛来した!
超重量テコンサッカー。
「ぬぁぁッ!?」
カシムが即座にダッシュで横へ跳んだ。鏡介もまた、滑らかな身さばきで直撃の軌道から身体を滑らせる。
ドゴォォォンッ!!
弾丸と化したコンクリート塊は、背後の大型トレーラーの横腹を貫通し、内部の鉄骨ごと爆砕させた。生じたい圧圧な風圧だけで、鏡介の道着が引き裂かれそうになる。
「逃がすかよぉぉぉっ!!」
檀君の咆哮。 男は空中へと跳躍した。十メートルを超える異常な跳躍高さ。月光を背景に、真っ赤なユニフォームが巨人のように夜空を覆い尽くす。
「上空からの……ダイレクトボレー(踏み潰し)だぁぁぁッ!!」
上空で身体を海老反らせ、男の右脚が巨大な隕石と化して急降下してくる。 避ければ広場全体が破砕される。受ければ、骨ごと粉砕されて肉の塊と化す。絶望的な質量の暴力。
『鏡介! あかんで、受けたら絶対潰される!! 質量の数値がケタ違いや!!』
胸のポケットから、万魂通音乃神の悲鳴のような解析データがダイレクトに脳内へ雪崩れ込んできた。
(受けられない……寸勁を入れる間合いすら作れない……!)
鏡介の思考が冷たく研ぎ澄まされる。相手の落下速度、角度、攻撃範囲。すべてが鏡介一人での対処を不可能だと告げていた。
その時だった。
「おい、鏡介!!」
横から、カシムの怒号が響いた。
「一人で抱え込んでんじゃねぇぞ! 合わせろ……俺の速度に!!」
カシムのボクサーシューズが、摩擦熱で煙を上げた。 カイロスの加護——【瞬間突入(カイロス)】。
コンマ数秒の隙間に肉体を滑り込ませる超高速のフットワーク。カシムの褐色のアスリートの身体が、残像を描いて落下してくる檀君の「懐の死角」へと突入する。
「お前の『当身』を叩き込む隙間(チャンス)は、俺が作ってやる!!」
カシムの右拳が、猛烈な摩擦熱によって赤熱の炎を纏った。 バンテージが焦げ、空気が弾ける音。
「食らいやがれぇぇぇッ! 【バーニングナッコゥー!】」
ドガガガガガガガッ!!
カシムの超高速連打が、落下してくる檀君の左脇腹——無防備なレプリカユニフォームの脇腹へ、一秒間に数十発という密度で叩き込まれた! 摩擦熱と神力の炎が肉を焼き、強烈な打撃の衝撃が檀君の落下のベクトルをわずかに横へと「ズレ」させた。
「なにぃっ……!? このボクサー……!?」
落下速度と威力が殺されたわけではない。だが、完璧だった檀君の空中での態勢が、右へと僅かに傾ぎ、重力の軸が崩れた。
それだけで、鏡介にとっては十分すぎた。
(カシムさんが……作ってくれた!!)
思考が消えた。 『無想転成』の片鱗が、鏡介の肉体を完全なる最適解へと導く。
鏡介は、傾いて落ちてくる檀君の超重量の右脚——その落下の最下点へと、踏み込んだ。
カシムが作った「ズレ」。万魂が脳内に描いた「崩しの軌道」。 二つの線が、鏡介の頭の中で完璧に交差した。
鏡介は、落ちてくる檀君の巨大な足首に、左手をそっと添えた。 押さない。抗わない。巨体が放つ圧倒的な落下エネルギーの「流れ」に、己の体軸を滑らかに重ね合わせる。
そして、右足を低く滑らせ、檀君の残された軸足の膝裏へ、古武術の払いを引っ掛けた。
「合気……崩し!!」
「ぐあぁっ!?」
自身の体重、上空からの落下エネルギー、そしてカシムの打撃によって生じた歪み。それらすべての巨大な運動エネルギーが、鏡介の手一本の誘導によって、反転した。
檀君の巨体が、空中でのたうち回りながら、頭部から地面へと逆さまに叩き落とされた。
ドガァァァァァァンッ!!
広場のアスファルトが今度こそ限界を迎えて完全に崩落し、直径数メートルの凄まじいクレーターが形成された。飛び散る泥水とコンクリートの粉塵。
「ガハッ……!? ほ、骨が……っ!?」
クレーターの真ん中で、真っ赤なユニフォームを泥で汚した檀君が、血を吐きながら絶叫した。自分の放った絶望的な落下エネルギーをそのまま頭部と背骨に叩きつけられ、全身の骨格が悲鳴を上げている。
立ち上がることなど、到底不可能な惨状。
煙塵が風に流れていく。
クレーターの縁で、カシムが肩で息をしながら、熱を帯びた右拳のバンテージを解いていた。褐色の肌に汗が光り、その唇には最高に不敵な笑みが浮かんでいた。
「ヘッ……見ただろ、東洋の怪力男。俺たちのコンビネーションをよ」
カシムは振り返り、隣に立つ鏡介へとガッツポーズを作ってみせた。
「ナイス合わせだ、鏡介!」
「……カシムさんのおかげです」
鏡介は静かに息を吐き出し、深く頭を下げる。 言葉を選び、紡ぎ出す。
「カシムさんが相手の体勢を崩してくれなかったら、俺の合気では受けきれませんでした。……ありがとうございました」
「ケッ、水くせぇこと言ってんじゃねぇよ。相棒だろ?」
カシムが乱暴に鏡介の肩を組んできた。 かつて『ジャップ』と蔑み、東洋のガキと見下していた男の手のひらが、今はこれ以上なく温かく、力強かった。
『……ふ、ふんっ! ウチのデータ解析があってこそのコンビネーションやけどな!』
胸のポケットから、万魂の照れくさそうな声が響く。
『でも……カシムのオッサンも、ちょっとは見直してあげてもええわ! 鏡介のサポート、合格や!』
「オッサン言うな、スマホの! 俺はまだ二十代半ばだっっ!」
「静かにしなさい、二人とも」
冷ややかな、だがどこか柔らかさを含んだ声が響いた。
カテリーナ・パパドプロスが、軍用ブーツの音を静かに響かせて歩み寄ってきた。 彼女はクレーターの底で沈黙した檀君を見下ろし、封印札をその胸元へ貼り付けた。そして、振り返って二人を見つめた。
軍帽の影から覗く綺麗な金髪。軍用レオタードと黒ストッキングに包まれた立ち姿は相変わらず隙がないが、その瞳には二人に対する確かな信頼が宿っていた。
「見事な連携だったわ、カシムくん、鏡介くん」
カテリーナの口から出た、二人の名前。
「相手の質量を相殺するのではなく、双方の長所を噛み合わせて無力化する。……あなたたちのチームワークは、私の予想以上よ」
「へへっ、カテリーナさんに褒められると照れるねぇ」
カシムが嬉しそうに鼻を擦る。
鏡介もまた、心の中の緊張が少しだけ解けるのを感じていた。 国籍も、信仰する神話も異なる三人。だが、この極東の暗闇の中で、彼らは確かに「一つのチーム」として機能し始めていた。
だが——。
「ククク……見事、見事だな、オリンポスの狗ども」
闇の奥から、乾いた拍手の音が響いた。
湿った夜風とともに、周囲の温度が跳ね上がる。 アスファルトの水たまりが、一瞬にしてジワジワと蒸発し、白い蒸気が立ち上り始めた。
「桓因、檀君……二人が討たれるとはな。だが、そこまでだ」
暗がりから歩み出てきたのは、三人目の刺客だった。
薄手の武道着の袖を捲り上げた男。 その全身から、凄まじい摩擦熱による「炎」がメラメラと揺らめいていた。一歩踏み出すたびに、足元のアスファルトが黒く焦げ、ドロドロに溶けていく。
東方新興神族・第三の刺客——解慕漱(ヘモス)。
「我が熱脚の前に、灰となれ」
男が足先を滑らせた瞬間、周囲の空間全体が灼熱の炎に包み込まれた。
「……下がりなさい!」
カテリーナが前に出た。 彼女の身体から、澄み切った黄金の聖火が燃え上がった。
「ここは、私が引き受けるわ」
チームの絆が試される第二の死闘が、静かに幕を開けようとしていた。
(第10話へ続く)
第10話:第三の刺客・解慕漱(ヘモス)
夜の空気が、突如として変質した。
先ほどまで肌を刺すように冷たかった風が、生ぬるい粘性を帯び始め、一瞬のうちに皮膚を灼くような熱風へと変わる。
ソウル郊外、打ち捨てられた大型コンテナが乱立する廃物流パーク。 直前の死闘で大きく爆破・陥没したアスファルトの底から、白い蒸気が濛々と立ち上っていた。雨上がりの水たまりが、足元からジュウジュウと音を立てて干上がっていく。黒く湿っていた路面は瞬く間に灰白色に乾き、熱に負けたタールが粘り気のある黒い油となって滲み出していた。
暗がりから緩やかな足取りで歩み出てくる男が一人。
着古した黒の武道着は袖が乱雑に引き千切られ、筋骨隆々とした両腕には赤黒い火傷のような紋様が奔っていた。男が地面を踏みしめるたび、軍用ブーツの靴底がジワリと溶け、焦げたゴムの臭気が夜気を満たす。
東方新興神族・第三の刺客——解慕漱(ヘモス)。
「桓因(ファニン)の速度を破り、檀君(タングン)の重量をいなすか。極東の小僧と、オリンポスの落ちこぼれにしては上出来の連携だったな」
解慕漱の声には、刺すような冷気ではなく、過熱した鉄パイプを擦り合わせるような掠れた熱が籠もっていた。 男が右足を一歩、横へ滑らせる。 ただそれだけの動作。しかし、軸足と路面との間に生じた僅かな摩擦が、爆発的な火花を散らした。刹那、男の脚全体が、ゆらゆらと揺らめく真紅の炎熱に包まれる。
神威(しんい)による単純な発火ではない。超高速の微振動が生み出す極限の摩擦熱と、太陽の運行を司る古き神話の残留思念が組み合わさった、圧倒的な「熱量」の顕現。
「だが、熱はすべてを均一に焼き尽くす。いなす隙も、合わせる猶予も与えん」
「くッ……何だこの熱気は……!?」
カシムが両腕をクロスさせて顔を庇い、思わず二、三歩後退った。 傷口を縛っていたバンテージの端が、熱風を受けて黒く縮れ始めている。ボクサー特有の鋭い直感が、目の前の男の危険性を叫んでいた。
「鏡介! こいつはヤバい……! 踏み込んだ瞬間に足の裏から焼き肉にされるぞ!」
鏡介もまた、黒い合気道着の裾を絞り直し、警戒の眼差しを深めていた。 右腕の鬱血はカテリーナの処置によって治まっていたが、この異常な熱量は呼吸をするだけで気管を焼き焦がしそうだった。万魂通音乃神の解析を待つまでもなく、接近戦そのものが死を意味する領域。
『鏡介! アカン、近づいたらあかん! 男の周囲の空気、摂氏四百度を超えてる! 息吸うだけでも肺が焼けるで!!』
胸ポケットの端末から、万魂の切迫した声が響く。
解慕漱がゆっくりと腰を落とした。 テコンドーの変形構え。重心を極限まで低く保ち、右脚を弓のように引き絞る。その脚部から発せられる熱気で、周囲の空間がゆらゆらと大きく歪んでいた。
「行くぞ。我が熱脚の前に、灰となれ」
床を蹴る音すら存在しなかった。 摩擦熱によって膨張した空気が爆発的な推進力を生み出し、解慕漱の巨体が赤熱した巨大な弾丸となって滑空する。
ターゲットは、ダメージの残る鏡介。
「ッ……!」
鏡介は体軸を倒し、合気道の滑らかな足さばきで間合いを外そうとした。だが、解慕漱の振るった右上段回し蹴りは、空を切ったにもかかわらず、その過熱された大気が「熱の刃」となって鏡介の視界を覆い尽くした。
回避したはずの道着の胸元が、一瞬で黒焦げになり、パチパチと火花を散らす。
(速い……いや、攻撃の『幅』が広すぎる……! 避けても熱線で削られる!)
さらに追撃の左ローキック。地表を舐めるように放たれた一撃は、擦れ違っただけのアスファルトを瞬時に溶岩のように赤熱させ、大量の火の粉を撒き散らした。
「ハハハハッ! どうした、避けるだけか!? 触れることすらできまい!」
灼熱の旋風。足技が描く赤熱の軌跡が、夜の暗闇を縦横無尽に引き裂いていく。 鏡介はギリギリの回避を強いられ、皮膚が焼ける痛みに歯を食いしばる。カシムが横から飛び込もうと踏み出すが、熱の障壁に阻まれて肉薄できない。
「くそっ……踏み込めねぇ……!」
解慕漱の口元に狂暴な笑みが浮かぶ。男は空中で一回転し、両脚に全摩擦熱を集中させた。二本の脚がまるで鍛造炉から取り出されたばかりの赤熱した鉄柱のように発光する。
「終わりだ! 【炎獄連脚(エンゴクランジ)】!!」
頭上から降り注ぐ、数十の熱線と化し踏みつけの嵐。 広場全体を焼き尽くす広域殺戮陣。鏡介の間合いの「外」から、全てを炭化させる絶対的な熱量が襲いかかる。
(届かない……! 手を触れることすらできないなら、合気も寸勁も……!)
死の熱風が鏡介の前髪を焼き払い、視界が真っ赤に染まった、その時。
凛とした、透き通るような声が夜空を突いた。
「——カシムくん、鏡介くん、下がりなさい!」
ドッ!!
ふたりの前に、一筋の「黄金の光」が割り込んだ。
カテリーナ・パパドプロス。
彼女は深く被っていた軍帽を投げ捨て、艶やかな金髪を夜風に靡かせていた。 身に纏う軍用レオタードの上から、眩いばかりの澄んだ炎が揺らめき立つ。解慕漱の放つ赤黒く禍々しい摩擦熱とは根本的に異なる、清浄で、神聖で、どこまでも温かい神火。
オリンポス十二神が一点、竈と聖なる火を司る女神——ヘスティアの権能。
「な、何ぃ……!?」
解慕漱の放った灼熱の連打が、カテリーナの差し出した左手袋の掌へと吸い込まれるように集中した。
凄まじい衝撃波と熱風が吹き荒れる。しかし、カテリーナの細い体躯は一ミリたりとも揺るがない。 透け感のある黒ストッキングに包まれた脚が、瓦礫の転がる地面にしっかりと根を張り、すべての破壊的な熱エネルギーを受け止めていた。
「私の前で、『火』を誇るか異端の神使」
カテリーナの瞳が、黄金色に輝いていた。 彼女の表情には、怒りも、恐れもない。ただ、静謐な冷徹さと、背後のふたりを守り抜くという絶対の意志だけが存在していた。
「ヘスティアの火は、生命を育み、傷を癒やす庇護の火。だが同時に——あらゆる不浄の炎を浄化し、秩序へと還元する『原初の竈(かまど)』でもあるわ」
解慕漱の顔から余裕が消えた。 自分の足先から放たれる四百度を超える熱量が、カテリーナの身体に触れた瞬間から、まるで冷水に浸けられたかのように急速に威力を失っていく。いや、奪われているのだ。彼女の掲げる黄金の火へと、吸収され、再構成されている。
「バ……バカな! 俺の摩擦熱が、吸い取られている……!?」
「引きなさい、解慕漱」
カテリーナの右脚が、静かに一歩、前へと踏み出された。
軍用ブーツのヒールが、焦げた地面を「コツン」と鳴らす。 その瞬間、彼女の全身から溢れ出る黄金の神火が、美しい螺旋を描いて彼女の周囲を渦巻き始めた。
「あなたの火は、あまりにも卑しく、冷たいわ」
言葉とともに、カテリーナの身のこなしが変わった。 軍人としての無機質な動作ではない。まるで神殿の巫女が奉納の舞を捧げるかのような、優美で、洗練された歩行。
ヘスティア査問部中位執務官、カテリーナ・パパドプロスの真価。
対神使専用、概念迎撃術——
「——『プロムナード・デ・ピュロス(聖火の歩行)』」
カテリーナが歩みを進める。 一歩。 解慕漱が焦りとともに放った、渾身の右ミドルキック。過熱された足先がカテリーナの脇腹を穿とうとする。 だが、カテリーナは交差するように滑らかに身体を翻し、黒ストッキングの脚でその攻撃の『軌道』を優しく撫でるように滑らせた。
いなしたのではない。受け止めたのでもない。 解慕漱の熱量を己の「聖火の歩行」のステップのエネルギーへと変換し、そのまま運動ベクトルを反転させたのだ。
二歩。 「なっ……がぁぁっ!?」
解慕漱の右脚が、突如として自身の放った熱量の「倍の熱気」によって逆加熱された。男自身の皮膚が焦げ、赤黒い悲鳴を上げる。
三歩。 カテリーナは解慕漱の懐へと滑り込んでいた。距離にしてゼロ。 逃げ場はない。
「終わりよ」
カテリーナの右手袋が、解慕漱の胸元——武道着の合わせ目にそっと触れた。 打撃ではない。押し出すような、極めて穏やかな接触。
だが、次の瞬間。
そこに凝縮されていたのは、解慕漱がこれまでに放った全ての摩擦熱と、カテリーナが蓄積したヘスティアの聖なる火の融合体だった。
カッ……!!
閃光。 音すら遅れてやってくる絶対的な熱エネルギーの解放。
「ぐはぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
解慕漱の巨体が、己の放った炎と聖火の渦に包まれ、まるで砲弾のように一直線に後方へと弾き飛ばされた。
ドゴォォォォンッ!!
何十メートルも先にある大型コンテナの群れを次々と貫通し、一番奥の鉄骨壁にめり込んで沈黙する。過熱されていた男の足技の火は完全に鎮火し、ただ白い煙だけが弱々しく空へ上っていた。
完全な、そして圧巻の迎撃。
静寂が、廃物流パークを支配した。
風が止んでいた。 焦げたアスファルトの匂いと、カテリーナの聖火が残した、どこか芳しい香木のような甘い香りが漂っている。
カテリーナはゆっくりと呼吸を整え、投げ捨てていた軍帽を拾い上げると、黒髪交じりの金髪を手ぐしで整えて深く被り直した。その動作一つ一つに、乱れは一切ない。
「ふぅ……」
彼女は振り返り、呆然と立ち尽くしていた鏡介とカシムを見つめた。
「怪我はない、二人とも?」
「あ……ああ」
カシムが呆気にとられたように口ぐちを開けていた。
「すっげぇ……マジかよ。あの激熱野郎の攻撃を、全部あんな綺麗にいなしちまうなんて……。カテリーナさん、あんたやっぱり化け物(中位)だな」
「不躾な表現ね、カシムくん」
カテリーナは冷たく言い放ったが、その額には微かに美しい汗の粒が浮かんでいた。一度に膨大な神威を制御した代償。彼女の吐く息が、僅かに白く乱れているのを鏡介は見逃さなかった。
鏡介は一歩、カテリーナへと近づいた。
「カテリーナさん……ありがとうございました。俺を守ってくれて」
言葉を選び、まっすぐに彼女の目を見て伝える。
「あなたの技……本当に美しかったです」
「……っ」
カテリーナの肩が一瞬だけ強張った。 彼女はぷいと顔を背け、軍帽の庇を深く引き下げた。
「美しさなど、戦闘には不要な要素よ。私はただ、無駄な損害を避けるために最善の選択をしただけ。……あなたたちが余計な負傷をすれば、後の行程に支障が出るわ」
『はいはい、出た出た!』
胸のポケットから、万魂の嬉々とした声が飛び出した。
『鏡介に褒められて照れてるんやろ! 素直に「どういたしまして」って言えばええのに! ほんまツンツンしてんなぁ、カテリーナお姉さんは!』
「万魂、静かにしなさい。端末に戻すわよ」
「ウチは最初から端末の中におるわーい!」
ぷくーっと膨れる万魂の声に、カシムが耐えかねたように爆笑した。
「ハハハッ! 違いない! でもよ、カテリーナさん。あんたが前に出てくれたおかげで助かったのは事実だ。感謝するぜ」
「……調子のいいことばかり言わないの」
カテリーナは溜息をついたが、その声には先ほどまでの張りつめた冷たさはなかった。
三人の間に漂う、静かで確かな空気。 冷たい夜の廃墟の中で、彼らは確実に、互いの背中を預け合える関係へと変化していた。
だが——沈黙は長く続かなかった。
「見事な技だ。オリンポスの審判者よ」
低く、地底の泥を擦り合わせるような声が、コンテナの影から響いた。
カテリーナの表情が一瞬で引き締まる。カシムも拳を構え、鏡介もまた体軸を低く落とした。
奥の暗がりから、ゆっくりと歩み出てくる人影。
そこいたのは、これまでの刺客とは明らかに雰囲気を異にする男だった。 派手なユニフォームも、溢れ出る神威の炎もない。地に足のついた、圧倒的な「肉体」の質量。
男は、倒れ伏す解慕漱の身体を一瞥すると、興味なさそうに視線を外した。
「熱に頼るからそうなる。技に頼るから隙ができる」
男の視線が、一直線に鏡介へと注がれた。
「迅雷鏡介……お前の『合気』と『当身』、見させてもらった」
男が構える。 打撃の構えではない。全身の筋肉を硬化させ、あらゆる攻撃を受け止めて粉砕するための、絶対的な防御の構え——鉄壁。
「お前の当身が、我が肉体を穿てるか……試してみるがいい」
東方新興神族の真の脅威。 カウンターを極限まで警戒し、完全なる防衛態勢をとる敵。
鏡介は静かに息を吐き出した。 自身の右腕を見つめ、そして、ゆっくりと一歩を踏み出す。
専守防衛の武術・合気道。 その裏に秘められた、もう一つの真価を解き放つ時が来ていた。
(第11話へ続く)
第11話:崩落 ──当身の真価
夜気が、さらに重く沈み込んでいた。
焦げたアスファルトと歪んだ鉄骨の臭いが立ち込め、静寂が痛いほどに鼓膜を刺激する。 解慕漱(ヘモス)の放った炎熱の残り香が、湿った空気の中でゆっくりと消えていく中、コンテナの影から歩み出でてきた男は、ただそこに「立ち」続けていた。
東方新興神族——四大高位。最後の一人。
男の肉体は、これまでの刺客のような派手な神威の暴走を伴っていなかった。 分厚い胸板、丸太のように太い首、そして極限まで鍛え上げられた下半身。着古した無地の武道着から覗く皮膚は、まるで何百年も風雨に晒された黒鉄(くろがね)の色彩を帯びている。
「……動くな、鏡介くん」
カテリーナ・パパドプロスが、低い声で制した。 黄金の聖火を纏っていた彼女の手袋から、わずかに白い蒸気が立ち上っている。『プロムナード・デ・ピュロス』によって解慕漱の炎熱を完全に抑え込んだ代償は小さくない。彼女の呼吸はほんの僅かに乱れており、軍用レオタードの胸元が小さく上下していた。
「あの男……今までの三人とは位相が違うわ。神威を外に放出していない。すべて内部に押し込め、筋肉と骨格の硬度を極限まで跳ね上げている」
「鉄壁……ってワケかい」
カシム・ディアロが、赤熱したバンテージを解きながら吐き捨てるように言った。褐色の肌に汗が伝う。
「おいおい、冗談じゃねぇぞ。スピードも熱も重さも通じねぇ相手に、どうやってダメージを叩き込めってんだ?」
男は二人の警戒を意にも介さず、静かに腰を落とした。 構え。だが、それは攻撃のための構えではない。 両肘を締め、前腕で頭部と胸元を完全に遮蔽し、重心を極限まで低く置く不動の姿勢。カウンターを警戒し、合気道による「崩し」のきっかけすら与えない、完全なる防衛態勢。
「私は知っている」
男の声は、地底の岩盤が擦れ合うように低く、重かった。
「お前の技は、相手の威力を利用する『いなし』。相手が力を放たねば、その術は成り立たん。ならば……私は何も放たん。ただ肉体を鋼と化し、お前が自滅するのを待つのみ」
一切の先手をとらず、誘いにも乗らない。 合気道の最大の強みである「受け」の能力を、完全に封じ込める絶対的な拒絶。
沈黙が落とされる。 風すらも止まった廃物流パークの暗がりで、鏡介はただ静かに相手を見つめていた。
右胸のポケットの中で、スマートフォンが熱を帯びる。
『鏡介……ッ! あかん、相手の筋肉密度、鋼鉄どころの騒ぎやない! 表面からの打撃は100%カットされるで! 崩そうとしても、重力が微動だにせん……!』
脳内にダイレクトに届く、万魂通音乃神の切迫した解析データ。
「……そうか」
鏡介は、ぽつりと呟いた。 黒い合気道着の裾を静かに整える。引き裂かれた右袖から覗く腕には、先ほどまでの激闘の傷痕が痛々しく残っている。だが、その手つきには迷いも、焦りもなかった。
「鏡介くん! 下がりなさい、ここは私が——」
カテリーナが制止の手を伸ばしかけた。 だが、鏡介は振り返ることなく、静かに言った。
「大丈夫です、カテリーナさん」
選ばなかった退路。選ばなかった安全な策。 鏡介は一歩、前へ足を踏み出した。
「合気道は、専守防衛の武術です」
靴底が、破砕されたアスファルトを踏みしめる。静かな、一切の揺らぎのない歩法。
「誰も傷つけず、自分も傷つかない。それが父から教わった理想でした。……でも、師匠に言われたんです。『いなすだけでは、大切なものは守れない』と」
万魂のデータが、脳内で雪崩のように巡る。 敵の完全防衛の姿勢。表皮を覆う高密度の神威。だが——どんなに分厚い装甲であっても、肉体である以上、そこには必ず「継ぎ目」が存在する。 筋肉と筋肉の隙間。骨格と骨格が交わる極小の支点。
「俺は、お前を殺すためにここへ来たんじゃない」
鏡介の間合いが、男の「絶対領域」へと重なった。
「だが……俺たちの前に立ち塞がるなら、押し通る!」
「愚か者が!!」
男が咆哮した。防衛姿勢を維持したまま、巨大な岩塊が滑走するように、体当たり気味に踏み込んできた。 カウンターの軌道を与えない超重量の押し潰し。合気の「崩し」の手をかける余地すら存在しない、物理的な威圧。
カシムが息を呑み、カテリーナの瞳が驚愕に見開かれる。
(合わせるな。いなすな)
タケミカヅチの老達人の教えが、鏡介の神経を貫く。
相手の力を利用するのではない。 自らの体軸を極限まで固定し、全身の質量と波動を「一点」へと集束させる。
(無想転成——)
鏡介の身体から、一切の気配が消えた。 死の恐怖も、勝利への欲も、すべてが磨き抜かれた「無」へと還っていく。
男の巨大な前腕が、鏡介の胸元を押し潰すコンマ一秒前。
鏡介は避けていなかった。 むしろ、男の胸元——完全防衛を固めた両肘のわずかな「隙間」へと、自ら死地へ飛び込むように滑り込んでいた。
「な……!?」
男の目に、初めて動揺の色が走る。
ゼロ距離。 鏡介の右手が、握り込まれない掌底の形で、男の胸板へとそっと吸い付くように密着した。
力みはない。振りかぶりもない。距離、わずかゼロセンチ。
寸勁(すんけい)——古武術における、極小間合いの当身。
『鏡介! 胸骨第三関節、筋肉の継ぎ目——そこや!!』
万魂の叫びとともに、データと肉体が完璧に同調した。
鏡介は足裏で地球の重力を捉え、腰の回転、背筋の引き締め、そして右腕の骨格へと一直線に波動を伝達させた。 打撃ではない。極小の点を通じて、相手の体内に「破壊の波」を直接流し込む!
ドッ……!!
低い、重奏的な破砕音が響いた。
男の身体は吹き飛ばなかった。表面の皮膚には傷一つついていない。 だが——男の口から、ゴボッという凄惨な吐血とともに、絶叫すら伴わない苦悶の呻きが漏れた。
「ガっ……は…………っ!?」
男の巨体が、内側から崩壊を始めた。
外側の堅牢な筋肉の鎧を完全に透過し、衝撃の波動が骨格の隙間を通り抜けて内臓と体内の骨を直接破壊したのだ。背中側の武道着が、衝撃波の物理的な突き抜けによって豪快に爆ぜ飛ぶ。
完全防衛という鎧は、内側からの破壊に対しては何の役にも立たない。
「ば……かな……我が鉄壁が……内部から……っ」
男の膝が、激しくガタガタと震え始めた。 白目を剥き、血を吐き出しながら、巨大な巨体が力なく前へと倒れ込む。
ドサリ。
泥と瓦礫の上に、東方新興神族・四大高位の最後の一人が、二度と立ち上がれない姿で沈黙した。
完全なる沈黙。
風が、静かに廃墟を吹き抜けていく。
カシムが口をぽかんと開けたまま、固まっていた。 カテリーナもまた、言葉を失ったように鏡介の背中を見つめていた。
専守防衛の合気道。 その裏に隠されていたのは、相手が守りを固めれば固めるほど、内部から完膚なきまでに破壊するという「絶対の殺傷力」だった。
「……やりやがった」
カシムが、掠れた声で呟いた。
「おいおい……マジかよ。あの鉄壁を、触れただけで内側から粉砕しちまったのか……?」
「当身……古武術の真価ね」
カテリーナが、静かに息を吐き出した。その瞳には、恐怖ではなく、深々とした敬意が宿っていた。
「合気で相手を制し、拒絶する者には内部からの当身を叩き込む。……鏡介くん、あなたはもう、ただの『枠外の少年』ではないわ」
鏡介はゆっくりと右手を引き、深く呼吸を整えた。 指先が激しく震えている。寸勁の反動が、己の骨格にも重い負担となって跳ね返っていた。だが、鏡介は決して弱音を吐かなかった。
右胸のポケットで、スマートフォンが温かく発光する。
『……鏡介、すごかったで。ほんまに……ほんまに凄かった』
脳内に届く、万魂の声。いつも高飛車なツンデレの少女の言葉に、滲み出るような涙の音色が混ざっていた。
『ウチのデータ、完璧に使いこなしてくれたな。ありがとな……鏡介』
「お前が……隙間を教えてくれたからだ。ありがとう、万魂」
心の中で返すと、画面の向こうで少女が気恥ずかしそうに鼻をすする気配がした。
「よし……これで四大高位は全滅だ!」
カシムが拳を握り締め、笑みを浮かべた。
「あとはこの領域のボスを引きずり出して、不法侵攻の証拠を押さえればミッション完了だぜ!」
「油断は禁物よ、カシムくん」
カテリーナが軍帽を引き下げながら、慎重に周囲の気配を探る。
「四大高位を束ねる男……東方新興神族の首領は、まだ姿を現していないわ。潜伏拠点の最奥に——」
その言葉が、最後まで紡がれることはなかった。
空中から、音が消えた。
いや——大気が、異常な密度で「圧縮」される甲高い悲鳴が響いたのだ。
「——伏せなさい!!」
カテリーナの叫びと同時に、鏡介の全身の毛穴が一斉に収縮した。
百メートル以上先——暗雲立ち込める物流センターの屋上から、何かが解き放たれた。
目視不能。音速すら遥かに超える、超高圧の空気の断片。 それは足技の振るいによって圧縮された、不可視の「空気弾(遠距離蹴撃)」だった。
ドガァァァァァァンッ!!
鏡介たちが立っていた場所が、瞬時に爆発した。
回避がコンマ一秒遅れていれば、全身が肉片となって吹き飛んでいた。 カシムが悲鳴を上げながら横転し、カテリーナが聖火の障壁を瞬時に展開するが、空気弾の衝撃波だけで障壁がメリメリと亀裂を深めていく。
「くっ……何という威力……! 遠距離からの足技だと……!?」
カテリーナの額から、冷や汗が流れる。
瓦礫と煙塵の向こう。 物流センターの屋上に、一人の男が佇んでいた。
豪華な刺繍が施された伝統の武術服。首からは黒い数珠を下げ、背筋を真っ直ぐに伸ばした男。
東方新興神族・首領——朱蒙(チュモン)。
男は屋上から静かにこちらを見下ろしていた。両腕を組んだまま、ただ一回、右脚を軽く空に向かって振り抜いただけ。それだけで、数百メートル離れた地上にクレーターを作り出したのだ。
「我が精鋭をすべて破るとはな。……オリンポスの鼠ども、そして日本の歪な神使よ」
朱蒙の声が、圧縮された空気の波動となって、直接耳元で響くように通り抜けた。
「だが、ここから先は間合いすら存在せん。お前たちが足を踏み入れることすら叶わぬ、絶対の死地だ」
朱蒙が再び右脚を僅かに引き絞る。
絶望。
近づくことすら許されない、遠距離からの絶対的な連続殺戮。
合気も、当身も、相手に触れられなければ何の意味もなさない。
「くそっ……あんな遠くから、どうやって戦えってんだ……!?」
カシムが歯を噛み締め、カテリーナが厳しい表情で聖火を強める。
鏡介は破砕された地面の上に立ち、はるか高みで見下ろす首領を見上げた。 胸のポケットのスマートフォンが、これまでにないほど激しく、狂おしい熱を帯びて振動し始めていた。
最悪の絶望の中で、二人の絆が試される最終決戦の幕が上がろうとしていた。
(第12話へ続く)
第12話:ボス・朱蒙(チュモン)の必中空気弾
大気が、爆ぜた。
耳を打つ音より早く、衝撃の塊が空間を押し潰した。 破砕されたコンクリートの砕片が、弾丸のような速度で夜の暗がりへ飛散する。
「——伏せろッ!!」
カシム・ディアロの叫びが暴風にかき消された。
百メートル以上離れた廃物流センターの屋上。黒い数珠を首に下げ、刺繍入りの武術服を纏った男——東方新興神族の首領、朱蒙(チュモン)。男がただ一回、右脚を無造作に振り抜いた、ただそれだけの動作。
それだけで、鏡介たちが立っていた濡れたアスファルトが深さ二メートルを超えるクレーターへと化していた。
吹き荒れる爆風が、迅雷鏡介の黒い合気道着の裾を激しく煽る。 顔に跳ねた泥と、頬を擦過した空気の刃による浅い切れ傷。そこから滲む血が、熱を持った皮膚の上を冷たく伝い落ちていく。
「……ハぁ、っ……!」
鏡介は低く構えたまま、荒い呼吸を整えようと試みた。 だが、肺に流れ込んでくるのは、過熱された摩擦熱の残骸と、粉砕されたコンクリートの乾いた粉塵ばかりだった。
手の中にあるべき間合いがない。
古流合気道も、タケミカヅチの老達人から叩き込まれた寸勁(当身)も、すべては「相手の肉体に触れること」を大前提としている。相手の骨格に触れ、重心の傾ぎに己の軸を重ね、あるいは骨格の隙間へ微小な衝撃を流し込む。
だが、あの男——朱蒙との間に横たわるのは、百メートルという絶対的な「距離」だった。
「近寄らせる気すらない、というワケかい……!」
カシムが膝をつき、歯を力任せに噛み締めた。 褐色の胸板に汗が走り、摩擦熱で赤熱していたバンテージの端が虚しく煙を上げている。彼の『バーニングナッコゥー!』も、超高速のフットワークも、相手の懐に飛び込んで初めて威力を発揮する。間合いを詰める途中で体を肉片に変えられるのなら、どんな超高速も意味を成さない。
「カシムくん、迂闊に動かないで」
カテリーナ・パパドプロスが、冷静を装う固い声で告げた。 軍帽の庇を低く引き下げた彼女の前に、淡い黄金の聖火が薄い膜となって揺らめいている。ヘスティアの権能——『プロムナード・デ・ピュロス』による概念迎撃の障壁。だが、その表面には先ほどの空気弾の余波を受けただけで、蜘蛛の巣状の亀裂が無数に走り、パチパチと悲鳴のような火花を散らしていた。
「あの男の蹴りは、単なる脚力の放出ではないわ」
カテリーナの美しい額から、一筋の冷や汗が頬を伝って顎へと落ちた。
「神威によって大気を極限まで圧縮し、弾丸として固定して放っている。……迎撃しようにも、質量そのものが空気である以上、熱や概念で完全に相殺しきれない。直撃を受ければ、聖火の障壁ごと破砕されるわ」
屋上の上に立つ朱蒙が、静かにその太い腕を胸の前で組んだ。 眼下で見固まる三人を見下ろす瞳には、怒りも嘲笑すらない。ただ、害虫を排除する作業を粛々とこなすかのような、底冷えする絶対者の冷酷さだけがあった。
「悟ったか、オリンポスの狗ども。そして極東の歪な神使よ」
朱蒙の声が、圧縮された空気の波に乗って直接耳元で鳴り響いた。
「我が『東方新興神族』が目指すのは、武の到達点だ。音速を超え、超重量を誇り、熱を纏い、鉄壁を築く。四大高位の死は無駄ではない。奴らの敗北は、私という絶対の完成形へ至るための過程に過ぎん」
朱蒙が、静かに右足を半歩引き絞った。
ただの半歩。それだけで、周囲の空間から「音」が消え去る。 大気が男の右脚の周囲へと異常な密度で吸い寄せられ、光の屈折によって男の脚部を中心に世界がぐにゃりと歪んで見えた。
「死の間合いへ、ようこそ」
「来るわ……ッ!!」
カテリーナが叫び、聖火の神威を限界まで跳ね上げる。
シュッ——。
音が届いた時には、すでに空間が穿たれていた。
一発ではない。
連続する破砕音。 右脚の微小な往復運動から解き放たれたのは、直径一メートルを超える極大の「必中空気弾」の三連打だった。
ドガガガガガガガッ!!
一発目が、カテリーナの聖火の障壁へと正面から衝突した。 黄金の炎が爆ぜ、障壁が木っ端微塵に砕け散る。カテリーナの口から可憐な悲鳴が漏れ、彼女の細い身体が衝撃波によって後方へと弾き飛ばされた。軍用レオタードの肩口が破れ、黒ストッキングの腿に生々しい擦傷が刻まれる。
「カテリーナさんっ!?」
カシムが叫び、彼女を受け止めようと飛び出す。
そこへ叩き込まれる、二発目の空気弾。
「しまっ——!?」
カシムの超高速フットワークすら予測したかのような、完璧な「偏差射撃」。 避ける余地のない絶対的な扇状の衝撃波が、カシムの胸板を直撃した。ドゴッという凄惨な打撃音が響き、カシムの巨体が何十メートルも先にある鉄骨コンテナへと叩きつけられ、血を吐いて沈黙した。
「カシムさん!!」
鏡介の叫びが、夜の静寂に虚しく響いた。
そして——三発目。
それは、一人取り残された鏡介の胸元を正確に穿つ軌道で、音速を超えて迫っていた。
(——無想転成!)
鏡介は直感で思考を打ち切り、肉体を崩しの軌道へと滑らせた。 完全な無。タケミカヅチの伝承と、古流合気道の極致。
だが——。
ドグシャァッ!!
「ぐあぁぁっ……!?」
体さばきでかわしたはずの衝撃波が、回避の軌道そのものを上回る巨大な「空気の圧力」となって鏡介の左肩と脇腹を削り取った。
衝撃の物理的な質量。 回避の範囲を超えた、空間そのものを押し潰す「幅」。
鏡介の身体は駒のように空中を旋回し、破砕されたアスファルトの上へ激しく叩きつけられた。
「カハッ……っ、ガ……!!」
肺からすべての空気が吐き出される。 左肩の骨が砕ける重い音が体内から聞こえた。激痛が全身の神経を焼き切り、視界が真っ赤な血の色と、暗い闇の混ざり合った色へと染まっていく。
漆黒の合気道着が、自らの血で重く黒ずんでいく。
「鏡介……っ!!」
声が聞こえた。 胸のポケットの中ではない。
スマートフォンの画面が、これまでにないほど眩い、狂おしいまでの純白の光を放っていた。
光の粒子が溢れ出し、空間に滑らかな輪郭を形作る。 実体化した少女——万魂通音乃神。
宙に浮くことすら叶わず、彼女は泥と血で汚れたアスファルトの上へと崩れ落ちた。フリルのついた衣装の裾が泥に塗れ、少女は両手を鏡介の崩れた胸元へ伸ばしていた。
透ける細い指先。触れようとして、力なく滑り落ちる手。
『鏡介……! 鏡介、返事してぇな! 痛いんか!? 息しとるんか!?』
涙が、ぽろぽろと零れ落ちていた。 床に落ちる前に消えていく、儚い光の粒子。昨夜のようなツンツンした態度の面影は、どこにもなかった。ただ一人の少女として、目の前でボロボロになって倒れ伏す少年を、狂おしいほどの情愛と恐れで見つめていた。
『ごめん……ごめんなぁ、鏡介……! ウチのデータ解析が遅いから……ウチが頼りない神様やから、あんたにこんな惨い目……っ!』
「万……魂……」
鏡介は掠れた声で、どうにか言葉を絞り出した。 右手を動かそうとするが、指先が痺れて力が入らない。喉の奥からせり上がる血の味が、死の近さを告げていた。
「逃げ……ろ……。お前……だけでも……」
選んだのは、弱音ではなかった。 自分の命のことなど、頭の隅にもなかった。ただ目の前でボロボロと光の涙を流す、この小さな女神を——自分の「日常」の中に飛び込んできた、大切で愛おしいパートナーを守りたいという、それだけの想い。
万魂は首を激しく横に振った。
『嫌や!! 逃げるワケないやんか!!』
少女の泣き声が、夜の廃墟に響き渡る。
『あんた言ったやん! ウチを世界一の神様にしてくれるって! ウチの神使になってくれるって言ったやんか!!』
少女は自分の胸元——目に見えぬ小さな神核(ハート)を、両手で強く握り締め、天井の暗雲に向かって叫んだ。
『ウチは……ウチはなぁ! 世界一の神様になんかならんでもええ! あんたと一緒にいたいだけやねん! あんたと笑って、あんたの作った冷めたご飯食べて、ドヤ顔で加護してあげたいだけやねん!!』
涙が、溢れ出していた。 それは神威の残片などではない。一人の人間と同調し、血と命を通わせた「想い」の極致。
『鏡介……死んだらアカン!! ウチの命、全部あげるから……立ってぇな、鏡介ぇぇぇぇぇっっ!!』
少女の祈りが、叫びが、天を衝いた。
その瞬間。
ピシッ、と空間に亀裂が入るような音が響いた。
胸のポケットの中にあるスマートフォンが、太陽のような絶大なる光を放ち始めた。
【結 晶 破 砕】 【神 格 突 破 ── 同 期 率(フルシンクロ)100% OVER】
脳内に響いたのは、機械音ではなかった。 万魂通音乃神の、透き通った、涙の混じった愛の音色。
二人の血と、想いと、魂が、完璧に「ひとつ」へと溶け合っていく。
鏡介の体内に、圧倒的な熱量が雪崩れ込んできた。 壊れた左肩の骨格が、神力の光によって強制的に接合される。全身の筋肉が活力で満たされ、傷口から流れていた血が、黄金の光の粒子となって止まっていく。
そして——鏡介の「視界」が、完全に変貌した。
ただの数値や予測ラインではない。 世界が、生々しい「生命の波長」として書き換えられていた。
百メートル先、物流センターの屋上に立つ朱蒙。 男の全身を巡る「筋肉の微小な電気信号」。 脚部へと神威を集束させる際、どの神経が何コンマ何秒前に発火し、どのような角度で空気を押し潰すか——そのすべての「未来の兆候」が、鏡介の脳裏に明確な映像として映し出されていた。
『……見えたで、鏡介』
万魂の声が、脳内で響いた。 泣き腫らした声ではない。鏡介の魂と完全に溶け合い、ひとつの存在となった彼女の、力強く、どこまでも温かい声。
『あいつの遠距離蹴り……発射される「前」に、軌道もタイミングも全部ウチらの手の中や』
鏡介は、静かに立ち上がった。
黒い合気道着の袖から覗く腕に、薄桃色の滑らかな神威の光が纏われている。 傷は癒え、肉体はかつてないほどの静寂と「冴え」に満ち溢れていた。
屋上の朱蒙が、初めてその眉をひそめた。 息絶えるはずだったハエが、圧倒的な光を纏って立ち上がったのだから。
「まだ立つか、羽虫が。……ならば、跡形もなく破砕してくれる」
朱蒙が両脚を極限まで引き絞った。
空気弾——今度は十数を一斉に放つ、絶対殺戮の連撃。
だが、鏡介はすでに、一歩を踏み出していた。
踏み込みの音はない。 すり足。古古より伝わる日本の武術の歩法。 万魂との最高同期によって可視化された「電気信号(未来の軌道)」の隙間を、鏡介の肉体が完璧に滑り抜けていく。
シュッ! ドガァン!
第一波の空気弾が、鏡介の数ミリ後ろのアスファルトを穿ち、爆砕させた。 鏡介は振り返らない。直進する。
シュシュシュッ! ドドガガガガッ!
空中を乱舞する不可視の衝撃波の嵐。 右へ三センチ。左へ一センチの滑り。体軸をわずかに倒し、空気の波の「谷間」を、まるで水の中を泳ぐ魚のように滑らかに通り抜けていく。
速度ではない。 敵が技を「放つ前」に、すでにそこが死点であることを知っているからこその、完全なる未来回避。
「な……なにぃっ……!?」
朱蒙の冷静だった顔が、初めて驚愕で歪んだ。
百メートルあった距離が、一瞬にして消失していく。
九十メートル。 七十メートル。 五十メートル——。
空気弾の嵐をすべて無傷で通り抜け、鏡介は直線的に距離を詰めていく。
「バカな……! 我が絶対の必中蹴撃を……すべて読んでいるというのか!?」
朱蒙が焦りとともに、全神威を右脚へと集束させた。 ゼロ距離での破砕蹴り。追いつめてきた鏡介の頭部を、直接その足先で叩き潰すための、渾身の一撃。
三十メートル。 十メートル。
そして——ゼロ。
朱蒙が屋上から飛び降り、空中から全威力を込めた右脚を振り下ろした。
「沈めぇぇぇぇっっ!!」
音速を超えた右脚が、鏡介の頭部へと襲いかかる。
だが。
鏡介の瞳は、凪いだ海のように静かだった。
(届いたぞ……朱蒙)
思考が消える。
【無想転成】×【最高同期(フルシンクロ)】。
鏡介は、振り下ろされた朱蒙の超重量の右脚の「膝裏」へと、左手をそっと添えた。 押さない。引かない。 朱蒙が全身の神威を込めた、その膨大な破壊のエネルギーに、自身の存在を完璧に同調させる。
そして、右手を朱蒙の胸元へと滑らせた。
「合気……」
朱蒙の目が、絶望に見開かれた。 己が放った最大の威力が、目の前の少年の手一本によって、完全に「逆流」していくのを身体で理解したからだ。
「投げ!!」
鏡介は全身の軸を回転させ、朱蒙の巨体を、夜空の中へと高く放り投げた。
そして、重力の頂点から——。
地面へと、自身の運動エネルギーごと、叩き落とした。
ドガァァァァァァァァァァンッ!!!!!
これまでで最大の爆破音が、ソウルの夜空を揺るがした。
物流センターの広場全体が、クレーター状に陥没し、凄まじい泥と瓦礫の嵐が天へと巻き上がった。
沈黙。
煙塵が、ゆっくりと夜風に流されていく。
クレーターの真ん中で、泥に塗れた豪華な武道着を破かれ、朱蒙が白目を剥いて倒れ伏していた。全神威を解体され、自身の威力を頭部から叩きつけられたショックで、二度と立ち上がることのできない完全なる敗北。
その傍らに、静かに立ち尽くす一人の少年。
迅雷鏡介。
漆黒の道着を纏い、その右手には、温かい光を放つスマートフォンが握られていた。
『……勝ったで、鏡介』
脳内で、万魂の泣きじゃくるような、誇らしげな声が響いた。
「ああ……勝ったよ、万魂」
鏡介は空を見上げた。 雲の切れ間から、蒼い月光が差し込み、二人を温かく照らし出していた。
(第13話へ続く)
第13話:万魂の最高同期(フルシンクロ)
世界から、色彩と音が削ぎ落とされていた。
視界を支配するのは、己の肉体から流れ出た血の赤と、雨上がりのアスファルトが放つ漆黒、そして上空百メートルから見下ろす冷徹な殺意の白だけだった。
ソウル郊外の廃物流パーク。 直撃を受けたコンクリートの粉塵が立ち込め、過熱された空気が皮膚をジリジリと灼く。 数メートル横では、カテリーナ・パパドプロスが聖火の障壁を砕かれ、黒ストッキングの脚を朱に染めて横たわっている。さらに遠くのコンテナの陰では、カシム・ディアロが胸骨を軋らせ、荒い吐息とともに沈黙していた。
「……ハッ……カハッ……」
迅雷鏡介の口から、重い血の塊が溢れ出た。
左肩の関節は脱臼し、脇腹の肉は空気弾の衝撃波によって削り取られている。黒い合気道着は破れ、濡れた雑巾のように自身の血を吸って重く皮膚に張り付いていた。 指先を動かそうとする。だが、脳からの伝達信号は途中で途切れ、痙攣のような小さな震えにしかならない。
距離——百メートル。
合気道の「間合い」どころの話ではなかった。 触れることすら叶わない。相手は高みからただ右脚を振り抜くだけで、空間そのものを圧縮し、不可視の必殺弾として叩き込んでくる。
(届かない……)
鏡介の思考が、冷たい泥の中に沈んでいく。
相手の手にかかり、投げ飛ばし、当身を叩き込む。その前提となる「接触」そのものが拒絶された世界。父から教わった「受け」の術理も、タケミカヅチの老達人から受け継いだ寸勁も、この圧倒的な隔たりの前にはあまりにも無力だった。
「これで終わりだ、歪な神使よ」
(長い話のため、ここまでを掲載しています)
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