風が生まれる場所
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
風、凪ぐ頃の後日譚ですが、初めての方でも読めます。 未来世界でも紙の本は残っていた。 これは図書館の司書と、少し変わった常連客との、静かな物語。
本文
プロローグ 春の出会い
四月。
沖縄本島北部。
午後の街には、春らしい穏やかな風が吹いていた。
海から運ばれてきた潮の匂いが、商店街の通りをゆっくりと抜けていく。
駅前から少し離れた場所にある、小さな公共図書館。
その入口には、まだ新しい案内板が立っていた。
『新年度・利用案内』
四月になると、図書館を訪れる人の顔ぶれも少し変わる。
学校が始まり。
新しい仕事が始まり。
新しい生活が始まる。
そんな季節だった。
凛はカウンターの内側で、返却された本を一冊ずつ確認していた。
「……これは二冊とも同じですね。」
貸出端末へ登録し直す。
本の状態を確認する。
ページの破れはない。
表紙にも傷はない。
元の棚へ戻すため、台車へ積む。
いつもと変わらない午後だった。
その時。
入口の自動扉が開いた。
凛は何気なく顔を上げる。
そして。
一瞬だけ、手を止めた。
入ってきたのは、一人の青年だった。
外縁独立機動部隊の制服。
黒を基調とした落ち着いたデザイン。
肩には部隊章。
胸元には教育隊を卒業した隊員であることを示す徽章が付いている。
軍人なのだろう。
そこまでは分かった。
しかし。
凛の視線が止まったのは、制服ではなかった。
淡い金色の長い髪。
肩にかかるほどの髪が、春風に揺れている。
透き通るような肌。
整った顔立ち。
そして、静かな碧い瞳。
遠目に見れば、女性と間違えてしまっても不思議ではない。
少なくとも、凛は最初の数秒間、その人物を女性だと思っていた。
青年は入口で一度立ち止まり、館内を見回す。
それから受付へ向かって歩いてくる。
足取りは静かだった。
軍人らしい硬さがあるわけでもない。
むしろ、図書館という場所に馴染むような、穏やかな歩き方だった。
凛は慌てて視線を戻す。
仕事中なのだから、じろじろ見るのは失礼だ。
そう思いながらも、さっき見た姿が頭から離れない。
青年はカウンターの前で足を止めた。
「すみません。」
声も穏やかだった。
凛は顔を上げる。
「はい。」
「こちらは、軍関係者でも利用できますか?」
「もちろんです。」
凛は答えた。
「一般の方と同じように利用できますよ。」
「ありがとうございます。」
青年は小さく頭を下げる。
その所作も妙に丁寧だった。
「初めて来られましたか?」
「はい。」
「でしたら、利用者登録だけお願いします。」
凛は申込用紙を取り出した。
青年は紙を受け取り、静かに記入を始める。
筆記具の持ち方まで、どこか整っていた。
凛は必要事項を確認する。
住所。
連絡先。
所属。
そして。
名前。
青年はそこだけ、少し長く筆を止めた。
凛は何も言わずに待った。
やがて。
紙には一文字だけ書かれた。
『凪』
凛は一瞬、その文字を見た。
「……凪、さん。」
青年が顔を上げる。
「はい。」
そこで初めて、凛は理解した。
先ほどまで女性だと思っていた人物は、男性だった。
「失礼しました。」
凛は少しだけ姿勢を正す。
「お名前、凪さんですね。」
「はい。」
青年は静かに頷いた。
「姓はありません。」
「……え?」
思わず聞き返してしまう。
凪は淡々と答えた。
「名前だけです。」
それ以上は何も説明しなかった。
凛も、それ以上尋ねなかった。
変わった名前だと思った。
けれど。
図書館の利用登録に必要なのは、それだけだった。
「では、凪さん。」
「こちらのカードをお使いください。」
「ありがとうございます。」
凪は利用者カードを受け取る。
その指先は細く、白かった。
それでも軍人なのだと、肩の徽章が静かに示している。
凛は少し不思議な気持ちになりながら、貸出端末を操作した。
「今日は何かお探しですか?」
「歴史関係の本を。」
「軍事史ですか?」
「はい。」
凛は少し考える。
「それでしたら、二階の奥にあります。」
「案内しましょうか?」
「お願いします。」
凪は再び小さく頭を下げた。
「助かります。」
二人は並んで歩き出した。
図書館の中は静かだった。
窓から差し込む春の光が、床へ細長く伸びている。
二階へ続く階段を上がる。
凛は前を歩きながら、後ろを振り返った。
凪は静かについてきている。
歩き方も、姿勢もきれいだった。
「軍人さんって、みんな姿勢が良いんですか?」
何となく尋ねる。
凪は少しだけ考えるように間を置いた。
「訓練では、よく指導されます。」
「やっぱりそうなんですね。」
「ただ。」
「私は、少し意識しているだけです。」
「そうなんですか?」
「はい。」
凛は小さく笑った。
「十分きれいだと思いますよ。」
凪は何も言わず、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
二階へ着く。
歴史資料の並ぶ棚を指差す。
「この辺りです。」
「ありがとうございます。」
凪は棚へ向かう。
背表紙を一冊ずつ確認していく。
軍事史。
戦略論。
災害史。
国防史。
凛はその様子を少し離れたところから眺めていた。
ずいぶん真面目な人だと思った。
その時。
凪が一冊の本を手に取る。
古い外縁独立機動部隊の記録だった。
表紙には、現在とは少し違う部隊章が印刷されている。
凪はページを開く。
そこには、何十年も前の隊員たちの写真が並んでいた。
凛は声をかける。
「昔の外縁の写真です。」
「そうなんですか。」
「はい。」
「この辺りの資料は、結構人気があります。」
凪は写真を見つめる。
「……そうですか。」
短い返事。
凛は本のページを覗き込んだ。
古い基地。
古い制服。
古い兵器。
そして。
写真の隅に写る、若い隊員たち。
誰もが笑っていた。
「昔の人って。」
凛は言った。
「今より大変だったはずなのに、写真だと楽しそうですよね。」
凪は答える。
「写真には。」
「残したい瞬間が写るからではないでしょうか。」
凛は少し驚いた。
思ったより、柔らかい言葉だった。
「……なるほど。」
凪は本を閉じる。
「この本、借りてもいいですか?」
「もちろんです。」
「では、お願いします。」
凪は本を持って、一階へ戻る。
凛もカウンターへ戻った。
貸出処理をする。
本を受け取る。
そして凪は、また丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました。」
「こちらこそ。」
凪は入口へ向かう。
自動扉が開く。
春の風が館内へ入り込む。
長い金髪が、風に揺れた。
凛はその後ろ姿を見送る。
「……綺麗な人。」
思わず、小さく呟いた。
すぐに首を振る。
違う。
あの人は男性だった。
それでも。
その表現が一番近かった。
外縁独立機動部隊の制服。
淡い金色の髪。
碧い瞳。
そして。
姓を持たない、凪という名前。
その日。
凛はまだ知らなかった。
あの青年と、これから何度も会うことになることを。
図書館で本を借りるだけだった時間が。
やがて一緒に食事をする時間になり。
休日を過ごす時間になり。
そして。
人生を共に歩く時間へ変わっていくことを。
春の風が、静かに街を抜けていった。
ーーー
第一章 常連の訪問者
四月も、後半に差し掛かっていた。
沖縄本島北部。
図書館の裏手には、大きなガジュマルの木が一本立っている。
風が吹くたび、葉が擦れる音がする。
その音は、開け放たれた窓から、館内へゆっくりと流れ込んでいた。
凛はカウンターの内側で、返却された本を棚へ戻す作業をしていた。
単調な仕事。
けれど、嫌いではなかった。
誰かが読み終えた本には、その人の痕跡が残っている。
指の跡。
栞代わりのレシート。
ページの端の、薄い折り目。
それらを見ながら、棚へ戻していく。
午後二時。
館内はいつも通り静かだった。
老人が新聞を読んでいる。
学生が二人、隅の机で参考書を広げている。
それだけだった。
だから。
自動扉が開いた音に、凛は反射的に顔を上げた。
入ってきたのは、あの青年だった。
淡い金色の髪。
碧い瞳。
黒を基調とした、外縁独立機動部隊の制服。
三日前、利用者登録をしたばかりの人物だ。
凪は、迷いのない足取りで館内を進む。
そのまま、二階の歴史資料の棚へ向かった。
凛はその後ろ姿を目で追いながら、少しだけ首を傾げた。
(また来た)
利用者登録をしたばかりの人が、三日後にまた来る。
それ自体は、珍しいことではない。
けれど。
この青年の佇まいには、他の常連とは少し違う質感があった。
本を選ぶ仕草が、丁寧すぎる。
まるで。
初めて本というものに触れる人間のような、慎重さがあった。
凛はしばらく作業を続けていた。
やがて顔を上げると、凪がカウンターの前に立っていた。
「すみません。」
声は中性的で、落ち着いていた。
「はい。どうされましたか。」
「この前借りた本の、続きというか。関連する資料は、ありますか。」
「関連する資料、というのは?」
「外縁の、初期の頃について書かれたものです。」
凛は少し考えてから、端末で検索をかけた。
「郷土資料のほうにも、少しあったと思います。基地ができる前の、この辺りの様子を書いたものが。」
「見てみたいです。」
「歴史がお好きなんですか。」
凪は、少し間を置いた。
「好きなのか、まだよく分かりません。」
その答え方に、凛は思わず手を止めた。
「わからない、というのは。」
「読んでいると、落ち着くんです。理由は、うまく説明できないのですが。」
変わった言い方をする人だ、と凛は思った。
けれど。
その言葉に、噓の響きはなかった。
むしろ。
自分の内側にあるものを、丁寧に言葉にしようとする実直さが伝わってきた。
「それなら、こっちの棚に。案内します。」
凛はカウンターを出て、書架の奥へ向かった。
歩きながら、横目で凪の様子をうかがう。
姿勢がいい。
歩き方に、無駄がない。
まるで、一つ一つの動作を意識して行っているような、そんな印象があった。
「これとか、これも。あと、この著者の本は、聞き取り調査をもとに書かれているので、当時の暮らしぶりがよく分かると思います。」
「ありがとうございます。」
凪は本を受け取ると、その場で表紙を開き、目次に目を通した。
集中しているときの横顔は、驚くほど静かだった。
呼吸の音さえ聞こえないような、そんな静けさ。
「お仕事は、お休みですか。」
凛は尋ねた。
「はい。今日は非番です。」
「外縁って、この本にも出てきましたけど。凪さんも、そこの所属なんですよね。」
「はい。」
短い返事だった。
「どんなお仕事をされてるんですか。」
「詳しいことは、あまり話せません。」
凪はそう言ってから、少し困ったような表情を浮かべた。
「隠しているわけではなくて。うまく、説明する言葉が見つからないだけです。」
その言い訳めいた言葉に、凛はふと引っかかりを覚えた。
けれど。
それ以上は、追及しなかった。
「そうですか。それなら、無理に聞きません。」
「――すみません。」
「謝ることじゃないですよ。」
凛は小さく笑った。
凪は、その笑いを、少し不思議そうに見ていた。
理由の分からないものを、観察するような目だった。
***
凪は借りるだけ借りると、閲覧席の一番奥、窓際の席に腰を下ろした。
そこは午後になると西日が差し込み、多くの利用者が避ける席だった。
けれど凪は、気にする様子もなく、静かに本を開いた。
凛は棚の整理に戻りながら、時折その横顔に目をやった。
ページをめくる速度は、一定だった。
ときどき、同じ箇所を何度か読み返しているようだった。
何かを確かめるように。
あるいは。
何かを覚えようとするように。
その日、凪は閉館の三十分前まで、ずっとそこにいた。
***
次に凪が現れたのは、三日後の午前中だった。
「おはようございます。」
まだ館内に人の少ない時間帯。
凪はまっすぐカウンターにやってきて、そう言った。
丁寧な礼をともなうその挨拶に、凛はつい微笑んでしまう。
「おはようございます。今日は早いんですね。」
「非番だったので。」
「今日は何を探しに?」
「特に、決めていません。」
凪は、少し間を置いた。
「凛さんが、何かおすすめしてくれたら。それを読もうと思って。」
その返答に、凛は少し驚いた。
目的の本があって来るのではない。
人に選んでもらうために来る。
それは、これまで接してきた利用者の中でも、珍しいタイプだった。
「私が選んでいいんですか。趣味に合わなかったら、責任取れませんよ。」
「大丈夫です。」
「凛さんが選ぶものなら。きっと――」
言いかけて、凪は少し言葉を止めた。
何かを探すような、わずかな間があった。
「――きっと、悪いものではないと思うので。」
その間の意味を、凛は深く考えなかった。
ただ。
彼の言葉選びには、時折こういう小さな「つっかえ」があることに気づいてはいた。
まるで。
感情に名前をつける作業を、一つ一つ手作業でこなしているような。
凛はしばらく考えてから、書架の間を歩き、一冊の文庫本を手に取った。
地元出身の作家が書いた、小さな漁村を舞台にした短編集だった。
「これ、読んだことあります?」
「いえ、ありません。」
「派手な話じゃないんですけど。静かで、いい話が多いんです。海の描写が好きで。」
凪は本を受け取ると、しばらくその表紙を見つめていた。
それから。
まるで大切なものを扱うように、両手でそっと持ち直した。
「ありがとうございます。読んでみます。」
凛はその仕草に、また小さな違和感を覚えた。
ただの文庫本だ。
特別なものでも、高価なものでもない。
それなのに。
凪の手つきには、まるで初めて何かを託されたような重みがあった。
(変わった人)
凛はそう思いながらも、それを悪い意味では受け取っていなかった。
むしろ。
その不器用さに近いものに、どこか惹かれている自分に気づいていた。
***
それから凪は、週に二度、三度と図書館を訪れるようになった。
非番の日には決まって開館時間に合わせてやってきて、凛が勧めた本を読み、時には感想を話しに来た。
「凛さんが貸してくれた本、読み終わりました。」
「どうでした?」
「主人公が、最後まで何も言わずに海を見ているシーンがあって。そこが、よく分かりませんでした。」
「わからない、というのは、意味が?」
「いえ。意味は、分かると思います。ただ――なぜ、悲しい話でもないのに、胸のあたりが重くなるのか。それが、分からなくて。」
凪はそう言うと、少し困ったような表情を浮かべた。
その表情は、演技には見えなかった。
本当に。
自分の内側で何が起きているのかを、測りかねているような、そんな顔だった。
凛は少し考えてから答えた。
「それ、多分、切ないって感情だと思いますよ。」
「切ない。」
凪はその言葉を、まるで初めて聞いたかのように、静かに口の中で繰り返した。
「切ない、というのは――悲しいのとは、違うんですか。」
「違いますね。悲しいのは、もっとはっきりした痛みで。切ないのは、もっと……曖昧で、静かなものだと思います。失われていくものを、遠くから見ているときの気持ち、というか。」
凪はしばらく黙っていた。
窓の外では、ガジュマルの葉が風に揺れ、木漏れ日がカウンターの上でゆらゆらと形を変えていた。
「私は、その感情を、まだよく知らないのかもしれません。」
ぽつりと、そう漏らした。
凛はその言葉に、深い意味を求めなかった。
ただ。
彼がそういう不確かさを、恥じることなく口にできる人だということに、静かな好感を持った。
「知らなくても、いいと思いますよ。これから知っていけば。」
「――そうですね。」
凪は小さく頷き、それから初めて、少しだけ肩の力が抜けたような表情を見せた。
それは、笑顔と呼ぶには控えめすぎた。
けれど。
確かに、それまでの儀礼的な佇まいとは違う何かだった。
凛はその変化に気づき、ふと胸の奥が温かくなるのを感じた。
理由は、わからない。
ただ。
この青年が少しずつ、何かを取り戻していくような。
あるいは。
初めて手に入れていくような。
そんな過程に、立ち会っている気がした。
***
図書館の閉館時刻が近づくと、凛はいつものように館内放送を流し、利用者に声をかけて回る。
その日も凪は、窓際の席で本を読んでいた。
放送が流れると、静かに本を閉じて席を立った。
「今日もありがとうございました。」
「また来てくださいね。」
言ってから。
凛は自分の言葉に、いつもより少し力がこもっていることに気づいた。
それは、単なる職業的な社交辞令ではなかった。
凪は扉の前で一度足を止め、振り返った。
「凛さんは、明日も出勤ですか。」
「はい。明日も。」
「では。また明日。」
その言い方には。
まるで「また明日会える」ということそのものを、確かめているような響きがあった。
凛は小さく笑って頷いた。
「はい。また明日。」
自動扉が閉まる。
凪の姿が、夕暮れの中へ消えていく。
凛はしばらくその場に立ったまま、外の景色を眺めていた。
北部特有の、赤みを帯びた夕日が、海の方角からゆっくりと差し込んでくる。
この島に流れる時間は、いつも静かだった。
けれど。
その静けさの中に、これまでとは少し違う色が差し込みはじめていることに、凛はまだ、はっきりとは気づいていなかった。
ただ。
凪という青年が来る日は、図書館の空気が少しだけ柔らかくなる。
そんな気がしていた。
それが何を意味するのか。
この時の凛には、まだ分からなかった。
ーーー
第二章 図書館の外で
五月に入ると、北部の空はいっそう青さを増した。
梅雨入り前の、束の間の晴天。
海からの風は、まだ湿りを帯びていない。
その日は、図書館の休館日だった。
凛は朝から、特に予定もなく過ごしていた。
洗濯物を干し、部屋を軽く片付け、それから、少し遠くまで歩いてみようと思い立った。
集落を抜けた先にある、小さな港。
その手前に、古い民家を改装した喫茶店がある。
凛は月に一度ほど、そこへ足を運んでいた。
コーヒーの味がいいわけではない。
ただ、店の窓から見える海の色が、好きだった。
引き戸を開ける。
木製の風鈴が、小さく音を立てた。
「いらっしゃい。」
店主の老婦人が、奥から顔を出す。
凛は軽く会釈をして、窓際の席に向かった。
そして。
足を止めた。
窓際の席に、すでに先客がいた。
淡い金色の髪。
白いシャツに、薄手のジャケット。
制服ではない、私服姿の凪だった。
「――凪さん?」
声をかけると、凪がゆっくりと顔を上げた。
一瞬、驚いたような表情を浮かべる。
けれど。
それはすぐに、穏やかな色に変わった。
「凛さん。」
「奇遇ですね。」
「はい。」
凪は小さく頷いた。
「非番の日は、よくここに来ます。海が見えるので。」
「私もです。同じ理由で。」
凛は少しおかしくなって、笑った。
凪は、その隣の椅子を、目で示した。
「よければ、ご一緒にどうですか。」
***
凛は誘われるまま、凪の向かいに腰を下ろした。
老婦人が水を運んでくる。
凛はいつものアイスコーヒーを頼み、凪は温かい紅茶を頼んだ。
「凪さんが、私服でいるところ。初めて見ました。」
「そうですね。」
「似合いますね、それも。」
凪は自分の袖口に、一度視線を落とした。
「軍服とは、着心地が違います。」
「どう違うんですか。」
「軽いです。」
「体が、自由に動く感じがします。」
その言い方に、凛はふと引っかかりを覚えた。
軽い、というのは分かる。
けれど。
自由に動く、という表現には、どこか他人事のような響きがあった。
まるで。
自分の体について、外側から語っているような。
「凪さんって。」
凛は少し考えてから、続けた。
「たまに、変わった言い方をしますよね。」
「変わった、というのは。」
「うまく言えないんですけど。自分のことを、少し離れたところから見ているような。」
凪は、しばらく黙っていた。
窓の外では、白い波が静かに岸へ寄せては返している。
「――そうかもしれません。」
やがて、そう答えた。
「私は、自分の感情や、体の感覚について。まだ、うまく言葉にできないことが多いんです。」
「経験が、足りないから。」
「はい。」
「他の人が、当たり前に知っていることを。私は、一つずつ確かめながら、覚えていくしかありません。」
凛は、その言葉を静かに受け止めた。
追及はしなかった。
ただ。
その言葉の奥にあるものを、無理に暴こうとは思わなかった。
「別に、悪いことじゃないと思いますよ。」
凛は言った。
「みんな、最初は知らないところから始まるので。」
凪は、少し驚いたように凛を見た。
それから。
小さく息を吐くように、笑った。
「凛さんは。」
「そういうふうに言ってくれる人ですね。」
「そういうふう、って?」
「分からないことを、分からないままにしておいてくれる人です。」
その言葉に、凛は少し照れくさくなった。
視線を、運ばれてきたアイスコーヒーのグラスへ逸らす。
「私は、ただ。無理に分かろうとしないだけです。」
「分かろうとしなくても、いいんですか。」
「いいと思います。分からないことがあっても、一緒にいられるなら。」
凪は、その言葉を、しばらく胸の中で転がしているようだった。
やがて。
窓の外の海へ、静かに視線を向けた。
「――私も、そう思います。」
***
しばらく、二人は他愛のない話をした。
図書館に来る利用者のこと。
最近読んだ本のこと。
凪が非番の日に、よく歩くという海沿いの道のこと。
「今度、その道を案内してもらえますか。」
凛が言うと、凪は少し目を見開いた。
「私が、ですか。」
「はい。凪さんが、いつも歩いてる道。見てみたいです。」
「――光栄です。」
生真面目な返事に、凛はまた小さく笑ってしまった。
「そんな大げさな話じゃないですよ。」
「いえ。」
凪は、静かに首を振った。
「誰かと一緒に、その道を歩くのは。初めてなので。」
その一言に、凛はふと胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。
理由はうまく説明できない。
ただ。
たったそれだけのことが、この青年にとっては特別なことなのだと分かって。
その特別さの重みに、少しだけたじろいだ。
「じゃあ、決まりですね。」
凛は、努めて明るく言った。
「今度の休みが、合う日に。」
「はい。」
凪は頷いた。
その表情は、これまで見た中で、一番柔らかいものだった。
***
喫茶店を出ると、日はまだ高い位置にあった。
潮風が、二人の間を静かに通り抜けていく。
「送りましょうか。」
凪が言った。
「いえ、大丈夫です。バス停、すぐそこなので。」
「そうですか。」
凪は、少し名残惜しそうな表情を浮かべた。
けれど。
それを言葉にすることはなかった。
「では。次の休みに。」
「はい。楽しみにしてます。」
凛はそう言って、軽く手を振った。
歩き出してから、一度だけ振り返る。
凪はまだ、その場に立ったまま、こちらを見ていた。
風が、彼の金色の髪をやわらかく揺らしている。
その姿は。
どこか、現実から少しだけ浮いているような。
そんな不思議な儚さをまとっていた。
凛は、その理由を深く考えなかった。
ただ。
もう少しだけ、彼のことを知りたいと思った。
***
バスに揺られながら、凛は窓の外を眺めていた。
海が、遠ざかっていく。
(誰かと一緒に、その道を歩くのは。初めてなので。)
凪の言葉が、頭の中で静かに繰り返されていた。
それは、大げさな言葉ではなかった。
むしろ。
淡々とした、事実を述べるような口調だった。
だからこそ。
その裏にあるものの深さが、かえって伝わってくる気がした。
凛は、これまで生きてきた中で。
「初めて」という言葉を、そんなふうに大切そうに扱う人に、出会ったことがなかった。
(この人は、一体。どんな時間を、生きてきたんだろう)
その問いに、答えはなかった。
ただ。
窓に映る自分の顔の向こうに、まだ喫茶店の前に立っているだろう凪の姿が、重なって見える気がした。
バスは、緩やかに集落の道を進んでいく。
海の匂いが、少しずつ遠くなっていった。
ーーー
第三章 海沿いの道
約束の日は、思ったより早くやってきた。
凛と凪、双方の非番が重なったのは、五月の第二週の土曜日だった。
朝、待ち合わせの場所に着くと、凪はすでにそこに立っていた。
白いシャツ。
薄い色のズボン。
先日の喫茶店のときと同じ、私服姿だった。
「おはようございます。」
「おはようございます、凛さん。」
凪は、丁寧に頭を下げた。
その仕草は変わらない。
けれど。
心なしか、その表情には、いつもより緊張のようなものが見える気がした。
「緊張してます?」
凛が尋ねると、凪は少し戸惑ったように、自分の頬に手を当てた。
「――分かりますか。」
「なんとなく。」
「不思議です。緊張、というのが、こういう感覚だとは知りませんでした。」
その正直な答えに、凛は思わず笑ってしまった。
「凪さんは、本当に。」
「面白いですか。」
「面白い、というか。素直だなと思って。」
凪は、その言葉の意味を測るように、少し首を傾げた。
それから。
小さく、頷いた。
「では、行きましょうか。」
***
海沿いの道は、集落の外れから始まっていた。
アスファルトの道はやがて途切れ、白い砂と、赤土の混じった小道に変わる。
片側には、低く茂った琉球松の並木。
もう片側には、防波堤の向こうに広がる、抜けるような青い海。
「ここ、よく歩くんですか。」
「はい。非番の日は、大体。」
「一人で?」
「はい。一人で。」
凪は、前を見つめたまま答えた。
「訓練でも、任務でもない時間に、何をすればいいのか。最初は、よく分かりませんでした。」
「それで、歩くようになった。」
「はい。歩いていると。何かを、しなければならない、という気持ちが薄れていくので。」
その言葉に、凛はふと足を止めそうになった。
何かをしなければならない。
その感覚から自由になるために、歩く。
それは、休息というよりも、もっと切実な、何かからの逃避のように聞こえた。
「凪さんは。」
凛は、慎重に言葉を選んだ。
「普段、気を張っていることが多いんですか。」
「――そうかもしれません。」
凪は、少し考えるように間を置いてから答えた。
「私は、人と接するとき。何が正しい振る舞いなのか、いつも確認しながら動いています。」
「確認、というのは。」
「表情、声の大きさ、言葉の選び方。一つ一つ、間違っていないか。」
「疲れませんか、それ。」
「分かりません。疲れる、という感覚が。それに当たるのかどうか。」
凪は、そう言ってから、少し困ったように微笑んだ。
「でも。凛さんといるときは。」
「その確認の作業が、少しだけ、軽くなる気がします。」
凛は、その言葉に、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
けれど。
同時に、小さな違和感も残った。
(気を張らずにいられない、って。まるで――)
その先の言葉を、凛はうまく形にできなかった。
まるで、この島で生きる誰よりも、根本的なところで、周囲から切り離されているような。
そんな感覚が、凪の言葉の端々から滲んでいた。
***
しばらく歩くと、防波堤の切れ目に、小さな砂浜が現れた。
観光客の来ない、名もない浜辺。
凛はそこで、初めて靴を脱いだ。
「入らないんですか、凪さんは。」
「いえ。私も。」
凪は、少し躊躇うような素振りを見せてから、靴を脱いだ。
素足で砂を踏む。
その瞬間、凪の表情が、わずかに変わった。
「――冷たいです。」
「ですよね、まだ五月なので。」
「いえ。」
凪は、足元を見つめながら、静かに続けた。
「冷たい、という感覚が。想像していたものと、少し違いました。」
「想像と、違う?」
「本で読んだことは、あります。砂浜の温度や、感触について。」
「けれど。実際に感じるものは。もっと、複雑でした。」
凛は、その言葉を聞きながら、そっと凪の横顔を見た。
波打ち際に立ち、足元の感触を確かめるように、じっと視線を落としている凪。
その姿は。
まるで、この世界に降り立ったばかりの人のようだった。
すべてを、初めて経験する人のようだった。
(この人は。本当に、色んなことを――)
知らないのだ、と凛は思った。
歳の割に、知らないことが多すぎる。
けれど。
その「知らなさ」は、無知とは違う質のものだった。
もっと。
根本的な、何かが欠けている、あるいは、まだ埋まっていない部分があるような。
そんな印象だった。
***
「凪さんって。」
凛は、波打ち際に並んで立ちながら、静かに切り出した。
「今まで、あまり普通の暮らしをしてこなかったんですか。」
凪は、しばらく黙っていた。
海鳥の鳴き声が、遠くで響いた。
「――そうかもしれません。」
やがて、そう答えた。
「私は、任務のために、多くのことを教えられてきました。けれど。教えられなかったことのほうが、ずっと多いんです。」
「教えられなかったこと、というのは。」
「たとえば。」
凪は、少し考えるように視線を落とした。
「誰かと、意味もなく一緒に歩くこと。」
「美味しいものを、美味しいと感じること。」
「――誰かを、大切に思う、という感覚。」
その一つ一つの言葉は、静かで、淡々としていた。
けれど。
そこには、明確な欠落の輪郭があった。
凛は、それを聞きながら、胸が締めつけられるのを感じた。
同情ではなかった。
もっと。
この人という存在の、根っこの部分に触れたような。
そんな感覚だった。
「今は。」
凛は、静かに尋ねた。
「大切に思う、という感覚。少しは、分かってきましたか。」
凪は、ゆっくりと凛のほうを向いた。
碧い瞳が、午後の光を受けて、澄んだ色を帯びていた。
「――分かりません。」
「まだ、正直に言うと。」
「けれど。」
「凛さんと、こうして歩いている時間は。他のどんな時間よりも、失いたくないと感じます。」
その言葉に、凛は一瞬、息を止めた。
風が、二人の間を静かに通り抜けていく。
波の音だけが、しばらく二人の沈黙を埋めていた。
「それが、大切に思う、ということなら。」
凪は、小さく続けた。
「私は、もう。分かっているのかもしれません。」
***
帰り道、日はゆっくりと傾きはじめていた。
砂浜を出て、また松並木の小道を歩く。
凛は、隣を歩く凪を、時折横目で見た。
その横顔は、いつもと変わらず穏やかだった。
けれど。
先ほどの言葉の余韻が、まだ凛の胸の中に残っていた。
(この人は。きっと。)
言葉にできない何かを、たくさん抱えている。
そんな気がした。
それが何なのか、凛にはまだ分からない。
けれど。
分からないままでも構わないと、凛は思っていた。
分からないことを、無理に暴こうとはしない。
ただ、隣を歩き続ける。
それだけで、十分だった。
「また、来ましょう。この道。」
凛は言った。
「はい。」
凪は、静かに頷いた。
「また、来ます。凛さんと一緒に。」
夕暮れの光が、海の水面に、細かく反射していた。
二人の影が、砂の混じった小道の上に、並んで長く伸びていた。
ーーー
第四章 雨宿りの午後
五月も終わりに近づくと、北部の空模様は、日に何度も変わるようになった。
梅雨の走りだった。
その日、凛は仕事帰りに、少し遠回りをしていた。
図書館から歩いて十五分ほどの、小さな商店街。
夕食の買い出しをしようと思っていた。
空は、朝から曇っていた。
湿った風が、時折強く吹く。
雨が近いことは、なんとなく分かっていた。
けれど。
商店街の途中で、それは思ったより早くやってきた。
ぽつり、ぽつりと。
アスファルトに、黒い染みが増えていく。
それは、あっという間に、勢いを増した。
凛は慌てて、近くの軒先に駆け込んだ。
古い民家の軒下。
そこには、すでに先客がいた。
「――凪さん?」
声をかけると、青年が振り返った。
淡い金色の髪が、雨に少し濡れている。
「凛さん。」
凪は、少し驚いたような顔をした。
「奇遇ですね。」
「本当に。」
凛は、笑いながら、軒下の隅に体を寄せた。
「非番ですか、今日。」
「はい。買い物の帰りです。」
凪は、手にした小さな紙袋を、軽く持ち上げてみせた。
雨は、勢いを弱めることなく降り続いていた。
軒先から見える通りは、あっという間に、白く煙るような雨に包まれていく。
「止みそうにないですね。」
「そうですね。」
二人は、しばらく無言で、雨を眺めていた。
***
軒下は、二人が並んで立つには少し狭かった。
肩が触れそうな距離。
けれど。
不思議と、それを気まずいとは感じなかった。
「凪さんは。」
凛は、雨音に紛れさせるように、静かに口を開いた。
「雨、好きですか。」
「――分かりません。」
凪は、少し考えるように、視線を雨のほうへ向けた。
「ただ。」
「音は、嫌いではないです。」
「音?」
「雨が、屋根や地面に当たる音。色んな音が、重なっているように聞こえます。」
「一つ一つは、単調なのに。集まると、単調ではなくなる。それが、不思議です。」
凛は、その言葉を聞きながら、耳を澄ませた。
言われてみれば。
雨音は、決して一様ではなかった。
軒先の樋を伝う水の音。
葉に当たる音。
地面の水たまりに落ちる音。
それらが折り重なって、一つの、大きな音の膜のようなものを作っている。
「本当ですね。」
凛は、小さく頷いた。
「今まで、気にしたことなかったです。」
「私は。」
凪は、静かに続けた。
「気にする、というより。気になってしまう、というほうが近いです。」
「知らないことが多いので。一つ一つの音や、感触や、匂いに。まだ、慣れていません。」
その言葉に、凛はふと、以前海辺で聞いた言葉を思い出した。
砂の冷たさが、想像と違った、という言葉。
凪にとって、この世界は。
まだ、慣れないことばかりで満ちているのだろう。
(それは。きっと。)
心細いことなのではないだろうか。
凛は、そう思った。
けれど。
凪の横顔には、不安の色よりも、静かな興味の色のほうが強く浮かんでいた。
***
雨は、なかなか止まなかった。
凛は、鞄からハンカチを取り出し、濡れた前髪を軽く拭った。
「傘、持ってないんですか。」
「はい。天気予報を、あまり確認しなかったので。」
「凪さんは?」
「私も、同じです。」
顔を見合わせて、どちらからともなく、小さく笑ってしまった。
「二人とも、うっかりですね。」
「そうですね。」
凪は、そう言ってから、少し間を置いた。
「――こういうのは。」
「何ですか。」
「予定していなかったことが、起きたときに。悪くない気持ちになる、というのは。初めてです。」
その言葉に、凛はふと胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
「普通は、困ることのほうが多いと思いますけど。」
「はい。困ってはいます。」
凪は、真面目な顔で言った。
「けれど。凛さんと一緒に、困っているのは。一人で困っているのとは、何かが違います。」
「違う、というのは。」
「軽い、です。同じ困ったことのはずなのに。」
凛は、その言葉に、思わず声を立てて笑ってしまった。
「それ、多分。」
「一緒にいるのが、楽しいってことだと思いますよ。」
凪は、その言葉を、ゆっくりと胸の中で反芻するような顔をした。
「――楽しい。」
「はい。困っていても、楽しい。そういうことって、あるので。」
「なるほど。」
凪は、静かに頷いた。
その表情には、何か一つ、小さな理解が積み重なったような、そんな穏やかさがあった。
***
雨脚が、ようやく弱まりはじめたころ。
凛の鞄の中で、スマートフォンが鳴った。
母からの、夕食は要るかという連絡だった。
「あ、そろそろ帰らないと。」
「はい。」
凪は、名残惜しそうな様子を、あまり隠さなかった。
それが、凛には少しおかしくて、同時に、少し嬉しかった。
「今度、うちにも遊びに来ますか。」
凛は、思いつくまま、そう口にしていた。
言ってから、少し驚いた。
自分でも、なぜそう言ったのか、はっきりとは分からなかった。
けれど。
凪と過ごす時間を、図書館や、海沿いの道だけに留めておきたくない。
そんな気持ちが、確かにあった。
凪は、目を丸くした。
「凛さんの、お家に、ですか。」
「はい。母も、多分喜ぶと思います。お茶くらいしか出せませんけど。」
「――光栄です。」
凪は、また、その生真面目な言い回しで答えた。
けれど。
その声には、隠しきれない喜びのようなものが滲んでいた。
「ぜひ、伺いたいです。」
「じゃあ、今度、都合の合う日に。」
「はい。」
雨は、いつの間にか、小雨になっていた。
軒下を出る頃には、雲の切れ間から、薄い夕日が差し込みはじめていた。
濡れたアスファルトが、その光を受けて、淡く輝いている。
「今日は、ありがとうございました。」
凪が、軽く頭を下げた。
「こちらこそ。急な雨で、大変でしたね。」
「いえ。」
凪は、静かに首を振った。
「大変では、なかったです。」
「――むしろ。」
「予定になかった時間を、凛さんと過ごせて。良かったと思います。」
その率直な言葉に、凛はまた、頬が緩むのを感じた。
「では、また。図書館で。」
「はい。また。」
二人は、それぞれの方向へ、歩き出した。
凛は、少し歩いてから、一度だけ振り返った。
凪は、まだこちらを見ていた。
夕暮れの光の中、濡れた金色の髪が、静かに輝いている。
その姿を見ながら、凛は思った。
(この人と過ごす時間は。もう、私にとっても。)
かけがえのないものになりつつある。
その予感は、確信に近いものへと、少しずつ変わりはじめていた。
***
その夜、凪は一人、宿舎の窓辺に立っていた。
雨上がりの空には、まだ厚い雲が残っている。
(予定していなかったことが、起きたときに。悪くない気持ちになる。)
昼間、自分が口にした言葉を、静かに反芻する。
任務においては、予定外の出来事は、常に警戒すべき対象だった。
けれど。
今日、軒下で過ごした、あの短い時間は。
警戒すべき何かとは、まるで違う質のものだった。
凪は、自分の胸に、そっと手を当てた。
そこにあるのは、機械的な駆動音でも、演算の熱でもない。
ただ、静かな、温かい何か。
それが何であるか、まだ、正確な名前は分からない。
けれど。
その感覚を、失いたくないと思う自分がいることだけは。
はっきりと、分かっていた。
ーーー
第五章 凛の家への招待
その日は、朝から穏やかに晴れていた。
梅雨の合間の、貴重な晴天。
凛の家は、集落の外れ、小高い場所に建っていた。
古い木造の平屋。
庭には、ハイビスカスの木が一本と、母が丹精している小さな畑がある。
「本当に、来てくれるんですね。」
昼過ぎ、玄関先で凛が言うと、凪は少し緊張した面持ちで頷いた。
「はい。楽しみにしていました。」
その言い方が、あまりに生真面目だったので、凛は思わず笑ってしまった。
「そんなに、かしこまらなくていいですよ。お茶を飲むだけなので。」
「――そう、しようとは思っているのですが。」
凪は、自分の手のひらを、一度軽く見つめた。
「うまく、力が抜けないようです。」
その正直な言葉に、凛はまた小さく笑い、玄関の戸を開けた。
「どうぞ。入ってください。」
***
家の中は、木と畳の匂いがした。
古い柱時計の音が、静かに時を刻んでいる。
「お邪魔します。」
凪は、靴を丁寧に揃えて脱ぐと、一歩ずつ確かめるように、廊下を進んだ。
その様子は、まるで、初めて訪れる異国の建物を見学しているかのようだった。
「凪さん、そんなに緊張しなくても。」
「――申し訳ありません。」
「謝ることじゃないですよ。」
居間に通すと、縁側に面した障子が開け放たれていて、庭からの風が、すっと通り抜けていった。
凪は、その場に立ち止まり、しばらく庭のほうを眺めていた。
「風が、家の中を通っていくんですね。」
「はい。夏場は、これが一番涼しいので。」
「不思議です。壁の中にいるのに、外にいるような感覚があります。」
その感想に、凛はふと、彼がこれまで、どんな場所で暮らしてきたのだろうと思った。
任務のための施設。
きっと、無駄のない、機能的な空間だったのだろう。
風が通り抜けるだけの、意味のない構造など。
そこには、存在しなかったのかもしれない。
***
「あら、いらっしゃい。」
奥から、凛の母が顔を出した。
エプロン姿で、手には湯呑みを載せた盆を持っている。
「初めまして。凛の母です。」
「初めまして。凪と申します。」
凪は、深く頭を下げた。
その角度が、あまりに丁寧すぎて、母は少し驚いたような顔をした。
「まあ、律儀な子ね。」
母は、そう言って、目を細めた。
「凛から聞いてるわ。図書館によく来てくれてるんですって。」
「はい。お世話になっています。」
「今日は、ゆっくりしていってね。大したものは出せないけど。」
母は、盆をテーブルに置くと、また台所へと戻っていった。
凪は、その後ろ姿を、少し不思議そうに見送っていた。
「凛さんのお母さん、って。」
「はい。」
「凛さんと、よく似ています。」
「そうですか?」
「話し方が、少し。相手の様子を見て、無理のない距離で話す感じが。」
その観察に、凛は少し照れくさくなった。
「よく見てますね、そういうところ。」
「――気になってしまうんです。人と人との、関わり方が。」
凪は、そう言ってから、少し伏し目がちになった。
「私には、まだ、うまく分からないことが多いので。見て、覚えようとしてしまいます。」
***
出されたお茶は、さんぴん茶だった。
湯呑みから立ち上る、ジャスミンの香り。
凪は、両手で湯呑みを包むように持ち、しばらくその湯気を見つめていた。
「熱いので、気をつけてくださいね。」
「はい。」
一口飲んで、凪は、小さく目を見開いた。
「――香りが、強いですね。」
「好きな味じゃなかったですか?」
「いえ。」
凪は、静かに首を振った。
「嫌いではないです。ただ、香りが、口の中に残る感じが。初めての感覚で。」
「花の匂いが、飲み物になっている。それが、少し不思議です。」
その表現に、凛はふと、以前海辺で聞いた言葉を思い出した。
砂の冷たさが、想像と違った、という言葉。
雨音が、集まると単調でなくなる、という言葉。
凪にとって、この世界は、まだ、驚きに満ちているのだろう。
その驚きを、一つ一つ、丁寧に受け止めようとしている。
その姿勢そのものが、凛には、どこか尊いもののように感じられた。
***
しばらくすると、母が台所から、簡単な軽食を運んできた。
サーターアンダギーと、切ったパイナップル。
「手作りなの。よかったら。」
「――いただきます。」
凪は、サーターアンダギーを一つ手に取り、じっと見つめてから、口へ運んだ。
咀嚼する間、その表情に、わずかな変化が浮かんだ。
「どうですか。」
凛が尋ねると、凪は、少し考えるように間を置いた。
「甘さの中に。少し、塩気があります。」
「あ、それ、分かる人少ないんですよ。母、隠し味に塩を入れてるので。」
「――繊細な、味だと思います。」
凪は、静かにそう言うと、もう一口、丁寧に食べた。
その様子を見ていた母が、台所の入り口で、小さく笑った。
「気に入ってもらえたなら、良かったわ。」
「はい。とても。」
凪の返事は、いつもと変わらず丁寧だった。
けれど。
その声には、社交辞令とは違う、確かな響きがあった。
***
日が傾きはじめる頃、母は買い物があると言って、家を出ていった。
家の中には、凛と凪、二人だけが残された。
縁側に、二人並んで腰を下ろす。
庭のハイビスカスが、夕方の風に、緩やかに揺れていた。
「凛さんの、お家。」
凪が、ぽつりと言った。
「はい。」
「――落ち着きます。」
「そうですか?」
「はい。理由は、うまく言えないのですが。」
凪は、少し考えるように、視線を庭へ向けた。
「音や、匂いや、光の入り方。一つ一つに、意味があるように感じます。」
「意味、というのは。」
「効率のためではなく。ただ、そこに暮らす人が、心地よくいられるための、意味です。」
「私が知っている場所には。そういう意味は、あまりありませんでした。」
その言葉に、凛は、静かに耳を傾けた。
追及はしなかった。
ただ。
彼が今、感じているものを、そのまま受け止めようとした。
「凪さんが、ここを心地よく感じてくれるなら。」
凛は、静かに言った。
「いつでも、来てください。」
凪は、驚いたように凛のほうを見た。
碧い瞳が、夕日を受けて、淡く輝いている。
「――いいんですか。」
「はい。母も、きっと喜びます。」
「それに。」
凛は、少し照れながら、続けた。
「私も。凪さんが、ここにいるの。悪くないと思ってるので。」
凪は、しばらく黙っていた。
やがて。
小さく、けれど確かに、頷いた。
「――ありがとうございます。」
「私は。」
「まだ、『居場所』という言葉の意味を、正確には分かっていません。」
「けれど。」
「もし、それが。今、ここにいるような感覚のことを指すのなら。」
「私は、初めて。それを、知った気がします。」
その言葉は、静かで、飾り気のないものだった。
だからこそ。
凛の胸の奥に、まっすぐ届いた。
***
夕暮れの光が、縁側の畳の上に、長く伸びていた。
風鈴の音が、庭のどこかから、微かに聞こえてくる。
二人は、しばらく言葉を交わさず、ただ並んで、同じ景色を眺めていた。
その沈黙は、気まずいものではなかった。
むしろ。
これまでのどの時間よりも、穏やかで、満たされたものだった。
凛は、隣に座る凪の横顔を、そっと見た。
夕日に照らされたその輪郭は、いつもより、少しだけ人間らしく、柔らかく見えた。
(この人にとって。ここが。)
少しでも、安心できる場所になれば。
凛は、そう思った。
理由は、うまく説明できない。
ただ、その願いだけが、静かに、確かに、胸の中にあった。