❖✦✙ 濃密なる至福の果てにある、ほろ苦き深淵 ✙✦❖
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p> 煤けた雑居ビルの狭間に、それはあった。 </p><p> 錆びついた古い鉄扉。 毎日そこを通る誰もが、まるで最初から存在しないかのように視線を滑らせていく、認知の隙間に埋もれた空白。 </p><p> けれど、今日の彼女だけは、その空白を素通りすることができなかった。 </p>
本文
煤けた雑居ビルの狭間に、それはあった。
錆びついた古い鉄扉。 毎日そこを通る誰もが、まるで最初から存在しないかのように視線を滑らせていく、認知の隙間に埋もれた空白。
けれど、今日の彼女だけは、その空白を素通りすることができなかった。
心も、身体も、限界だった。 胸の奥に澱(おり)のように溜まった、誰にも言えない重苦しい孤独。
吐き出すこともできず、ただ自分の内側を蝕んでいくストレス。
呼吸の仕方を忘れたかのように浅い息を繰り返していた、その瞬間――。
――トクン。 心臓が、彼女の意志とは無関係に、深く、甘やかな脈を打った。
それは、自分の体から出た音ではない気がした。 はるか地下の暗闇の底から響いてくる、古い大聖堂の鐘のような、重厚でどこか切ない残響。
その見えない音律に、凍えきっていた自分の命が優しく包み込まれ、無理やり体温を吹き込まれていくかのような、奇妙な幸福感が胸を満たす。
「あ……」 不意に、肺の奥まで一気に流れ込んできたのは、街の排気ガスではない。 信じられないほど濃厚で、妖艶で、まるで夜そのものを煮詰めたかのような、焦げ付いたカカオの香り。
……ちがう。これは、香りを「嗅いだ」のではない。 どこか哀愁を帯びた甘い闇が、彼女の呼吸を奪うように直接五感へと侵入し、傷ついた心のひび割れを、温かい漆黒の雫で満たしていく感覚だった。脳髄が、極上の蜜を注がれたように激しく、心地よく痺れる。
誘われるように視線を巡らせた先、コンクリートの壁に埋め込まれた古い鉄扉が、じっと彼女を待っている気がした。
よく見れば、錆びついた鉄の表面には、繊細な黒薔薇の棘のような、あるいは美しく絡み合う茨の浮き彫りが、まるで呼吸を合わせるように、かすかに、生き生きとまたたいている。
常識から外れた、あまりにも幻想的な美しさ。
頭の芯が酷く麻痺した彼女には、そのドアノブ以外に世界に触れるべきものが存在しないように思えてしまう。
気がつけば、冷たい金属に手を伸ばしていた。 その手をかけた瞬間、鉄扉の向こう側から、「コトコト、コトコト……」という、古い時計のゼンマイが時を刻むような、どこか愛おしい機械の駆動音が、彼女の指先を伝って心をトントンと叩いた。
力を込めて押し開ける。 カチリ、と、永劫に狂わない歯車が冷たくも美しく噛み合う音がした。
その瞬間、背後の街の喧騒は、まるで最初から存在しなかった嘘のようにはっきりと消え去った。 ただ、ぬるりと、夜よりも深いカカオの闇だけが、彼女の全身を温かく包み込んでいくのだった。
作品統計
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