【日常編 ―― L'Ordinaire:白磁の温度とバリスタの思考】

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/9/28 📚 シリーズ: 『 カフェ・ド・レクリプス 』(Café de l'Éclipse) 📝 1,418文字 ✅ 全年齢

あらすじ

<p> 地上一階、まだ現世の迷い人(蝶々たち)を迎え入れる前の、静まり返ったカフェフロア。</p><p>アール・ヌーヴォーの美しい曲線と、ゴシック・リヴァイヴァルの尖頭アーチが交差する薄暗い闇の中で、私は一人、カウンターの奥に佇んでいた。 </p><p>一切の生活ノイズを立てない、完璧な所作。</p>

本文

ジェラルド

 地上一階、まだ現世の迷い人(蝶々たち)を迎え入れる前の、静まり返ったカフェフロア。

アール・ヌーヴォーの美しい曲線と、ゴシック・リヴァイヴァルの尖頭アーチが交差する薄暗い闇の中で、私は一人、カウンターの奥に佇んでいた。

一切の生活ノイズを立てない、完璧な所作。

どこまでも冷徹な職人の表情のまま、美しい銀の器具を扱い、本日の珈琲のブレンド作業に向き合う。世界を灰色にしか見ていない僕が醸し出す、硬質で冷徹なプロの背中。

 秤の上で細かに豆の配合を調整するその一瞬、私は銀フレームの眼鏡をスッと指先で押し上げながら、ふと、二階へと続く静かな階段の陰を――そこに宿る主の気配を、五感のすべてで静かに感じていた。

 二階の『開かずの書斎』の奥。そこには、お洗濯が終わったばかりのフカフカな大きめパーカーを纏い、クラゲのような可憐なウェーブのくせ毛を美しくゆらゆらと漂わせた、最愛の支配者が引きこもっている。

(――今夜は, あの方のために、どのような甘味に寄り添う珈琲を仕立てようか……) じわり、と胸の奥を侵食する、昏(くら)い狂愛の火。

だが、私はにこやかな微笑みの仮面すら今は張り直さず、ただ冷徹なポーカーフェイスのまま、次の作業へと滑らかに手を動かした。

真鍮のサイフォンの中で、琥珀色の液体がポコポコと静かに沸き上がり始める。 前腕に刻まれた抽出の魔法陣を仄赤く、怪しく明滅させ、真剣な眼差しで熱の対流を見つめた。

まさにその間も――私の思考を満たしているのは、やはりオーナーの姿だけだった。

あのフカフカの大きめパーカーの袖口をフルフルと揺らしながら、「……ねえ、ジェリー。次のショコラ、まだ? ……ジェリーの珈琲も、一緒に欲しいな。わたし、甘いのと苦いのがお好きなんだけど……だめ?」 そう言って、普段の気品をどこかへ置き忘れたように、そっと視線を伏せてはにかんでいた、世界一愛おしいあの方。

私という存在がどれほど重く、底知れない狂愛を秘めた危険な男であるか、あの方はきっと頭では理解しているはずなのだ。

それなのに、誰もいない深夜のカウンターに降りてくると、まるで張り詰めていたハッタリが解けるように、素の甘えが無自覚に溢れ出してしまう。

カウンターの止まり木に腰掛け、差し出された白磁のカップを愛おしそうに見つめる瞳。熱い琥珀色の液体を前にして、少しだけ緊張したように身を縮め、けれど私への絶対の信頼を隠しきれずに、壊れ物を扱うような上目遣いを向けてくる。

計算など一切ない、彼女のピュアな無防備さ。

それが私にとって、どれほど酷で、どれほど甘い罠(小悪魔)になるのかも知らずに。

 あぁ、駄目ですね。 真面目に仕事をこなそうとすればするほど、私のこの薄い感情のなかには、あなた様のぬくもりばかりが容赦なく注ぎ込まれてしまう。

 どんなにプロとしてこの場所を完璧に整えようとも、抱きしめた時のあのあたたかい生存の熱量が、これ以上ない極上のショコラの味として、僕の魂の根底を完全に支配しきっている。

魔法陣の仄赤い光が眼鏡のレンズを怪しく照らし出すなか、私は一切の手元の狂いもなく、完璧な温度で珈琲を抽出しきった。 その顔はどこまでも冷徹で、真面目なバリスタそのものの佇まい。

けれど、私の胸の最深部では、あの方が消え去ってしまう不条理な悪夢を必死に打ち消すように、主への狂おしいほどの依存の熱が、深く、静かに鳴り響き続けているのだった。

ジャンル・タグ

タグなし

作品統計

👁️ 閲覧数: 5 👍 いいね: 1 📚 本棚登録: 0

作者について

みまち

みまち

紅茶、珈琲、レモンが好き。【私がニヤニヤする物を置いております】

👥 フォロワー: 4人

作者ページを見る