日常編 ―― L'Ordinaire:【硝子の残滓、紳士の仮面と、ただ一滴の狂信】
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p> 夜が更け、現世(うつしよ)の迷い人――あの儚き蝶たちの気配がすべて消え去った一階のカフェフロア。</p><p> 完璧な静寂が満ちるカウンターの奥で、私はただ一人、あの方のためだけに極上の一杯を仕立てていた。</p><p> 深夜の暗がりのなか、トトト、トト、と、心地よい雨のように優しく静謐な旋律を奏でていたお湯が止まる。 私は静かに、極上の一杯を淹れ終えていた。</p>
本文
夜が更け、現世(うつしよ)の迷い人――あの儚き蝶たちの気配がすべて消え去った一階のカフェフロア。
完璧な静寂が満ちるカウンターの奥で、私はただ一人、あの方のためだけに極上の一杯を仕立てていた。
深夜の暗がりのなか、トトト、トト、と、心地よい雨のように優しく静謐な旋律を奏でていたお湯が止まる。 私は静かに、極上の一杯を淹れ終えていた。
立ち上る濃密な湯気の向こう、私は白磁のカップにそっと顔を近づけ、そこに満ちる仄暗い香りを深く深く吸い込んだ。
ミルクとお砂糖の暴力的な甘味の奥底、確かに混ざり合っている、私自身の魂のカケラ――大人の男としての、酷く熱く焦がれるような吐息の香気(アロマ)。
あの方の五感を残さず支配し、がんじがらめに縛り付けるための『香りの檻』の濃度が完璧であることを、私は自らの鼻腔で冷徹に確かめる。
ふと視線を落とせば、波紋の引いた琥珀色の液面に、ぽつんと私自身の顔が鏡のように冷たく映り込んでいた。 銀フレームの眼鏡の奥、あの方への独占欲と飢餓感で狂おしいほどに潤んでいる、トパーズ・イエローの私の瞳。
水鏡に映る己をじっと見つめながら、私の胸の最深部では、言葉にすることすら許されない仄暗い妄執が、みしり、と音を立てて決壊し、とめどなく溢れかえっていた。
ジェラルド:(あぁ……オーナー。今から私が運ぶこの液体は、間もなく貴方のあの白くて小さな唇に触れ、可憐な口元のなかへと蕩けるように一滴残さず注ぎ込まれるのですね。そうして、最高に嬉しそうに口元を綻ばせた貴方に甘くとろけさせられ、余すことなく味わい尽くされてしまう……。その瞬間、貴方の美しい肉体のすべては、私の放った香りの檻のなかに、完全に囚われるのです)
そんな歪んだ狂信を水鏡に映しているだけで、理性の境界線が激しく揺さぶられ、喉をゴクリと低く鳴らしたくなるほどの渇きが、大人の自制心をじりじりと焼き焦がしてゆく。
だが、実際の口からは、そんな仄暗い想いは一文字も漏らさない。
私は冷徹な鉄面皮という名の完璧な仮面を張り直すと、白磁のカップを載せたトレイを恭しく捧げ、一切の足音も、衣服の擦れ合う音すら立てずに、静かに二階への階段を上がってゆく。
作品統計
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