❖✦✙ 濃密なる至福の果てにある、ほろ苦き深淵 Ⅱ ✙✦❖
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一歩踏み込んだ先は、現世の光を完全に遮断した、漆黒の深淵だった。中世の教会を思わせる尖頭アーチの窓。照明は極限まで落とされ、揺らめく蝋燭の火だけが、深紅のベロアソファに血のような影を落としている。耳の奥を支配するのは、地下から響く重厚な機械の地鳴り。それは彼女の絶望の濃度を正確に測るように、客席の四隅に嵌め込まれた黒鉄のスピーカーから、逃げられない「音の檻」となって降り注ぎ始める。
本文
一歩踏み込んだ先は、現世の光を完全に遮断した、漆黒の深淵だった。
中世の教会を思わせる尖頭アーチの窓。照明は極限まで落とされ、揺らめく蝋燭の火だけが、深紅のベロアソファに血のような影を落としている。
耳の奥を支配するのは、地下から響く重厚な機械の地鳴り。 それは彼女の絶望の濃度を正確に測るように、客席の四隅に嵌め込まれた黒鉄のスピーカーから、逃げられない「音の檻」となって降り注ぎ始める。
圧倒的なカカオの香りが、じっとりと肌にまとわりついて離れない。 「あの、ここは……」 目眩(めまい)に耐えかね、現実のしがみしろを探すように無意識にスマートフォンを取り出した。その画面を点灯させようとした、その時だった。
「お客様」 影の奥から響いたのは、鼓膜の裏を直接撫でるような、低く滑らかな声。 カウンターの奥、細い銀フレームの眼鏡を光らせたバリスタ――《ジェラルド》が、トパーズ・イエローの瞳を妖しく細め、有無を言わせぬ調子で指を一本立てていた。
「申し訳ありませんが、その機械の光はお仕舞いください。 強い光はショコラを傷つけ、ここにある繊細な魔法を薄めてしまいますので」 弾かれたように画面を消し、ポケットに押し込む。
途端に、店内の闇がさらに一段と濃くなり、カカオの香りが容赦なく彼女の脳を灼いた。
「失礼いたしました。私はこの店のショコラティエ、《アルベリック》」 その傍らから、チリ一つない純白のシャツを纏った冷徹な男が、音もなく現れる。 その黒曜石の瞳は、彼女の隠された本音をすべて暴き立てているようだった。
「地下の攪拌機が、あなたの心の流した『黒い涙』を感知したのです。今のあなたには、このカカオの闇が必要だ、と」 怪しげな、けれど息をのむほど美しい微笑が、彼女を甘い深淵へと誘っていた。
ふと気づけば、彼女の背後には、足音もなくスッと伸びた影があった。
ハニープラチナの髪を王冠のように編み込み、純白の皿を抱えたアンティーク人形のような少女――《エレーヌ》が、淡々と、けれどおぞましいほど綺麗な笑みを湛えて彼女をじっと見つめている。
その視線は、これからショコラに狂い、深淵へと墜ちてゆく獲物を、ただ静かに愛おしんでいるかのようで。 ひとくち齧れば、そこは美しい音の檻。甘い香りが鼓膜を浸し、カカオの闇が五感を灼く。
3人の完璧な調和(アンサンブル)に包まれながら、彼女は、もう二度と戻れない甘い深淵へと、静かに涙を流しながら墜ちてゆく――。