風が生まれる場所4
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あらすじ
風、凪ぐ頃の後日譚ですが、初めての方でも読めます。 未来世界でも紙の本は残っていた。 これは図書館の司書と、少し変わった常連客との、静かな物語。
本文
第十六章 夕暮れの帰り道
閉館作業を終えると、外は、まだ明るかった。
夏至を過ぎたばかりの、長い夕暮れだった。
「今日、バス、少し待ちますか。」
凛が聞くと、凪は、少し考えるように、空を見上げた。
「――歩いても、いいですか。」
「凛さんの家の方向まで。」
「いいですよ。少し遠いですけど。」
「大丈夫です。」
***
図書館を出て、二人は、海沿いの道を歩き始めた。
夕日が、水平線の近くまで、傾いていた。
橙色の光が、アスファルトの上に、長い影を落としている。
蝉の声が、少しずつ、弱まっていく。
代わりに、どこかから、夕方特有の、鳥の鳴き声が聞こえ始めた。
「今日、暑かったですね。」
「はい。三十度を、超えていたと思います。」
「凪さんは、暑いとか、平気そうですよね。」
「――そう、見えますか。」
「なんとなく。汗、あんまりかいてない気がして。」
凪は、その指摘に、少し、間を置いた。
「体温の、調整機能が。少し、特殊なので。」
短い答えだった。
いつもの、正直な口調ではあったが、それ以上の説明は、なかった。
凛は、それを、深くは追及しなかった。
***
しばらく歩くと、堤防沿いに、小さなベンチがあった。
「少し、休みましょうか。」
凛が言うと、凪は、頷いた。
二人は、並んで腰を下ろした。
海は、夕日を受けて、一面、金色に輝いていた。
波の音が、規則正しく、打ち寄せている。
「綺麗ですね。」
「はい。」
凪は、そう答えながら、肩を、一度、軽く回した。
その動作に、凛は、目を留めた。
「肩、痛いんですか。」
「――少し、張りがあります。」
「訓練のせいですか。」
「はい。」
凪は、右肩に、そっと、手を当てた。
「動かし方によって、稼働部に、負荷がかかることがあります。」
***
「稼働部。」
凛は、その言葉を、静かに、繰り返した。
「――今の、体の動かし方の話です。」
凪は、少し、視線を、海のほうへ逸らした。
「関節の使い方、というか。」
言い直すような、そんな口調だった。
凛は、その様子を、じっと見ていた。
追及するべきかどうか、迷うような、間があった。
けれど。
凛は、それ以上、踏み込まなかった。
「マッサージとか、しますか、そういうとき。」
「――あまり、したことがありません。」
「今、してみます?」
***
凛は、断りを入れてから、凪の右肩に、そっと、手を当てた。
シャツ越しに感じる肩は、思ったより、硬かった。
けれど。
その硬さは、人間の凝りとは、少し、質が違うようにも感じられた。
均一で、変な言い方だが、規則的な硬さだった。
「――痛くないですか。」
「はい。むしろ。」
凪は、少し、目を細めた。
「――気持ちいいです、これは。」
その素直な感想に、凛は、小さく笑った。
「良かったです。」
しばらく、凛は、肩に手を当てたまま、動かした。
凪は、目を閉じ、その感触を、静かに受け止めているようだった。
***
「凛さんは。」
しばらくして、凪が、静かに、口を開いた。
「私が、少し、他の人と違うところがあっても。」
「気にならないんですか。」
その問いに、凛は、手を止めずに、答えた。
「違うところ、って。」
「体温の調整とか、稼働部とか。そういうことですか。」
「――はい。」
凛は、少し、考えた。
波の音が、二人の沈黙を、静かに埋めていた。
「気にならない、って言ったら、嘘になります。」
「不思議だな、とは、思います。」
凛は、正直に、そう言った。
「でも。」
肩から、そっと、手を離す。
隣に座る、凪の横顔を見た。
「それが、凪さんが、凪さんである理由の一つなら。別に、それでいいと思います。」
***
「無理に、教えてほしいとは、思いません。」
凛は、続けた。
「話したくなったら、話してくれれば、それで。」
「今は、こうして、隣にいてくれるだけで、十分です。」
凪は、しばらく、何も言わなかった。
夕日が、水平線の下に、半分ほど、沈んでいた。
空の色が、橙から、少しずつ、紫がかった色へと、変わり始めていた。
「――ありがとうございます。」
やがて、凪が、静かに、そう言った。
「凛さんが、そう言ってくれることが。」
「私にとって、どれだけ、救いになっているか。」
「うまく、言葉にできませんが。」
その言葉は、いつもより、少しだけ、掠れていた。
***
凛は、それ以上、何も聞かなかった。
ただ、隣に座ったまま、同じ景色を、見続けた。
夕日は、完全に、水平線の下に、姿を消した。
空には、まだ、薄明るい光が、残っていた。
一番星が、その光の中に、小さく、瞬き始めていた。
「――行きましょうか。」
凛が、立ち上がりながら、言った。
「暗くなる前に。」
「はい。」
凪も、立ち上がった。
肩を、もう一度、軽く回す。
「――軽くなりました、少し。」
「良かったです。」
***
二人は、また、海沿いの道を、歩き始めた。
夕闇が、少しずつ、あたりを、包み込んでいく。
家々の窓に、明かりが、一つ、また一つと、灯り始めていた。
「凛さん。」
「はい。」
「今日も。」
凪は、少し、言葉を選ぶように、間を置いた。
「――良い一日でした。」
「私も。」
凛は、そう答えて、小さく、微笑んだ。
二人の影が、夕闇の中、街灯の明かりに照らされて、道の上に、長く伸びていた。
その距離は、いつもより、少しだけ、近かった。
ーーー
第十七章 月の下で
七月の半ば、満月の夜だった。
図書館の非番の日、凛は、凪から、珍しく夜に誘われた。
「月が、綺麗な夜らしいので。」
「良ければ、少し、歩きませんか。」
そんな、短いメッセージだった。
***
待ち合わせは、いつもの海沿いの道だった。
夜の八時。
集落の明かりが、ぽつぽつと、道の端に灯っている。
凪は、いつもの私服姿で、堤防の前に立っていた。
満月が、その背後、海の上に、大きく浮かんでいた。
「こんばんは。」
「こんばんは。夜に誘うの、珍しいですね。」
「――はい。」
凪は、少し、ばつが悪そうな表情を浮かべた。
「今日、月が、綺麗だと。先輩隊員に、教えてもらったので。」
「見てみたいと、思いました。」
***
二人は、堤防沿いを、ゆっくりと歩いた。
月明かりが、海面に、細長い光の道を作っていた。
波の音だけが、規則正しく、あたりに響いている。
「本当に、綺麗ですね。」
凛が、空を見上げながら言った。
「はい。」
凪も、同じように、月を見上げた。
「――満月は、任務中にも、よく見ます。」
「けれど。」
「こうして、誰かと一緒に見るのは、初めてです。」
その言葉に、凛は、少し、隣を見た。
凪の横顔は、月光を受けて、いつもより、白く、澄んで見えた。
***
堤防の途中、二人は、また、いつものベンチに腰を下ろした。
「凪さん。」
「はい。」
「基地でのこと、聞いてもいいですか。」
「今までは、あまり、聞かないようにしてたんですけど。」
凪は、少し、間を置いた。
夜風が、二人の間を、静かに、通り抜けていく。
「――どこまで、話せるか、分かりませんが。」
「聞きたいことが、あれば。」
***
「凪さんは。」
凛は、慎重に、言葉を選んだ。
「どうして、部隊に、入ったんですか。」
「普通、若い人が、志願するものなんですか。」
その問いに、凪は、しばらく、黙っていた。
月明かりの下、波の音だけが、続いていた。
「――志願、というのとは。少し、違います。」
やがて、凪は、静かに、口を開いた。
「私は。」
「生まれたときから、この部隊に、所属することが。決まっていました。」
***
「決まっていた、というのは。」
凛は、聞き返した。
「家柄、みたいなものですか。」
凪は、少し、視線を、海のほうへ向けた。
「――近い、かもしれません。」
「私の育った施設が。そういう、場所でした。」
「物心ついたときには、すでに、訓練が、始まっていました。」
その言い方に、凛は、微かな違和感を覚えた。
「施設」という言葉。
「物心ついたときには」という、時間の感覚。
けれど。
凛は、それを、追及しなかった。
ただ、静かに、耳を傾けた。
***
「普通の、子供時代というものを。私は、あまり、知りません。」
凪は、続けた。
「学校に通ったことも、ありません。」
「友達と、遊んだ記憶も。ほとんど、ないです。」
「訓練と、座学だけの、毎日でした。」
その告白は、静かで、淡々としていた。
けれど。
その淡々とした語り口の裏に、凛は、何か、大きなものの輪郭を感じた。
「――寂しかったですか、それ。」
凛が、静かに、尋ねた。
凪は、少し、考えるように、間を置いた。
「分かりません。」
「比べる対象が、なかったので。」
「それが、当たり前のことだと、思っていました。」
***
「けれど。」
凪は、続けた。
「凛さんに、出会ってから。」
「他の人たちが、当たり前に、経験してきたことの、多さに。気づくようになりました。」
「家族と、食事をすること。」
「友達と、意味もなく、笑い合うこと。」
「――誰かを、大切に思う、こと。」
凪は、一つ一つ、丁寧に、言葉を並べた。
「私には、それが。とても、遅れてやってきた、経験なんだと思います。」
***
凛は、その言葉を、静かに、受け止めた。
同情するでもなく、驚くでもなく。
ただ、その事実を、そのまま、隣で、受け止めた。
「遅れてても。」
凛は、静かに、言った。
「今、経験できてるなら。それで、いいと思います。」
「早いとか、遅いとか。そんなに、大事なことじゃない気がします。」
凪は、その言葉に、しばらく、月を見上げていた。
「――そう、でしょうか。」
「はい。」
***
「私は。」
凪は、静かに、続けた。
「本当は、もっと、他にも。」
「凛さんに、話していないことが、あります。」
その一言に、凛は、少し、息を止めた。
夜風が、また、二人の間を、通り抜けていった。
「――今、話してくれても。話してくれなくても。」
凛は、ゆっくりと、答えた。
「私は、どちらでも、いいです。」
「ただ、凪さんが、話したくなったときに。ちゃんと、聞く準備は、いつでもできてます。」
***
凪は、しばらく、何も言わなかった。
月明かりが、その横顔を、静かに、照らしていた。
やがて。
小さく、息を吐くように、言った。
「――ありがとうございます。」
「その言葉だけで。今は、十分です。」
「いつか。」
「ちゃんと、全部、話せる日が、来ると思います。」
「その日まで。」
「待っていてもらえますか。」
***
凛は、その問いに、まっすぐ、頷いた。
「はい。」
「待ちます。」
その返事に、凪は、静かに、微笑んだ。
これまで、あまり見たことのない、深い、穏やかな表情だった。
満月が、二人の頭上に、変わらず、輝いていた。
波の音が、規則正しく、堤防に、打ち寄せていた。
「――今日、話せて、良かったです。」
凪が、静かに、言った。
「私も。」
凛は、そう答えて、隣に座る、凪の肩に、そっと、頭を預けた。
凪は、少し、体を、こわばらせた。
けれど。
すぐに、その硬さは、解けていった。
夜の静けさの中、二人は、しばらく、そのまま、月を見上げ続けていた。
ーーー
第十八章 空気の変わる音
翌朝も、蝉の声から始まった。
図書館の開館前、凛は、いつも通り、返却ポストの整理をしていた。
窓の外は、すでに、強い日差しに満ちている。
夏の、いつも通りの朝だった。
***
開館して、しばらく経った頃。
自動扉が開く音がした。
顔を上げると、凪が、立っていた。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
いつもと、同じ挨拶だった。
けれど。
凛は、その声の調子に、微かな違いを感じた。
うまく言葉にできない、けれど、確かにある、何かの変化。
***
凪は、カウンターに近づき、いつものように、貸出カードを差し出した。
「今日は、何か、返しますか。」
「いえ、今日は、まだ。読んでる途中なので。」
「そうですか。」
凛は、端末を操作しながら、視線を、そっと上げた。
凪の表情は、いつも通り、穏やかだった。
けれど。
その穏やかさの質が、これまでと、少し違って見えた。
以前は、どこか、慎重に、整えられた穏やかさだった。
今は。
もう少し、自然な、力の抜けた穏やかさに見えた。
***
「凛さん。」
「はい。」
「今日、天気、いいですね。」
「――そうですね。」
その、何気ない一言に、凛は、少し、驚いた。
これまでの凪は、天気の話を、自分から振ることは、あまりなかった。
いつも、聞かれたことに、丁寧に答える形が、多かった。
「凪さんから、そういうこと言うの、珍しいですね。」
「――そうでしょうか。」
凪は、少し、首を傾げた。
自分でも、その変化に、気づいていないようだった。
***
いつもの窓際の席に、凪は向かった。
鞄から、本を取り出す。
凛は、カウンターの内側から、その様子を、見るともなく見ていた。
ページをめくる速度は、いつもと変わらなかった。
けれど。
時折、窓の外を見る回数が、以前より、少し、多いように感じられた。
***
昼前、凛は、書架の整理をしながら、凪の席の近くを通った。
「集中、できてますか。」
「――はい。」
凪は、本から顔を上げた。
「凛さんが、近くにいると。」
「なぜか、集中しやすい気がします。」
その言葉に、凛は、少し、笑ってしまった。
「それ、逆じゃないんですか、普通。」
「気が散りそうなものですけど。」
「――そうなんですか。」
凪は、不思議そうに、首を傾げた。
「私は、逆です。凛さんが、いないほうが、落ち着かないので。」
その、屈託のない返答に、凛は、頬が、少し、熱くなるのを感じた。
***
昼休憩、凛は、いつものように、お茶を二つ持って、凪の席へ向かった。
「休憩、どうですか。」
「はい。」
隣に、腰を下ろす。
しばらく、二人とも、何も話さなかった。
窓の外、蝉の声が、変わらず、響いている。
けれど。
その沈黙は、以前より、ずっと、心地よいものだった。
***
「昨日の夜のこと。」
凛が、静かに、切り出した。
「凪さん、今日、少し。楽そうに見えます。」
「――そう、見えますか。」
「はい。なんというか。肩の力が、抜けてるみたいな。」
凪は、湯呑みを、両手で包みながら、少し、考えるような、間を置いた。
「――そうかもしれません。」
「話せたことが、良かったんだと思います。」
「全部では、なかったですが。」
「少しだけ、荷物が、軽くなった気がします。」
***
「それなら、良かったです。」
凛は、そう答えて、小さく、微笑んだ。
「これからも、そうやって。少しずつ、軽くなっていけば、いいと思います。」
「無理に、急がなくても。」
凪は、その言葉を、静かに、受け止めていた。
「――はい。」
「ゆっくり、で。いいんですよね。」
「はい。ゆっくり、で。」
***
午後、館内に、家族連れが、何組か訪れた。
子供たちの、小さな笑い声が、遠くから聞こえてくる。
凛は、カウンターで、貸出の対応に追われた。
凪は、その様子を、窓際の席から、静かに、眺めていた。
一組の親子が、絵本を選ぶのを、手伝う凛の姿。
かがみこんで、子供の目線に合わせて、話す様子。
その光景を、凪は、しばらく、見つめていた。
***
閉館の時間が近づき、館内から、人が減っていった。
凪は、いつものように、本を、そっと閉じた。
栞代わりのレシートを、丁寧に、挟み直す。
カウンターに向かい、貸出手続きを、済ませた。
「今日も、ありがとうございました。」
「こちらこそ。」
いつもの、短いやり取り。
けれど。
凪は、少し、その場に、留まった。
「凛さん。」
「はい。」
「明日も、来ます。」
「特に、用事は、ないんですが。」
「――ただ、来たいので。」
その、まっすぐな言葉に、凛は、小さく、笑った。
「はい。待ってます。」
***
自動扉が開き、夕方の光が、館内に差し込んだ。
凪の後ろ姿が、その光の中へ、ゆっくりと、歩いていく。
一度だけ、振り返った。
「では、また。」
「はい、また。」
扉が閉まる。
館内には、また、いつもの静けさが、戻った。
けれど。
凛は、その静けさの中で、しばらく、小さく、笑みを浮かべたままだった。
窓の外、蝉の声が、夕方の風に混じって、少しずつ、遠ざかっていった。
ーーー
第十九章 突然の冷気
八月に入り、日差しは、さらに強さを増していた。
図書館の冷房が、いつもより、よく効いている気がした。
その日、凪は、開館と同時に、姿を見せた。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
いつも通りの挨拶だった。
けれど。
凛は、カウンター越しに、その様子に、何か、微かな硬さを感じた。
***
凪は、いつもの席に向かい、鞄を置いた。
椅子に座る、その動作が、一瞬、止まった。
右手が、鞄の中を、確かめるように、動いた。
小さな端末を、取り出す。
画面を、少しの間、見つめる。
すぐに、それを、鞄の内側に、しまい直した。
表情は、変わらなかった。
けれど。
その一連の動きは、いつもより、少し、速かった。
***
昼過ぎ、凛は、いつものように、お茶を運んだ。
「休憩、どうですか。」
「――はい。」
凪の返事に、わずかな、間があった。
隣に座り、凛は、その横顔を、見た。
「凪さん、今日、少し。」
「なんか、様子、違いますか。」
凪は、湯呑みを、両手で持ったまま、視線を、少し、落とした。
「――分かりますか。」
「なんとなく。」
***
「今朝、通知が、来ました。」
凪は、静かに、切り出した。
「次の任務についての、通知です。」
凛は、黙って、続きを待った。
「――長期の、派遣になります。」
その一言に、凛は、湯呑みを持つ手を、一瞬、止めた。
「長期、って。どれくらいですか。」
「――まだ、確定していません。」
凪は、視線を、窓の外へ向けた。
「ただ、これまでの、非番の頻度とは。大きく、変わると思います。」
***
「いつからですか。」
「来月の、頭からです。」
凛は、その日付を、頭の中で、数えた。
あと、一ヶ月足らずだった。
「派遣先は、教えてもらえるんですか。」
「――言えません。」
短い、けれど、確かな拒絶だった。
凛は、それ以上、聞かなかった。
***
「危険な、任務なんですか。」
その問いに、凪は、少し、間を置いた。
「――分かりません。」
「行ってみないと、分からない部分が、多いので。」
「ただ。」
凪は、湯呑みの水面を、じっと見つめた。
「これまでより、稼働時間が、長くなることは、確かです。」
「体への、負担も。大きくなると、思います。」
その言葉に、凛は、以前、堤防で触れた、あの肩の硬さを、思い出した。
***
「凪さん。」
凛は、静かに、尋ねた。
「大丈夫、なんですか。体は。」
凪は、少し、驚いたような表情を、浮かべた。
「――私は。」
言いかけて、少し、言葉を、選び直すような、間があった。
「他の隊員より、体力的には、劣っています。」
「長期の任務は、正直、負担が、大きいです。」
その、率直な答えに、凛は、何も言えなかった。
窓の外、蝉の声が、変わらず、続いていた。
***
「けれど。」
凪は、続けた。
「これが、私に、与えられた、役割なので。」
「拒否する、選択肢は、ありません。」
その言い方には、諦めとも、覚悟とも取れる、静かな響きがあった。
凛は、その響きに、微かな、違和感を覚えた。
役割。
与えられた。
まるで、自分の意志が、そこには、存在しないかのような、言い方だった。
***
「凪さんは。」
凛は、慎重に、言葉を選んだ。
「行きたいん、ですか。その任務。」
凪は、しばらく、黙っていた。
湯呑みを、机の上に、そっと置く。
「――分かりません。」
「行きたいとか、行きたくないとか。」
「そういう、選び方を、したことが、ないので。」
***
「私に、できることは。」
凪は、続けた。
「与えられた役割を、できる限り、正確に、こなすことだけです。」
「それ以外の、選択肢を。私は、持っていません。」
その言葉に、凛は、少し、胸が、締めつけられた。
同情ではなかった。
もっと、単純な、静かな、苦しさだった。
***
「一ヶ月、ありますね。」
凛は、話題を、少し、変えた。
「来月の頭まで。」
「はい。」
「それまでは。」
凛は、湯呑みを、両手で包みながら、続けた。
「今まで通り、会えますか。」
「――はい。」
凪は、初めて、少し、表情を、和らげた。
「非番の日は、これまで通り、あります。」
「それだけは、確保されています。」
***
「じゃあ。」
凛は、まっすぐ、凪を見た。
「残りの一ヶ月、ちゃんと、悔いのないように、過ごしましょう。」
「行ってしまってから、あれもこれも、しておけば良かったって、思わないように。」
その、実際的な提案に、凪は、少し、目を、見開いた。
「――凛さんは。」
「不安に、ならないんですか。」
***
「なりますよ、もちろん。」
凛は、正直に、答えた。
「長期の任務って言われて、平気なわけ、ないです。」
「でも。」
凛は、少し、笑った。
「不安がってるだけじゃ、何も、進まないので。」
「今、できることを、するしかないと思います。」
***
凪は、しばらく、その言葉を、静かに、受け止めていた。
やがて。
小さく、頷いた。
「――そうですね。」
「私も、そう、思います。」
「一ヶ月、大事に、過ごします。」
「凛さんと。」
***
その日の午後、館内には、いつも通り、静かな時間が、流れていた。
けれど。
窓際の席に座る凪の姿を、凛は、これまでより、少しだけ、意識して、見るようになっていた。
限られた時間だと、知ってしまったことで。
その一分、一秒が、これまでより、少しだけ、重く、感じられた。
***
閉館の時間、凪は、いつものように、椅子を、丁寧に、机の下へ戻した。
「今日も、ありがとうございました。」
「――こちらこそ。」
凛は、少し、間を置いてから、続けた。
「今度の非番、どこか、行きましょう。凪さんの、行きたいところ。」
「――考えておきます。」
凪は、静かに、頷いた。
自動扉が、開く。
夕方の強い日差しが、館内に、差し込んだ。
凪の後ろ姿が、その光の中へ、歩いていく。
いつもと、変わらない、後ろ姿だった。
けれど。
その姿を見送る凛の胸の中には、これまでにはなかった、小さな、確かな重みが、残っていた。
ーーー
第二十章 言葉にする誓い
八月の第二週、非番の日。
凪が、行き先を決めていた。
「少し、遠いところです。」
「バスを、二本、乗り継ぎます。」
その言葉通り、二人は、朝早くから、バスに揺られた。
窓の外の景色が、集落から、山道へ、そして、また別の海岸線へと、移り変わっていく。
***
着いたのは、島の北端に近い、小さな岬だった。
観光地図にも、あまり載っていない、名もない場所。
駐車場からは、遊歩道が、灯台まで、続いていた。
「ここ、知ってたんですか。」
凛が聞くと、凪は、頷いた。
「先月、任務の移動中に、見つけました。」
「ここからの景色を、凛さんに、見せたいと、思っていました。」
***
灯台までの道は、強い日差しの中、続いていた。
蝉の声が、周囲の木々から、絶え間なく、響いている。
汗ばむ肌に、時折、海からの風が、涼しく触れた。
灯台の下、展望台に着くと、視界が、大きく、開けた。
眼下に、切り立った崖と、その先に広がる、深い青の海。
水平線が、どこまでも、まっすぐに、続いていた。
「――綺麗ですね。」
凛は、思わず、声を漏らした。
「はい。」
凪も、隣で、同じ景色を、見つめていた。
***
展望台の隅、日陰になったベンチに、二人は、腰を下ろした。
しばらく、無言で、海を、眺め続けた。
波の音が、遠く、下のほうから、響いてくる。
「あと、三週間ですね。」
凛が、静かに、切り出した。
「出発まで。」
「――はい。」
凪は、短く、答えた。
「準備、進んでるんですか。」
「はい。装備の、確認や、引き継ぎの、手続きなど。」
「淡々と、進んでいます。」
***
その、淡々とした答え方に、凛は、少し、視線を、落とした。
「凪さんは。」
「本当に、それで、いいんですか。」
その問いに、凪は、少し、間を置いた。
「――何が、でしょうか。」
「淡々と、決められたことを、こなすだけで。」
「自分の、気持ちとか。ちゃんと、置き去りにしないで、行ってほしいです。」
***
凪は、しばらく、黙っていた。
海風が、二人の間を、強く、吹き抜けていった。
「――凛さん。」
やがて、凪は、静かに、口を開いた。
その声には、いつもの、丁寧さの奥に、何か、揺るぎない、強さがあった。
「今日は、実は。」
「最初から、伝えたいことが、ありました。」
***
凪は、ベンチから、立ち上がった。
凛のほうへ、向き直る。
その表情に、これまでの、迷いや、慎重さは、なかった。
「私は。」
「軍人として、与えられた役割を、拒否する権利を、持っていません。」
「それは、これからも、変わらないと思います。」
***
「けれど。」
凪は、続けた。
「今、これから、話すことだけは。」
「役割としてではなく。私自身の、意志として、話したいです。」
凛は、その言葉に、じっと、耳を、傾けた。
蝉の声が、遠く、遠のいていくように、感じられた。
***
「凛さんと、出会う前の私は。」
「感情に、名前をつけることすら、できませんでした。」
「怒りも、悲しみも、喜びも。全部、曖昧なままで。」
「自分が、何を、感じているのかすら、分からずに、生きていました。」
凪は、一つ一つ、言葉を、確かめるように、話した。
***
「けれど、凛さんと、過ごすうちに。」
「一つずつ、分かるように、なりました。」
「切ない、という気持ち。」
「楽しい、という気持ち。」
「誰かを、大切に思う、という気持ち。」
「――全部、凛さんが、教えてくれました。」
***
「凛さんが、いない一日は。」
凪は、まっすぐ、凛の目を、見つめた。
「以前、経験しました。あの、任務で、急に呼び出された、夜。」
「あのとき、初めて。」
「凛さんが、いないことが、こんなにも、不安なことなのだと。知りました。」
***
「その気持ちに、名前を、つけるなら。」
凪は、少し、間を置いた。
風が、その金色の髪を、大きく、揺らした。
「――これは、愛、と呼ぶのだと。」
「今は、はっきりと、分かります。」
***
「凛さんのことが、好きです。」
短く、けれど、確かな、言葉だった。
「これから、長い任務に、行きます。」
「戻ってくるまで、時間が、かかると思います。」
「それでも。」
***
「私の心は。」
凪は、静かに、続けた。
「その間も、ずっと。凛さんの、そばにあると思います。」
「これは、役割でも、命令でもなく。」
「私自身が、選んだ、気持ちです。」
***
凛は、しばらく、何も言えなかった。
海風が、頬を、撫でていく。
波の音だけが、二人の沈黙を、静かに、埋めていた。
「――凪さん。」
やがて、凛は、静かに、口を開いた。
その目には、うっすらと、涙が、浮かんでいた。
***
「ありがとうございます。」
凛は、まっすぐ、凪を、見つめ返した。
「私も。」
「凪さんのこと、大切に、思ってます。」
「多分、それは、もう。かなり前から、そうだったと思います。」
***
「凪さんが、初めて、図書館に来た日から。」
凛は、続けた。
「少しずつ、少しずつ。凪さんが、色んなことを、覚えていく姿を、見てきました。」
「その一つ一つが。私にとっても、大切な、時間でした。」
「だから。」
***
凛は、ゆっくりと、立ち上がった。
凪と、向き合う。
「行ってきてください。」
「ちゃんと、待ってます。」
「どれだけ、時間が、かかっても。」
***
凪は、その言葉に、しばらく、黙っていた。
やがて。
これまで、見せたことのない、はっきりとした、微笑みを、浮かべた。
「――はい。」
「必ず、戻ります。」
「凛さんの、もとへ。」
***
灯台の周りに、蝉の声が、また、響き始めた。
強い日差しが、二人の影を、地面に、くっきりと、映していた。
海は、変わらず、水平線まで、青く、澄み渡っていた。
その景色を、二人は、しばらく、並んで、見つめ続けていた。
風が、二人の間を、優しく、通り抜けていった。