風が生まれる場所5
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
風、凪ぐ頃の後日譚ですが、初めての方でも読めます。 未来世界でも紙の本は残っていた。 これは図書館の司書と、少し変わった常連客との、静かな物語。
本文
第二十一章 未来の約束
出発の前日、非番だった凪は、朝から、凛の家を訪れていた。
母は、気を利かせて、夕方から、親戚の家に出かけていた。
家には、凛と凪、二人だけが、残された。
***
縁側に、二人並んで、腰を下ろす。
庭のハイビスカスが、夏の終わりの、強い日差しを、受けていた。
「明日ですね。」
凛が、静かに、言った。
「はい。朝、早くの、出発です。」
「見送り、来てもいいんですか。」
「――基地の、正面までは。可能です。」
「その先は、行けませんが。」
凛は、頷いた。
「じゃあ、明日、行きます。」
***
日が、少しずつ、傾いていく。
庭の木々の影が、縁側に、長く伸びていった。
「凛さん。」
凪は、鞄から、小さな、布の袋を取り出した。
「これ、受け取ってほしいです。」
***
凛は、その袋を、そっと、開いた。
中から、出てきたのは、細い、銀色のリングだった。
装飾のない、シンプルな作りだった。
「これ。」
「基地の近くの、工房で。作ってもらいました。」
凪は、静かに、説明した。
「金属加工が、専門の、職人さんです。」
「訓練の、合間を、縫って。何度か、通いました。」
***
「私が、自分で、選んで。自分で、頼んだものです。」
その一言に、凛は、少し、目を、見開いた。
「――役割としてでは、なく。」
凪は、続けた。
「私自身の、意志で。凛さんに、渡したいと、思いました。」
***
「戻ってきたら。」
凪は、静かに、続けた。
「ちゃんとした、指輪を、渡したいです。」
「今は、これで、我慢してください。」
「約束の、証として。」
***
凛は、そのリングを、指先で、そっと、なでた。
冷たい、金属の感触が、伝わってくる。
けれど。
その冷たさの奥に、確かな、重みが、あった。
「――嬉しいです。」
凛は、そう言って、指に、そのリングを、はめた。
サイズは、ぴったりだった。
***
「サイズ、よく分かりましたね。」
「以前、凛さんの手を、握ったときの、感触を。覚えていました。」
凪は、そう答えた。
その、あまりに正確な、覚え方に、凛は、思わず、笑ってしまった。
「凪さんらしいです、それ。」
***
「凛さん。」
凪は、少し、姿勢を、正した。
「戻ってきたら。」
「話したいことが、あります。」
「これからの、生活について。」
***
「今は。」
凪は、続けた。
「軍の、宿舎で、生活しています。」
「けれど、いつか。」
「凛さんと、一緒に、暮らせる日が、来ればと。思っています。」
***
「一緒に、暮らす。」
凛は、その言葉を、静かに、繰り返した。
「それって。」
「――はい。」
凪は、まっすぐ、凛を、見つめた。
「凛さんと、家族に、なりたいです。」
「いずれ、時期が、来たら。」
「結婚、という形で。」
***
その、率直な言葉に、凛は、しばらく、何も、言えなかった。
夕方の風が、庭の木々を、静かに、揺らしている。
「――気が、早いですか。」
凪が、少し、不安そうに、尋ねた。
「いえ。」
凛は、首を、振った。
「早くないです。むしろ。」
「私も、同じことを、考えてました。」
***
「本当ですか。」
「はい。」
凛は、指にはめた、リングを、もう一度、見つめた。
「凪さんが、戻ってきたら。」
「一緒に、暮らす場所、探しましょう。」
「この、集落の、どこかで。」
***
「はい。」
凪は、静かに、頷いた。
「必ず、戻ります。」
「その、約束を、果たすために。」
***
日が、完全に、沈んだ。
庭には、夏の虫の声が、響き始めていた。
二人は、しばらく、無言のまま、縁側に座り続けた。
肩が、そっと、触れ合う距離だった。
***
「凪さん。」
「はい。」
「怖くないんですか。」
「長期の、任務。」
凪は、少し、考えるような、間を置いた。
「――怖い、という感覚が、正確に、何を指すのか。まだ、完全には、分かりません。」
「けれど。」
***
「凛さんと、離れることは。」
「これまでの、どんな任務よりも、辛いことだと、思います。」
「それでも。」
凪は、続けた。
「戻ってくれば、また、凛さんに、会えると。」
「その、確信だけは。はっきりと、あります。」
***
「だから、大丈夫です。」
その言葉に、凛は、小さく、頷いた。
「――信じてます。」
「凪さんなら、必ず、戻ってくるって。」
***
夜が、深くなっていく。
虫の声が、庭中に、満ちていた。
凛は、そっと、凪の肩に、頭を、預けた。
凪は、少しの間、身を、固くした。
けれど、すぐに、その硬さは、解けた。
***
「明日から。」
凪が、静かに、言った。
「凛さんに、会えない日々が、続きます。」
「けれど。」
「この、リングを、見るたびに。」
「今日の、この時間を、思い出してください。」
***
「はい。」
凛は、リングを、そっと、握りしめた。
「絶対に、忘れません。」
「――ずっと、待ってます。」
***
夜空を、見上げる。
星々が、変わらず、静かに、瞬いていた。
その光の下、二人は、しばらく、言葉もなく、寄り添い続けていた。
明日への、別れを、静かに、受け入れながら。
けれど、その先にある、確かな未来を、しっかりと、見据えながら。
ーーー
第二十二章 水平線の兆し
九月になっても、日差しは、まだ強かった。
けれど、風には、少しずつ、秋の気配が、混じり始めていた。
図書館のカウンターで、凛は、返却された本の、バーコードを読み取っていた。
左手の薬指に、細い、銀色のリングが、光っていた。
***
窓際の席は、いつも通り、空いていた。
けれど、その空白に、以前ほどの、重さは、感じなくなっていた。
凛は、時折、その席に、目をやった。
読みかけのまま、貸し出しになっている本が、一冊、あった。
いつか、続きを、読みに来るはずの、本だった。
***
十月。
台風が、二度、島を通り過ぎた。
図書館の窓ガラスに、養生テープを貼りながら、凛は、遠くの空を見上げた。
灰色の雲が、低く、垂れ込めている。
(この空の向こうで。凪さんは、何をしているんだろう)
そう思うことは、あっても。
それを、長く、引きずることは、しなかった。
日々の、仕事があり、生活があった。
***
十一月。
北部の気候は、少しずつ、涼しさを、増していった。
凛は、いつものように、返却本を、棚に戻していく。
母から、たまに、凪の様子を、聞かれることがあった。
「連絡、あるの?」
「たまに。短いメッセージだけ、来る。」
「そう。無事なら、いいけど。」
凛は、頷いた。
心配は、していた。
けれど、それを、母の前で、深く、見せることは、なかった。
***
十二月。
年の瀬が、近づいていた。
図書館には、クリスマス関連の、特設コーナーが、設けられた。
凛は、その飾り付けを、手伝いながら、ふと、指のリングに、触れた。
冷たい、金属の感触。
けれど、それに、触れるだけで。
不思議と、心が、静かに、落ち着いた。
***
一月。
新年を、迎えた。
凛は、図書館の、正月の営業に、備えていた。
年始の挨拶回りに来る、常連客たち。
いつもと、変わらない、忙しさだった。
けれど、凛の一日は、いつも、リングを、確認することから、始まっていた。
指に、それが、あることを、確かめる。
それだけで、一日を、始める、力になった。
***
二月。
寒緋桜が、少しずつ、咲き始めていた。
沖縄の、早い春の、始まりだった。
凛は、通勤の道すがら、その、薄紅色の花を、見上げた。
(凪さんと、一緒に、見たいな)
そんなことを、思いながら、図書館へ、向かう日々が、続いていた。
***
その日は、二月の、半ばだった。
昼過ぎ、凛が、カウンターで、作業をしていると、スマートフォンが、震えた。
見慣れない、番号からの、着信だった。
凛は、一瞬、迷ってから、電話に、出た。
***
「――もしもし。」
「凛さん。」
その声を、聞いた瞬間、凛は、息を、止めた。
「――凪さん?」
「はい。」
久しぶりに、聞く、その声だった。
以前と、変わらない、静かな、落ち着いた声だった。
***
「今、どこですか。」
凛は、思わず、そう、尋ねていた。
「――まだ、任務地です。」
「けれど。」
凪の声には、これまでの、メッセージにはなかった、明確な、響きがあった。
「任務が、終わりました。」
***
「本当ですか。」
「はい。」
「これから、帰還の、手続きに、入ります。」
「詳しい、日程は、まだ、分かりませんが。」
「――近いうちに、戻れると、思います。」
***
その言葉に、凛は、しばらく、何も、言えなかった。
カウンターの向こう、窓の外には、いつも通りの、図書館の景色が、広がっていた。
けれど。
その景色が、急に、違って、見えた。
***
「凛さん。」
凪の声が、続いた。
「聞こえて、ますか。」
「――はい。」
凛は、ようやく、そう、答えた。
声が、少し、震えていた。
「聞こえてます。」
***
「もう少し、待っていてください。」
凪は、静かに、そう、言った。
「必ず、戻ります。」
「約束、通りに。」
***
「はい。」
凛は、指のリングを、そっと、握りしめた。
「待ってます。」
「ずっと。」
***
短い、通話だった。
けれど、その、数分間で、凛の中の、何かが、大きく、動いた。
電話を切ったあとも、しばらく、スマートフォンを、両手で、握りしめていた。
***
窓の外、二月の空は、澄んだ、青色をしていた。
遠く、水平線の、その先を、凛は、しばらく、見つめていた。
そこに、まだ、姿の見えない、凪の、いる場所を、思い浮かべながら。
***
その日の夕方、凛は、いつもより、少し、早足で、家路についた。
寒緋桜の、薄紅色の花びらが、風に、揺れていた。
母に、伝えたいことが、あった。
指のリングが、夕日を、受けて、静かに、輝いていた。
ーーー
第二十三章 春の訪れ
三月に入ると、北部の空気は、目に見えて、柔らかくなっていた。
寒緋桜は、すでに、散り始めていた。
代わりに、木々の緑が、少しずつ、鮮やかさを、増していく。
図書館の窓から差し込む光も、冬のものとは、違う、温かい色を、帯びていた。
***
その日、凛は、いつも通り、開館の準備を、していた。
新着図書を、棚に並べ、返却ポストを、確認する。
いつもと、変わらない、朝だった。
けれど。
心のどこかで、凛は、ずっと、何かを、待ち続けていた。
正確な日程は、まだ、知らされていなかった。
けれど、「近いうちに」という、凪の言葉を、信じていた。
***
午前十時を、少し、過ぎた頃だった。
自動扉が、開く音が、した。
凛は、いつものように、顔を、上げた。
そして。
その場に、立ち尽くした。
***
そこに、凪が、立っていた。
以前より、少し、日に焼けた肌。
髪は、少し、伸びていた。
けれど、その、碧い瞳は、変わらず、澄んでいた。
「――ただいま、戻りました。」
その一言に、凛は、しばらく、言葉が、出なかった。
***
カウンターを、飛び出すように、出た。
凪の前に、立つ。
「凪さん。」
「はい。」
「本当に、帰ってきたんですね。」
「はい。」
凪は、静かに、頷いた。
「約束、通りに。」
***
凛の目に、涙が、じわりと、浮かんだ。
こらえようとしたが、うまく、いかなかった。
「――良かった。」
「本当に、良かった。」
その言葉だけを、繰り返した。
***
凪は、少し、戸惑ったような、表情を、浮かべた。
けれど、すぐに。
そっと、手を、伸ばした。
凛の頬に、そっと、触れる。
「――泣かないでください。」
「私は、ここに、います。」
「ちゃんと、戻ってきました。」
***
その手の、温かさに。
凛は、さらに、涙が、あふれるのを、感じた。
「すみません。」
「嬉しくて、つい。」
「――大丈夫です。」
凪は、静かに、続けた。
「私も。同じ、気持ちなので。」
***
しばらく、二人は、そのまま、見つめ合っていた。
館内には、他に、利用者は、いなかった。
窓から差し込む、春の光だけが、静かに、二人を、包んでいた。
***
「怪我とか、してませんか。」
凛が、少し、落ち着いてから、尋ねた。
「――大きな、怪我は、ありません。」
凪は、そう、答えた。
「いくつか、小さな、調整が、必要な箇所は、ありますが。」
「命に、関わるようなものでは、ないです。」
***
その、率直な言い方に、凛は、少し、安堵した。
「良かった。」
「本当に、良かったです。」
「――心配、かけました。」
凪は、静かに、頭を、下げた。
***
「いえ。」
凛は、首を、振った。
「待つって、決めたので。」
「その分、心配するのは、当たり前です。」
***
凪は、鞄から、何かを、取り出した。
以前と、同じ、小さな端末。
けれど。
その隣に、もう一つ。
小さな、箱があった。
***
「これ。」
「任務が、終わってから。少し、時間を、もらって。」
凪は、箱を、静かに、開いた。
中には、以前渡した、細いリングよりも、少し、丁寧な作りの、指輪が、入っていた。
***
「約束、通りです。」
凪は、まっすぐ、凛を、見つめた。
「戻ったら、ちゃんとした、指輪を、渡すと。」
「言いましたよね。」
***
凛は、その、指輪を、じっと、見つめた。
言葉が、出なかった。
「――受け取って、もらえますか。」
その問いに、凛は、ゆっくりと、頷いた。
「はい。」
「もちろんです。」
***
凪は、そっと、凛の左手を、取った。
以前の、リングを、外す。
新しい、指輪を、同じ指に、はめた。
サイズは、やはり、ぴったりだった。
***
「これからも。」
凪は、静かに、続けた。
「凛さんと、一緒に、生きていきたいです。」
「――結婚、してください。」
***
その、はっきりとした、言葉に、凛は、また、涙が、あふれるのを、感じた。
けれど、今度は、それを、隠そうとは、しなかった。
「――はい。」
「よろしく、お願いします。」
***
窓の外、春の風が、ガジュマルの葉を、優しく、揺らしていた。
館内に差し込む光が、二人の姿を、静かに、照らしていた。
その光の中、凛の左手で、新しい指輪が、控えめに、輝いていた。
***
「凛さん。」
「はい。」
「これから、二人で。」
凪は、少し、微笑んだ。
これまで、見せたことのない、穏やかで、確かな、笑顔だった。
「たくさん、色んなことを、一緒に、経験していきたいです。」
「私が、まだ、知らないことを。」
「凛さんと、一緒に。一つずつ。」
***
「はい。」
凛は、その言葉に、静かに、頷いた。
「一緒に、たくさん、知っていきましょう。」
「これから、ずっと。」
***
図書館の外、春の日差しが、集落を、優しく、包んでいた。
蝉の声には、まだ、早い季節。
代わりに、鳥のさえずりが、遠くから、聞こえていた。
その、穏やかな音に、包まれながら。
二人は、これからの、長い未来へ向けて、確かな、一歩を、踏み出していた。
ーーー
第二十四章 皮膚の下の真実
婚姻届の用紙は、すでに、二人の手元に、あった。
市役所で、もらってきたものだった。
まだ、記入は、していない。
その紙を前に、凪が、少し、改まった様子で、切り出した。
「今夜、少し、時間を、もらえますか。」
「話したいことが、あります。」
***
夜、凛の家。
母は、すでに、自室に、下がっていた。
居間には、凛と凪、二人だけが、残された。
古い柱時計が、静かに、時を、刻んでいる。
その音だけが、部屋に、響いていた。
***
「婚姻届を、出す前に。」
凪は、静かに、切り出した。
「凛さんに、話さなければ、ならないことが、あります。」
「これまで、ずっと、話せずに、いました。」
***
凛は、正座した姿勢のまま、じっと、その言葉を、待った。
凪の表情には、これまで、見たことのない、深い、緊張が、あった。
「――何でも、話してください。」
凛は、静かに、言った。
***
「私は。」
凪は、一度、大きく、息を、吸った。
「人間では、ありません。」
***
その一言に、凛は、しばらく、動かなかった。
けれど。
驚きよりも、静かな、納得に、近い感覚が、胸の中に、あった。
これまでの、いくつもの、違和感が、一つの、線として、繋がっていくようだった。
***
「――続けて、ください。」
凛は、静かに、促した。
凪は、少し、驚いたような、表情を、浮かべた。
けれど、すぐに、頷き、話を、続けた。
***
「私の体は、ATELIERRAI社が、開発した、有機サイボーグです。」
「外見は、人間と、区別がつかないように、作られています。」
「けれど、内部の構造は、大きく、異なります。」
***
「私という存在が、活動を、始めてから。」
「まだ、二年しか、経っていません。」
「凛さんと、出会う、少し前に。私は、この体に、意識を、持ち始めました。」
***
その言葉に、凛は、これまでの、記憶を、静かに、辿った。
「経験が、足りない」と、繰り返していた、凪。
砂の冷たさに、驚いていた、あの日。
さんぴん茶の香りに、戸惑っていた、あの午後。
全てが、今、この一言で、腑に落ちていく。
***
「両親、というものは。」
凛は、静かに、尋ねた。
「――いません。」
凪は、はっきりと、答えた。
「私は、施設で、製造されました。」
「生まれた、というより。作られた、という表現が、正確です。」
***
「肩の、稼働部の話も。」
凛は、思い出しながら、続けた。
「本当は、機械的な、部分の話だったんですね。」
「――はい。」
凪は、静かに、頷いた。
「あのとき、正直に、話せなくて。すみませんでした。」
***
凪は、シャツの、袖口を、静かに、まくった。
手首の内側、皮膚の、目立たない部分に。
小さな、金属の、継ぎ目のようなものが、あった。
普段は、髪や、服で、隠れている場所だった。
***
「これが、メンテナンス用の、接続部です。」
「定期的に、内部の、状態を、確認するために。ここから、機器を、繋ぎます。」
その、静かな、説明を、凛は、じっと、見つめていた。
***
「見た目は、人間と、変わりません。」
凪は、続けた。
「けれど、痛みの、感じ方も。疲労の、蓄積も。人間とは、少し、異なります。」
「寿命についても。正直、まだ、正確には、分かっていません。」
***
その言葉に、凛は、少し、胸が、締めつけられた。
寿命が、分からない。
それは、これから、共に、生きていく未来において。
決して、小さな、問題では、なかった。
***
「軍に、所属しているのも。」
凪は、続けた。
「戦闘用の、素体として、開発された、経緯が、あるからです。」
「けれど、私という、個体は。戦闘能力が、標準より、低く。」
「補助的な、役割を、与えられています。」
***
「今まで。」
凪は、深く、頭を、下げた。
「隠していて、申し訳、ありませんでした。」
「本当のことを、知ったら。凛さんが、離れていくのでは、ないかと。」
「――怖かったです。」
***
その、率直な言葉に、凛は、しばらく、黙っていた。
古い柱時計の音だけが、部屋に、響いていた。
やがて。
凛は、静かに、口を、開いた。
***
「凪さん。」
「はい。」
「一つ、聞いても、いいですか。」
「はい、何でも。」
***
「今、私に、この話をしようと、決めたのは。」
凛は、まっすぐ、凪を、見つめた。
「誰かに、命令されたから、ですか。」
「それとも。」
***
「――違います。」
凪は、即座に、答えた。
「これは、私自身の、意志です。」
「凛さんと、これから、家族に、なるのに。」
「隠したまま、いることは。できませんでした。」
***
その、はっきりとした、答えに、凛は、小さく、微笑んだ。
「それで、十分です。」
「その、答えだけで。」
***
「凪さんが、どうやって、作られたか。」
凛は、静かに、続けた。
「機械なのか、人間なのか。」
「正直に、言うと。私には、そんなに、大きな、違いには、感じられません。」
***
「これまで、一緒に、過ごしてきた、時間は。」
凛は、続けた。
「全部、本物でした。」
「凪さんが、砂の冷たさに、驚いた、あの日も。」
「星を見て、切ないって、思った、あの夜も。」
***
「全部、凪さんの、心が、感じたことですよね。」
「はい。」
凪は、静かに、頷いた。
「間違いなく、私自身の、経験です。」
***
「なら、それで、十分です。」
凛は、はっきりと、そう、言った。
「私が、好きになったのは。」
「凪さんという、人です。」
「体が、何で、できているかは。関係ないです。」
***
その言葉に、凪は、しばらく、何も、言えなかった。
碧い瞳が、静かに、揺れていた。
「――寿命が、分からないことも。」
凛は、続けた。
「正直、不安が、ないわけじゃ、ないです。」
「でも。」
***
「それは、人間同士でも、同じです。」
凛は、少し、笑った。
「明日、何が、起こるかなんて。誰にも、分からないので。」
「だったら、今、一緒にいられる時間を。大切にしたいです。」
***
凪は、深く、息を、吐いた。
これまで、張り詰めていた、何かが、静かに、解けていくような、そんな、様子だった。
「――ありがとう、ございます。」
「その、言葉が。」
***
「私にとって、どれだけ、救いになるか。」
凪は、続けた。
「うまく、言葉に、できません。」
***
凛は、そっと、凪の手を、取った。
手首の、あの、小さな、継ぎ目に、そっと、触れる。
「これも。」
「凪さんの、一部ですよね。」
「――はい。」
「なら、大切にします。ここも、含めて。」
***
その言葉に、凪は、静かに、涙を、こぼした。
これまで、感情の名前を、一つずつ、確かめてきた、彼が。
初めて、言葉にせずとも、その、感情の、深さを、示していた。
***
柱時計が、静かに、時を、刻み続けている。
婚姻届の、用紙が、机の上に、変わらず、置かれていた。
「凛さん。」
「はい。」
「改めて。」
凪は、涙を、拭いながら、続けた。
「私と、結婚してください。」
「全部、知った上で。」
***
凛は、静かに、微笑んだ。
「はい。」
「もちろんです。」
婚姻届の、用紙に、二人は、並んで、名前を、書き始めた。
窓の外、静かな、夜の空気が、その部屋を、優しく、包んでいた。
ーーー
第二十五章 母の祝福
婚姻届を提出した、翌週。
凪は、凛を、ある場所へ案内した。
「今日、会ってほしい人がいます。」
「私を育ててくれた方です。」
***
バスと、徒歩を、乗り継ぎ、着いたのは。
北部の基地の前に建つ、資料館だった。
「外縁独立機動部隊記念資料館」
古びた看板に、そう記されていた。
観光客の姿はなかった。
***
正面の重い扉を、凪が押し開ける。
中はひんやりとした空気が満ちていた。
長い廊下が、奥へと続いている。
壁には古い写真や記録が、静かに並んでいた。
***
「ここで。」
凪が静かに言った。
「私の最初の一年が、始まりました。」
「意識を持ち始めてから。基地に配属されるまで。」
「ここで過ごしました。」
***
廊下を進むと、奥に一つの部屋があった。
木製の扉。
凪は軽く、ノックをした。
「――母さん。」
「私です。凪です。」
***
扉が静かに開いた。
中から、現れたのは、銀白色の、長い髪を、持つ、女性だった。
年齢は、はっきりとは分からない。
けれど、その穏やかな瞳には、長い時間を見つめてきたような、深さがあった。
***
「――凪。」
その声は、静かで、優しかった。
「久しぶりですね。」
「無事に任務から戻ったと。連絡は受けていました。」
「はい。」
凪は深く、頭を下げた。
「ご心配、おかけしました。」
***
アマツの、視線が、凪の、隣に立つ、凛へと、移った。
「――こちらの方は。」
「はい。」
凪は少し緊張した面持ちで、続けた。
「凛さんです。」
「私の、妻に、なった人です。」
***
その言葉にアマツは、しばらく静かに凛を見つめた。
凛は少し緊張しながらも、まっすぐ、その視線を受け止めた。
「初めまして。神谷凛と、申します。」
「――いえ、今は。」
凛は、少し、言い直した。
「今は、凪、凛です。」
***
その訂正にアマツの表情が静かに緩んだ。
「ようこそ、いらっしゃいました。」
「どうぞ、中へ。」
***
部屋の中は質素だが、落ち着いた空間だった。
木製のテーブルと椅子。
窓からは、外の緑がよく見えた。
アマツは、二人を席に案内した。
***
「お茶を、淹れましょう。」
アマツは静かに立ち上がり、部屋の隅の小さな給湯台へ向かった。
湯を沸かす音が部屋に響く。
しばらくして三つの湯呑みが、テーブルに並んだ。
***
湯気とともに、香ばしい匂いが立ち上る。
「――良い、香りですね。」
凛が思わず、そう言った。
「私がここで、育てている茶葉です。」
アマツは、静かに微笑んだ。
「凪も小さい頃、よく飲んでいました。」
***
「小さい頃、というのは。」
凛が尋ねると、アマツは静かに頷いた。
「体は、活動開始時から、成人の大きさでしたが。」
「心はまだ、何も知らない状態でした。」
「言葉も、感情も。一つずつ、ここで、覚えていきました。」
***
その説明に、凛は、静かに、耳を、傾けた。
隣の凪の横顔を見る。
いつもより、少し、幼く、見える、表情だった。
***
「凪は。」
アマツは続けた。
「感情の理解に、人一倍時間がかかる子でした。」
「けれどその分。一つ覚えたことを、決して忘れない子でもありました。」
***
「母さん。」
凪は、少し恥ずかしそうに言った。
「その話は。」
「――いいではないですか。」
アマツは、優しく笑った。
「大切な成長の記録です。」
***
「凪さんが、ここで育ったこと。」
凛は、静かに切り出した。
「ここで聞かせてもらえて、良かったです。」
「これまで、詳しくは、知らなかったので。」
***
アマツは湯呑みを両手で包みながら、凛を見つめた。
「凛さん。」
「はい。」
「凪を選んでくれて。」
「ありがとうございます。」
***
その、静かな感謝の言葉に、凛は、少し驚いた。
「――私こそ。」
「凪さんと出会えて、良かったと思っています。」
***
「凪は。」
アマツは、続けた。
「ここで、過ごした、一年間。」
「多くのことを学びましたが。」
「感情の真ん中にある何かだけは。ずっと空白のままでした。」
***
「けれど。」
アマツは静かに、凪を見つめた。
「今、目の前にいる、凪の表情を見て。」
「その、空白が。ちゃんと満たされたのだと。分かります。」
***
その言葉に、凪は少し、視線を落とした。
「――母さん。」
「ありがとう、ございます。」
***
「凪。」
アマツは、静かに続けた。
「あなたは活動開始番号として。」
「ここに来ました。」
「けれど今あなたは。」
***
「一人の魂として。」
「ここに、帰ってきました。」
「凛さんという、大切な人を、伴って。」
***
「これ以上の成長は、ないと思います。」
アマツは静かに微笑んだ。
「私はこの施設の番人として。」
「これまで、多くの活動個体の始まりを、見てきました。」
***
「けれど。」
アマツは、続けた。
「こうして家族を得て。帰ってきてくれる子は。」
「そう、多くは、ありません。」
「心から、嬉しく思います。」
***
「凛さん。」
アマツは、改めて凛のほうを、向いた。
「これから、凪のことを。」
「どうか、よろしく、お願いします。」
***
凛は、深く、頭を下げた。
「はい。」
「大切に、していきます。」
***
「凪。」
アマツは、続けて凪へ、視線を向けた。
「あなたも。」
「凛さんを大切にし続けなさい。」
「――はい。」
凪は静かに、けれど、確かに、頷いた。
「必ず。」
***
三人はしばらく、静かに、お茶を飲んだ。
窓の外、木々の葉が、風に揺れている。
その音だけが、部屋に響いていた。
***
「今度。」
アマツが、静かに言った。
「また、来てください。」
「二人で。」
「――はい。」
凛と、凪は、揃って答えた。
***
帰り際、資料館の正面玄関で。
アマツは、二人を見送った。
「幸せに、なりなさい。」
その短い言葉に。
凪も凛も、深く頷いた。
***
山道を、下りながら。
凛は隣を歩く凪に、そっと尋ねた。
「アマツさんって、凪さんにとって。」
「――母、のような、存在です。」
凪は静かに答えた。
「私に名前をつけてくれた人でもあります。」
***
「凪、という名前も。」
「母さんが、つけてくれました。」
「――穏やかな風のように、生きてほしいと。」
「そう言って。」
***
その説明に、凛は、小さく微笑んだ。
「良い、名前ですね。」
「はい。」
凪は静かに頷いた。
「私も、そう、思います。」
***
山道の木々の間から差し込む午後の光が。
二人の足元を、優しく照らしていた。
新しい家族の始まりを、静かに祝福するように。
ーーー
エピローグ 受け継がれる凪のような風
数年の、時が、流れた。
北部の集落は、変わらず静かだった。
けれど、凛の家の庭には、以前はなかったものが、一つ、増えていた。
小さなブランコ。
凪が自分で木材を組んで、作ったものだった。
***
夏の午後。
縁側に、腰を下ろした、凪の膝の上に。
小さな男の子が、座っていた。
湊。
二人の息子だった。
***
「――とうさん。」
湊が、庭のほうを、指さす。
「ちょうちょ。」
凪はその視線の先を、追った。
白い蝶が、ハイビスカスの花の周りを、ひらひらと、舞っていた。
***
「本当だ。綺麗だね。」
凪は静かに答えた。
湊は満足そうに、また蝶を目で追い始めた。
その小さな体の重み。
膝に伝わる、温かさ。
凪はそれを、静かに感じていた。
***
「凪さん、お茶、入りました。」
台所から、凛の声がした。
「ありがとうございます。」
凪は湊を抱きかかえたまま、立ち上がった。
***
居間に、盆を持った凛が、現れる。
以前より少し髪が伸びていた。
けれど、その穏やかな微笑みは、変わらなかった。
「湊、お昼寝の時間よ。」
「――ねむくない。」
湊はそう言いながらも、すでに目をこすっていた。
***
凪は湊をそっと抱き上げ、奥の部屋へと運んだ。
小さな布団の上に、そっと寝かせる。
「おやすみ、湊。」
「――うん。」
湊は、すぐに、寝息を、立て始めた。
***
居間に戻ると、凛が縁側でお茶を飲んでいた。
凪も隣に腰を下ろす。
庭のハイビスカスが、夏の風に揺れていた。
***
「今日、お母さんから、連絡、ありました。」
凛が静かに言った。
「来月、また湊を連れて、遊びに来てほしいって。」
「――喜びますね、湊。」
凪は小さく微笑んだ。
「アマツさんも。」
***
「湊が、生まれたとき。」
凛は湯呑みを両手で包みながら、続けた。
「アマツさん、すごく、喜んでましたよね。」
「はい。」
凪は、静かに頷いた。
「初めて涙を見ました。あの方の。」
***
風が、庭の、木々を、静かに、揺らしていく。
波の音が、遠く、集落の向こうから、微かに、聞こえていた。
凪は、その、音に、耳を、澄ませた。
***
「凛さん。」
「はい。」
「私は。」
凪は、少し、間を、置いた。
「かつて、活動開始番号としか、呼ばれない、存在でした。」
***
「今は。」
凪は続けた。
「湊の父親で。凛さんの夫です。」
「――ここに根を下ろして、生きています。」
***
凛はその言葉に静かに微笑んだ。
「はい。」
「ここが、凪さんの居場所です。」
「もう、ずっと前から。」
***
図書館は今でも凛が時々手伝いに通っていた。
湊が、もう少し大きくなったら。
また、あの窓際の席で一緒に本を読む日が来るだろう。
そんな未来を、二人は静かに思い描いていた。
***
夕方、日が、少しずつ傾き始めた。
橙色の、光が、縁側に長く伸びていく。
湊が目を覚まし、また庭へと駆け出していった。
「とうさん、かあさん、みて!」
小さな手で摘んだ、ハイビスカスの花を、掲げている。
***
「わあ、綺麗。」
凛が、微笑みながら、答えた。
湊は満足そうに、また庭を駆け回り始めた。
その、小さな笑い声が、夕方の風に乗って、響いていく。
***
凪はその光景を、静かに見つめていた。
かつて、砂の冷たさに驚き。
雨音の、重なりに、耳を澄ませ。
星の光の切なさに、戸惑っていた、自分。
***
今、その全ての経験の先に。
この、穏やかな光景があった。
***
「凪さん。」
凛が隣でそっと手を重ねた。
「これから、ずっと。」
「一緒に、いてくださいね。」
***
「はい。」
凪は、静かに、頷いた。
「ずっと、一緒にいます。」
「これからも。」
***
庭を駆け回る、湊の笑い声。
波の音。
風に揺れる、ハイビスカスの花。
その、全てを、包み込むように。
夏の穏やかな風が、静かに吹き抜けていった。
まるで、その名前の通りに。
――凪、のように。
穏やかに。
静かに。
これからも、ずっと。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。