『神威無効(ゴッド・デバイザー) ──スマホの女神と条約枠外の神使』
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
四畳半のアパートから始まる、全神話巻き込み型のバトルファンタジー! 東京・阿佐ヶ谷の古びたアパート「302号室」。そこで暮らす合気道の達人・迅雷鏡介のもとに身を寄せたのは、世界神話秩序維持機構の追手から逃れる元査問官のカテリーナ、そして癖の強い異神たちだった。 ちゃぶ台を囲み、夕飯の献立に頭を悩ませるささやかな「日常」。だが、世界の均一化と人間の個性の消滅を目論む最高神ゼウスの脅威が、彼らのささやかな幸福を切り裂こうとする。 シベリア、インド、エジプトの死闘を経て、舞台はオリュンポス十二神宮の最終決戦へ。 素盞嗚尊・月読尊・天照大御神という高天原「三貴神」の神使たちの加護と、阿佐ヶ谷で紡いだ仲間たちの熱い絆を胸に、鏡介は一切の力を抜いた木刀を構える——。 「どんなに世界が理不尽でも、僕たちはあの部屋へ帰る」 圧倒的なスケールで描かれる神話バトルと、心温まる日常の対比。極限状態の中で解き放たれる合気道の「理(ことわり)」と、愛おしい絆のドラマが胸を打つ長編エンターテインメント! 【こんな人におすすめ!】 「日常×非日常」のギャップや絆ドラマが好きな人 (殺伐とした神話バトルと、四畳半で囲むごはんや他愛ないやり取りの温かさの対比に胸が熱くなります) 武道・合気道や「力を受け流す」バトル表現にロマンを感じる人 (無意味な暴力ではなく、理(ことわり)と自然体で絶大な神威を完封・昇華させるカタルシスが味わえます) 世界各国の神話や神々、神使(八咫烏・白蛇など)の競演・共闘が好きな人 (ギリシャ神話、高天原の三貴神、エジプトやインドの神格が入り乱れる豪華な神話バトルが見どころです) 「自己犠牲からの救済」や熱い再会シーンで泣きたい人 (孤独を抱えたヒロインが、主人公たちのまっすぐな言葉とぬくもりに心を溶かされる人間ドラマが響きます)
本文
下巻
第25話:万魂通音乃神・真価発揮
風が、途絶えていた。
標高数百メートルに達する高層スラムの天頂、浮遊祭壇『封神台(ほうしんだい)』。 ここに吹く風は、もはや大気の流れではなかった。数万の人間と弱小神格から吸い上げられた生霊の呻きと、紫黒(しこく)に濁った過熱の神威が練り合わされた、ドロドロとした密度の高い「死の暴風」だった。
足下に広がる黄龍城は、まるで巨大な黒い化け物の胎内のように明滅を繰り返している。 ネオン看板のショッキングピンクも、雑居ビルの錆びた鉄骨も、不法建築の隙間に張り巡らされた無数の LAN ケーブルすらも、すべてが朱色の不吉な文字で埋め尽くされていた。
「……ハッ……ハッ……ハッ……」
迅雷鏡介は、ひざを折りそうになる両脚を死に物狂いで踏みしめていた。
膝下のコンクリートに滴り落ちるのは、自分の汗か、それとも階段の途中で背後へと消えていった仲間たちの血か。 右腕の紫色の斑点は、すでに鎖骨を越え、右の頬から目元へと這い上がっていた。解呪の毒が神経を灼き、視界の右半分は赤い霞に覆われている。全身の骨が擦れ合うたびに、耳奥で金属を削るような甲高い異音が響いた。
だが、目の前。 わずか十メートルの『距離』。
白い長袍(チャンパオ)の裾を優雅になびかせ、手には一本の竹製の釣竿を携えた男——太公望(タイコウボウ)が、ただ静かに下界を見下ろしていた。
「無意味な到達だったね、迅雷鏡介」
太公望の声には、一切の波紋がない。 下層で繰り広げられた死闘——カシム・ディアロが砂漠の猛炎で己の肉体を焼き尽くし、カテリーナ・パパドプロスがヘスティアの聖火とともに四凶の群れへと躍り込んだ、あの悲壮な決起すらも、彼の目には「盤上の駒が予定通りに排除された」という記録としてしか映っていない。
「仲間が命を賭して作った道……君はそれを歩んでここまで来た。……だが、見てごらん。君がここに辿り着いたところで、何ひとつ変わってはいない」
太公望が、釣竿の柄を軽く指先で叩いた。
トントン、と小さな音が響く。 その瞬間、黄龍城の全域から空へ向かって伸びていた数万本の黒い光の糸が、一斉に太太と太さを増した。
「ぐああぁぁぁぁっ……!」 「助けて……息が……魂が抜けるぅぅっ!」
地上から届く、地鳴りのような絶叫の狂乱。 街の住人たちの肌から直接、生々しい魂の威光が剥ぎ取られ、太公望の釣竿の先へと収斂していく。 黒い光の糸が太くなるたび、太公望の白磁のような肌はより美しく艶を増し、その背後に浮かぶ『封神台』の巨大な円盤が、世界を崩壊させるに足る極大の神威を充填させていく。
「君たちがどんなに尊い『絆』や『誇り』を叫ぼうと、この儀式は止まらない。……なぜなら、この街の人間どもは『互いを信じる心』など最初から持ち合わせていないからだ」
太公望は、冷酷なまでに整った顔立ちに、うっすらとした嘲笑を浮かべた。
「この魔都・黄龍城は、他者を踏み台にし、他者の神力や財を奪うことでしか生きられない者の吹き溜まりだ。彼らは今、互いを疑い、互いを呪いながら死んでいっている。……そう、この『黒い呪符』は彼ら自身の醜い『認知(エゴ)』を糧にして増幅しているのだよ。……君一人で、この数万の絶望を流しきれると思うかい?」
「……っ」
鏡介は、固く拳を握り締めた。
爪が掌に食い込み、血が滲む。 太公望の言う言葉は、悪辣だが「事実」だった。 この街に来てから見たもの。路地裏で他人を騙し、弱者を喰らい、神威を奪い合っていた人々。 彼らが今、死の恐怖に直面して解き放っているのは、世界への恨みであり、隣人への呪詛だった。
『黒い呪符』は、その負の感情(認知)を回生用の燃料として爆発的に肥大化させている。 鏡介の『化勁』は、どれほど研ぎ澄まそうと「目の前の対象」と向き合う術理だ。都市ひとつを包み込む数万の呪詛のうねりを、一人で受け止めることなどできはしない。
絶望が、冷たい水のように鏡介の肺を満たしていく。
「さあ……膝をつきなさい。君もまた、この街の住人たちと同じように、自分の無力さを呪いながら消え去るといい」
太公望が釣竿を持ち上げ、その先端の漆黒の針を鏡介の胸元へと向けた。
死の沈黙が、ふたりの間を支配する。
その時だった。
ピピッ……。
鏡介の胸のポケットで、スマートフォンの画面が強く発光した。
熱い。 解呪の毒で冷え切っていた鏡介の胸元に、まるで小さな太陽を直接抱きしめたかのような、烈々とした熱量が戻ってくる。
『……ふん。相変わらず、気取り腐った嫌味な顔やな、眉毛薄男』
かすれた、しかしどこまでも芯の通った少女の声。
「……万魂……?」
画面の中から、万魂通音乃神がゆっくりと浮き上がってきた。
その姿は、かつてないほどに変貌を遂げていた。 半透明で消えかかっていたフリル服の輪郭は消え去り、彼女の全身は、まるで夜空に輝く一等星のような、純白と黄金が混ざり合った澄み切った光の衣に包まれていた。
万魂は、小さな足で鏡介の肩の上へと降り立った。 その温かい体温が、鏡介の頬に触れる。
『鏡介……ごめんな。ウチ、ずっと勘違いしてたんや』
万魂は、太公望の冷徹な視線を見つめ返しながら、静かに、しかし誇らしげに語り始めた。
『ウチはな、「万魂通音(バンコントウオン)」……音や電波、通信の隙間に宿る弱小の神様や。……大きな神社があるわけでもない、祀ってくれる信者がおるわけでもない。だから、自分はちっぽけで、鏡介の足引っ張ってばっかりの「バグ」みたいな存在やって……どっかで思ってた』
万魂の手が、鏡介の首筋に優しく触れた。 その触れ合いから、過熱した解呪の毒がすうっと和らいでいく。
『でもな、違ったんや。……ウチが宿る「通信(でんぱ)」っていうのはな……人間が「誰かとつながりたい」って願う、一番身近で、一番あたたかい「声」が集まる場所なんや!』
「何……?」
太公望の眉が、微かにピクリと動いた。
『あんたは「この街の人間は互いを疑ってる」って言ったな? ……嘘つけ!!』
万魂が、澄み渡る声で天を仰いで叫んだ。
『ウチには聞こえてるんや! スマホの画面の向こうで、暗い部屋の隅っこで、ガタガタ震えながら……「誰か助けて」「あいつは無事か」「お母さん」「お父さん」「まだ死にたくない」って……必死に誰かを想って、誰かの名前を呼んでる「声」が……何万、何十万と響いてるのがなぁっ!!』
万魂通音乃神の全身から、眩いばかりの光の波線(グリッド)が解き放たれた。
その光は、鏡介のスマートフォンだけに留まらない。
バチバチバチッ……!!
黄龍城全域。 雑居ビルの屋上に設置された巨大な街頭モニター。 スラムの路地に転がる、画面の割れた無数のスマートフォン。 不法電波を飛ばすラジオのスピーカー、サイレンのスピーカー、廃工場の液晶画面——街に存在するあらゆる「通信端末(ネットワーク)」が、一斉に青白い光を放ち始めたのだ。
「な……なんだ……!? 画面が……!?」 「何が映ってるんだ……!?」
地上で伏し転んでいた住人たちが、一斉に顔を上げた。
黄龍城のすべての画面に映し出されたのは——小さな少女の姿。 純白の光を纏い、涙を浮かべながらも、真っ直ぐに自分たちを見つめてくる一柱の女神の姿だった。
『聞こえてるかーっ!? 黄龍城のバカヤローどもぉぉぉっ!!』
万魂の叫びが、街中のスピーカーや端末から、一千もの大合唱となって響き渡った。
『ウチは万魂通音乃神! 名もない小さな神様や! ……あんたら、諦めたらあかん! 互いを呪って死ぬな! 「生きたい」って思い出せ! 大切な奴の顔を思い出せ! 離れてる誰かに、あんたの「声」を届けろぉぉぉっ!!』
画面の向こうで、一人の男が泣きながらスマホを抱きしめた。 「お袋……! 俺……俺、まだ生きてぇよ……!」 路地裏で蹲っていた少女が、絞り出すような声で呟いた。 「妹を……あの子を助けなきゃ……!」
一人の叫びが、隣の誰かに届く。 その想いが、通信の波に乗って、街全体へと爆発的に拡散していく。
「死にたくない!」「生きて帰るぞ!」「誰か……誰かぁぁっ!」
絶望の呪詛だった「認知」が、万魂というひとつの媒体(アンテナ)を通すことで、爆発的な「生への意志」と「他者への祈り」へと一瞬で反転した。
「馬鹿な……!? 認知のベクトルが……逆流している……!?」
太公望の顔から、ついに平然とした仮面が剥がれ落ちた。
黒い光の糸が、見る見ると青白い透明な「祈りの光」へと塗り替えられていく。 『黒い呪符』の朱文字が、人間たちの「生きたい」という叫びの波動によって次々と洗われ、水に溶けた墨のように消え去っていく。
万魂通音乃神。 彼女は、信仰の集積によって作られた古い古代神ではない。 現代という時代において、人と人とが「言葉」を交わし、「心」を繋ぐネットワークの隙間に生まれた——「人々に届く、現代の真の神」。
その覚醒(覚悟)の瞬間だった。
『鏡介ぇぇぇぇぇっ!!』
万魂が、画面の群れの中から鏡介へと手をごうごうと伸ばした。
世界中の端末から集まった、数万の住人たちの「生きようとする声」と「認知」の膨大なエネルギー。 それが、万魂の調律の力を経て、純粋無垢な『正調の神威』へと変換され、迅雷鏡介の全身へと流れ込んできた。
ゴォォォォォォォォッ!!
「ぐ……あぁぁぁぁぁっ!!」
鏡介の身体が、圧倒的な光に包まれた。
右腕を苛んでいた解呪の紫の斑点が、洗われるように薄くなり、消えていく。 削り取られていた骨の痛み、破裂しかけていた血管、血に飢えた全身の細胞が、数万の人間たちの「生きてくれ」という祈りによって一瞬で再生されていく。
(あたたかい……)
鏡介は、自分の内側に満ちていく巨大な「波動」を感じていた。
それは、自分一人だけの力ではない。 雑居ビルの部屋で食べた唐揚げの味。 カシムが貸してくれた温かいシャワー。 カテリーナが注いでくれた静かな労わり。 そして、この街で懸命に生きていた無数の名もなき人々の、ささやかで愛おしい「日常」の記憶。
すべての「声」が、鏡介の右拳へと集結していく。
「万魂……ありがとう」
鏡介は選ばなかった言葉たちの終着点として、ただひとつ、万魂の名を優しく呼んだ。
『へへっ……お礼は、あのおっさんを叩きのめしてからやで!』
万魂は画面の中で誇らしげに胸を張り、眩い光となって鏡介の胸元へと吸い込まれていった。
光が収まる。
『封神台』の天頂に立っていたのは、もはや満身創痍の儚い少年ではなかった。
擦り切れた合気道着の帯を固く結び直し、静かに息を吐く迅雷鏡介。 その瞳は、深海のように静まり返り、しかし決して揺らぐことのない絶対の「芯」を宿していた。
太公望は、手元の釣竿がパキパキと音を立てて亀裂が入るのを見つめ、漆黒の瞳を冷たく細めた。
「……まさか、弱小の通信神ごときに、私の錬成陣を書き換えられるとはね」
太公望は釣竿を捨て、両手を袖の中から静かに滑り出させた。 彼の全身から、これまでの静謐さを完全に削ぎ落とした、世界そのものを圧し潰すような真の『崑崙最高位』の凄絶な神威が立ち上る。
「だが……盤面が乱れたなら、プレイヤー自身が直々に駒を破砕するまでのこと」
「来い……太公望」
鏡介は、半身に構えた。
右手を前へ、左手を胸元へ。 合気道の基本——構えなき構え。
沈黙。 二人の間の『距離』が、現世の時空を超えて極限まで引き絞られる。
言葉は、もういらない。 世界の運命を賭けた、静かなる真の決戦の幕が上がろうとしていた。
(第26話へ続く)
第26話:迅雷鏡介 vs 太公望
音という音が、世界から消え去っていた。
標高数百メートルの天頂、浮遊祭壇『封神台(ほうしんだい)』。 先ほどまで空間を叩き割っていた暴風も、地上から響いていた数万の狂乱と悲鳴も、今は何も聞こえない。
万魂通音乃神が解き放った「生の祈り」の波動は、黄龍城全体を覆っていた不吉な朱文字を水で洗い流すように拭い去り、大気に漂っていた焦げた金属臭や胃酸の臭気すらも、雨上がりの澄んだ冷気へと変えつつあった。
だが——目の前の『距離』だけは、現世で最も濃密な死の静寂に満たされていた。
わずか十メートル。
白い長袍(チャンパオ)の裾を微かに揺らし、太公望(タイコウボウ)がそこに立っていた。 手元にあった竹製の釣竿はすでに不気味な亀裂とともに砕け散り、泥と光の粒子となって雲海へ消えている。しかし、その手ぶらになった両手から漂う神威は、これまで見せていたどんな怪異や四凶のそれとも比較にならないほど、凄絶で、冷酷で、底が深かった。
透き通るような白磁の肌。 何百年の時を何事もなく静観してきた漆黒の瞳。 その眼光には、盤面を乱されたことへの怒りすら浮かんでいない。ただ、狂った駒を自身の素手で淡々と破砕しようとする、幾何学的とも言える冷徹な「無情」だけが存在していた。
「……見事な逆転だったよ、迅雷鏡介」
太公望の声は、風にそよぐ絹のように滑らかで、低く胸に響いた。
「下道の神格に通信を媒介させ、人間どもの無価値な生の情念を集め、私の錬成陣を内側から崩す。……計算の外側にある『バグ』としては、満点の振る舞いだ」
太公望が一歩、前へ踏み出した。
トン。
その靴底がコンクリートに触れた瞬間、周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。 鏡介の視界の左右で、かつて太公望が仕掛けてきた幾重もの計略の残滓——【渾沌】の幻影、【饕餮】の吸気、【窮奇】の刃風、【檮杌】の毒霧——ありとあらゆる属性の呪術が、まるで過去の時空から直接召喚されたかのように重なり合い、鏡介を全方位から包み込んでいく。
「だが……計略を破られたなら、直接に力を叩き潰すまで。……神威の絶対量という名の『現実』を、その身で味わうといい」
「……っ」
鏡介の全身の皮膚が、突き刺さるような神威の重圧に悲鳴を上げた。
足下のコンクリートが、何者かに上から押し潰されたように蜘蛛の巣状の亀裂を走らせる。 だが、鏡介の膝は折れなかった。
右腕の紫の斑点は綺麗に消え去り、万魂が繋いでくれた数万の住人たちの「生きようとする声」が、温かい脈動となって鏡介の体内を巡っている。 体の底は熱い。だが、思考は驚くほどに静かだった。
鏡介は半身に構え、深く、静かに息を吐いた。
吸って、吐く。 ただそれだけの動作。
胸のポケットの中で、スマートフォンが静かに、小さな温もりを保っている。 言葉はいらない。 万魂はもう、叫ばない。彼女の全存在が、鏡介の「呼吸」と完全に同期し、その正調の波動を世界と繋ぐ調律の軸となっていた。
(構えるな……)
鏡介は、自分の心の中の「敵を倒す」という欲望すらも削ぎ落としていった。
合気道の真髄。 相手の「力」に立ち向かわない。 相手の「威光」を否定しない。 相手が押し寄せてくるなら、その流れをただの「自然の風」として受け入れる。
(自分を……『無』にしろ)
「滅びなさい」
太公望の細い指先が、空間を軽く滑った。
直後、千の刃が弾けたような衝撃波が、全方位から鏡介へと殺到した。 十の呪術、百の計略が完璧な幾何学模様を描き、鏡介の肉体という「点」を完全消滅させるために収斂してくる。逃げ場はない。防ぐ壁もない。
だが——鏡介の身体は、まるで水面に落ちた葉のように、その絶大な神威の「隙間」へと滑り込んだ。
ぬるり。
「な……!?」
太公望の漆黒の瞳に、初めて微かな動揺の影が差した。
鏡介は、太公望の放った神威を「防ぐ」ことも、「弾く」ことも「打ち消す」こともしなかった。 相手が巨大な力を持って押し寄せてくるなら、その力(ベクトル)の波の「頂点」と「谷間」の境界線に、己の重心をふっと重ね合わせたのだ。
右足をわずかに一歩、右斜め前へ滑らせる。 たったそれだけの『距離』の移動。
太公望が放った凄絶な呪術の嵐は、鏡介の着物の裾をわずかに揺らしただけで、そのまま虚空へと通り抜けていった。 鏡介のすぐ後ろの『封神台』の巨大な浮遊岩が、音もなく真っ二つにズレ落ち、下空の雲海へと崩落していく。
「力に力をぶつけるんじゃない……」
鏡介の口から、掠れた声が漏れた。
「……お前の『力』も……『悪意』も……『計略』も……最初から、ここには何も届いてない」
「……受け流した……だと……!?」
太公望の眉間が、険しく寄った。
数百年の間、数多の神々や英雄、妖魔を己の計略と圧倒的な神威で破滅させてきた太公望にとって、これは理解を超えた現象だった。 どんなに強力な神威も、どんなに緻密な呪術も、「ぶつかる相手」がいなければ成立しない。 鏡介は、己の存在を完全な「無」と化し、太公望の放つ攻撃のベクトルそのものを、ただ空を切るだけの無駄な運動へと変えてしまったのだ。
「戯言を……!!」
太公望が、初めてその優雅な立ち振る舞いを崩した。
長袍の裾を翻し、白磁のようなその右腕を過熱された光の槍へと変貌させる。 数千の神々を屠ってきた崑崙の真の神威。光の速度を超えた突きが、鏡介の喉元へと一直線に繰り出された。
破滅の光。 避けられない。防げない。
だが——鏡介の目は、その光の槍を見ていなかった。
鏡介が見ていたのは、太公望の「重心の移動」、その踏み込みの瞬間に生じた、わずかコンマ一秒の「心の乱れ」だった。
(喰らいつく……その力が、お前の隙だ)
鏡介は、踏み込んでくる太公望の光の突きに対し、逃げるどころか、自らその突きの手首の内側へと『距離』を詰めた。
至近距離。 息が触れ合うほどの、ゼロ距離。
太公望の光の槍が、鏡介の左肩の着物をかすめて裂く。 しかし、刺さらない。 鏡介はすでに、太公望の突きの「軌道の内側」へと体さばきで滑り込んでいた。
「……ッ!?」
太公望の目が、驚愕に見開かれる。
鏡介の素手の手のひらが、すっと、滑らかに太公望の右手首の関節へと触れた。
叩くのではない。握るのではない。 ただ、吸い付くように「添える」。
合気道——『第一教・正調(せいちょう)』。
「太公望……お前の言葉は、冷たすぎる」
鏡介は、太公望の漆黒の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「お前は人を……誰かを『駒』としてしか見てない。……だから、誰かが誰かを想う『温かさ』の前に……折れるんだ!」
「く……ぐあぁっ!?」
太公望の身体が、前へと傾いた。
鏡介は、力を一切入れていなかった。 太公望自身が、鏡介を殺そうとして前に踏み込んだその強大な「前進のベクトル」と「神威の自重」。その二つの力を、鏡介の手首の微小な円運動によって、そのまま太公望自身の「体幹の崩し」へと還流させたのだ。
自身の絶大な神威の重みが、そのまま自身を地面へと叩きつける巨大な質量となって太公望の肉体を襲う。
「馬鹿な……我が神威が……私自身を……引き倒す……!?」
太公望の体勢が、完全に空中へ浮き上がった。
天と地が、反転する。
崩れゆく『封神台』の天頂。 夕暮れのような柔らかな光が、雲の隙間から差し込み始めていた。
鏡介は、宙に浮いた太公望の手首を、静かに下方へと導いた。
力づくで投げつけるのではない。 落ち葉が地上へと還るように。 暴れる波が、穏やかな砂浜に消えていくように。
「……還れ」
鏡介の口から漏れたのは、祈りのような一言だった。
選ばなかった言葉。 敗者への侮辱も、勝利の誇示も、ただの正義の押し付けも——そこには何ひとつなかった。 ただ、狂った流れを正しい場所へと戻す、静かなる「受け流し」。
ズドォォォォォォンッ!!
太公望の青銅のごとき巨躯ならぬ、気高き神体が、『封神台』の固いコンクリートの床へと完璧に一本で叩きつけられた。
衝撃波が破裂する。 だが、その衝撃波は周囲を破壊する殺意の波ではなく、太公望の体内に滞留していた禍々しい『黒い神意』を、一気に外部へと霧散させる澄んだ清涼の風だった。
静寂が、再び世界を包み込んだ。
「……ク……ハッ……」
コンクリートに横たわった太公望の長袍が、泥と埃で汚れいていた。 白磁のような肌には幾重もの裂け目が走り、そこから禍々しい黒い光ではなく、穏やかな白い光の粒子が、サラサラと空へ向かってけて散っていく。
太公望は、仰向けになったまま、天井の雲が割れていく空を見つめていた。
その漆黒の瞳から、冷酷な支配者の光は消え去っていた。 あるのは、理解できない現象をそのまま受け止めるしかない、一人の古い「観測者」としての呆然とした虚無だけだった。
「……見事な……『無』だ……」
太公望の掠れた声が、風に溶けていく。
「力に抗わず……力を制せず……ただ私という『存在の威光』そのものを……無効化したか……。……日本の……小さな神使よ……」
太公望は、ゆっくりと目を閉じた。
「……私の……負けだ……」
その言葉とともに、太公望の肉体は数千の光の粒子となって分解し、天頂の風に乗って空へと静かに溶けて消えていった。
彼の使っていた釣竿の破片も、浮遊祭壇を維持していた不吉な黒い神威も、すべてが幻のように消滅していく。
『封神台』の巨大な円盤が、静かにその浮遊力を失い、地上へと向かってゆっくりと下降を始めた。
◇
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
鏡介は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
全身の脱力感。 骨の芯まで使い果たした神力。 手のひらは赤く腫れ上がり、着物はボロボロに引き裂かれている。 だが、その胸の奥には、冷たい絶望ではなく、どこまでも澄み切った穏やかな温もりが満ちていた。
「鏡介……!」
胸のポケットから、ぽっと光が溢れ出た。
画面の中から跳び出してきた万魂通音乃神が、半透明の小さな身体で、鏡介の頬にペタリと抱きついた。 その小さな身体は、以前のような弱々しい光ではない。数万の人間たちの「認知」と「感謝」を受け止めた、気高く、温かい黄金の威光を優しく放っていた。
『やったな……! やったで、鏡介! あの気取ったおっさん、ほんまに一本で投げ飛ばしてもうた!』
「……万魂……」
鏡介は、震える手で万魂の小さな背中を包み込んだ。
「……勝てたよ……俺たち……」
『当たり前や! ウチらを誰やと思ってんねん! 迅雷鏡介と……万魂通音乃神やで!』
万魂は涙をポロポロとこぼしながら、鏡介の鼻の頭を自分の額でコツンと打った。 その温かい触れ合い。 雑居ビルの小さな部屋で始まった、不器用で、小さくて、けれど何よりも大切な二人の「日常」の証。
下降していく『封神台』の向こう側。
雲が完全に切れ、夕暮れの黄金色の光が、壊れかけた黄龍城の街並みを優しく照らし出していた。
不法建築の屋根。ネオンの消えた看板。 その路地裏のあちこちから、生き残った住人たちがこわごわと顔を出し、空を見上げているのが見えた。 彼らの手には、まだ青白く光るスマートフォンが握られていた。
「おい……空が……」 「助かったのか……? 俺たち……」
誰かが呟いた声が、風に乗って届く。
そして——。
「……おいおい、派手に決めたじゃねぇか、小僧」
階段の影から、泥と血に塗れた巨大な影が、肩を借りるようにして歩み寄ってきた。
褐色のアラビアン調の肌。破れかぶれのバンテージから干からびた血を覗かせながらも、豪快な不敵な笑みを浮かべた男——カシム・ディアロ。
そして、そのカシムの巨体を片肩でしっかりと支え、自身もトレンチコートを破られながら、整った金髪を夕風になびかせる女性——カテリーナ・パパドプロス。
ふたりは、生きていた。
死線を潜り抜け、四凶の怒涛を食い止め、泥の底から這い上がってきた彼らの姿がそこにあった。
「カシムさん……! カテリーナさん……!」
鏡介の目に、再び熱いものが込み上げた。
「泣くなと言ったはずよ、鏡介くん」
カテリーナは、かさついた唇で静かに微笑んだ。 その黄金の瞳には、傷ついた戦友への深い敬意と、無事に生き残れたことへの温かな安らぎが宿っていた。
「……見事な一本だったわ。ヘスティアの査問部としても……一人の仲間としても、あなたを誇りに思うわ」
「へっ、まったくよ! あの気取り腐った太公望が、綺麗に引っくり返る瞬間、下からしっかり見させてもらったぜ!」
カシムが痛む脇腹を押さえながら、ガハハと豪快に笑った。
「さあ……帰ろうぜ。腹が減って死にそうだ」
「ええ……帰りましょう」
鏡介は、カシムとカテリーナの手を借りて、ゆっくりと立ち上がった。
選ばなかった言葉。 「よかった」「無事でいてくれてありがとう」——そんな言葉は、わざわざ口にしなくても、交わす視線と触れ合う肩の温もりだけで十分に伝わっていた。
夕焼けの光が、傷だらけの四人を優しく包み込む。
魔都・黄龍城を揺るがした長き夜は終わりを告げ、ささやかで、けれど愛おしい「宴の跡」の時間が、静かに訪れようとしていた。
◇
だが——この時の彼らは、まだ知らなかった。
この黄龍城での戦いを通じて、万魂通音乃神が解き放った「全ネットワークへの同期」と、数万の人間たちからの「認知」が、世界中の神話体系のパワーバランスを根底から揺るがし始めていたことを。
オリンポス、崑崙、そして日本の高天原。 今まで彼女を「バグ」や「弱小神」として見下していた高位の神々が、いまや【万魂通音乃神】という存在の不可逆な『真価』に、驚愕と恐怖をもって注目し始めていることを。
新たな時代の波が、静かに、しかし確実に動き出そうとしていた。
(第27話へ続く)
第27話:宴の跡と届いた名前
スープの湯気が、湿り気を帯びた夜風にほどけて消えていく。
過熱した金属の臭いも、焦げた肉の死臭も、すでに黄龍城の路地裏からは薄れつつあった。 残されていたのは、湿ったコンクリートの匂いと、屋台の寸胴鍋から漂う鶏ガラと濁った醤油の香ばしい匂いだけだ。
雑居ビルの隙間に追いやられた、小さな中華屋台。 赤提灯のビニールはあちこちが破れ、油で黄ばんだプラスチックの丸椅子が四つ、傾いたアスファルトの上に並べられていた。
「へい、お待ち。チャーシューはまけておいたよ」
店主の老人が、油染みのついた前掛けで手を拭いながら、ずっしりと重い丼を四つ、カウンター越しに差し出した。
「……ありがとうございます」
迅雷鏡介は両手で丼を受け取った。 指先から伝わってくるのは、痛いくらいに熱い陶器の感触。右腕の皮膚はすでに元通りの薄い肌色に戻っていたが、筋肉の奥底に溜まった疲労感は重く、丼を持ち上げる腕すら微かに震えていた。
「うひょーっ! これこれ! これだよ! この体に悪い脂の浮いたスープが五臓六腑に染み渡るんだよなぁっ!」
カシム・ディアロが、太い腕で箸を割り、ガツガツと豪快に麺をすすり上げた。 包帯でぐるぐる巻きにされた褐色の太い首筋が、熱い湯気を受けて汗を浮かべている。四凶との死闘で全身傷だらけのはずだが、その顔にはいつもの無邪気で豪快な笑みが戻っていた。
「ちょっとカシム、品がないわよ。スープを跳ね飛ばさないで」
カテリーナ・パパドプロスが、トレンチコートの袖を折り返しながら、嫌そうに丼から身を引いた。 軍帽のない金髪が、屋台の裸電球の光を受けて柔らかく揺れる。彼女は受け取ったレンゲで静かにスープを掬い、フーフーと息を吹きかけてから唇を湿らせた。
「……まぁ、悪くはないわね。塩分が過剰だけれど、今の身体にはこれくらいが丁度いいわ」
「素直に『美味い』って言えばいいのにさぁ、査問官様は」
「うるさいわね。……ほら、鏡介くんも冷めないうちに食べなさい」
「あ、はい」
鏡介はレンゲを手に取り、澄んだスープを口に含んだ。 塩辛い。そして、じんわりと温かい。 太公望との決戦、あの息の詰まるような『無』の境地から、自分自身がこの生身の肉体へと戻ってきたことを、胃の腑の温もりが静かに教えてくれた。
胸のポケット。 そこから、小さな半透明の手がすうっと伸びてきて、鏡介の丼の上のメンマを一つ、器用に摘み上げた。
『うむ……ウチの分もちゃんと入れといてくれな困るで』
画面から姿を現したのは、純白と黄金の衣を纏ったままの万魂通音乃神だった。 身丈十センチほどの小さな姿のまま、メンマを口に運び、モグモグと頬を膨らませている。
「万魂……神様なんだから、人間のラーメンなんて食べなくてもいいんじゃないか?」
「アホ言いな、鏡介。美味しいものを食べるのはな、神様かて人間かて同じなんや。それに……今のウチは、この街の連中の『声』と『腹減った』って想いを直で受けてるんやから、食欲も百倍やで!」
万魂は胸を張り、鼻の頭にスープの滴をつけながら笑った。
その笑顔を見て、鏡介はふっと肩の力を抜いた。
ささやかな日常。 不味いカップ麺や、安っぽい屋台のラーメン。 冷えた缶ジュースを割り勘で買い、狭い302号室でくだらないテレビ番組を見て笑う、そんな何ひとつ特別ではない時間。
それこそが、自分たちが命を懸けて守り抜いたものだった。
◇
「……で、これからどうするんだよ、カテリーナ」
カシムが二杯目の麺を口に放り込みながら、口の周りを手背で乱暴に拭った。
「ヘスティア査問部に戻るのか? あんた、上層部の命令を無視して俺たちの助けに来ただろ。お咎めなしってわけにはいかねぇんじゃねぇの」
カテリーナはレンゲを静かに置き、レンゲの柄を指先でなぞった。 ふっと、彼女の黄金の瞳に小さな影が落ちる。
「……査問部への報告書は、すでに提出したわ。『黄龍城における崑崙神族の暴走に対し、現場の最高責任者として緊急事態条項を適用し、対処した』とね。太公望の消滅によって崑崙の計略が瓦解した以上、査問部も私の判断を追認せざるを得ないはずよ」
「へっ、相変わらず抜け目がねぇな。だがよ……」
カシムは箸を止め、鏡介と万魂へと視線を向けた。
「あの気取ったゼウスの親父殿は、なんて言ってくるかな」
「……」
屋台の中に、しばしの『沈黙』が落ちた。
裸電球が風に揺れ、アスファルトの上に四人の影を小さく揺らす。
鏡介もまた、言葉を選べずにいた。 自分はもともと、日本の高天原から『レンタル出向』という不条理な形で、オリンポス神話の最下層へ送り込まれた神使に過ぎない。 今回の黄龍城の危機を破砕したとはいえ、それはゼウスの指示に従ったからではなく、自分たちの意志で立ち上がり、仲間とともに戦った結果だ。
主神ゼウスが、この結果をどう受け止めるか。
「……心配いらないわ」
カテリーナが、静かに、しかし断固とした声で沈黙を破った。
「ゼウス様も……いや、オリンポスの最高評議会も、もはや彼女の存在を無視することはできないわ」
「え……?」
鏡介が顔を上げると、カテリーナの視線は鏡介の胸元——万魂へと向けられていた。
「今回の戦い……黄龍城の全ネットワークを同期させ、数万の人間たちの『認知』を一瞬で反転させたあの奇跡。……あれは、単なる地方の弱小神格が起こせる現象の域を超えていたわ」
カテリーナは懐から、薄型の情報端末(タブレット)を取り出し、カウンターの上に滑らせた。 画面には、世界中の神話機関が共有するデータベースのリアルタイム更新ログが表示されている。
そこに刻まれていたのは——。
【正統神格登録・承認コード:JPN-NET-00001】 【神名:万魂通音乃神(バンコントウオンノカミ)】 【神格階級:高天原・新世代正調霊格(第三等級相当から急速上昇中)】 【観測認知領域:極東全域およびグローバル・デジタル通信網】
「……これ……」
鏡介は息を呑んだ。
「通信網を媒介とし、人々の『声』と『想い』を正調の神威へと変換する一柱の独立した神。……高天原の旧態然とした神々も、オリンポスの査問部も、彼女を『名前のないバグ』として処理することは完全に不可能になったのよ」
画面に映る『万魂通音乃神』の文字。
かつては名もなく、誰にも祀られず、雑居ビルの一室でスマートフォンの画面の中に引きこもっていた小さな女神。 彼女の放った叫びが、何万もの人々に届き、その『名前』が今や全世界の神々の記憶に、消せぬ足跡として刻まれたのだ。
『ふ、ふんっ!』
万魂は照れ隠しのように顔を背け、フリルの袖で鼻を擦った。
『当たり前やんか! ウチを誰やと思ってんねん。……でもまあ、ウチがどんだけ凄くなっても、鏡介の「通信端末」の中に居座るのは変わらへんけどな』
万魂は、鏡介の肩にちょこんと飛び乗り、その頬に小さく額を押し当てた。
「万魂……」
「……よかったな、万魂」
カシムが豪快に鏡介の背中を叩いた。
バシィンッ!
「痛っ……! カシムさん、力入れすぎです!」
「ガハハ! 祝い酒ならぬ祝いラーメンだ! 店主、替え玉もう一杯!」
「あいよ!」
店主の威勢の良い声が響き、湯気が再び四人の間を白く包み込んでいく。
選ばなかった言葉。 「ありがとう」も、「すごかったね」も、もう言う必要はなかった。 互いがどれほどの犠牲を払い、どれほどの覚悟を持ってあの戦いを生き抜いたのか、この一杯の温かいラーメンを囲んでいるだけで、すべてが伝わっていた。
◇
だが——夜風が、微かに冷たさを増した。
カテリーナのタブレットの画面が、静かに明滅を繰り返している。
正統神格として登録された『万魂通音乃神』のデータログの背景で、赤く不吉な警告アラートが、誰にも気づかれないほどの周期で点滅していた。
黄龍城の決戦は終わった。 太公望という巨大な歪みは排除され、街には束の間の平和が戻ってきた。
しかし、世界のパワーバランスは、この戦いをきっかけに激しく歪み始めていたのだ。
東方の巨大神族・崑崙が最深部の『四凶』と最高幹部の一人を失い、沈黙を余儀なくされたこと。 そして、名もない日本の神使と弱小神が、神話のパワーバランスを覆すほどの『力』を示したこと。
その波紋は、すでにオリンポスの雲上の宮殿へ、さらには遠く北の氷原へ、砂漠の古代神殿へと届いている。
「……鏡介くん」
カテリーナが、ふと静かな声で呼んだ。
「……何ですか?」
「ううん。……なんでもないわ」
カテリーナは言葉を飲み込み、レンゲを置いた。 彼女の黄金の瞳は、夜空の向こう——まだ見ぬ新たな嵐の予兆を、遠く見つめているようだった。
「……明日も、ちゃんと朝食を食べなさいね。合気道の鍛錬も怠らないこと」
「はい。わかってます」
「よし! 食ったら帰って寝るぞ! 302号室の布団が俺を待ってるぜ!」
カシムが立ち上がり、大袈裟に背伸びをした。
四人の影が、街頭の明かりの中に長く伸びる。 ささやかな宴の跡。 けれど、その誰もが知っていた。この穏やかな日常のすぐ隣に、次なる巨大な戦いの足音が、静かに迫ってきていることを。
(第28話へ続く)
第28話:オリンポスの沈黙、そして……
朝の光は、いつもと同じ雑居ビルの錆びた窓枠から差し込んできた。
埃の粒が、斜めに差し込む光の筋の中でゆっくりと揺れている。 昨夜の雨が残した水たまりの匂いと、スラムの路地裏特有の油臭さ、そしてキッチンから漂う香ばしい醤油と焼き鮭の匂いが混ざり合っていた。
高層スラム302号室。 畳の擦り切れた六畳間に、低いくしゃみがひとつ響いた。
「ハックションっ! ……ふぅ、ちょっと風が冷たくなってきたな」
迅雷鏡介は、使い古した合気道着の帯をキュッと締め直し、小さなパイプ椅子の腰掛けに座った。 右手の手のひらをじっと見つめる。 昨日までの過熱した解呪の毒も、皮膚を焼き切るような紫の斑点も、すでに綺麗に消え去っていた。だが、指先を強く握り締めると、関節の奥に重く鈍い痛みが走る。それは、あの『封神台』で太公望の凄絶な神威を受け流し、正調に戻した瞬間の「重み」の余韻だった。
「ほら鏡介、ぼーっとしてんと大根おろしすりや。鮭が冷めてまうで」
胸のポケットではなく、卓上に置かれた最新型のタブレット画面から、万魂通音乃神がひょっこりと顔を出した。 画面の中の彼女は、昨夜の光り輝く純白と黄金の衣から、いつものフリル服へと戻っている。けれど、その佇まいにはどこか以前にはなかった、静かで揺るぎない「芯」のような威光が宿っていた。
「あ、ごめん万魂。今やるよ」
「まったく……昨日の今日で疲れが残ってるんは分かるけどな、朝メシ抜きは許さへんからな。ウチら神様と神使の基本は『よく食べ、よく働く』や!」
画面の中で腕組みをし、威風堂々と胸を張る万魂。 鏡介は苦笑しながら、プラスチックのおろし器で大根をすり始めた。シャリシャリという規則的な音が、狭い部屋の中に響く。
「おいおい、朝から夫婦漫才か? 仲が良いこっちゃねぇの」
ガラガラと引き戸が開き、洗面所から濡れた髪をタオルで拭きながらカシム・ディアロが入ってきた。 上半身は裸で、胸元から背中にかけては真新しい包帯が痛々しく巻かれている。それでも、彼の太い腕には力強さが戻り、日焼けした褐色の肌には健康的な血色が差し始めていた。
「誰が夫婦やねんっ! ウチは高天原の正統神格・万魂通音乃神様やぞ!」
「はいはい、分かった分かった。……で、査問官様はまだ起きてこねぇのか?」
カシムがちゃぶ台の脇にどっかりと腰を下ろし、冷えたお茶の入った湯呑みを手に取った。
「カテリーナさんなら、早朝から通信室(ベランダ)で本部に定時連絡を入れてるよ」
「……へん、固いねぇ。命のやり取りを終えた翌朝くらい、ゆっくり寝てりゃいいのにな」
カシムはそう言いながらも、どこか安心したように湯呑みを口に運んだ。
この狭い部屋の中で流れる、何ひとつ特別ではない時間。 昨夜、黄龍城全体を巨大な黒い呪符に変えようとした太公望の邪悪な儀式を破砕し、四凶の残滓を叩き潰したことなど、まるで遠い異国の昔話であるかのように、ここでは静かな「日常」が流れていた。
だが、その日常の隙間に漂う空気は、確実に変わりつつあった。
◇
カチャリ、とベランダのアルミサッシが開く音がした。
トレンチコートの裾を整えながら、カテリーナ・パパドプロスが部屋へと戻ってきた。 朝の冷たい空気を纏った彼女の金髪が、陽光を受けて透き通るように輝いている。軍帽を机の上に静かに置き、彼女は鏡介たちの向かい側へと腰を下ろした。
「……連絡が終わったわ」
カテリーナの声は、どこまでも澄んでいた。 だが、その黄金の瞳の奥には、簡単に読み解くことのできない「沈黙」が潜んでいた。
「オリンポス本部……そして、最高主神ゼウス様からの正式な回答よ」
カシムが箸を止め、鏡介も大根おろしの手を止めた。 卓上のタブレット画面の中で、万魂も静かにカテリーナを見つめ返した。
「……なんて言ってきたんだ?」
カシムが低く尋ねる。
カテリーナは手元の端末を操作し、ホログラムの通信ウィンドウを小さなちゃぶ台の上に展開した。 そこに浮かび上がったのは、不気味なほど洗練されたオリンポス最高評議会の刻印——そして、雷光を模した金色の大紋章だった。
「まず……迅雷鏡介くん、および万魂通音乃神に対する『レンタル出向期間中の不従順』についての問責は、すべて撤回されたわ」
カテリーナの言葉に、鏡介は小さく息を吐いた。
「太公望の独断による黄龍城の私物化、および四凶の不法錬成。これらを排撃し、東方の魔都の崩壊を未然に防いだ功績は、オリンポスにとっても無視できない巨大な成果となった。……同時に高天原側からも強い異議申し立てがあったわ。万魂通音乃神が『正統神格』として全世界のデータベースに登録されたことで、高天原の長老会が彼女の権利主張に乗り出したの」
『ふん、当然や! ウチをいつまでも「レンタル品」みたいに扱われてたまるかいな』
万魂が画面の中でフリルのスカートを揺らし、フンスと鼻を鳴らす。
「……つまり、鏡介の出向は『解除』ってことか?」
カシムが身を乗り出した。
「これであんたらは、日本の高天原へ堂々と帰れるってわけだな?」
「……本来なら、そうなるはずだったわ」
カテリーナの言葉が、途切れた。
部屋の中に、重い『沈黙』が落ちた。
ちゃぶ台の上の焼き鮭から上る細い湯気が、ゆらりと揺れて消えていく。 鏡介は、カテリーナの視線が自分から微かに外れ、窓の外の遠い空へと向けられていることに気づいた。
選ばなかった言葉。 「よかったですね」「これで終わりましたね」——そう口にしかけた自分の言葉が、喉の奥でつっかえる。
「……『本来なら』ってのは、どういう意味だ、カテリーナ」
カシムの声から、冗談めかした色が消えた。
カテリーナはゆっくりと息を吸い込み、ホログラムのウィンドウを別のデータへと切り替えた。
そこに映し出されたのは、地球全体の「神威グリッドマップ」だった。
黄龍城が存在する東方の大陸。そこを中心に、北の極寒の地、西の砂漠地帯、そして地中海の海域——世界中のあらゆる神域を示す光の点が、血のように重々しい赤色に明滅していた。
「太公望の敗北と、崑崙神族の最高幹部層の失脚……。それによって生じた『東方の神威の真空地帯』は、あまりにも大きすぎたのよ」
カテリーナの指先が、北の極寒の地——アスガルドを示す領域をなぞった。
「崑崙が沈黙したことで、世界の神話体系のパワーバランスは一瞬で瓦解した。……すでに動き出しているわ。北欧神話(アスガルド)の主神群が、東方の権益と神威集積地を狙って南下を開始した」
画面が切り替わる。 今度は西の巨大な砂漠地帯——エジプト神話の領域。
「さらに、エジプトの古代神話体系……『アトゥム評議会』もまた、長きにわたる不干渉条約を破り、壊滅した黄龍城のインフラ(ネットワーク)を自らの神威領域へと組み込もうと神使たちを派遣し始めた。……そして、それを迎え撃つために、オリンポスもまた全軍の動員命令を発令したわ」
「なっ……!?」
カシムが思わず立ち上がった。
「全軍動員だと!? オリンポスが本気で動き出したら……神話同士の全面戦争じゃねぇか!」
「ええ……」
カテリーナの声は、どこまでも冷ややかで、しかし深い痛みを孕んでいた。
「黄龍城でのあなたの戦い、そして万魂通音乃神の覚醒。……あなたたちが示した『正調の力』と『人間の認知の書き換え』は、あまりにも魅力的で、同時に他の神々にとって『恐るべき脅威』となってしまったのよ」
カテリーナの黄金の瞳が、真っ直ぐに鏡介を捉えた。
「ゼウス様は、迅雷鏡介くんの『レンタル出向解除』を保留とした。……それどころか、あなたと万魂通音乃神を、対北欧・対エジプト戦線における『特殊調律部隊』として、直属の最前線へ組み込む決定を下したわ」
「……そんな……」
鏡介の手から、大根おろし器がぽろりと滑り落ち、ちゃぶ台の上に小さな音を立てて転がった。
戦いは、終わっていなかった。 太公望という個人の野望を打ち砕いた結果、彼らがこじ開けてしまったのは、世界中の神々が互いの生存と覇権を賭けて潰し合う——**『世界神話大戦』**という、さらなる地獄の扉だったのだ。
◇
部屋を包む沈黙は、先ほどまでの穏やかな朝の空気とは全く異なっていた。
ちゃぶ台を囲む四人の間の『距離』が、急速に引き引き絞られていく。
「……ふざけやがって」
カシムが、低く絞り出すように呟いた。 その太い拳が、ちゃぶ台の端を固く握り締め、筋肉がみしりと音を立てる。
「あの気取った雷親父……! 小僧と万魂が命がけで街を守ったってのに、今度は世界中のバケモノどもと戦わせようってのかよ! 冗談じゃねぇぞ!」
「カシム……感情的にならないで」
カテリーナが静かに制した。しかし、彼女自身の膝の上で重ねられた両手もまた、微かに震えていた。
「これは最高評議会の決定よ。……断れば、鏡介くんは『叛逆者』として全神話体系から追討の対象になる。……高天原も、オリンポスとの対立を恐れて彼を庇い切ることはできないわ」
「だからって……!」
「カシムさん」
鏡介の声が、二人の言い争いを静かに遮った。
カシムとカテリーナが、ハッと息を呑んで鏡介を見た。
鏡介は、転がったおろし器を静かに拾い上げ、ちゃぶ台の上に正した。 その表情には、絶望も、怒りも浮かんではいなかった。
ただ——昨夜、太公望の攻撃を受け流した時と同じ、深海のように静かで、温かな瞳があった。
「……大丈夫です」
「鏡介……お前……」
「僕たちが断ったら、またこの街や、他の街の人たちが巻き込まれるんですよね」
鏡介は自分の手を見つめた。
合気道の道場で、師範から教わった言葉。 『力に抗うな。争いに加わるな。だが、降りかかる災いから目を背けるな』。
自分が選んできた道。 カシムやカテリーナと出会い、雑居ビルの部屋で過ごし、万魂とともに「人の声」を聞いてきた時間。 世界がどう変わろうと、神々がどんな欲望をぶつけ合おうと、自分がやるべきことは最初から変わっていない。
「僕はいきます」
鏡介は顔を上げ、カテリーナを見つめた。
「オリンポスの命令だからじゃない。……僕と万魂が、この手で守れるものを守るために」
『……ふん、相変わらず格好つけやがって』
画面の中から、万魂の静かな声が響いた。
万魂は画面の端に腰掛け、小さな脚をぶらぶらと揺らしながら、鏡介に向かってニッと笑ってみせた。
『ウチも付き合うで、鏡介。北欧の雷神だか、エジプトのファラオだか知らんけどな……ウチらの「通信(でんぱ)」と「声」の力で、全員正調に戻したったらええねん!』
少女の形をした女神の瞳には、かつての弱小神としての怯えは微塵もなかった。 人々に届く真の神として、彼女もまた鏡介とともに歩む覚悟を決めていたのだ。
「……まったく、呆れた二人ね」
カテリーナが、ふっと吐き出すように息を漏らした。 その口元に、昨日までの固さが取れた、小さな、けれど心からの笑みが浮かんでいた。
「一人で行かせるわけがないでしょう。……私も、査問部・第一等級としての権限をすべて使って、あなたたちの監視(同行)を継続するわ」
「ヘッ……言われなくても、俺もついていくぜ!」
カシムが豪快に自分の胸をドンと叩いた。
「砂漠の暴風カシム様を置いていくなんて許さねぇからな! 北欧の氷のバケモノどもに、俺の猛炎を叩き込んでやる!」
「カシム……傷が塞がっていないでしょう。無茶は禁物よ」
「ははっ! この程度の傷、朝飯食えば治るわ!」
四人の視線が交錯する。
そこにあったのは、契約や命令による関係ではない。 死線をともに潜り抜け、不器用な日常を分かち合ってきた者たちだけの、固く切れない「絆」だった。
◇
朝食が終わる頃には、空の雲が完全に切れ、澄み切った青空が広がっていた。
壊れた黄龍城の街並みに、新しい一日が訪れる。 路地裏からは、復旧作業を進める住人たちの威勢の良い声や、遠くで鳴る工事の打撃音が聞こえていた。
鏡介は、自分の小さな荷物をリュックサックに詰めた。 使い古した合気道着、予備のTシャツ、そして手垢のついたスマートフォン。
「行くか」
「おう!」
カシムが重い鉄の扉を押し開けた。
階段を降り、雑居ビルの外へと出ると、湿った風が四人の頬を撫でて吹き抜けていった。
遥か北の空。 そこには、肉眼では見えないはずの巨大な「氷の亀裂」のような神威の歪みが、寒々しく広がっていた。 そして西の地平線からは、黄金の砂嵐を思わせる凄絶な圧迫感が、ゆっくりと押し寄せてきている。
『世界神話大戦』。
かつてない規模で訪れる、世界の終わりの始まり。
だが、迅雷鏡介は足を止めなかった。
隣には、豪快に笑う砂漠の戦士。 前を行く、気高く美しい査問官。 そして胸元で、温かい光を放ちながら寄り添う一柱の女神。
「行こう、みんな」
鏡介は静かに踏み出した。
青空の下、四人の影が、新たな戦場へと続く道に向かって、長く、強く伸びていた。
(第29話へ続く)
第29話:氷点下の派遣命令
重く低いエンジン音が、機体の骨組みを通じて鼓膜の奥を揺さぶり続けていた。
軍用輸送機『C-17改』の貨物室。無機質なグレーの塗料が剥げかけた壁面は、外気の異常な冷気を遮断しきれず、じわりと湿った結露を生んでいた。指先で触れれば、皮脂が一瞬で貼りついて奪われるような刺すような冷気だ。
迅雷鏡介は、壁際に固定されたパイプ椅子の上で小さく吐息をついた。 吐き出された息は瞬時に白く濁り、機内の薄暗い非常灯の光を拾って虚空に消える。
「……寒いな」
ぽつりと漏れた声は、ゴツゴツとした大型エンジンの重低音にかき消された。
「そりゃそうよ。外は氷点下三十度を下回っているわ。ここはロシア極東……シベリア戦線の最前線基地へ向かう上空だもの」
向かい側の座席で、カテリーナ・パパドプロスがトレンチコートの襟を立てながら静かに口を開いた。軍帽を目深にかぶり直し、膝の上に置いた端末の画面を見つめている。彼女の指先もまた、寒さで微かにかじかんでいるように見えた。
「おいおい、文句言っても暖かくはならねぇぞ、小僧」
鏡介の隣で、カシム・ディアロが太い腕を組んで背もたれに深く体を預けていた。 褐色の首筋には、黄龍城での決戦の痕跡である傷跡と包帯が痛々しく残っている。カシムは無造作に胸ポケットから固形食料のパックを取り出すと、ガサガサと音を立てて袋を破った。
「ほらよ。食っとかねぇと、寒さで腹から凍りつくぜ」
カシムから投げ渡されたのは、パサついた高カロリーの乾燥ビスケットと、表面がすっかり冷え切ったスチール缶入りの缶コーヒーだった。
「あ……ありがとうございます、カシムさん」
缶を握りしめると、金属の冷たさが手袋越しにも伝わってくる。プルタブを引き起こすと、微かな金属音とともに、仄かな甘い香りが漂った。口に含んだコーヒーは温もりなどとうに失われていたが、人工的な砂糖の甘さが、疲弊した脳の奥にじんわりと染み渡っていく。
『ちょっとカシム! ウチの分は!? 画面の向こうやからって無視せんといてよ!』
鏡介の胸ポケットから、画面を明滅させて万魂通音乃神がひょっこりと顔を出した。 手のひらサイズの少女の神格は、画面の中でぷくっと頬を膨らませて抗議してみせる。
「ハハッ、神様が缶コーヒー飲むのかよ。欲しけりゃ画面の端っこに写真でも描いといてやるよ」
『アホ! 雰囲気の問題や! 鏡介、ウチにも一口飲ませてぇな』
「はいはい……万魂、画面にこぼさないでね」
鏡介は缶の呑み口をタブレットのカメラ部分にそっと近づけた。万魂は画面の中で『ん〜!』と満足そうに目を閉じ、まるで残り香を味わうように鼻を鳴らした。
ささやかな、いつもの光景。 缶コーヒーのチープな甘さ、カシムの雑な笑い声、万魂の甲高い抗議、そしてカテリーナの冷ややかな、けれどどこか温かい眼差し。
どれほど世界が歪み、過酷な戦場へ放り出されようとも、この小さな四角い座席の周りだけに流れる「日常」の断片が、鏡介の心を辛うじて繋ぎ止めていた。
だが、機体が急激に高度を下げ始め、重力で体が浮き上がる感覚とともに、その静寂は唐突に破られた。
『——本機は間もなく、シベリア第7仮設国連軍基地に着陸する。要員は降機準備を始めよ』
無機質なスピーカーからのアナウンスが響く。
カテリーナが端末を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。その表情からは先ほどまでの柔らかな陰りが消え、オリンポス査問官としての冷徹な仮面が覆いかぶさっていた。
「……ここから先は『国連軍』の名目を借りた、神話大戦の泥沼よ。余計な情は捨てなさい、鏡介くん」
「……はい」
鏡介は重い缶を飲み干し、拳を固く握りしめた。
◇
機体のリアハッチが滑るように開き、雪交じりの凄まじい暴風が機内に雪崩れ込んできた。
「ぐっ……!」
思わず皮膚が悲鳴を上げる。 ただの寒さではない。空気に混じるのは、氷粒子と——歪んだ「神威」の残滓。鼻腔を突くのは、焦げた重油の臭いと、鉄の錆びた血の匂いだった。
目の前に広がっていたのは、見渡す限りの白銀の世界——そして、それを泥と黒煙で汚した凄惨な前線基地の光景だった。
滑走路の脇には、巨大な軍用ヘリや装甲車がズラリと並び、その車体には「国連(UN)」の青いマークと、その上から覆いかぶさるように金色の「オリンポス」の紋章が刻まれている。 平和維持という美名のもとに派遣されたこの軍隊が、実質的にはオリンポス神話の覇権拡大のための尖兵であることを、その歪な塗色が雄弁に物語っていた。
「ようこそ、オリンポスが誇る最前線へ」
基地の巨大な天幕(テンポラリー・ベース)に入ると、石油ストーブの熱気とともに、威圧的な神威の圧迫感が四人を襲った。
天幕の奥、豪華な折りたたみ式の革製椅子に深々と腰掛けていた男が立ち上がった。 全身を漆黒と金の重厚な軍服で包んだ男。その胸元には幾つもの勲章が光り、背後には巨大な両刃の剣が飾られている。 武神アレス派の神官にして、この国連軍第三混成旅団を率いる将軍——マルス。
「査問部からの『出向組』か。高天原の出来損ないの神使に、脱走兵上がりの蛮族……フン、ゼウス様も物好きなことだ」
マルスは冷ややかな黄金の瞳で鏡介たちを一瞥すると、吐き捨てるように言った。 その視線には、最初から人間や異国の弱小神に対する敬意など欠片も存在しなかった。
「将軍」カテリーナが前に出た。「私たちは最高評議会の直属として派遣されました。今回の作戦概要の共有を求めます」
「報告など不要だ、査問官」 マルスは机の上の作戦地図を指先で叩いた。
「このシベリア戦域において、我ら国連軍(オリンポス)の敵は明確だ。かつてこの地を支配していたスラヴ神話の残党……そして、侵攻を続けるロシア邪神派のゲリラどもだ」
マルスは冷酷な笑みを口元に浮かべた。
「奴らは敗残兵となり、周辺の廃村に潜伏して我々の補給線を脅かしている。お前たちの初任務は『清掃』だ。北西15キロに位置する廃村・ボロディノへ向かい、潜伏しているスラヴ神話の残党を一人残らず排除しろ」
「残党の排除……? 捕虜としての収容ではなくですか?」
鏡介が思わず口を挟んだ。
マルスは冷たい視線を鏡介に向けた。
「問答は無用だ、高天原の小僧。神話の秩序を乱す異端に生存の権利などない。……これは国連軍の正当な『平和維持活動』だ。命令に従えないというなら、お前たちをその場で叛逆者として処分するが?」
マルスの背後に控えていた重装神兵たちが、一斉に槍の石突きを地面に突き立てた。 重い金属音が天幕内に響き渡る。
「……了解しました、将軍」
カテリーナが鏡介の肩を静かに手で制し、深く頭を下げた。
天幕を出ると、再び吹雪が彼らを包み込んだ。
「ちっ……気取った野郎だ。国連軍だかなんだか知らねぇが、やってることはただの身ぐるみ剥ぎじゃねぇか」
カシムが雪を唾とともに吐き捨てた。
「……鏡介くん、分かっているわね」 カテリーナが前を見つめたまま、静かに呟いた。
「オリンポスは、このシベリアの神域を完全に自らの手中におさめようとしている。北欧(アスガルド)やエジプト(アトゥム)が介入してくる前に、スラヴの古神道を根絶やしにし、神威領域を強奪するつもりよ」
「そんな……それじゃあ、ここにいる人たちや、抵抗している神々はどうなるんですか?」
「歴史から消されるわ。……それが、大国(大神話)のやり方よ」
鏡介は胸のポケットに手を当てた。 万魂は静かに沈黙を守っている。通信網を通じて、この極寒の地に満ちている無数の「悲鳴」と「絶望の声」を、誰よりも痛切に受け取っているからだろう。
「行こう。……とにかく、現場を見なければ始まらない」
四人は装甲車に乗り込み、吹雪の吹き荒れる白銀の荒野へと踏み出していった。
◇
廃村・ボロディノ。
かつては林業と農業で成り立っていたであろうその村は、完全に死に絶えていた。 倒壊した木造の家屋、黒く焼け焦げたトラクター、そして雪に埋もれた壊れた教会。 人間の気配は一切ない。風が木々を揺らすヒューヒューという音だけが、耳障りに響いていた。
「……静かすぎるな」
カシムが背中の大剣の柄に手をかけ、周囲を鋭い目つきで警戒する。
装甲車を村の入口に止め、四人は雪を押し分けながら慎重に進んだ。 膝まで埋もれる深雪。一歩踏み出すたびに、ザクッ、ザクッという重い音が響く。
手袋越しに握る合気道の稽古用の短刀(木刀)の感触。 鏡介は息を殺し、全神経を研ぎ澄ませた。
視界を奪う猛吹雪。 ホワイトアウトに近い状態の中、急激に肌を刺す神威の密度が跳ね上がった。
(……来る!)
「皆、伏せろっ!!」
鏡介の叫びと同時に、吹雪の向こうから青白い「雷光」が一直線に切り込んできた。
ドドォンッ!!
爆風と雪煙が舞い上がり、鏡介たちが直前まで立っていた積雪が一瞬で蒸発、黒い土露が剥き出しになる。
「奇襲か!?」 カシムが即座に大剣を引き抜き、正面の雪煙を打ち払った。
吹雪の霧の向こうから、ぬうっと姿を現したのは——異形の群れだった。
氷で形成されたような狼の姿をした神獣たち。そして、その中央に立つ一人の影。
透き通るような白銀の髪を乱し、ボロボロの青い革鎧を身に纏った少女。 その手には、自らの背丈ほどもある巨大な一本の「斧槍(ハルバード)」が握られていた。
彼女の瞳は、激しい怒りと、死を覚悟した深い絶望の光で爛々と輝いていた。
「オリンポスの犬どもめ……! 伝承の土地を荒らし、我らの血を啜る不埒な侵略者ども!」
少女の声は、風を切り裂く雷鳴となって響いた。
「我が名はベローナ! スラヴの雷神ペルーンの刃! ……この地を渡すくらいなら、魂ごとここで果てよ!!」
少女——ベローナが斧槍を振り下ろすと、周囲の空間全体が青白い電撃に包み込まれた。
「くっ……! カテリーナさん、カシムさん!」
「分かってるわ! 迎撃する!」
オリンポスの冷徹な思惑、そして故郷を追われたスラヴの神々の絶望。 極寒のシベリアの廃村で、言葉を交わす余地すらない死闘の火蓋が、いま切って落とされた。
(第30話へ続く)
第30話:傷ついた雷神たち
大気が爆ぜる音が、視界を覆う白い闇を叩き割った。
青白い雷光が吹雪を焼き、焦げたオゾンの匂いが鼻腔を鋭く刺す。 落雷の直撃を受けた巨大な針葉樹が、甲高い悲鳴を上げて乾いた音とともに半ばから折れ飛んだ。飛び散る氷の礫が鏡介の頬を掠め、一筋の紅い線を描く。滴る血が一瞬で凍りつき、小さな痛みが神経の先端を痺れさせた。
「ハァ……ハァ……ッ!」
凄惨な呼気が、猛吹雪の咆哮に打ち消されていく。 青い革鎧の隙間から覗く肌は傷だらけで、右足からは溢れ出た血が雪を朱色に染めていた。 スラヴの少女神、ベローナ。 その肩は激しく上下し、蒼白な顔に貼りついた白銀の髪の隙間から、憎悪と悲哀の混ざり合った瞳が鏡介を睨みつけている。
彼女が構える巨大な斧槍の刃には、命を削り出すかのような青白い雷光が渦巻いていた。
「去れ……侵略者ども……!」
ベローナの声は震えていた。だがそれは恐怖からではない。自らの血を薪とし、命の火を燃やし尽くそうとする捨て身の覚悟ゆえだ。
「これ以上……この土地を、我らの記憶を踏みにじるな!!」
大地を蹴る音。 ベローナの身体が残像となり、吹雪の刃となって肉薄した。 刃先が描く必殺の軌道。重厚な神威を乗せた一閃が、鏡介の首元を正確に捉える。
「鏡介っ!」
カシムの叫びが響く。だが、鏡介は動かなかった。
逃げるためでも、迎撃するためでもない。 ただ、踏み出す。
静けさが、彼の心に満ちていた。 シベリアの猛吹雪の音も、オゾンの焦げた臭いも、死の圧迫感も、すべてが研ぎ澄まされた意識の底へと沈んでいく。
相手の力に逆らわない。 刃の重み、突き出される神威の波動、少女の体温と、その奥にある「震え」。
(——そこだ)
刃が首筋を裂く直前、鏡介は半身を僅かに開いた。 合気道——『体さばき』。
滑り込んできた斧槍の柄に、鏡介の手のひらが吸い付くように添えられる。 刃の勢いを押し返すのではなく、円を描くように円周運動へ導く。少女が全突進力を込めたベクトルを、そのまま前方へと滑り落とす。
「なに……っ!?」
ベローナの瞳が驚愕に見開かれた。 自慢の神威と腕力が、まるで巨大な沼に吸い込まれたかのように空を切る。重心を完全に崩され、前傾姿勢のまま身体が前方に放り出された。
鏡介は彼女の腕を捻り上げず、刃の威力を殺しながら、優しく背中に手を添えて積雪の中へと導いた。
ドサッ。
重い音とともに、ベローナの身体が深い雪の中に沈み込む。 斧槍が手元から滑り落ち、雪原に突き刺さった。
「ハ……ガハッ……!」
ベローナは必死に立ち上がろうと雪を掻いた。だが、すでに極限を超えていた身体は言うことを聞かない。激しい咳込みとともに、雪の上に鮮血が飛び散る。
「……終わりだ」
カシムが背中の大剣を鞘に収め、雪を踏みしめながら近寄ってきた。カテリーナもまた、懐の拳銃から指を離し、静かな眼差しで倒れた少女を見下ろしている。
「殺せ……」
ベローナは雪に顔を伏せたまま、悔しさに唇を噛みちぎらんばかりに叫んだ。
「命を乞うつもりはない……! オリンポスの犬に捕らわれ、屈辱を味わうくらいなら……ここで殺せ!!」
「殺さないよ」
鏡介は静かに膝をつき、積雪の上に視線を合わせた。 ポケットから取り出した清潔な手ぬぐいを、彼女の流血する右足へと当てがう。
「……な……にを……」
「怪我、酷いじゃないか。動かないで」
「気安く触るな! 騙されるものか……! お前たち大国はいつもそうだ! 偽りの平和を口にしながら、我らの土地を奪い、血を吸い上げ……!」
ベローナの叫びは、悲鳴に酷似していた。 故郷を奪われ、仲間を失い、追われ続けた者だけが持つ、痛切な拒絶の壁。
その時だった。
鏡介の胸ポケットから、温かな光がぼんやりと溢れ出した。
『……見つけたで』
万魂通音乃神の声が、普段の軽快さを削ぎ落とした、静かで切ない響きを伴って届いた。
画面の中に現れた万魂は、溢れ出る文字データ(ログ)の光を愛おしそうに両手で包み込んでいた。それは、ベローナの斧槍から、そしてこの極寒の廃村全体から漂う「祈り」と「通信」の残滓だった。
「万魂……?」
『……この子たち、戦いたくて戦ってるんやない。……見ろや、鏡介』
万魂が指先で操作すると、タブレットの画面からホログラムの映像が雪原の上に投射された。
そこに映し出されたのは、ロシア邪神派の黒い軍勢によって焼き払われるスラヴの村々の姿。 そして、その火の海の中で、傷ついた人々や子供たちを背中に庇いながら、必死に盾となって散っていったスラヴの古神たちの姿だった。
ペルーンの使徒、チェルノボグの闇に抗う精霊たち。 彼らは権益のためでも、覇権のためでもなく——ただ、これ以上戦争を広げさせないため、虐殺される民草を逃がすための「時間稼ぎ(ゲリラ戦)」を行っていたのだ。
『「お願いだから、これ以上誰も殺さないで」「もうお家に戻りたい」「お父さんを返して」……そんな民衆の悲鳴が、この子の斧槍にびっしりこびりついてる……』
万魂の声が途切れた。
ベローナの目から、溢れ出た涙が頬を伝い、氷の粒となって雪に落ちた。
「……私たちは……ただ……」
ベローナの声は、小さく掠れていた。
「この狂った戦争を……止めたいだけだ……。チェルノボグの邪神どもは、人々が殺し合う血と憎悪を喰らって強くなる……! 奴らが勝てば、この世界は永久に開けない地獄になる……! だから……私たちは立ち上がったのに……」
選ばなかった言葉。 鏡介は、「かわいそうに」とも、「僕たちも味方だ」とも言わなかった。 安易な同情は、命を賭けて戦ってきた彼女の誇りを傷つけるだけだと知っていたからだ。
ただ、静かに手ぬぐいを結び直し、彼女の目を見つめた。
「聞こえたよ。きみたちの『声』は」
「……え?」
「僕たちは、きみたちを殺しに来たんじゃない。……この戦いを、終わらせるために来たんだ」
ベローナは息を呑み、鏡介の真っ直ぐな瞳から目を離せなくなった。
◇
だが、その沈黙を切り裂くように、地響きのようなエンジン音が雪原の彼方から響き渡った。
「——ほう。手こずっていると思えば、鼠を一匹捕まえただけか」
吹雪を押し戻しながら現れたのは、巨大な装甲兵員輸送車と、それに率いられたオリンポス重装神兵の部隊だった。
ハッチが開き、天幕にいたアレス派の将軍マルスの副官——漆黒の甲冑を纏った神将が姿を現す。その手に握られた大槍からは、不吉な処刑の威光が放たれていた。
「よくやった、出向組。そのスラヴの残党を引き渡せ。これより『現場処刑』を執り行う」
副官の冷酷な宣言に、カテリーナの眉が跳ね上がった。
「待ちなさい。彼女は重要な情報を持つ捕虜よ。本部での尋問が先決のはず……!」
「マルス将軍の命だ」副官はカテリーナの言葉を冷ややかに遮った。「スラヴの残党に尋問の必要などない。この場で首を跳ね、その神威を回収することが、我ら国連軍の『秩序維持』である。……それとも何か? 査問官殿は、異端を庇うおつもりか?」
重装神兵たちが一斉に槍を構え、鏡介たちを囲い込むように歩みを進める。
逃げ場のない雪原。 背後には、動くこともできない傷ついた少女神。 目の前には、圧倒的な戦力を背景にした「自軍(オリンポス)」の威圧。
カシムの手が、背中の大剣の柄に滑る。 カテリーナの黄金の瞳が、葛藤に揺れる。
国連軍の命令に従い、この少女を見捨てれば、自分たちの地位と安全は保証される。 だが——ここで彼女を見捨てれば、自分たちが守ろうとしてきた「日常」も、生きる意味も、すべてが嘘になってしまう。
重く、息の詰まるような『沈黙』が、四人の間に落ちた。
風の音だけが響く。
鏡介は、静かに立ち上がった。 そして、ベローナの前に立ち、重装神兵たちの前に自らの背中を置いた。
「……鏡介?」
ベローナが呆然と見上げる。
「何をしている、小僧! そこを退け!」副官が怒声を張り上げた。
鏡介は答えなかった。 代わりに、隣に並び立ったカシムが、ガリガリと首を鳴らしながら大剣を引き抜いた。
「へっ……悪ぃな、隊長さんよ。俺ぁ元々、上からの命令ってのが大嫌いでね」
「カシム……あなたまで」カテリーナが呆れたように溜息をついた。けれど、彼女の右手はすでにトレンチコートの内に隠された二丁の聖拳銃を握り締めていた。「……全く。こんな不合理な選択、査問官としての評価は最低ね」
「カテリーナさん……」
「いいわ、鏡介くん。報告書にはこう書いておきましょう。『吹雪による視界不良の中、敵残党の奇襲を受け、対象は逃亡した』……とね」
カテリーナの口元に、冷たくも美しい笑みが浮かんだ。
「な……貴様ら、狂ったか!? 国連軍への叛逆——」
副官が叫び切るより早く、カテリーナの聖拳銃が火を噴いた。
チュドォンッ!!
弾丸が副官の足元の雪を爆破し、巨大な雪煙の壁を作り出す。
「カシムさん、鏡介くん! 彼女を連れて地下網へ飛び込みなさい!」
「おうよっ!」
カシムがベローナの華奢な身体を軽々と片腕で抱え上げ、鏡介とともに雪煙の奥へと駆け出した。
「追え! 叛逆者どもを逃がすな! 殺せ!!」
背後で怒号と槍の突き出す音が響く。だが、極寒の猛吹雪とカテリーナの巧みな牽制射撃が、追手の視界を完全に遮っていた。
◇
「ハァ……ハァ……っ!」
どれほど雪の中を走っただろうか。
村の外れ、雪に埋もれた古い教会の地下——そこには、スラヴのゲリラたちが掘り進めた、隠された地下坑道の入り口があった。
「ここだ……! 入れ!」
カシムが重い鉄の扉を押し開き、四人は地下の暗闇へと飛び込んだ。
ガンッ!
扉を閉ざし、太い閂(かんぬき)を降ろす。 外の猛吹雪の音と、追手の怒号が、厚い石と土の壁によって遠のいていった。
暗く、湿った地下道。 壁に設置された松明の橙色の光が、息を荒らげる四人の顔をぼんやりと照らし出している。
ベローナはカシムの腕から下ろされ、壁に背を預けたまま、信じられないという目で鏡介たちを見つめていた。
「なぜ……」
彼女の声が、静かな地下道に響いた。
「なぜ、私を助けた……? お前たちはオリンポスの軍勢だろう……。私を捨てれば、お前たちは何のお咎めもなく……!」
鏡介は乱れた息を整えながら、手袋についた雪を払い落とした。
「言ったろ。僕たちはきみたちの『声』を聞いたんだ」
「声……?」
「『助けて』でも、『許して』でもない……『戦争を止めたい』っていう、一番正しくて、一番切ない声だ」
鏡介はベローナに向かって、そっと手を差し伸べた。
「僕たちの仲間も……万魂も、カシムさんも、カテリーナさんも、みんな誰かの『声』を守るために戦ってる。大国の思惑なんて関係ない。……きみたちの戦いを、ここで終わらせたくないんだ」
ベローナは、差し出された鏡介の手を見つめた。 それは神の力に満ちた頑強な手ではなく、擦り傷だらけの、人間の少年の手だった。
一瞬の沈黙。
ベローナの瞳から溢れた涙が、今度は凍ることなく、彼女の頬を温かく濡らした。
彼女は震える手を取り、鏡介の手を固く握り返した。
「……ありがとう……」
それが、言葉を超えて重なった、確かな誓いの瞬間だった。
地下道の奥から、松明の光を持った幾つもの人影が近づいてくる。 ペルーンの使徒たち——傷ついたスラヴの精霊や神々が、ベローナの無事を確かめるように集まってきていた。
オリンポスからの逃亡、国連軍への叛逆。 戻るべき安全な場所を失った鏡介たち。だが、その胸の中にあったのは絶望ではなく、確固たる『意志』の熱量だった。
地上の吹雪の音を聞きながら、彼らはスラヴの抵抗勢力が潜む、さらに深い地下網の暗闇へと歩みを進めていった。
(第31話へ続く)
第31話:歪んだ流血の祭壇
地下道を満たす湿気は、どこか古びた鉄と泥の臭いを孕んでいた。
地上から遮断された空間には、天井の亀裂から染み出す水滴が落とす、ポツリ、ポツリという規則的な音だけが響いている。 冷気はなおも足元から忍び寄っていたが、地上を吹き荒れる猛吹雪の牙に比べれば、この暗がりは不器用な優しさすら感じさせた。
「……熱いから、気をつけて飲んでね」
ベローナの手から渡されたのは、縁がかけて歪んだ素焼きの深皿だった。
そこに注がれていたのは、刻んだ根菜と僅かな塩だけで煮込まれた、色の薄い湯気立つスープ。 横に添えられた黒パンは驚くほど硬く、指で押しても窪みすらできない。
「すまない。私たちが差し出せるのは、この程度のものしかない」
「いや、十分すぎるさ。腹が減っちゃ戦はできねぇからな」
カシムは豪快に笑うと、黒パンを力任せに割り、スープに浸して口へ放り込んだ。 固いパンが汁を吸って解ける音。噛み締めるたびに、ライ麦の強い酸味と塩気が口いっぱいに広がる。
鏡介もまた、両手で温かい深皿を包み込んだ。 指先から少しずつ体温が戻ってくる。スープをそっと一口口に含めば、素朴な野菜の甘みが冷え切った食道を静かに通っていった。
「美味しいよ、ベローナ」
「……そうか」
鏡介の言葉に、ベローナは微かに視線を泳がせ、傷ついた頬を朱に染めて背を向けた。 その背中には、周囲に潜む傷ついた精霊や使徒たちが、小さく肩を寄せ合って眠る姿があった。 子どもほどの大きさしかない森の精霊(レスシー)が、寒さに震えながら折れた枝のような腕を抱え込み、かつて雷神の眷属であった老神が、錆びついた手斧を大切そうに胸に抱いている。
『うう……ウチもそのスープの匂いだけで白飯三杯はいけるわ。画面の向こうにおるのが、ほんまにもどかしいで……』
胸のポケットから身を乗り出した万魂が、画面の中でレンゲを振り回すジェスチャーをして見せる。
「万魂、ごめんね。地上に戻ったら、ちゃんとしたご飯を食べよう」
『約束やで! 鏡介、特大のラーメン奢りや!』
ふっとカテリーナの口元が和らいだ。 彼女はトレンチコートの裾を汚れから守るように軽く持ち上げ、素焼きの皿から静かにスープを掬う。
「悪くないわ。過剰な香辛料で誤魔化された異国の料理より、ずっと体に馴染むわね」
言葉数は少ない。 だが、この暗い地下坑道の中で交わされる一口のスープと、互いの呼吸の確かめ合い。 それだけが、オリンポスという巨大な機構から切り離され、追われる身となった彼らを繋ぎ止める、確かな日常の錨だった。
「……で、ベローナ」 カシムが空になった皿を置き、身を乗り出した。 その顔から冗談めかした色が消え、狩人の眼光が戻る。
「例の『邪神の巣くう城』ってのは、ここからどれくらいだ?」
ベローナの表情が即座に引き締まった。
「この地下網を西へ二キロ……かつてシベリアの軍事用地下保管庫として使われていた巨大要塞だ。今は、ロシア邪神派——チェルノボグの配下どもが占拠している」
◇
湿った坑道をさらに奥へと進むにつれ、空気の質が目に見えて変化していった。
清涼な土の臭いは消え失せ、代わりに鼻を突くのは、腐敗した重油の臭い。 そして、鉄分が錆びついたような、あの生理的な嫌悪感を催させる「生血」の臭気だった。
「……くっ」
鏡介は思わず袖で口元を覆った。 肌にまとわりつく湿気が、ねっとりと重い。 皮膚の毛穴という毛穴から、毒のような神威が染み込ん でくるような錯覚に陥る。
「気をつけなさい」カテリーナが低く囁き、二丁の聖拳銃を低く構えた。「前方の空間……神威の密度が異常に跳ね上がっているわ」
ベローナの誘導により、四人は要塞の排気口と思われる鉄格子の影に身を潜めた。
格子の隙間から見下ろした光景に、鏡介は息を呑んだ。
そこは、旧ソ連時代に建てられた巨大な地下ドックのような広大空間だった。 天井からは幾重もの太いケーブルが垂れ下がり、かつて軍事車両が並んでいたであろう床面には、異様な「血の回路」が描かれている。
空間の中央に鎮座するのは、巨大な鉄製の祭壇。 その周りを囲むように、軍服のような漆黒の鎧を纏った巨躯の神格たちが立ち集まっていた。
「見ろ……あれが、チェルノボグに魂を売った黒い神々だ」
ベローナが憎悪を込めて吐き捨てる。
邪神の配下たち。その姿は、かつてのスラヴの勇猛な戦神たちの面影を残しながらも、醜悪に歪んでいた。 ある者は腕が機関砲と融合し、ある者は頭部が錆びた鉄兜と一体化している。
彼らが取り囲んでいる祭壇の上には、黒く脈打つ巨大な結晶体が浮かんでいた。
『な……なにやこれ……!?』
万魂の声が、恐怖で細く震えた。
『通信網を通じて、泥みたいな「声」が流れ込んできてる……! 「殺せ」「許さない」「寒くて痛い」「もっと血を」……これ、全部人間たちの悲鳴と呪いや!!』
「……なんですって?」
鏡介が凝視すると、結晶体の周囲に漂う不吉な黒紫色の靄(モヤ)が見えた。 それは、シベリア戦線で傷つき、死んでいく兵士たち、家を焼かれた民草たちの絶望、憎悪、そして殺意の「感情エネルギー」そのものだった。
結晶体が脈打つたびに、黒紫色の靄が吸収され、邪神たちの身体に張り巡らされた管を通じて注ぎ込まれていく。 それを受けるたび、黒い神格たちの肉体はより肥大化し、禍々しい威光を増していった。
「ハハハハハ! 素晴らしい! 今日の『収穫』も極上だな!」
祭壇の脇に立つ、顔の半分が機械の装甲で覆われた巨漢の神格——邪神将ヴァルカンが、凶悪な高笑いを上げた。
「戦線が膠着すればするほど、死者の数は増す! 絶望は深まる! 人間どもが互いを憎み、血を流せば流すほど、我らは果てしなき神威を得るのだ!」
「将軍」部下の神格が低く叩頭する。「オリンポス軍(国連軍)の動きが活発化しております。スラヴのゲリラどもを追撃しているようですが……」
「放っておけ!」ヴァルカンは吐き捨てた。
「オリンポスどもも愚かよ。奴らが『正義』や『秩序』を掲げて威圧すればするほど、民草の絶望は深まり、我らの糧が増える! 戦いが長引くことこそが我が主チェルノボグ様の悲願! 戦いが長引くほど、我らは強く美しくなるのだからな!!」
ヴァルカンは腕を広げ、肉体を爆発させるように誇示した。 その装甲の隙間から、何千人もの人間の苦悶の顔が浮かび上がり、消えていく。
「見ろ、このみなぎる力を! 戦争とは最高の祭壇! 人間の流血こそが、我ら神々に捧げられる至高の供物なのだ!!」
ゲラゲラと重低音の嘲笑が地下ドック全体にこだまする。
「……ふざけやがって」
低い、地の底から響くような声が漏れた。
カシムだった。 彼の太い拳が、排気口の鉄格子を締め上げ、ギチギチと金属が悲鳴を上げている。 褐色のアラビアの戦士の顔には、かつて見せたことのない、純粋な「怒り」の炎が宿っていた。
「戦いが長引けば美しくなるだと……? 兵士が、子どもたちが、泥の中で血を吐いて死んでいくのが……お前たちの糧だと……!?」
カシムの故郷もまた、大国たちの争いによって焦土と化し、多くの仲間が散っていった。 戦場の凄惨さを誰よりも知り、だからこそ軽妙な日常を愛するカシムにとって、人間の苦痛を「食料」として嘲笑う邪神たちの狂気は、決して許し得ない絶対の禁忌だった。
「カシム、落ち着きなさい」
カテリーナがカシムの肩に手を置いた。 静かな声。だが、彼女の黄金の瞳もまた、絶対零度の殺気で凍りつ行いていた。
ヘスティア査問官として、秩序と法を守るために生きてきた彼女。 だが、目の前にあるのは「神話」の名を借りた、ただの醜悪な寄生虫の姿だった。
「あんなものは……神でも何でもないわ」
カテリーナの指先が、聖拳銃の引き金に固くかかる。
「人間の悲鳴を貪り、命を弄ぶだけの化け物。……存在すること自体が、この世界の歪みそのものよ」
鏡介は胸のポケットを握りしめた。 万魂が端末の向こうで、必死に涙を堪えているのが伝わってくる。
通信(でんぱ)とは、本来、遠く離れた大切な人に想いを届けるためのものだ。 「元気でいてほしい」「また会いたい」という、人間のささやかで温かな祈りを運ぶためのものだ。
それを、邪神どもは殺意と憎悪に書き換え、自らの欲望のために汲み上げている。
(許せない……)
鏡介の腹の底から、静かな、けれど決して消えることのない熱い感情が湧き上がってきた。
合気道の手ほどきで教わった、「世の理を正す」ということ。 暴走する力を殺すのではなく、本来あるべき循環へと戻すこと。
「カテリーナさん、カシムさん」
鏡介が低く呼ぶと、二人がハッと鏡介を見た。
「あの結晶体……あの『流血の祭壇』を破壊すれば、人々の悲鳴を集める回路は断てるはずです」
「……ああ、そうだ」カシムが凶暴な笑みを口元に浮かべた。「あの黒い塊を、俺の炎で粉々に焼き払ってやる」
「作戦を立てるわ」カテリーナが冷徹に思考を巡らせる。「まずは敵の配置を把握し、一撃で祭壇を粉砕する。……ベローナ、抜け道は確保できる?」
「あ、ああ……! 異論はない!」
ベローナもまた、手に握った斧槍を強く握り直した。
だが、その時だった。
『……っ!? 鏡介、危ない!!』
万魂の悲鳴のような叫びが響くと同時に、地下ドック全体の明かりが一瞬で掻き消えた。
「なにっ!?」
「——不快な鼠の臭いがすると思えば」
闇の中から、ぬうっと現れたのは、巨大な鉄兜を被った邪神将ヴァルカン本人だった。 彼は排気口の壁を、巨大な機械の腕で紙クズのように破り取っていた。
赤く発光する単眼が、暗闇の中で鏡介たちを正確に捕捉する。
「侵入者か。……ふん、オリンポスの匂いと、高天原の落ちこぼれ、そしてスラヴの残兵か。雑多なゴミが集まったものだな」
「見つかったか……!」
カシムが即座に大剣を引き抜き、ヴァルカンの巨大な機械腕を受け止めた。
スパーク!!
凄まじい火花が暗闇を照らし出す。カシムの足元のコンクリートが、一瞬でクモの巣状に亀裂を走らせた。
「ガハハハハ! 逃がさんぞ! 我が祭壇の新たな血の贄となれ!!」
ヴァルカンの咆哮とともに、暗闇の中から無数の黒い神兵たちが一斉に湧き出してきた。
「鏡介くん、下がりなさい!」
カテリーナの聖拳銃が闇を切り裂き、眩い光弾が押し寄せる神兵たちを穿つ。
「くっ……!」
鏡介は襲い来る敵の槍を、半身を翻して間一髪で受け流した。 だが、数が多すぎる。要塞全体が警報の赤光に包まれ、地鳴りのような足音が四方を埋め尽くしていく。
錆びた鉄と血の臭い。 狂気と殺意が渦巻く地獄の底で、鏡介たちの生存を賭けた潜入捜査は、突如として最悪の乱戦へと変貌した。
(第32話へ続く)
第32話:通信の途絶、氷原の孤立
黒い火花が闇を切り裂き、破砕したコンクリートの粉塵が吹雪の冷気と混ざり合って舞い散っていた。
「鏡介! 左だッ!」
カシムの大叫びとともに、焦げた肉と重油の臭いが迫る。 鏡介は半身を大きく捻り、間一髪で襲い来る黒い鉄槍の刃先を受け流した。滑らせた槍の柄に沿って滑り込み、呼吸を整えて相手の肘を支点に「側方回転」の軌道を描かせる。邪神の先兵である巨躯の黒兵は、自らの突進力によって前方の雪塊へと豪快に突っ込んでいった。
「ハァ、ハァ……ッ!」
激しい呼吸が白く途切れ、喉の奥が乾いた血の味で焼けるように痛む。 要塞化された地下ドックの崩落に乗じ、決死の覚悟で脱出した鏡介たちだったが、地上で彼らを待ち受けていたのは、さらなる絶望の光景だった。
夜空を埋め尽くしていたはずの群青色の雪雲が、薄気味悪い赤紫色の帯を引いて渦を巻いている。 邪神チェルノボグの配下たちが放つ歪んだ神威と、地上のオリンポス軍(国連軍)が展開する重力遮断障壁が衝突し、シベリアの広域空域そのものが異常な電磁の檻へと変貌していた。
「カテリーナさん! 敵の包囲網を抜けて、一度本隊の通信回線に割り込めませんか!?」
鏡介は叫びながら、背後のベローナを庇うように立ち位置を変えた。傷ついたスラヴの精霊たちを抱えた彼女の足取りは重い。
カテリーナはトレンチコートの襟を風に叩かせながら、左腕の極小端末を叩き続けていた。しかし、琥珀色の光を放つモニターには、無機質な赤文字の警告が明滅するばかりだった。
「だめよ……! 『回線不通』——ううん、これは単なる自然障害じゃないわ。オリンポス軍の本部側から、意図的にアクセスを遮断されている!」
「なんですって……!?」
『あかん……! ウチのアンテナも全然届かへん!』
鏡介の胸ポケットで、端末の画面が激しく明滅した。 万魂通音乃神の小さな輪郭が、強い雑音(ノイズ)に揺れて歪んでいる。
『強烈なジャミングや……! それに、この周波数……邪神どものノイズと、オリンポス軍の軍事回線が重なり合っとる! なんでや……なんで敵同士の通信波形が噛み合ってんのや!?』
万魂の悲鳴のような解析結果に、カテリーナの表情が凍りついた。
「……密約ね」
カテリーナの絞り出すような声が、猛吹雪の風音に削り取られていく。
「オリンポス上層部……マルス将軍は、最初から邪神派を『壊滅』させる気なんてなかったんだわ。彼らは邪神どもに戦争を長引かせ、この土地の人間と神々の血を流させ続けることで、ロシア全域の神聖領域を弱体化させていたのよ」
「な……んだと……?」
カシムが血の付いた大剣を地に突き立て、激しい怒りに喉を鳴らした。
「じゃあ何か!? 国連軍の『平和維持』ってのは全部ポーズで、裏で邪神に餌(にんげん)を撒いて、ウクライナやスラヴの古神どもが全滅するのを待ってたってのか!?」
「そして、両者が疲弊しきった最高のタイミングで……『神罰』を下す」
カテリーナが夜空を見上げた。 その視線の先、渦巻く赤紫色の雲のさらに上空、極高空に静止する金色の大艦隊——オリンポス軍の旗艦『オリンピア』の船底が、眩い純白の光を帯び始めていた。
「ゼウスの雷光を模した広域殲滅兵器……『神罰砲』よ。あの照射範囲に入れば、邪神派も、ペルーン派の残党も、そして周辺の村々に残る名もなき人間たちも……何一つ残らず蒸発するわ」
「そんな……!」鏡介は息を呑んだ。「そんなことをしたら、ここに残っている何万人という人たちが……!」
「オリンポスにとっては『仕方のない犠牲』よ。残虐な邪神を滅ぼし、シベリアを『解放』した正義の騎士として、この広大なロシアの神域と資源を総取りできる。最高効率の政治(ゲーム)じゃない」
カテリーナの黄金の瞳に、静かな、けれど底知れない絶望の影が差していた。 彼女自身が信じ、捧げてきた「国連軍」という正義。ヘスティア査問官として守ってきたはずの規律が、最初から膨大な虐殺を覆い隠すための美しい包装紙に過ぎなかったという残酷な現実。
「……くっ……ふふっ……」
カテリーナの薄い唇から、乾いた笑いが漏れた。
「私としたことが……何が査問官よ。世界を正すための光だと信じていたものが、一番醜い汚物だったなんてね……」
彼女の手が震えていた。 聖拳銃を握りしめる指関節が白く変色し、皮膚が破れそうなほど強く握り締められている。
「カテリーナさん……」
鏡介が一歩歩み寄り、彼女の肩にそっと手を置こうとした。 だが、カテリーナは首を横に振った。
「下がりなさい、鏡介くん。あなたたちまで巻き込むわけにはいかないわ。……私は、これから本国(オリンポス)に対する最高度の叛逆を犯す」
彼女は懐から、ヘスティア査問部の『金色の階級章』を取り出した。 聖なる火の意匠が施された、彼女の誇りの象徴。
カテリーナはそれを凍りついた積雪の上に投げ捨てた。 金属の軽い音が、吹雪の中に虚しく消える。
「カテリーナ・パパドプロスは、たった今をもって国連軍査問官の職務を放棄する。……これより私は、命令ではなく、私自身の意志で戦うわ」
「カテリーナさん!」
「あなたたちはベローナたちを連れて逃げなさい! 高天原へ戻るルートを探すのよ! あなたたちは『出向』で来させられただけ……この不毛な他国の共喰いに付き合う必要はない!」
「冗談言っちゃいけねぇな!!」
怒号が雪原を揺らした。
カシムが大歩で踏み込み、カテリーナの目の前に立ちはだかった。 背の低いカテリーナを見下ろすアラビアの戦士の顔には、獰猛なまでの笑みが浮かんでいた。
「脱走兵の俺を拾って、飯を食わせてくれたのは誰だ? 『鏡介、カシム、規律を守りなさい』ってカリカリ言いながら、いつだって俺たちの背中を守ってくれたのは誰だ、お嬢ちゃんよ!?」
「カシム……あなた、立場を弁えなさい……!」
「弁えてるから言ってんだよ!」カシムは大剣を肩に担ぎ直した。「俺たちは『チーム』だろ! 泥水を飲むのも、お偉方の顔面に拳を叩き込むのも、最初から一緒にやるって決めてんだよ!」
「カシムさんの言う通りです」
鏡介もまた、静かに、だが揺るぎない足取りでカテリーナの隣に並び立った。
「僕も……嫌です。見捨てるのも、諦めるのも。……ここでカテリーナさんを一人にして帰ったら、僕は二度と合気道の稽古なんてできません」
「鏡介くん……あなたまで……バカなことを……! 相手はオリンポス軍本隊と、邪神の巨大な神威よ!? 私たち数人だけでどうしろというの!?」
「やりましょう」
鏡介の口から出た言葉は、驚くほど静かだった。
「オリンポス軍の『神罰砲』も、邪神の『流血の祭壇』も……全部、人々の声を無視して、自分たちの都合だけで力を振りかざしてるだけだ。……なら、僕たちが『第三の選択肢』になればいい」
鏡介は胸のポケットに手を当てた。
「万魂。……途絶えた通信、繋ぎ直せるか?」
画面の中でノイズに塗れながら、万魂がグッと小さな拳を握りしめた。
『任せとき!! 確かにオリンポスの威光も邪神の呪いもデカい……けどな、この凍土の下には、寒さに耐えて『生きて帰りたい』って祈ってる人間たちの『声』が何万、何十万と眠っとるんや!』
万魂の目が、強い意志の光を取り戻す。
『その声を全部拾い集めて、ウチが巨大な『正調アンテナ』になったる! 邪神のノイズも、ゼウスの雷光も、全部まとめて叩き潰したるわ!!』
カテリーナは、呆然と三人を見つめていた。 自分を縛り付けていた「組織」「責任」「立場」という重鎖が、彼らのまっすぐな言葉によって、滑らかに解け落ちていくのを感じていた。
「……ほんとうに、救いようのないバカたちね」
カテリーナは目元を抑え、ふっと小さく吐息をついた。 次に顔を上げたとき、彼女の表情から迷いは完全に消え去っていた。
「いいわ。これより私たちは『独自の第三勢力』として、この戦場に介入する。目標は二つ……邪神チェルノボグの完全沈黙、そしてオリンポス神罰砲の照射阻止よ!」
「了解っ!」
「おうよ!」
ベローナが、傷ついた身体を刺すような雪の中に起こし、膝をついて二人を見上げた。
「お前たち……なぜそこまで……。私たちは、異国の神だぞ……?」
「関係ないわ」カテリーナはベローナに向かってそっと手を差し伸べた。「命を弄ぶ奴らに、神を名乗る資格はない。……行くわよ、スラヴの雷神。あなたたちの故郷を、私たちの『日常』を取り戻すために」
ベローナはその手を取り、力強く立ち上がった。
その時だった。
グラグラグラッ……!!
地盤そのものがひび割れるような、凄まじい地鳴りがシベリアの広域凍土を揺らした。
「……来るぞ!」カシムが低く唸る。
遠くの地平線、漆黒の雪煙を巻き上げながら、地表を割って巨大な「何か」が浮上してくる。
それは、無数の人間の腕と不吉な黒血で形成された、全高百メートルを超える異形の巨神。 ロシア邪神派の頂点、戦乱と流血を貪る古の禍神——チェルノボグの本体だった。
『ルァァァァァァァァッ!!』
世界を揺るがす咆哮が、人々の耳膜を叩き、精神を激しく揺さぶる。 上空ではオリンポスの神罰砲が最終充填のカウントダウンを開始し、地上では黒血の邪神が暴虐の爪を振り上げる。
絶望的な孤立無援。 だが、白銀の雪原に立つ四人の背中には、もう一切の惑いはなかった。
(第33話へ続く)
第33話:血の雪原、正調の雷鳴
天と地を分かつ白銀の境界が、黒い瘴気によって蠢く泥の海へと塗りつぶされていく。
極寒の風が皮膚を削り、呼吸のたびに喉の奥が焦げつくような凍傷の痛みを訴えていた。しかし、それすらも前方に聳え立つ異形が発する重圧の前には、ささやかな刺劇に過ぎなかった。
『ルァァァァァァァァッ!!』
吹雪を、雲を、大気を切り裂き、その咆哮が世界を震わせる。
地表を破って降臨したのは、百メートルを超える巨躯を覆う黒血の塊——ロシア邪神派の頂点、戦乱と血泥を貪る古の禍神、チェルノボグだった。
その表面は絶えず蠢いている。よく見れば、それは凝固した血の塊ではなく、戦場で無念の死を遂げた兵士たち、家を焼かれ凍えて死んだ民草たちの無数の顔面と、もがき伸ばされる黒い腕の群れだった。 ドロリと垂れ落ちる黒血が積雪に触れるたび、チリチリと不快な音を立てて雪を腐濁させ、酸性の重油のような悪臭が爆風とともに鼻腔を突き刺す。
上空では、オリンポス軍の旗艦から照射準備を進める「神罰砲」の極光が、禍々しくも美しい輪を描いて輝いていた。 地上には血を喰らう黒き巨神、天にはすべてを灰燼に帰す黄金の威光。二つの巨大な理不尽の狭間で、迅雷鏡介は稽古用の木刀を強く握り直した。
「……行くぞ!」
カシムが踏み込んだ。 踏みつけられた永久凍土が炸裂し、彼の背から溢れ出た紅蓮の炎が猛吹雪を蒸発させる。
「俺の命の火(焔)を喰らいやがれ! 『赤き焔の楔(クラック)』ッ!」
カシムの大剣が円環を描き、邪神の足元へ打撃の波走を叩き込む。黒血の巨足が一瞬揺らぎ、焦げた肉の臭いが広がった。しかし、傷口から吹き出す黒い血潮は瞬時に新たな腕となって再生し、カシムへ向けて凶悪な質量攻撃となって振り下ろされる。
「させるものか!」
カテリーナの二丁の聖拳銃が、澄んだ高音を奏でて火を噴いた。 純白の聖光を纏った弾丸が帯状の光軌を描き、チェルノボグの巨腕を正確に穿つ。着弾と同時に弾けた聖光が黒血を浄化し、その暴威の軌道をわずかに逸らした。
「いまよ、ベローナ!」
「スラヴの祖霊よ……我に雷をもたらせ!!」
ベローナが叫び、全神威を込めて斧槍を掲げた。 絶望の淵から立ち上がった彼女の全身から、青白く澄み切った雷光が溢れ出す。それはチェルノボグの黒い雷とは異なり、かつてこの豊かな大地を潤していた「慈雨の雷」の輝きだった。
ドカンッ!!
落雷がチェルノボグの顔面を直撃し、黒い腕の群れが悲鳴を上げて飛散する。
「グハッ……ハァ……ッ!」
ベローナは膝をつき、口から朱を吐いた。神威の限界を超えた負荷が、彼女の華奢な肉体を激しく苛む。だが、その瞳に失意の影はなかった。
「見たか……邪神……! 我らの祈りは……まだ途絶えていない!」
カシムの熱炎、カテリーナの聖光、そしてベローナの雷鳴。 三つの力が交差し、黒血の巨神の進撃を足止めする。しかし、敵の背後に渦巻く戦乱の怨念は果てしない。傷は瞬時に塞がり、さらなる殺気となって四人を押し潰そうと蠢いていた。
「ダメだ……再生が早すぎる……!」 カテリーナが額の汗を脱ぐいながら吐き捨てる。「人間の憎悪と恐怖が絶え間なく供給されている限り、あの巨躯は無限に修復されるわ!」
「供給を……絶つんだ」
鏡介が歩み出た。 彼の胸のポケットで、端末の画面が強烈な眩い光を放ち始めていた。
『鏡介……届くで。ウチの通信(でんぱ)なら、この歪んだノイズの底まで潜っていける!』
画面から飛び出した万魂通音乃神の姿は、すでに手のひらサイズではなかった。 彼女の背後には、無数の「言葉」や「文字」が光の帯となって旋風のように渦巻いている。
『邪神どもはな、戦場に満ちる悲鳴を『憎悪』に書き換えて喰っとるんや。……でもな、本当の『声』はそんなものやない。血を吐きながら兵士が最後に願ったこと、雪の中で震える母親が子供を抱きしめて祈ったこと……! 憎しみなんかやない! 『会いたい』『生きて帰りたい』『もう終わりにしたい』っていう、切実な正調の祈りなんや!!』
万魂が両手を高く天にかざした。
『ウチは……万魂通音乃神! 人と人、心と心を繋ぐ通信の神格や!! 嘘っぱちの憎悪(ノイズ)なんかに、人間の本当の声(祈り)が消されてたまるかぁぁぁ神通力・正調再放送(チューニング・ブロドキャスト)!!』
キィィィィィン……ッ!
澄み渡る金属音が、シベリアの広大な凍土全体に波紋となって広がった。
それは、物理的な音ではない。 魂の最奥に直接届く、圧倒的な「通信波動」の波だった。
突如として、チェルノボグの巨躯を構成していた黒い腕の群れが動きを止めた。 巨神の体内から、そして激しいジャミングに包まれていた暗い空から、いくつもの「声」が重なり合って響き渡り始めたのだ。
《……かあさん……冷たいよ……あったかいスープが食べたい……》 《……妻へ。無事でいてくれ。俺は……もう戦いたくない……》 《……神様、どうかあの子に……光を……》 《……帰りたい……我が家へ……平和な、あの場所に……》
それは、ウクリナの兵士の声であり、ロシアの兵士の声であり、名もなき市民たちの声だった。 国境も、神話の陣営も、政治の思惑も超えた、人間の裸の魂が紡ぐ「本当の祈り」。
『ル……!? ギ……ガアアアアアッ!?』
チェルノボグが狂ったように頭を抱え、苦悶の咆哮を上げた。 戦乱の憎悪を糧としていた邪神にとって、万魂が撒き散らす純粋な「平和への希望」と「生への執着」は、己の存在構造を内側から破壊する毒そのものだった。
「聞こえる……」 ベローナが胸に手を当て、目からボロボロと涙を溢れさせた。 「これが……私たちが救いたかった……人々の声……!」
「へっ……泣かせる声を聞かせてくれるじゃねぇか」 カシムが目元を袖で拭い、口元を歪めた。
「カテリーナさん、鏡介くん! 奴の『核』が露わになるわ! 全力で叩き潰しなさい!」
カテリーナの叫びとともに、万魂の正調通信を受けたチェルノボグの胸元が激しく亀裂を起こし、内に秘められた「流血の祭壇(核)」が黒い光を漏らしながら露わになった。
万魂が響かせる民衆の生の声は、上空のオリンポス軍神罰砲のジャミングをも突き破り、シベリア全域の電信柱、放置されたラジオ、兵士たちの通信機から一斉に溢れ出していた。
「戦争を止めろ」「家に帰ろう」という、数万の祈りの合唱となって。
『鏡介!! いけぇぇぇぇぇっ!!』
万魂の叫びが、鏡介の全身の血を極限まで滾らせた。
「——はいッ!」
鏡介は足裏で冷たい凍土を捉えた。 体幹を一直線に整え、呼吸を深く、静かに落とす。
背後に漂う無数の人々の祈りを、万魂の紡いだ通信の光を、自らの「腕」へと宿しながら。 迅雷鏡介は、狂乱する黒血の巨神に向かって、踏み出した。
(第34話へ続く)
第34話:凍土に芽吹く祈り
絶望は重い。だが、生きて帰りたいという無数の声は、それよりも遥かに重く、そして静かに熱かった。
万魂が再放送する人々の切実な祈りが、シベリアの寒空を震わせていた。 兵士たちの「生きて家族に会いたい」という囁き。母親たちの「どうか我が子に光を」という慈愛。その膨大な声の波動に貫かれた黒血の巨神チェルノボグは、胸元を大きく裂き、狂乱の呻きを上げていた。
『ル……アアアアアッ! 我らを拒むな! 流血を、絶望を我らに与えよッ!』
禍々しい拒絶の叫びとともに、チェルノボグの開いた胸腔から、膨大な黒血と鉄塊を凝縮させた破滅の巨腕が突き出された。 それは一撃で山を削り、何千もの命を飲み込んできた破壊の猛威。積雪を蒸発させながら、一直線に鏡介の頭上へと振り下ろされる。
「鏡介ぇっ!」
カシムの焦絶した叫びが届く。カテリーナが弾倉を打ち撃ち尽くしながら叫び、ベローナが斧槍を杖代わりに立ち上がろうとする。
だが、鏡介の視界からは、余計な音も、死の圧迫感も静かに消え去っていた。
(——重いな)
鏡介は、心の中で呟いた。 敵の攻撃のことではない。万魂が拾い集め、いま自らの背中に預けられている「人々の声」の重さだ。 誰かを踏みにじるための力ではない。ただ明日を生きたいという、ささやかで絶対的な熱。
踏み出した右足の裏が、凍土の確かな感触を捉える。 呼吸を丹田へと深く落とし、身体の軸を一直線に通す。
振り下ろされる破滅の巨腕。 鏡介は逃げなかった。刃や拳を叩きつけるわけでもない。 ただ、吸い寄せられるように、その破壊の軌道の「内側」へと半身を開いて滑り込んだ。
合気道——『体さばき』。
チェルノボグの放つ強大な破壊の力は、あまりにも重く、あまりにも直線的だった。 鏡介は自分の力でそれを押し返そうとはしない。滑り込ませた右手を巨腕の側面にそっと添え、相手の突進するベクトルをそのまま上空の天へと導く。同時に、左手を下方の地に向け、大地に根を張るように低く沈み込ませた。
天と地を繋ぐ一本の軸。
「——正調(せいちょう)・天地投げ」
鏡介の静かな呟きとともに、力が流れた。
チェルノボグが自ら発した破滅の神威、人間の憎悪を力に変えようとした過剰な質量——その全てが、鏡介の身体を導き手として円運動へと変換され、何一つ逆らうことなく自らの足元へと崩落していく。
『な……なに……っ!?』
チェルノボグの単眼が驚愕に揺れた。 巨大な肉体が浮き上がり、天と地が逆転する。 己の振るった圧倒的な暴力の重みによって、百メートルを超える黒血の巨神は、シベリアの雪原へと豪快に叩きつけられた。
ドォォォォォォォォンッ……!!
地響きがシベリアの地殻を激しく揺らした。 衝撃波が猛吹雪を全方向に吹き飛ばし、雪原に巨大なクレーターを穿つ。
叩きつけられた衝撃で、チェルノボグの胸元の核——「流血の祭壇」が乾いた音を立てて粉砕された。 核を失った黒血の肉体は、万魂が撒き散らす正調通信の光に包まれ、怨念の顔々が穏やかな表情へと変わっていきながら、サーッとサラサラした黒い砂へと崩れ去っていく。
『ア……アァ……』
最後に残った小さく掠れた声は、憎悪ではなく、長い苦痛から解放された安息の溜息だった。
黒い砂は凍土の風に洗われ、瞬く間に白銀の世界へと溶け込んで消えた。
◇
静寂が、訪れた。
あれほど荒れ狂っていた猛吹雪が、嘘のように止んでいた。
「ハァ……ハァ……っ」
鏡介は膝をつき、積雪に両手を突いた。 指先から伝わる雪の冷たさが、感覚を失いかけていた全身の神経を急速に呼び覚ましていく。激しい呼吸のたびに、胸の奥が焼けるように痛んだ。
ふと上空を見上げると、ぶ厚い群青色の雲の切れ間から、一筋の静かな陽光が差し込んでいた。
オリンポス軍の旗艦『オリンピア』の船底で眩しく輝いていた「神罰砲」の極光は、すでに消失していた。 万魂の放った無数の民衆の声が本部の通信回線にも流れ込み、さらに攻撃対象である邪神そのものが消滅したことで、照射の正当性を完全に失ったのだ。 上空の金色の艦隊は、何一つ残さず蒸発させる目論見を打ち砕かれ、沈黙を守ったままゆっくりと後退を開始していた。
「……勝ったのか、俺たち」
カシムが大剣を雪に突き立て、その場にどっかりと腰を下ろした。 彼の口から吐き出される白い息が、日差しを受けて光っている。
「ええ……勝ったのよ。不合理極まりない、最高の勝利ね」
カテリーナは二丁の聖拳銃をコートの内に収めると、投げ捨てていたヘスティア査問部の『金色の階級章』を雪の中から拾い上げた。 指先で雪を払い、少しだけ見つめた後、それをポケットに仕舞い込む。 査問官の肩書に戻るためではない。ただ、己の過去に区切りをつけるように。
ベローナは崩れ落ちるように雪原に膝をつき、空を仰いでいた。 その頬を伝う涙が、差し込む陽光に照らされてキラキラと輝いている。
「終わったのだな……。本当に……私たちの戦いは……」
「ベローナ」
鏡介は立ち上がり、彼女のもとへ歩み寄った。 選ぶべき慰めの言葉を探そうとしたが、何も口には出さなかった。言葉にすれば、彼女たちが背負ってきたあまりにも深い痛みを、安易に括ってしまう気がしたからだ。
ただ、静かに隣にしゃがみ込み、視線を同じ高さに揃えた。
ベローナは鏡介の顔を見つめ、それから自分の足元に視線を落とした。 黒血の邪神が消え去り、陽光が降り注ぐ積雪の小さな窪み。 そこに、ほんの僅かに覗く「緑色」があった。
凍りついた土を押し破り、ひっそりと芽吹いた小さな草の芽。
「……あ……」
ベローナの手が震えた。 彼女はそっと指先を伸ばし、その幼い芽に触れた。
「春が……来るのか。この土地にも……」
「来るさ」カシムが力強く頷いた。「どんなに酷い吹雪だって、一生降り続くわけじゃねぇ。泥を食ってでも生き残れば、必ずこうやって芽が出るんだ」
『ほんまやな……』
胸ポケットから身を乗り出した万魂が、画面の向こうでホッと胸を撫で下ろしていた。
『アンテナの負荷が凄まじくて、ウチもうクタクタや……。でも、みんなの「声」……ちゃんと届いてよかったなぁ、鏡介』
「ありがとう、万魂。きみがいてくれたからだ」
『へへっ、もっと褒めてええんやで!』
いつもの調子を取り戻した万魂の軽快な声に、周囲の空気がふっと緩んだ。
◇
数時間後。
スラヴの精霊たちが潜む地下網の入り口前で、四人はベローナたち抵抗神と向き合っていた。
「ここでお別れね」カテリーナが静かに告げた。「私たちは国連軍を「脱走」した身。これ以上ここに留まれば、追撃の火の粉をあなたたちに飛ばすことになるわ」
ベローナは深々と頭を下げた。
「感謝の言葉もない。お前たちがいなければ、私たちは今頃……。この恩は、ペルーンの使徒として生涯忘れない」
「困った時はお互い様だ」カシムが笑う。「だがな、次会う時はスープじゃなくて、ちゃんと肉の乗った大皿料理を奢れよ?」
「……ふっ、善処しよう」ベローナの唇に、初めて小さな、温かな微笑が浮かんだ。
鏡介はベローナの手を握った。 「体、大事にしてね」
選ばなかった別れの挨拶は山ほどあったが、一番単純な日常の言葉だけを口にした。
「ああ。お前たちも……どうか無事で」
互いに背を向け、歩き出す。 振り返ることはしなかった。それぞれの守るべき日常と、進むべき道が残されているからだ。
降り注ぐ陽光の中、雪解けの匂いが微かに鼻腔をくすぐっていた。 泥と錆の臭いに塗れていたシベリアの空気が、少しずつ本来の澄んだ冷たさを取り戻していく。
「さて……脱走兵にして叛逆者ね」 カテリーナがトレンチコートを羽織り直しながら、歩調を緩めずに言った。 「オリンポス本部に戻る道は完全に絶たれたわ。これからどうする、鏡介くん?」
「そうですね……」 鏡介は稽古用の木刀を腰に差し直し、前を見つめた。 「どこへ行っても、やることは変わりません。困っている人の声を聞いて、世界を少しずつ元に戻すだけです」
「ハハッ! 言うねぇ、出向組の隊長さんよ!」 カシムが満足そうに鏡介の背中を叩いた。
だが——
その和やかな日常のやり取りを断ち切るように、突如として上空の空気が氷点下数百度の絶対零度へと急降下した。
キン……ッ!
大気が凍りつく甲高い音が響く。 雲一つなくなったはずの青空に、不吉な「漆黒の亀裂」が走り、そこから黒銀の羽毛がハラハラと舞い散ってきた。
「なっ……!?」カテリーナが足を止める。
「この気配……オリンポスでも、スラヴの神々でもねぇ……!」カシムが大剣の柄に手をかけた。
舞い散る黒銀の羽毛を押し散らし、天空から一筋の破滅の光芒が降り立った。
ドガァンッ!
雪原を穿ち、舞い上がる氷の煙。 その煙の奥から現れたのは、鳥の羽を模した白銀の甲冑を纏い、巨大な槍を携えた美しくも冷酷な戦乙女(ワルキューレ)の影だった。
彼女の背後に揺らめくのは、極北の夜空を彩るオーロラの輝き——**北欧神話(アスガルド)**の神威。
『……発見した。オリンポスの叛逆者、および高天原の神核所持者』
戦乙女の感情のない声が、凍りついた空気を震わせる。
『我が主、最高神オーディンの命により……貴様たちの身柄、受領する』
冷たい殺意が、試されるように四人を包み込む。
シベリアの激闘を越えた鏡介たちを待ち受けていたのは、安らぎの休息などではなかった。 世界神話大戦は、さらに巨大で過酷な次なるステージ——北欧神話の渦中へと、彼らを飲み込もうとしていた。
鏡介は静かに息を吐き出し、木刀の柄を固く握り直した。
(第35話へ続く)
第35話:極北の影、南の狂風
氷は音もなく命を刈り取る。
シベリアの雪解けがもたらしたわずかな温もりは、雲を切り裂いて降り立った一筋の漆黒と白銀によって、瞬時に消し去られた。
天から舞い降りた刺客——鳥の羽を覆った白銀の甲冑を纏う戦乙女(ワルキューレ)が槍の穂先を向けた瞬間、周囲数百メートルの空気が一瞬で結氷した。吐き出した息が白い塊となって足元に落ち、砕ける。皮膚の水分が一瞬で凍りつき、まばたきすら凍結の痛みで苛まれるほどの極冷。
『……拒否は無意味だ。我はアスガルドの導き手。最高神オーディンの命に従い、高天原の神核および異端の徒を回収する』
仮面の下から届くのは、人間らしい揺らぎを一切排除した絶対の神威。 彼女が手にした槍『銀翼の尖角』が旋回した瞬間、真空の刃を伴った絶対零度の吹雪が波涛となって押し寄せた。
「させるかぁっ!!」
カシムが叫び、大剣を雪原に突き立てた。 彼の全身から噴き出した灼熱の火柱が、押し寄せる氷の波と激突する。
バキバキバキバキッ……!!
激しい水蒸気が爆発的に立ち昇り、氷と炎の拮抗が激しい音を立てた。だが、カシムの熱を吸い尽くすように、黒銀の氷結晶が彼の腕を蝕んでいく。
「くっ……冷気が……熱を喰ってやがる……っ!」
「カシム、退いて!」
カテリーナの二丁の聖拳銃が白銀の光軌を描いた。 聖光弾がワルキューレの胸甲を穿とうと一直線に走るが、彼女の周囲に展開されたオーロラの護符(ルーン)に触れた瞬間、光そのものが凍りついて破砕された。
「光すら凍らせるというの……!? これが、北欧神話の最高神が送った刺客の力……!」
カテリーナの額から冷や汗が伝うが、それすらも頬を滑り落ちる前に凍りついていく。
『討ち果たすに能わず。死して英霊(エインヘリャル)となる栄誉すら、貴様たちには与えられぬ』
ワルキューレが空中を静かに滑るように間合いを詰めてきた。 槍のひと振りが大気を凍てつかせ、鏡介たちの退路を完全に塞ぐ。その一挙手一投足には一切の隙がない。暴虐の限りを尽くした邪神チェルノボグとは異なり、無機質で完璧な死のシステムそのものが迫ってくる絶望感。
「鏡介、来るぞ!」
鏡介は足裏で冷たく固まった氷床を感じながら、木刀を正眼に構えた。 絶対零度の槍撃が、音もなく鏡介の喉元へと刺し貫かれる。
——速い。そして、圧倒的な絶対質量。
鏡介は呼吸を丹田へと沈め、全身の力を極限まで削ぎ落とした。 正面から受け止めれば、全身の骨が砕けて即死する。鏡介は槍の穂先が肌の産毛に触れる直前、わずか数ミリの動きで半身を開いた。
合気道——『体さばき』。
滑り込ませた木刀の側面を、ワルキューレの槍の柄へと沿わせる。 冷気が木刀を通じて手のひらへと伝わり、感覚を麻痺させていくが、鏡介はその冷気の「流れ」すら殺さずに己の軸を中心として回転させた。
キィィィィン……ッ!
ワルキューレの絶対零度の突進力が、軌道をわずかに逸らされ、空を切って雪原へと突き刺さる。 氷床が爆発するように粉砕され、膨大な氷塊が空中に舞い上がった。
『……ほう。力なき身でありながら、我が神威の軌道を穿つか。だが』
ワルキューレは体勢を崩すことすらなく、突き刺さった槍を軸にして瞬時に蹴りを繰り出した。 その脚甲から放たれる凍結波が、鏡介の胸元を襲う。
「ぐっ……!?」
受け流しきれなかった冷気の衝撃が鏡介の身体を吹き飛ばす。 積雪の上を転がり、鏡介は吐血した。血が雪に触れる前に赤く凍りつく。
強すぎる。 チェルノボグとの死闘を終えた直後の肉体には、北欧の絶対神威はあまりにも過酷な壁だった。カシムの膝が崩れ、カテリーナの聖拳銃の銃身が凍結によって亀裂を起こす。
『これまでだ。全神威、凍結開放』
ワルキューレが天に槍を掲げた。 上空の雲が渦を巻き、数百メートルの巨大な氷柱の槍が何千本と空中に形成されていく。それが一斉に降り注げば、このシベリアの雪原ごと彼らは氷の墓標へと変えられてしまうだろう。
「くそっ……ここまでなのか……!?」カシムが歯を食いしばる。
その時だった。
『……そんなこと……させるかぁぁぁぁぁっ!!』
鏡介の胸のポケットから、強烈な通信波動の閃光が弾け飛んだ。
万魂通音乃神だ。 彼女の全身から、これまでにないほど激しい青白い電磁光線が溢れ出している。
『ウチを……万魂通音乃神を舐めるなよ!! シベリア全域に残ったさっきの正調通信網の余熱……全部集めて、空間の周波数を狂わせたる!!』
「万魂!? ダメだ、そんな過大負荷をかけたらきみの神核が……!」鏡介が叫ぶ。
『鏡介! ウチらはこんなところで凍りついてる場合やないやろ! カテリーナも、カシムも、みんなで302号室に帰るんやろ!?』
万魂の叫びが、端末の小さな画面を突き破って世界へと響き渡る。 彼女の小さな体が光の粒子となって弾け、シベリアの凍土全体に張り巡らされていた無数の「人々の祈りの残滓」と直結した。
キィィィィィィィィン……ッ!!
大気を切り裂くような金属的ノイズが鳴り響く。 ワルキューレが上空に形成した千の氷槍が、空間の激しい歪みによって狂い生じた磁場に巻き込まれ、次々と同士討ちを起こして砕け散っていく。
『何事だ……!? 空間の位相が狂っていく……!?』
無感情だったワルキューレの声に、初めて動揺の色が混じる。
『いっけぇぇぇぇぇっ! ディメンション・チューニング・オーバーロードッ!!』
万魂が全身の神通力を全開に打ち振るった瞬間、鏡介たちの足元の空間が、巨大な文字と音波の渦となって弾けた。 空間そのものが無理やりこじ開けられ、漆黒と虹色が混ざり合う「次元の亀裂」が口を開く。
『しまっ——』
ワルキューレが槍を突き出すが、一瞬遅かった。 激しい重力の濁流が鏡介、カシム、カテリーナ、そして光を失いかけた端末を抱え込み、亀裂の奥へと引きずり込んでいく。
視界が激しく回転する。 極寒の冷気、感覚を失っていく手足、万魂の苦しげな吐息。 そして、すべての感覚が途切れ、眩暈のような浮遊感だけが彼らを包み込んだ。
◇
——ドッパン!!
「かっ……はぁっ!?」
激しい衝撃と、鼻腔を突く猛烈な湿気、そして焼けるような熱気が鏡介の意識を力づくで引き戻した。
「熱っ……!? な、なんだ、ここは……!?」
鏡介は跳ね起き、周囲を見渡した。 さっきまで自分たちを苛んでいた凍てつく氷の世界は、跡形もなく消え去っていた。
肌にまとわりつくのは、熱帯特有のまとわりつくような湿気と、香辛料と生臭さが混ざり合った独特の匂い。 空を見上げると、そこには凍えそうなシベリアの群青色ではなく、灼熱の太陽が容赦なく照りつける濁った黄金色の空が広がっていた。
「ゴホッ、ゴホッ! ゲホッ……冷気から一気に蒸し風呂かよ……何なんだここは……!」
カシムが胸元をはだけさせながら、荒い息を吐き出していた。彼の自慢の炎の神威すら、この狂乱の熱気の前には霞んでしまいそうなほどの蒸し暑さだ。
「みんな……無事……?」
カテリーナが汗に濡れた髪を払いながら立ち上がる。彼女のトレンチコートは、一瞬で汗と湿気で重くなっていた。
『ふぅ……ふぅ……。なんとか……追撃は撒けたみたいやで……』
鏡介の手の中で、画面の光が弱々しく滅滅している万魂が、途切れ途切れに声を上げた。
「万魂! 大丈夫か!?」
『うん……神力、ほとんど使い果たしちゃったから、しばらくは本格的な通信は無理そうやけど……死にはせえへんよ。それより……周りを見てみぇ……』
鏡介たちは息を呑み、自分たちが降り立った場所を見渡した。
そこは、とてつもなく巨大な「河」のほとりだった。 対岸が霞んで見えないほどに広いその河は、本来なら無数の聖なる祈りを包み込む慈悲の奔流であるはずだった。しかし、目の前に広がる水面は、ドロリとした不気味な「赤黒さ」に染まり、濁流となって激しくうねっていた。
さらに異常なのは、その上空だった。
濁った空の低層に、幾重もの巨大な「光の陣(曼荼羅)」が蠢いていた。 幾何学模様を描くその陣は、優美さとは程遠い、機械的で威圧的な軍事威光を撒き散らしている。陣が脈動するたびに、地表に向かって不快な高周波の重圧が降り注ぎ、肌をチリチリと刺した。
「これは……インド神界の境界領域ね」
カテリーナが二丁の聖拳銃の残弾を確認しながら、苦い表情で吐き捨てた。
「ガンジスを模した聖なる河……。でも、様子がおかしいわ。この神威の重厚さは、かつて見たどの神界よりも荒々しく、狂暴化している」
「神威の暴走……?」鏡介が呟く。
「ええ。オリンポスの手が、すでにここまで伸びているのかもしれない。あるいは……」
カテリーナの言葉を遮るように、濁流の向こう岸から、大地を揺るがす地響きと、金属性の爆音が響き渡った。
ドォォォォンッ!!
「ギャははははっ! 逃げ惑え、雑兵ども! このインドラ様の鉄甲軍に逆らう奴は、片っ端から潰して粉にしてやるぞ!!」
「だあぁぁぁぁっ! うるせえぇぇぇっ!! 誰が逃げるかよ、この鉄くずどもがぁぁぁッ!!」
爆風とともに、白煙を突き破って飛来したのは、大人の背丈の倍はある巨大な『金剛杵(メイス)』だった。
ドガァァンッ!
鏡介たちのすぐ近くの岩場に突き刺さった金剛杵から、パチパチと黄金の雷光が弾ける。 そして、その破壊の跡を追うように、赤い泥を撒き散らしながら、一人の小柄な影が勢いよく躍り出てきた。
褐色肌に、破れた衣服。 背中には小さな猿の尾のような光の残光を引かせ、その瞳には燃え盛るような狂乱と、無邪気なまでの怒りが宿っていた。
「少年……神……?」
鏡介が息を呑む。
南の熱風と、赤く濁った聖なる河。 極北の冷気から逃れた四人の目の前で、新たな神話の歪みが、爆音とともに弾けようとしていた。
(第36話へ続く)
第37話:千の腕と一つの声
熱を孕んだ気流が、空間そのものを飴細工のように歪めていた。
赤黒い大河を越え、ハヌの導きによって辿り着いたのは、地平を削り取ってそびえ立つ漆黒の巨城——『結界要塞・多面寺院』だった。 古代の石造建築を思わせる無数の塔廊は、いまやオリンポスの軍事技術によって無機質な鉄と光の回路で補強され、神聖な静寂など欠片も留めていない。
頭上に渦巻く巨大な光の陣(曼荼羅)が脈動するたび、鼓膜を直接打つ不快な重低音が空気を震わせる。 汗と混ざり合うのは、高圧の電気によって焦げたオゾンの臭いと、立ち昇る不気味な香の煙だった。
「ひでぇ匂いだ……」 カシムが鼻を覆い、血の滲むような赤い眼光を寺院の深部へと向けた。 「神聖なんだか、機械なんだかハッキリしやがれ。この熱気、胸の悪くなる油臭さまで混ざってやがる」
「気をつけなさい」 カテリーナの二丁の聖拳銃が、乾いたクリック音を立てて弾倉の装填を告げた。汗で額に張りついた金髪を払いもせず、彼女の瞳は冷静に敵拠点の動力線を捉えている。 「この寺院全体が、異国の膨大な神威を収束させるための巨大な増幅器になっているわ。シベリアの神罰砲すら前座に思えるほどの、規格外の何かが練り上げられている」
「ヘッ、怖気づくには遅すぎるぜ!」 先頭を行くハヌが、身の丈を超える金の金剛杵を肩で鳴らした。褐色肌に躍動する筋肉が、熱風を受けて光っている。 「この奥にいるのが、インドラ派の分からず屋どもと、オリンポスから来た高飛車な使者だ。兄貴、俺の風で正面の門を吹き飛ばす! 突入だ!」
「ハヌ、待って」 鏡介が静かに制した。
鏡介の視線は、門ではなく、そのさらに上空——寺院の中庭から湧き立つ「巨大な影」に注がれていた。
グラ……グラグラッ……!
地鳴りが響く。石造りの外壁に亀裂が走り、要塞の中央部が内側から崩壊するように弾け散った。
白煙と黄金の閃光を突き破って現れたのは、全高数百メートルに達する狂乱の巨神だった。 何十、何百という重厚な金の装甲を全身に纏い、その背からは空を埋め尽くすほどの無数の腕——「千の腕」が生え伸びている。多面多腕の軍神。軍国化したアスラ・インドラ派の絶対神威を体現する巨大な異形が、雲を突き抜け、太陽の光を遮っていた。
『不敬なり……神々の秩序を乱す異端の芽よ』
その声は、雷鳴そのものだった。衝撃波だけで要塞の石柱が吹き飛び、熱風が四人の肌を激しく苛む。
巨神の背後に広がる千の腕が一斉に掲げられた。その掌のすべてに、異次元の星々すら穿ち砕くと言われる絶対的な破壊の概念——『金剛神罰の曼荼羅』が形成されていく。
「なっ……なんだあれは!?」 ハヌの顔から、威勢の良い笑みが引きつって消えた。 「あんなの……ただの軍神の規模じゃねぇぞ! 寺院の全ラインから神威を吸い上げて、概念ごと俺たちを蒸発させる気だ!」
「冗談じゃねぇ……!」 カシムが大剣を構え、自身の紅蓮の炎を限界まで滾らせるが、上空から降り注ぐ威圧感の前に彼の炎すら矮小に見えた。 「おいおい、鏡介! こんなもん、どうやって防ぐんだよ!? ぶつかった瞬間にこのエリアごと消し飛ぶぞ!!」
カテリーナも唇を噛み締め、絶望的な照準器越しに巨神を見上げた。 「巨大すぎる……! 威力がどうとかいう次元じゃない。空間の質量そのものを叩きつけてくる気よ!」
正面から受け止めれば即死。回避など不可能な、視界全てを埋め尽くす概念の暴力。 圧倒的な滅びの威光を前に、三人の呼吸が凍りついた。
だが——
迅雷鏡介だけは、気負いなく、ただ静かに立ち尽くしていた。
「……大きいな」
ぽつりと漏らした声には、恐れも、焦りもなかった。 鏡介は稽古用の木刀をそっと帯に差したまま、足裏でぬかるむ赤泥の感触を捉えた。 どんなに巨大であれ、どんなに宇宙を破砕する概念攻撃であれ、相手が「力」を放とうとしている以上、そこには必ず始まりの点(軸)と、押し寄せるベクトルが存在する。
(重い力ほど……逃げ道を作ってあげれば、自らの重さで倒れる)
鏡介は呼吸を丹田へと落とし、両手を自然体に垂らした。
『滅びよ……!!』
巨神の咆哮とともに、天を埋めつくす千の腕が一斉に振り下ろされた。
ドガァァァァァァァァァンッ……!!
空間そのものが破砕する悲鳴を上げた。 黄金の光束と重力波が束となり、概念の激流となって鏡介たちの頭上から叩きつけられる。一瞬で周囲の温度が数千度に達し、空気が焦げ、地盤が白熱化して溶けていく。
その絶望の直前、鏡介の胸のポケットから、眩い青白い通信の光が放たれた。
『……聞こえるで……! 届いとるで……!』
万魂通音乃神だ。 端末の画面の向こうで、小さな彼女が両手を強く握り締め、全身の回路を燃やしながら叫んでいた。
『どれだけデカい威圧(ノイズ)で押さえつけてもなぁ! この土地で慎ましく生きてる人間たちの『本当の声』は消せへんのや!!』
万魂が解き放ったのは、通信の「チューニング(調和)」波動だった。
要塞の地下、そして濁った大河の周辺に生きる名もなき民草——「ただ家族とご飯を食べたい」「明日の朝を無事に迎えたい」「不毛な戦争を終わらせてほしい」という、何万人もの切実な『正調の祈り』。 万魂はその声を拾い集め、巨神が放つ膨大な神威の周波数へと、正確に割り込ませて再放送した。
キィィィィィィィィン……ッ!
巨大な黄金の光束が、目に見える形で揺らぎ始めた。 絶対的で完璧だったはずの巨神の神威に、人々の素朴な「平和への叫び」がノイズとして割り込み、巨大すぎるが故に大雑把だったその力の密度と周波数が、狂い生じた磁場のように激しく乱れ始める。
「今だ……鏡介!!」万魂が叫ぶ。
「——はい」
鏡介は一歩、踏み出した。
白熱する熱風の中、鏡介の身体は驚くほど滑らかに動き始めた。 押し寄せる千の腕の破壊力。全宇宙を砕くと誇られた膨大なエネルギーの濁流。 鏡介はその巨大すぎる暴威の正面に立つことなく、万魂が揺らした周波数の隙間——力の波線の「目」へと、すうっと半身を開いて滑り込んだ。
合気道——『正調・流し』。
鏡介の両手が、白熱する空間の気流へと柔らかく添えられた。 巨神の放つ力はあまりにも絶大で、あまりにも重かった。だが、重ければ重いほど、一度傾いた重心を直すことは不可能になる。
鏡介は自らの力を一切使わなかった。 ただ、添えた手のひらで、襲いかかる巨神の破壊ベクトルの「先端」をほんのわずかに円運動へと誘導した。天から地へと向かっていた全破滅の軌道が、鏡介の描く小さな円の軌跡に吸い寄せられ、なめらかな曲線となって方向を変える。
「な……なにを……!? 我が神威が……曲がるだと……!?」
巨神の多面から、動揺の狂叫が上がった。
鏡介の身体を支点とし、巨大すぎるエネルギーの濁流は、鏡介たちを完璧に逸れて——背後の『多面寺院』の巨大な動力核へと一直線に逆流していった。
自らの放った絶対の神威が、自らの拠点を穿つ。
ズドオォォォォォォォォォンッ……!!
要塞寺院の中心部が、目も眩むような黄金の爆炎とともに内側から崩壊した。 動力ラインが全カットされ、異国の軍事回線が過電流によって次々と焼き切れていく。増幅器を失った千の腕の巨神は、己の過剰な質量のバランスを完全に失い、音を立てて雪崩のように崩れ落ちていった。
『バ……サカ……このような……小さな人間の手で……我らの……誇りが……』
巨神の膨大な装甲が破砕し、光の粒子となって消失していく。 上空を覆っていた不気味な曼荼羅の陣画が、チリチリと音を立てて霧消し、要塞を包んでいた不快な重低音とオゾン臭が、急激に引いていった。
静寂が、訪れる。
爆風の去った後には、崩れ去った石造りの瓦礫と、そこへ差し込む南国の眩しい陽光だけが残されていた。
鏡介は静かに息を整え、両手を下ろした。 彼の足元、崩れた石畳の隙間には、相変わらず一滴の汗も、泥の跳ね返りすらついていなかった。
「あ……あ……」
ハヌの手にしていた金剛杵が、ガタガタと震えていた。 彼はへたり込んだまま、信じられないものを見る目で鏡介を見つめていた。
「嘘だろ……あんなデカい……宇宙を壊すような攻撃を……手ぇ添えただけで……要塞ごと吹き飛ばしちまった……!?」
ハヌはガバッと立ち上がると、狂喜の声を上げて鏡介に飛びついた。
「兄貴ぃぃぃぃぃっ! 凄すぎるぞ!! なんだ今の!? あんた本当に人間なのか!? スゲえ! アイキドー凄すぎる!!」
「わっ、ハヌ、危ないって……!」 鏡介はハヌの勢いに押されながら、苦笑いを浮かべた。
「へっ……まったく、毎度毎度、冷や冷やさせやがるぜ」 カシムが大剣を背中に納め、やれやれと首を振った。だがその口元には、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
カテリーナも聖拳銃をコートに収め、呆れたように吐息をつく。 「巨大な神威であればあるほど、その大雑把な隙を突いて自滅させる……。理論としては理解できるけれど、実際にやってのけるなんて、やっぱりあなたたちの『正調』は異常わね」
『ふぅ……ウチも……もう限界や……』 胸のポケットから、万魂のぐったりとした声が届く。 『でも……この土地の「声」、ちゃんと重なり合ってよかったなぁ……』
「ああ。ありがとう、万魂」 鏡介は胸元を優しく撫でた。
崩れ去った要塞の跡地から、捕らわれていた地元の精霊や名もなき神々たちが、恐る恐る顔を出し始めていた。彼らの目には、長きにわたる抑圧から解放された安堵の涙が浮かんでいる。
これで、インド神界を覆っていた不穏な暴走は鎮圧された。
しかし——
カテリーナの表情から、警戒の色が消えることはなかった。 彼女は崩壊した要塞の奥、焼け焦げた通信端末の残滓へと歩み寄り、そこに残された「刻印」を指先でなぞった。
「カテリーナさん?」鏡介が声をかける。
「……やっぱりね」 カテリーナの声は低く、冷たかった。
「この要塞に技術と資材を提供していたのは、オリンポスのアレス派……それも、軍事介入を主導する最過激派よ。そして……彼らの真の狙いは、このインドだけじゃないわ」
「どういうことだ?」カシムが眉をひそめる。
「端末に残された転移記録……大量の『戦死者の魂』が、別の神界へと送られている。……行き先は、エジプト神界・王家の谷エリア」
カテリーナは振り向き、鏡介たちを見つめた。その黄金の瞳には、深まる陰謀への強い懸念が宿っていた。
「邪神セト派と結託し、戦争で死んだ兵士や民の魂を集めて、さらなる歪んだ力を精錬しようとしている。……放置すれば、世界中の神話境界が崩壊するわ」
「エジプトか……」 カシムが拳を握り締め、骨を鳴らした。 「どこへ行こうが関係ねぇ。不条理を撒き散らす奴らの顔面を叩き割るだけだ」
「俺も行くぞ、兄貴!」ハヌが胸を叩いた。「俺の風は、もう兄貴の弟子だからな! どこまででもついていくぜ!」
鏡介は崩れた要塞の隙間から見える、遠い西の空を見つめた。 赤く濁っていたガンジスを模した大河の水が、神威の途絶とともに、少しずつ本来の澄んだ輝きを取り戻し始めている。
熱い風が、四人と一神の髪を撫でて吹き抜けていった。
選ばなかった安らぎの言葉は、まだ胸の中にしまっておく。 彼らが帰るべき「302号室」の日常は、まだこの惨状の先にあるのだから。
「行こう」 鏡介は静かに、けれど力強く歩み出した。
熱風の向こう、乾燥した死の砂漠と、黒い天秤を携えた少女神が待つ、次なる戦地へと。
(第38話へ続く)
第38話:『死者の砂漠、黒い天秤(エジプト神界への潜入)』
乾いた砂は、一切の猶予もなく喉の奥を白く焼き焦がす。
熱気が粘りつくように肌へへばりついていたインド神界の湿原とは一転し、視界の全てを支配していたのは、荒々しく吹きすさぶ黄砂と、極度に乾燥した冷徹な死の空気だった。
「……ッ、ゴホッ! 喉が……干からびそうだぜ……」
カシムが衣服の襟元で口元を覆い、吐き捨てるように歪んだ息を漏らした。足元で踏みしめられる細かな粒子は、灼熱の陽光を反射して琥珀色にギラギラと輝いている。だが、その熱さの奥底には、生命の体温を拒絶するような、静かで強烈な「死の冷たさ」が影のように張りついていた。
「ここは……エジプト神界、王家の谷の深部よ」
カテリーナがトレンチコートの裾を風に叩かせながら、双眼鏡代わりに照準器を覗き込んだ。シベリアの雪解け水、インドの泥、そして今度は砂漠の細かい黄砂。彼女の端正な顔立ちにはうっすらと泥と砂の層が重なり、額を伝う一筋の汗が琥珀色の肌に細い溝を描いている。
「インドの寺院に残されていた軍事転移陣の周波数……辿り着いた先がここだなんてね。空気の匂いが違うわ。乾いた砂の臭いの奥に……焦げた血と、無数の魂が腐朽していく不快な残臭が混ざっている」
「……ああ」
鏡介は足裏で砂の粒子を感じ取りながら、深く静かに息を吐いた。
ぬかるむ泥でも、滑る氷でもない。砂は、一歩踏み出すごとに力を無残に吸い上げ、体軸を容易に奪おうとする。だが、重力の理は変わらない。鏡介は体幹を静かに垂直へ保ち、腰の木刀の感触を確かめた。
「アニキ、見てみろよ! あんなところにバカデカい石棺みたいな要塞があるぞ!」
ハヌが首をすくめながら、身の丈を超える金の金剛杵で斜め前方の絶壁を指さした。 風の神子であるハヌの周囲だけは、微かな風の残光が黄砂を弾き返している。しかし、その無邪気な瞳にも、目の前に聳え立つ建築物の異様な気配に対する警戒の色が濃く落とされていた。
黄砂の嵐の向こう、赤茶けた巨岩の谷間を穿つように築かれていたのは、黒い花崗岩で組み上げられた古代の巨大要塞だった。
その外壁には、オリンポス軍(アレス派)の無機質な光の回路が幾重にも打ち込まれ、異国の技術によって要塞全体が重苦しい結界へと変貌している。要塞の頂からは、紫黒い神威の煙が細く立ち上り、空を不気味な半透明の死色に染め上げていた。
『……鏡介……気ぃつけや……』
胸のポケットから、端末の画面が微かな光を滅滅させて万魂の声が届く。
『この要塞の中に……ぎゅうぎゅうに詰め込まれとる。声やない……言葉にもならへん、無数の『魂の呻き』や。ウチの回線がパンクしそうなくらい、痛くて、冷たい吐息が溢れ返っとるで……』
万魂の声は震えていた。通信の神格である彼女にとって、その場所に満ちる死者たちの悲鳴は、全身の神経を刃物で擦られるような苦痛そのものなのだ。
「行くぞ」
鏡介の静かな一言とともに、四人と一神は風を突いて要塞の亀裂へと滑り込んだ。
◇
要塞内部は、外の灼熱が嘘のように、骨の髄まで凍てつく静寂と冷気に満ちていた。
松明の代わりに壁面を覆うのは、オリンポスが設置した無機質な電磁回路の青白い光だ。それが、足元に敷き詰められた滑らかな黒い石畳を不気味に照らし出している。
細く暗い回廊を抜け、彼らが辿り着いたのは、要塞の最深部に広がる巨大な円形の大広間だった。
そこに広がる光景に、全員が息を呑んだ。
広間の中央、底深く掘り下げられた巨大な「流血の精錬炉」。 その上空には、何千、何万という青白い光の球体——戦争によって命を落とした兵士や民草たちの「魂の群れ」が、巨大な渦となって囚われていた。
魂たちは逃げ場を失い、互いに押し合いながら、か細い悲鳴を上げている。
《……かあさん……》 《……寒い……俺は……なぜここで……》 《……家へ……帰りたい……》
言葉にならない魂の波形が、空間の冷気を揺らす。 炉の周囲には、流血を好む邪神セトの配下である黒砂の獣兵たちと、オリンポス軍アレス派の重装甲兵が立ち並んでいた。彼らは炉の周囲に配置されたチューブを通じて、魂から搾り取られた「死者の未練と怨念」を不気味な黒い液体として抽出し、巨大な神威燃料としてクリスタルへ充填していたのだ。
「な……んだ、これは……!?」
カシムの大剣を握る手が、激しい怒りで血が滲むほど強く締め上げられた。 「死んだ奴らの魂まで……擦り潰して燃料にしてやがるのか!? こんなものが……お偉方の言う『神話の戦争』だってのかよッ!?」
「許せない……」カテリーナの瞳に、極限の怒りが静かな殺意となって宿る。「死者の安寧すら奪い、流血の道具に仕立て上げるなんて……人間の尊厳に対する最大の冒涜だわ」
だが、その惨劇の最前線、精錬炉の真上に架けられた細い石橋の上に、一人の小さな影がぽつりと立っていた。
黒いエジプト風の神官服を身に纏い、頭部には黒胡麻のようなしなやかな犬の耳を生やした少女神。 その小さく細い両手には、古びた青銅製の「大きな天秤」が握られており、彼女は震える指先で、魂の重さを一球ずつ量らされていた。
彼女の名は、アヌ。 死者の魂の公正さを守り、安らかな冥界へと導くアヌビスの系譜を引く神子。
「……測定……終了」
アヌの小さく乾いた声が、冷たい石壁に虚しく響いた。
「この者の魂……未練、過多。……セトの精錬炉へ……投入……」
彼女が天秤を傾けると、青白い魂が悲鳴を上げて黒い炉の中へと叩き落とされ、黒い煙となって溶けていく。 アヌの琥パープルの瞳には、いかなる感情の光も宿っていなかった。まるで魂を殺された人形のように、機械的に、淡々と作業を繰り返している。
「おい! さっさと次の魂を量れ、出来損ないの犬神が!」
背後に立つ邪神セトの巨漢将校が、黒い鞭をアヌの背中に叩きつけた。
バシィィンッ!
「……っ」
アヌの小さな身体がくの字に折れ曲がり、石畳の上に膝をつく。神官服の背中が裂け、薄桃色の血が静かに滲む。しかし、アヌは悲鳴一つ上げなかった。ただ静かに天秤を抱え直し、感情の欠落した瞳で床を見つめているだけだ。
(痛くないのではない……痛みを声に出すことすら、諦めているんだ)
鏡介の胸の奥が、静かに、重く沈んだ。
アヌの耳が、微かにピクリと跳ねた。 彼女の持つ天秤は、物理的な重さではなく「心(感情)の質量」に反応する。広間の入口に現れた四人と一神が放つ、怒り、悲しみ、そして何よりも鏡介の放つ「静かな温もり」の質量が、彼女の天秤を激しく揺らしたのだ。
アヌはゆっくりと首を巡らせ、鏡介たちを見つめた。
「……何者……?」
彼女の声は、砂漠の夜のように冷たく、途切れがちだった。
「……ここには……希望はない……。去れ……。ここは……死者が魂を破砕される……永遠のゴミ捨て場……」
「ゴミ捨て場だと……!?」ハヌが金剛杵を握り直し、叫んだ。「ふざけるな! 命をなんだと思ってやがるんだ!」
「……命……?」
アヌはぽつりと呟き、自分の握る天秤を見つめた。
「……命は……重い……。でも……ここでは……燃料にしかならない……。私が……この天秤で量るたび……誰かの父親が……誰かの子供が……叫びながら黒い油になる……」
アヌの目から、一滴の透明な雫がこぼれ落ち、黒い石畳に吸い込まれて消えた。
「……私は……天秤を守る者……。でも……私が天秤を握るから……みんなが壊れていく……。……私には……何も……救えない……」
その言葉は、絶望の底で自らを責め続けてきた少女の、血を吐くような独白だった。 自らの意志で加害しているのではない。そうしなければ、目の前にある全ての魂がその場で破砕されるからこそ、彼女は自らの心を殺し、死神の道具になり果てていたのだ。
「ハハハ! 異端のゴミどもが紛れ込んだか!」
セトの巨漢将校が、黒砂を纏った巨大な大斧を引き抜き、狂暴な笑みを浮かべた。
「あのガキの言う通りだ! ここに来たからには貴様らの魂も精錬炉の薪にしてやる! やれ、黒砂兵ども! 骨ごと磨り潰せ!」
怒号とともに、広場を埋め尽くす無数の黒砂の獣兵たちが、凶悪な殺意の波となって鏡介たちへ襲いかかった。
砂嵐の臭いと、冷たい死の気配が爆発する。
「カシム、ハヌ! 敵の包囲を破るわよ!」カテリーナの二丁の聖拳銃が火を噴く。
「おうよ! 胸くその悪い奴らの顔面、叩き潰してやるぜ!」カシムの炎が暗闇を照らし出す。
「アニキ! 俺もやるぞ!」ハヌが黄金の風を巻き起こす。
激戦の火蓋が落とされた。 しかし、激しい怒号と破壊音の渦中で、鏡介の視線はただ一人、石橋の上で震えながら天秤を抱きしめる少女神——アヌの瞳から、決して離れることはなかった。
(待っていてくれ。……君の手から、その悲しい重さを取り除くから)
選ばなかった慰めの言葉の代わりに、迅雷鏡介は木刀の柄に手を当て、静かに、滑らかに踏み出した。
(第39話へ続く)
第39話:悲しき審判
沈黙は、時に悲鳴よりも苛烈に人の心を擦り減らす。
要塞の最深部を覆う黒い花崗岩の空間に、ジャリ、と硬い砂の粒が擦れ合う音が響いた。 それは命の脈動を拒絶する「死者の砂丘」の音であり、精錬炉の中で幾万の魂が砕かれる音でもあった。
「ギシャァァァァァッ!!」
暗がりから躍り出たのは、邪神セトの配下——黒砂の巨獣たちだった。 一頭一頭が大蛇と胡狼(ジャッカル)を捏ね上げたような異形の巨躯を持ち、その全身はザラザラと乾いた黒砂で覆われている。彼らが一歩踏み出すたびに、研磨剤のような砂粒が飛散し、肌を撫でるだけで肉を削ぎ落とす凄絶な威圧感を撒き散らした。
「チッ、数だけは揃えてやがる……!」 カシムが大剣を激しく旋回させ、前線へと躍り出た。 「熱気なら負けねぇが、この砂粒のうっとうしさは反吐が出そうだぜ!」
「下がってはいけないわ、カシム! 敵の目的は精錬炉の完全稼働よ。一頭でも通せば、魂の精錬スピードが跳ね上がる!」 カテリーナの二丁の聖拳銃が、乾いた排莢音を響かせながら白銀の閃光を散らす。聖光弾が黒砂の巨獣の頭部を穿ち、砂の霧となって散らせるが、周囲の地表から新たな黒砂を吸い上げて瞬時に再生を果たしてしまう。
「だああぁっ! きりがないぞ、この砂のバケモノども!」 ハヌが黄金の風を巻き起こし、金の金剛杵で巨獣の胴体を叩き折るが、散った砂は空中で蠢き、再びハヌの背後へと迫る。
「ガァァァッ!!」
死角からハヌの首元へ喰らいつこうとする巨獣。 その凄まじい突撃の軌道上に、一人の少女神が佇んでいた。
「……ダメ……」
アヌの声は、蚊の泣くような小ささだった。 だが、彼女が抱える古びた青銅の『死者の天秤』が、カチリと音を立てて大きく傾いた。
瞬間、広間全体に目に見えない「重圧の結界」が展開された。 『死者の天秤』——それは、魂の罪の重さを量り、公正なる裁きを下す絶対の領域。セトの巨獣たちが纏う過剰な「流血への殺意」と「凶虐の質量」が、そのまま彼ら自身の体に「何百倍もの重み」として覆いかぶさる。
ズズズズズン……ッ!!
「ギ……!? ガ……ッ!?」
突進していた巨獣たちの動作が、まるで粘着質の沼に沈められたかのように、目に見えて鈍化した。自らの膨大な殺意が、天秤の力によって自身を押し潰す目に見えない鉛の重石へと変換されたのだ。
「……なっ……重さが……変わった!?」ハヌが目を丸くする。
鏡介の瞳が、その瞬間を逃さず捉えていた。
(相手の殺意が重さとなり……攻撃の軸が完全に固定された)
鏡介は足裏で滑らかな黒い石畳を踏みしめた。 疾走するのではない。流れる水のように、滑らかに、自然体で巨獣たちの懐へと滑り込む。
合気道——『体さばき』。
重圧によって前傾姿勢を崩した巨獣の巨大な爪が、空を切って振り下ろされる。 鏡介はその爪の側面に、優しく木刀の側面を添えた。殺意の重みで自重を支えきれなくなっている巨獣の「中心軸」を、指先ひとつの最小限の円運動で、わずかに横へと誘導する。
キィィィィン……!
自らの超重量と、天秤によって増幅された重力が、巨獣自身のバランスを完全に破壊した。 巨獣は悲鳴を上げる間もなく、勢いよく倒れ込み、隣の巨獣の体頭へと猛烈な勢いで激突した。
ドガァァァァンッ!!
「……凄い……」 アヌの小動物のような耳が、信じられないものを見たように震えた。
「私の天秤が……殺意の重さを量るたび……あの人は……その重さを『流して』……同士討ちさせている……?」
それは、アヌがこれまで知っていた「裁き」とは根本から異なるものだった。 彼女にとって天秤とは、魂の罪を暴き、罰を与え、精錬炉の燃料として破砕するための「痛みの道具」でしかなかった。だが、いま目の前の人間は、天秤が提示した「重さの真実」をそのまま受け止め、ひとつの命も傷つけることなく、暴力そのものを自滅させている。
「アヌちゃん! 天秤の軸を固定したまま、右の三頭の重さを倍にして!」 カテリーナが素早く指示を飛ばす。
「あ……はい……ッ!」 アヌの震える指先が天秤の皿を傾ける。
「ガァァッ!?」 右方の巨獣たちが膝を折り、石畳に顔面を叩きつけた。そこへカシムの紅蓮の大剣が一閃し、結合力を失った黒砂が爆ぜて崩れ去る。
完璧な連携。 鏡介の合気、カテリーナの戦術眼、カシムの火力、ハヌの機動力。そして、アヌの『死者の天秤』。 ただの奴隷として扱われていた少女神の力が、いまや戦場を支配する不可欠な「調和の要」となっていた。
「ええい、使えんガキめが! セト様の陣を裏切る気かァッ!!」
邪神セトの巨漢将校が激怒し、漆黒の大斧を振り上げながらアヌへ向かって突進した。 「死ねぇッ! 出来損ないの犬神がぁっ!!」
「しまっ——アヌ!!」カテリーナが叫ぶ。
だが、アヌは逃げなかった。 恐怖に身体を硬直させながらも、彼女は逃げることを自分に許さなかった。ここで引き下がれば、再び自分は「魂を破砕する怪物」に戻ってしまう。それだけは、死んでも嫌だった。
大斧が振り下ろされる直前、鏡介の影がすうっとアヌの視界を遮った。
「なっ……人間だと!?」
将校の放った必殺の全力が、鏡介の左手に接触する。 鏡介は相手の力に逆らわない。大斧の柄に沿わせた掌を滑らせ、相手の突撃のベクトルを自身の足元——そして丹田を中心とした「円の軌跡」へとそのまま還した。
「ぬ……ぐぁぁぁぁぁっ!?」
己の巨体と殺意の全てを前方に乗せていた将校は、自分の腕が勝手に旋回させられる感覚に目を見開いた。鏡介の手首が返された瞬間、将校の巨躯は綺麗に宙を舞い、そのまま背後の巨大な精錬炉の壁面へと叩きつけられた。
ドッスゥゥゥゥンッ……!!
黒い石壁に亀裂が走り、将校は泡を吹いて卒倒し、二度と動かなくなった。
静寂が、広間に戻ってくる。 残された黒砂の巨獣たちも、核を失い、ただの砂の山となって石畳の上へ崩れ落ちていった。
「ふぅ……」 鏡介は静かに息を吐き出し、木刀を帯へと納めた。
「凄ぇ……凄すぎるぞ、アヌ! あんたの天秤とアニキの技、ピッタリじゃないか!」 ハヌが素早く駆け寄り、アヌの肩をパシパシと叩いた。
だが、アヌは答えない。 彼女は自分の両手の中に残された、青銅の天秤をじっと見つめていた。その小さな身体は、未だに激しく震えている。
「あ……あ……」
その時だった。 鏡介の胸のポケットから、静かであたたかな青い通信の光が溢れ出した。
『アヌちゃん……聞こえるか?』
万魂の声だった。 重過負荷によってかすれ、途切れ途切れのその声は、けれどこれまでにないほど優しく、柔らかな周波数を帯びていた。
万魂が解き放ったのは、上空の精錬炉に囚われていた何万もの「死者たちの本当の声」だった。
《……ありがとう……少女よ……》 《……お前が……毎夜……涙を流しながら天秤を量っていたのを……俺たちは知っていたよ……》 《……お前が傷ついてくれたから……俺たちは……一瞬でも救われていたんだ……》 《……もう……自分を責めないでくれ……》 《……安らかに……眠らせておくれ……》
「あっ……あぁ……っ」
魂たちの温かな言葉が、万魂の通信網を通じて、直接アヌの心へと流れ込んでいく。 暴力によって虐げられ、歪められていた魂たちが求めていたのは、復讐でも破壊でもなかった。ただ、自らの命を悼み、静かに送ってくれる「愛しい者」の存在だったのだ。
「私は……私は……っ!」
アヌの目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。 黒い埃と血に汚れた少女の頬を、幾筋もの透明な軌跡が伝っていく。
「私は……みんなを傷つけるために……天秤を握っていたんじゃない……! みんなの命が……どれだけ重くて……どれだけ尊いものかを……守りたくて……天秤を抱えていたんだぁぁぁぁっ!!」
アヌは膝をつき、声を上げて泣き伏した。 何百年もの間、静かな冷気と砂嵐の中に閉じ込められ、一人で耐え続けてきた絶望と罪悪感が、涙の奔流となって溢れ出していく。
カテリーナが、静かにアヌのもとへ歩み寄った。
彼女はトレンチコートの汚れも気にせず、そっと膝を折ると、小さく震えるアヌの肩を優しく抱き寄せた。
「もういいのよ、アヌ」
カテリーナの声は、どこまでも澄んでいた。 普段の厳格な査問官の顔でも、冷徹な戦士の顔でもない。傷ついた妹を愛おしむような、ぬくもりに満ちた一人の女性の顔だった。
「誰もあなたを責めはしないわ。あなたは最後まで、命の重さを手放さなかった。……あなたの天秤は、命を奪うための道具じゃない。命を敬うための……誇り高き審判の証よ」
「お……お姉……さま……っ!」
アヌはカテリーナの胸に小さな顔を埋め、彼女の服を握り締めながら子供のように泣じゃくった。カテリーナは何も言わず、ただアヌの黒い耳と細い髪を、壊れものを扱うように何度も、何度も優しく撫で続けた。
カシムは苦笑いを浮かべながら、そっと視線を逸らして大剣を背中に納めた。ハヌもまた、自分の鼻の奥がツンとするのを誤魔化すように、金の金剛杵で地面を突いた。
鏡介は、その光景を離れた場所から静かに見守っていた。
(人は……一人では己の罪を背負いきれない。だからこそ……誰かの温もりが要るんだ)
言葉を選ばなかった。 ただ、その「沈黙」と「距離」の間に満ちる温かな光線が、冷え切っていたエジプトの要塞を、緩やかに解かしていくのを感じていた。
アヌの涙に応えるように、上空の精錬炉から解き放たれた万の魂たちが、美しい青白い光の粒となって、天空へと静かに昇華していく。
《……ありがとう……》 《……さようなら……》
不気味だった死者の要塞に、初めて本物の「安らぎの祈り」が満ちていった。
アヌはカテリーナの胸の中で涙を拭い、照れくさそうに小さく鼻を鳴らした。 「……お姉さま……私……私、お姉さまたちと一緒に……行きたい。この天秤で……本当の『正しさ』を守りたいの……」
「ええ」カテリーナは優しく微笑んだ。「喜んで。頼りにしているわ、アヌ」
絆が、確かに結ばれた瞬間だった。
しかし——
安らぎの余韻が広間を満たしたのも束の間。
グラリ、と要塞全体が揺れた。
地震ではない。 それは、空そのものが「金色の超質量」によって押し潰されようとしている、絶望的な予兆だった。
天頂の石造りの天井が、何の前触れもなく消滅した。 爆発でも破壊でもない。ただ、上空から降り注ぐ「絶対的な黄金の神威」によって、物質そのものが存在を許されずに蒸発したのだ。
刺すような黄金の光が、暗い大広間へと一斉に雪崩れ込んできた。
「何だ……!? 空が……真っ金金になりやがった!?」 カシムが眩しさに目を細め、咄嗟に大剣を構え直した。
崩れ去った天井の向こう、黄金の雲が渦巻く空から、見上げるほどの神々の軍勢が降り立ち始めていた。
不吉なラッパの音が、世界を揺らす。
「ついに見つけたぞ。叛逆者カテリーナ、および高天原の異端徒」
重厚な黄金の甲冑を纏った、無数の神兵たち。 その中央に鎮座するのは、オリンポス十二神の直属部隊、そして武神アレスの威光を背負った第一級副官たちだった。
インド神界の要塞を破壊し、セトの精錬炉を解放した鏡介たちの行動は、すでにオリンポス全軍に対する「名指しの宣戦布告」とみなされていたのだ。
「全領域の空間を凍結完了」 冷徹な声が、上空から降ってくる。
「シベリアでの逃亡、インド神界での軍事妨害、ならびにエジプト神界における軍事資源の破壊。……これより、世界神話秩序維持法に基づき、原告なき即時処刑を執り行う」
黄金の光の網が、要塞の四方を完全に塞いだ。 逃げ場はない。圧殺的な神威の重圧が、疲弊した鏡介たちの身体を容赦なく叩きつける。
「くっ……こんな時に……本隊が来やがったか……!」カシムが歯を食いしばる。
疲労困憊のハヌ、泣き疲れたアヌ、神力を使い果たした万魂。そして、相次ぐ激戦で満身創痍の鏡介とカテリーナ。
全滅の足音が、あまりにも圧倒的な威容を誇って迫っていた。
カテリーナの瞳から、一瞬の猶予もなく躊躇が消えた。 彼女は自分の手の中にある二丁の聖拳銃を見つめ、そして——ゆっくりと、それを石畳の上へ投げ捨てた。
カチャリ、と虚しい金属音が響く。
「カテリーナ……さん……?」 鏡介の喉から、掠れた声が漏れた。
(長い話のため、ここまでを掲載しています)
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