見えないもの

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/20 📝 17,798文字 ✅ 全年齢

あらすじ

世界観に似合わない程無敵のスーパーパワーを持ったウサギの青年の話です。

本文

「金を出せ!」

銀行のロビーに怒号が響いた。

カウンター越しに拳銃を突きつけているのは、一匹のオオカミの男。息は荒く、額には玉のような汗が浮かんでいる。

しかし、奇妙なことに銀行の中は思ったほど混乱していなかった。

対応するヤギの行員は落ち着いた様子で両手をゆっくり上げ、刺激しないよう慎重に話しかけている。

待合席にいた鹿の老婦人も、書類を抱えたキツネのサラリーマンも、その場で立ち尽くしているだけだった。

悲鳴もなければ、泣き叫ぶ者もいない。

誰もがただ、静かに時間が過ぎるのを待っている。

オオカミはその空気に、かえって苛立ちを覚えた。

「……おい、何だその反応は!」

誰も答えない。

その時だった。

重たいガラスの自動扉が静かに開く。

そこから一匹の灰色のウサギの青年が姿を現した。

目元だけをくり抜いた赤色のバンダナを巻き、背中には短いマントを揺らしている。

彼は銀行の中を見渡し、オオカミと目が合うと少し困ったように頭をかいた。

「あ……えっと。」

数歩だけ近付き、どこか申し訳なさそうな笑みを浮かべる。

「もう、やめにしないかい?」

その一言を聞いた瞬間だった。

オオカミは両手で顔を覆い、そのまま天井を仰いだ。

「何なんだよ!」

悲鳴にも似た声が銀行中に響く。

「来るの早すぎだろ!? 入り口にでも待機してたのか!?」

灰色のウサギ――グレーは慌てて首を横に振る。

「いや…ここから三十キロくらい離れた場所にいたんだけど、アラートが鳴ったから。」

まるで「近所に買い物へ行っていた」とでも言うような口調だった。

彼にとって三十キロという距離は、駆けつけるという表現すら大げさなくらい近い。

一瞬で飛んで来られる距離なのだから。

後ろの待合席で、小さな声が聞こえた。

「何でグレーが来るって分かってて強盗なんてするのかねぇ。」

「分かってなかったからでしょ。」

キツネのサラリーマンが肩をすくめる。

「……ああ?」

オオカミの耳がぴくりと動いた。

「聞こえてんぞ!」

逆上した彼は勢いよく振り返り、そのまま拳銃を利用客へ向ける。

引き金が引かれた。

バン!

乾いた銃声が銀行内を震わせる。

だが。

弾丸が飛び出した、その瞬間には。

グレーは既に利用客と銃口の間へ立っていた。

まるで最初からそこにいたかのように。

次の瞬間。

カラン。

金属片が床を転がる。

床に落ちたのは、ぐしゃりと押し潰された弾丸だった。

グレーは困ったように笑う。

「ほらぁ。ダメダメ。」

そう言って両手で銃口をつまむ。

バキッ。

乾いた音が響く。

鋼鉄の拳銃は、まるでアイスクリームのコーンでも握るかのように砕け、オオカミの手にはグリップだけが残った。

「え……?」

オオカミは自分の手を見つめる。

何が起きたのか理解できない。

その隙にグレーは手際よくロープを取り出し、くるくると体へ巻き付けていく。

気が付けばオオカミは身動き一つ取れないほど拘束されていた。

「なっ……!」

ようやく現実を理解した時にはもう遅い。

グレーは満足そうに頷くと、銀行員たちへ向き直った。

「さてと!」

ぱん、と手を叩く。

「僕には逮捕権限が無いから、警察へ連絡してください!」

その一言で、止まっていた時間が動き始める。

「あ、はい!」

ヤギの行員が慌てて受話器を取り上げる。

「助かったよ。」

「ありがとう、グレー。」

「今日も早かったねぇ。」

あちこちから感謝の声が上がる。

グレーは照れくさそうに笑い、ひらひらと手を振った。

「じゃあ、失礼します。」

ガラス扉をくぐる。

その姿が外へ出た――そう思った次の瞬間には、もう灰色の背中はどこにもなかった。

ーーーー

街を見下ろす古びた廃墟ビル。

何十年も使われていないその建物へ、一陣の風が吹き抜ける。

次の瞬間、屋上に灰色の影がふわりと降り立った。

「おーい、ご飯持ってきたよ。」

グレーが声を掛けると、屋上の隅に張られた一張りのテントが小さく揺れる。

ジジッ、とジッパーが開いた。

中から這い出てきたのは、縞模様の鮮やかなトラの少女だった。

寝癖で跳ねた髪を押さえることもなく、ぱっと顔を輝かせる。

「やった! 今日は何?」

「うーんとね……。」

グレーは紙袋を背中に隠し、少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべた。

「野菜たっぷりサンド。」

「え〜! やだー!」

ニーナは露骨に頬を膨らませる。

「またレタスいっぱい入ってるやつでしょ!」

「野菜もちゃんと食べようね。」

結局、紙袋を受け取るとニーナは文句を言いながらも包装を開け、大きな口でかぶりついた。

「……おいしい。」

「でしょう?」

「お肉がね。野菜は多い。」

「そこは譲れないかな。」

二人は顔を見合わせて笑う。

そんな他愛ないやり取りが、この屋上では当たり前になっていた。

ニーナ。

それが少女の名前だった。

家出中。

本人はそれ以上のことを話したがらない。

年齢を聞いても、いつも「ひみつ」と笑ってはぐらかす。

見た目は十七、八歳くらいだろうか。

子どもと大人の境目を歩いているような年頃だった。

グレーはコンクリートの縁へ腰を下ろし、サンドイッチを夢中で頬張るニーナを眺める。

「……そろそろ家に帰らないの?」

ニーナは口いっぱいに食べ物を入れたまま首を傾げた。

「ん〜……もうちょっとしたら。」

あまりにも軽い返事だった。

本当に家出している人間とは思えないほど気負いがない。

だからこそ、グレーは何も言えなくなる。

ニーナと出会ったのは数週間前。

真夜中。

彼が地球を見下ろす衛星軌道上で"パトロール"をしていた時だった。

超高高度から街を見渡せば、火災も事故も犯罪も、異変はすぐ見つけられる。

その夜、一つだけ妙なものが目に入った。

誰もいるはずのない廃ビルの屋上。

懐中電灯も持たず、一人でうろうろしている小さな影。

大きな荷物を持って星でも眺めるかのように空をしきりに見上げていた。

心配になって降りてみると、それがニーナだった。

それ以来、グレーは数日に一度こうして食事を持って来るようになった。

もちろん、家へ帰るよう説得することも考えた。

けれど。

グレーは無敵のヒーローではあっても、中身は二十歳の青年だ。

人生経験が豊富なわけでもない。

まして十代の少女の家庭事情へ踏み込めるほど、大人でもなかった。

事情を無理に聞き出すよりも。

今は、この子の心の整理がつくまで見守る方がいい。

そんな結論しか出せなかった。

だから今日も、こうして食事を運び、少し話をする。

ヒーローとしてではなく、一人の年上の友人として。

その時間は不思議と心地良かった。

悪党を捕まえた時とも、人命を救った時とも違う。

「うげ……。」

ニーナが露骨に顔をしかめた。

「ピクルスだけ、食べて。」

サンドイッチから摘まみ上げたピクルスを、当然のようにグレーへ差し出す。

グレーは小さくため息をつくと、その場へ少しかがみ込み、差し出されたピクルスを口へ運んだ。

「ありがと。」

「苦手なの、ピクルスは。」

ニーナは悪びれる様子もなく肩をすくめる。

そんな何でもないやり取りが、どこか自分を普通の青年へ戻してくれる気がするのだった。

ニーナは最後の一口を飲み込み、膝を抱えて座り直した。

「グレーって、苦手なものとかないの?」

「苦手なもの?」

グレーは少し考え込んだ。

腕を組み、空を見上げる。

しばらくして、何かを思い出したように「あっ」と小さく声を漏らした。

「数学だ。」

真面目な顔で返ってきた答えに、ニーナは一瞬きょとんとする。

そして。

「あははっ!」

屋上へ笑い声が響いた。

「そんなのあり!?」

グレーは照れくさそうに後頭部をぽりぽりとかく。

「頭の中までは、スーパーパワーが届かなかったみたい。」

少し肩をすくめて苦笑する。

その飾らない冗談が妙におかしくて、ニーナは腹を抱えるように笑った。

「もう、ヒーローなのに!」

「赤点も何回かあったよ。」

「それ聞いて安心した。」

「安心するところなの?」

「うん。」

ニーナは笑いながら何度もうなずく。

「私も数学、大っ嫌い。」

二人は顔を見合わせ、また笑った。

風が屋上を吹き抜ける。

その穏やかな笑い声は、まるでどこにでもいる兄妹のようだった。

やがて笑いが落ち着くと、ニーナは少しだけ表情を和らげ、遠慮がちに口を開いた。

「……ねぇ。」

「今日は、グレーのこと聞いてもいい?」

グレーは少し目を丸くした。

「僕?」

「うん。」

ニーナは真っすぐ彼を見つめる。

「いつも私の話ばっかりじゃん。」

風が二人の間を吹き抜け、マントが小さく揺れた。

グレーは少し照れたように笑う。

「……そう言われると、確かにそうか。」

彼は苦笑しながら空を見上げた。

自分のことを話す相手など、考えてみればほとんどいなかった。

ーーーー

「グレーって、いつからそんなに強いの?」

ニーナの何気ない問いに、グレーは少しだけ空を見上げた。

「高校生の頃かな。」

懐かしい記憶を探るように、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「ある朝、目が覚めたら……何か変だったんだ。」

---

最初は、本当に小さな違和感だった。

寝起きなのに頭が妙に冴えている。

耳も、目も、何かがおかしい。

窓を開けた瞬間、その違和感は確信へ変わった。

遠くに連なる山々。

普段なら青く霞んで見えるはずの景色が、手を伸ばせば届きそうなくらい鮮明だった。

――え?

思わず瞬きをする。

見間違いではない。

さらに耳を澄ます。

山を流れる小川。

水が石を叩く音まで、すぐ隣で聞いているように聞こえてくる。

「……嘘でしょ。」

頭に浮かんだのは、以前動画配信サービスで見たヒーロー映画だった。

超人的な視力。

超人的な聴力。

まるで主人公が力に目覚める場面、そのままだった。

もちろん、半信半疑だった。

だから試してみた。

庭に停めてあった家の車へ近付き、恐る恐る持ち上げる。

紙コップだった。

いや、紙コップより軽い。

何の抵抗もなく片手で浮き上がる。

慌てて元へ戻した。

「……いやいやいや。」

心臓だけが普通の高校生みたいに騒いでいた。

次に試したのは飛ぶことだった。

漫画や映画を思い出しながら、「浮く」というイメージだけを頭に描く。

すると。

身体がふわりと宙へ浮いた。

「え〜……。」

その日から彼は、自分の力を隠して生活するようになった。

幸い、能力の制御は難しくなかった。

普通に歩く。

普通にドアを開ける。

普通に友達と話す。

気を付ければ、普通の高校生として暮らせた。

問題は別のところにあった。

この力を、何に使えばいいのか。

映画なら。

同じような能力を持つ宿敵が現れる。

世界征服を企む巨大組織が現れる。

宇宙から侵略者がやって来る。

そんな展開がお約束だ。

だが現実には何も起きなかった。

毎日平和で。

ニュースに流れるのは交通事故や万引き、空き巣くらい。

グレーは結局、その力を引っ越しや建築現場などの力仕事のアルバイトで少しだけ役立てる程度だった。

そして休日になると、人知れず能力の限界を試していた。

どこまで上へ行けるのか。

雲を突き抜ける。

青空を抜ける。

大気圏を抜ける。

そして。

気付けば宇宙空間に立っていた。

地球が青く輝いている。

テレビでしか見たことのない景色。

けれど、その景色の向こうにある自分の町も見えた。

さらに、自宅の屋根。

瓦の細かな木目。

節の形まで、はっきり見えていた。

そこで初めて気付く。

「あれ……息が苦しくない。」

宇宙なのに。

もしかすると。

呼吸そのものが必要ないのではないか。

それは後の実験で確信へ変わる。

食べなくても平気だった。

眠らなくても眠気が来ない。

風邪もひかない。

疲れもしない。

病気にもならない。

生物なら誰もが持つ弱点が、一つ残らず消えていた。

本当の意味で、無敵だった。

それなのに。

「……意味が分からない。」

グレーは何度も独り言を漏らした。

どうして自分なのか。

何のための力なのか。

答えはどこにもなかった。

そして、何より辛かったのは。

家族との食卓だった。

力に目覚める前の頃。

授業が終わる頃には腹が減って仕方がなかった。

母親の作る夕飯が楽しみで、急いで帰宅していた。

でも今は違う。

空腹という感覚がない。

どれだけ食べなくても何も変わらない。

それでも家族を心配させないために、食卓では「いただきます」と言い、料理を口へ運ぶ。

美味しい。

味は分かる。

けれど、身体は何一つ必要としていない。

それは食事ではなく、演技だった。

家族に普通の息子だと思ってもらうための、毎日の芝居。

力に目覚めてから。

痛みという感覚が分からなくなっていた。

だからこそグレーは思う。

今の自分で、唯一痛みを感じる場所があるとすれば。

それはもう、心だけだった。

ーーーー

話し終えると、屋上にはしばら風の音だけが流れた。

ニーナは口をぽかんと開けたまま、しばらく動かなかった。

やがて我に返ったように、小さく息を吐く。

「……凄っ。」

その声には驚きを通り越して、半ば呆れのような響きが混じっていた。

「本当に無敵なんだね。」

「まあ……そうみたい。」

グレーは苦笑するしかない。

ニーナはふと、彼の胸元へ目を向けた。

「……その穴。」

「ん?」

グレーは首を傾げる。

ニーナが指差した先。

マントの下から覗く服には、丸い穴が開いていた。

グレーは服の端を少し引っ張り、その穴を覗き込む。

「ああ、これ?」

少し考えてから、あっさりと答えた。

「銃弾の穴。」

「えっ。」

ニーナの目が丸くなる。

グレーは何でもないことのように、穴の開いた服を眺めた。

「かっこ悪いから、できるだけ服には当てないようにしたいんだけどね。」

そう言って、ぽりぽりと頭を掻く。

「え〜……そこ気にするとこ?」

ニーナは呆れたように返した。

「痛くないの?」

「全然。……当たった感じすら、ないよ。」

グレーはそう答えてから、ほんの少しだけ表情を曇らせた。

その言葉に、ニーナは少しだけ黙った。

「じゃあ。」

やがて、興味深そうにグレーを見上げる。

「私がグレーを触っても、分からないの?」

「それは分かるよ。」

「ふーん。」

ニーナは自分の手を見つめる。

「不思議。」

少し考え込んでから。

「あ。」

何か思いついたように顔を上げた。

「じゃあさ。」

両手を胸の前へ掲げる。

指を、わきわきと動かした。

「くすぐったら、くすぐったいのかな?」

「え〜、やめてよ!」

グレーはまだ触れられてもいないのに、半笑いのまま身じろぎした。

ニーナはそれを見て、にやりと笑う。

「まだ何もしてないけど?」

「いやいや、そういう問題じゃなくて!」

「ほらほら〜。」

ニーナの指が、グレーの身体へ近付いていく。

二人の間で、実際には何も触れていないエアくすぐりが始まった。

グレーは身をよじり、ニーナは楽しそうに笑う。

「ほら、どう? くすぐったい?」

「分かんない!」

「分かんないんだ。」

「たぶん、くすぐったくはないと思う。」

グレーは笑いながら答えた。

「でも……。」

少しだけ考えるように目を細める。

「昔は、くすぐったがりだったから。」

「昔?」

「うん。」

グレーは自分の脇腹を見下ろした。

「その時の感覚を思い出すと、何となくムズムズするんだよね。」

「じゃあ、くすぐったいんじゃない?」

「違うと思う。」

「試してみようよー?」

「やだ 〜!怖い怖い!」

屋上に、二人の笑い声が響く。

しばらくして。

やがてその熱気もゆっくりと落ち着いていった。

ニーナは膝を抱え直し、グレーも小さく息を吐く。

いつもの穏やかな空気が、再び屋上へ戻ってくる。

「……でも。」

ニーナがぽつりと呟いた。

「やっぱり不思議だね。」

「何が?」

「触られたら分かるのに。」

ニーナはグレーの腕を見つめる。

「撃たれても、痛くない。」

グレーは少しだけ黙った。

「うん。」

「本当に、変なの。」

「そうだね。」

グレーは苦笑する。

そして、ニーナは再び彼を見上げた。

「どこからでも見えちゃうし、聞こえちゃうんでしょ?」

「うん。」

「……何でも、お見通しなんだ。」

ニーナの声が、少しだけ沈んだ。

「そんなことないよ。」

グレーは静かに首を横へ振る。

「遠くは見えても、…なんていうかさ。」

「分からないことっていっぱいあるよ。」

視力や聴力だけで、人の事情まで見抜けるわけではない。

まして、ずっと気掛かりだったニーナの家出の理由など分かるはずもない。

たとえグレーのスーパーパワーに、人の心の中まで見通す力があったとしても。

それだけは、したくない。

ニーナはフェンスの土台から立ち上がると、両手をぶらぶらと揺らしながら屋上を歩き始めた。

夕日に照らされた縞模様が、コンクリートの上へ長く伸びる。

「そんな力があったらさ。」

振り返らないまま尋ねる。

「世界征服とかできちゃいそうなのに、しないの?」

グレーは思わず吹き出した。

「あはは。」

肩を揺らして笑う。

「しないよ。」

少し考えてから、静かに付け加えた。

「する理由がないから。」

ニーナは「ふーん」とだけ返事をする。

また数歩歩いてから、今度は別の質問を投げた。

「じゃあ、お金儲けは?」

「お金?」

「その力なら何でもできそうじゃん。」

「スポンサーとかいくらでも話来るでしょ?」

グレーは少し考え込む。

「衣食住に困らなければ、それで十分かな。」

そう答えながらも、その表情はどこか複雑だった。

本当は衣食住すら、自分にはほとんど必要ない。

眠らなくてもいい。

食べなくてもいい。

病気にもならない。

生きるために必要だったものが、一つずつ自分から消えてしまった。

だからだろうか。

それらを手に入れるためのお金にも、いつしか執着はなくなっていた。

「えー、お金はたくさん持っててよ。」

グレーはくすりと笑った。

「アイスを二段にしたり、サンドイッチに贅沢なトッピングして欲しかった?」

「そうそう!」

「でもね。」

少しだけ照れくさそうに笑う。

「必要な分より多かったら、困ってる人に寄付するかな。」

ニーナはその横顔をちらりと見つめる。

「ふーん。」

そして、小さく何度もうなずいた。

「やっぱりグレーはみんなのヒーローなんだね。」

その言葉に、グレーは困ったように笑う。

「そんな立派なものじゃないよ。」

「そうかな。」

ニーナはくるりと振り返る。

夕日を背にしたその表情は、どこか真剣だった。

「……ねぇ。」

一拍置く。

「もし。」

さらに小さく息を吸う。

「もしだよ。」

グレーは首を傾げた。

「私が悪いことしても、止めてくれるよね?」

屋上に風が吹く。

マントの裾が小さく揺れた。

グレーはその質問の意味を深く考えることもなく、いつもの調子で笑う。

「止めるけど。」

そして少しだけ困ったように眉を下げる。

「まず、そんなことしないでよ。」

その言葉に、ニーナはふっと笑った。

「……そうだね。」

いつものような、いたずらっぽい笑顔。

けれど、その笑みの奥には一瞬だけ、言葉にならない影が差していた。

迷いとも、不安とも、諦めともつかない、小さな揺らぎ。

もしグレーがその表情の意味に気付いていたなら。

もし、ほんの少しだけ踏み込んで問い掛けていたなら。

未来は違っていたのかもしれない。

けれど、どれほど遠くを見渡せても。

どれほど小さな音を聞き分けられても。

心の奥底までは見えない。

グレーのスーパーパワーは、決して万能ではなかった。

ーーーー

それから数日後。

街では相変わらず、小さな事件や事故が絶えなかった。

グレーは銀行強盗を取り押さえ、交通事故の現場で横転したトラックを起こし、山中で道に迷った親子を保護する。

そんなヒーロー活動の合間を縫って、いつもの廃ビルへ向かった。

屋上へ降り立つと、ニーナは待っていたかのように手を振る。

「お、今日はアイスだ!」

「暑いからね。」

グレーが買ってきた袋を渡すと、ニーナは嬉しそうに包装を剥がした。

「いただきまーす!」

一口食べると、幸せそうに目を細める。

「おいしい……。」

そのまま何気ない雑談が続いたあと、不意にニーナが尋ねた。

「ねぇ、グレーって誕生日いつなの?」

「誕生日?」

グレーは首を傾げた。

考えること数秒。

「あ。」

思わず声を上げる。

「明後日だ!」

「えっ?」

「自分でも忘れてた……。」

あまりにも自然な反応に、ニーナは吹き出した。

「わぁ、そうなんだ〜!」

さっきまでより一段高い声が屋上へ響く。

そして急に立ち上がると、両手を胸の前でぎゅっと握った。

「決めた!」

「何を?」

「家出やめるの、明後日にする!」

力強い宣言だった。

グレーはきょとんとする。

「え、それが理由?」

「うん!」

あまりにあっさりした返事に思わず笑ってしまう。

(……それでいいのかな。)

そう思いながらも、胸のどこかが温かくなる。

理由が何であれ。

本人が帰るきっかけになるなら、それで十分だ。

「じゃあ、その日を楽しみにしてる。」

「任せて!」

ニーナは親指を立てて笑った。

---

二日後。

グレーの二十一歳の誕生日。

彼はいつものように屋上へ降り立った。

だが、見慣れた景色が少し違っていた。

テントがない。

敷いていた毛布も、積み重ねられていた段ボールもなくなっている。

代わりに、大きなキャリーケースが一つ。

その横でニーナが荷物をまとめていた。

「本当に家に帰るんだね。」

グレーが声を掛ける。

ニーナは振り返り、笑った。

「うん。」

荷物を詰めながら、いたずらっぽく聞いてくる。

「寂しい?」

グレーは少しだけ考えた。

そして素直に答える。

「そうだね。」

少し照れ笑いを浮かべる。

「だけど、これで安心したよ。」

その答えに、ニーナは満足そうにうなずいた。

「そっか。」

しばらく荷物を整理していたが、不意に立ち上がる。

「あのさ。」

ポケットを探り、小さな箱を取り出した。

「これ、あげる。」

グレーが受け取る。

中には、小さなピンバッジが入っていた。

灰色のウサギを横から見たシルエット。

シンプルだけれど、どこか愛嬌のあるデザインだった。

「お金、あんまり無いから。」

少し照れくさそうに笑う。

「これしか買えなかったけど……プレゼント。」

「……!」

グレーの耳がぴんと立つ。

「あ、ありがとう!」

心から嬉しそうな笑顔だった。

「マントに着けてよ。」

ニーナは両手を背中へ回しながら視線を逸らす。

「それ、一着しかないでしょ?」

「うん。」

「ずっと……着けててほしいんだ。」

その言葉にグレーは迷わなかった。

早速マントへピンバッジを留める。

「どう?」

胸元で小さく光る灰色のウサギ。

ニーナは少し眺めてから、優しく笑う。

「うん。いいと思う。」

短い沈黙が流れる。

風だけが二人の間を通り過ぎた。

やがてニーナがぽつりと言う。

「私、分かっちゃった。」

「何が?」

「無敵のグレーにも、弱点があるって。」

グレーは目を丸くした。

「え……?」

「グレーって、高校生の時に力に目覚めたんだよね。」

「うん。」

「でも。」

ニーナは真っ直ぐ彼を見る。

「今のグレーは、ちゃんと二十一歳の大人のグレーじゃん。」

グレーは言葉を失う。

ニーナは続けた。

「歳を取るってことは。」

少しだけ笑って。

「ちゃんとヨボヨボになるってことだよ。」

その瞬間。

グレーの胸の中で、何かが音を立ててほどけた。

そうか。

自分は傷付かない。

疲れない。

病気にもならない。

飢えもしない。

だけど。

歳は取っていた。

毎年、誕生日は来る。

高校生だった自分が二十一歳になったように、これからも時間は流れ続ける。

つまり。

自分だけが永遠に取り残されるわけではない。

皆と同じ時間を生きている。

その当たり前の事実を、今まで一度も考えたことがなかった。

「……そっか。」

自然と笑みがこぼれる。

「本当だ。」

二人は顔を見合わせる。

どちらからともなく笑った。

何でもない。

けれど、忘れられない笑顔だった。

やがてニーナはバッグを肩へ掛ける。

「じゃあ私、行くね。」

少し照れくさい空気を振り払うような、明るい声だった。

「あっ、荷物持つよ?」

「ありがと。」

キャリーケースの持ち手を差し出しながら笑う。

「じゃあ、ビルを出るまでお願いっ。」

「了解。」

グレーはキャリーケースを軽々と持ち上げる。

二人は並んで屋上を後にした。

古びた階段を、一段ずつ降りていく。

他愛もない話をしながら。

笑いながら。

グレーは胸の奥に、小さな寂しさが芽生えていることに気付いていた。

もう、この屋上でこうしてニーナと会うことはない。

それは喜ばしいことのはずなのに。

階段へ差し込む午後の日差しは、二人の影を長く伸ばしていた。

そしてマントの胸元では、灰色のウサギのピンバッジが、小さく陽の光を受けて輝いていた。

ーーーー

ニーナが過ごしていた廃ビルから、何キロも離れた都市の中心部。

高層ビルが立ち並ぶ街の地下。

何層にも続く地下駐車場の最下層は、人影も皆無だった。

照明はところどころ切れ、薄暗いコンクリートの空間に換気扇の低い唸りだけが響いていた。

その隅に、一台の黒いバンが停まっている。

こんな奥までわざわざ車を停める者など、まずいない。

やがて。

ゴロゴロ、とキャリーケースの車輪が床を転がる音が近付いてきた。

もう一つ。

肩には重そうなボストンバッグ。

荷物を引いて歩いていたのは――ニーナだった。

彼女は迷いなくバンの前へ立つ。

深く息を吸い、スライドドアを開けた。

途端に、むせ返るような煙草の臭いが流れ出す。

運転席にクマの男、後部座席にはワニの男。

どちらも鋭い目付きでニーナを見据えていた。

「……ただいま。」

ニーナは俯いたままそう言い、荷物を車内へ積み込む。

クマが短く鼻を鳴らした。

「おう。」

そして身を乗り出す。

「で、分かったか?」

「あいつの弱点。」

ニーナは少しだけ間を置いて答えた。

「……ダメ。」

その声には疲れが滲んでいる。

「あの人は、ほぼ無敵。」

「何しても死なない。」

ワニが煙草をくわえたまま煙を吐く。

「"ほぼ"ってのは?」

「他の人と同じで、ちゃんと歳は取る。」

ニーナは思い出すように続けた。

「たぶん……寿命もあると思う。」

「元は普通の人だったみたいだし。」

一瞬、車内が静まる。

そして。

「ハッ!」

ワニが鼻で笑った。

「じゃあ何か?」

「あいつがくたばるまで俺たちも待てってことか?」

クマは舌打ちしながら腕を組む。

「やっぱりかよ。」

その目に浮かぶのは怒りだった。

「あいつの身内や、仲のいい奴から潰していくしかねぇな。」

「心をへし折れば、さすがの化け物も動けなくなるだろ。」

まるで天気の話でもするような口調だった。

ニーナは顔を上げる。

「ねぇ!」

思わず声が荒くなる。

「目的が違うでしょ!?」

「お金が手に入ればいいんだから!」

クマが勢いよく立ち上がる。

「あぁ?」

怒鳴り声が狭い車内へ響いた。

「だからあいつが邪魔なんだろうが!」

車体が震えるほどの怒声だった。

「あいつのせいで俺は何度も計画を潰されてんだ!」

クマはグレーを憎んでいた。

宝石店強盗。

現金輸送車襲撃。

密輸。

何年も積み上げてきた計画は、そのたびに灰色のヒーローによって潰された。

仲間は捕まり、

組織は崩れ、

大金は手の中から消えていった。

「あいつが邪魔しなければ……俺の娘は助かったんだよ!!」

ドカッ。

クマはドアの側面を拳で殴りつけた。

娘を救うため。

その理由だけは本物だった。

だが、そのためなら他人から奪っても構わないと信じていた。

そして、それを阻止されたことすら、自分から奪われたのだと思い込んでいる。

「復讐しねぇと気が済まねぇ!」

娘を失った今も、その叫びは止まらない。

金を得る理由は、もう失われている。

それでも彼は奪い続ける。

憎しみだけを支えにして。

ニーナは、その姿を心の底から軽蔑した。

だが。

俯いたまま拳を強く握ることしかできない。

──私がもっと早く逃げられていたら。

そう思わない日はなかった。

家を飛び出した夜。

行く当てもなく歩いていた自分へ声を掛けてきたのが、この二人だった。

最初は優しかった。

泊まる場所も、食べ物も与えてくれた。

その代わりに任されたのは、荷物を運ぶ仕事だった。

人へ直接渡すことはない。

過剰に包装された箱を、指定されたコインロッカーへ入れて連絡する。

始めの頃は、何も考えず言われた通りにこなしていた。

だが。

同じ仕事を繰り返すうちに、その異様さだけは嫌でも伝わってきた。

怖くなって断ろうとした。

その頃にはもう、逆らうたびに怒鳴られるようになっていた。

逃げられなかった。

やがて仕事は少しずつエスカレートし、知らないうちに犯罪へ手を染めていた。

証拠だけが積み重なっていく。

「警察へ行ってみろ。」

「お前だけじゃ済まねぇ。家族も親戚も、一人残らず後悔させてやる。」

その一言だけで十分だった。

ここで逆らえば、自分がどうなるか分かっていた。

ワニがニヤつきながら顔を近付ける。

「そういや。」

「発信器は付けたよな?」

「かわいいウサちゃんの。」

ニーナの肩が小さく震える。

「……ええ。」

苦しそうに答えた。

「ちゃんと……マントに付けるところまで確認した。」

「よし。」

ワニは満足そうにノートパソコンを開く。

「ねぐらが分かったら、お前が忍び込め。」

「え……?」

「家族でも写真でも何でもいい。」

「身元が分かるもん全部撮ってこい。」

「見つかったらさ。」

「『あなたのファンになっちゃって』って言えば許してくれるだろ。」

ワニがいやらしく笑う。

「泣きつけば、お人好しのヒーローなんて簡単に騙せるって。」

「そのために拾ってやったんだからな。」

ワニも昔はニーナと同じだった。

居場所を失い、拾われた先で脅されるまま犯罪へ手を染めた。

だが、いつしか抗うことをやめた。

楽な方へ流され続け、その先に残ったのは、人を脅す側の自分だった。

車内に下品な笑い声が響く。

「……最低。」

ニーナは誰にも聞こえないほど小さく呟いた。

その声は笑い声にかき消される。

ワニは画面を見つめたまま、マウスを動かす。

「さて。」

「今あいつはどこに――」

言葉が止まった。

「ん?」

画面を凝視する。

「んん……?」

表示された現在地が、あり得ない場所を示していた。

「おい。」

ワニの顔色がみるみる青ざめる。

「近い。」

「……いや、待て。」

カーソルが震える。

「ここだ。」

「この駐車場にいる!」

クマが勢いよく運転席から身を乗り出した。

「何っ!?」

その瞬間だった。

コツ。

コツ。

静かな足音。

地下駐車場にゆっくりと響く。

二人は反射的にフロントガラスの向こうを見る。

薄暗い照明の下。

一人の灰色のウサギが、静かにこちらへ歩いてくる。

マントの胸元では、小さな灰色のウサギのピンバッジが光を受けてきらりと輝いていた。

ーーーー

 地下駐車場の最下層。

 換気扇の低い唸りだけが響く空間に、グレーは静かに立っていた。

 黒いバンの前に、彼はもう何秒も動かずにいる。

 車内の気配は、全部聞こえていた。クマの荒い呼吸。ワニの心臓。煙草の匂い。そして――ニーナの鼓動。

 開ければ、終わる。

 強盗でも事故でもない。この扉を開けた先にあるのは、戦いではなく、向き合うことだ。

 グレーは一度だけ息を吐いた。

 それから、歩き出した。

 コツ、コツ、と足音が響く。

 フロントガラスの向こうで、ワニの顔色が変わるのが見えた。

 グレーはバンの前に立つと、動くのを待った。

「くそっ!」

 ワニの叫びと同時に、クマがシフトレバーを叩く。エンジンが唸り、アクセルが床まで踏み抜かれた。

 黒いバンが、一直線に迫る。

「死ねぇッ!」

 グレーは避けなかった。

 ドガン、と衝撃音。車体の前方が持ち上がり、タイヤが空転する。彼は片手でバンパーを掴んでいた。

 そのまま、もう片方の手を車体の底へ伸ばす。

 ギギギギギッ――。

 高速で回転していたプロペラシャフトを、素手で引き抜いた。長い金属棒が、玩具の部品のように車体から抜け落ちる。

 グレーは静かに車体を地面へ戻した。エンジンは唸り続けているが、駆動力を失ったバンは一ミリも動かない。

「クソがぁ!」

 クマが助手席のショットガンを掴み、ドアを蹴破るように飛び出した。

 銃口が向く。引き金が引かれる。

 ドン。ドン。ドン。

 無数の鋼球が降り注ぐ。

 グレーは止まらない。小雨の中を歩くように、静かに近付いてくる。足元では、潰れた鋼球がカラン、カランと転がった。

「なんだ……何なんだよ、お前……!」

 クマが後ずさる。

 グレーはポケットからダクトテープを取り出した。

「はっ!?」

 そして、姿が消えた。

 灰色の風がクマの周囲を駆け抜ける。一周、二周、十周。猛烈な風圧でバンが揺れ、サスペンションが悲鳴を上げた。

 風が止んだとき、クマは膝下から胸元まで何重にもテープで巻かれ、そのままコンクリートへ倒れ込んでいた。

「クソがぁ……!」

 もがいても、一ミリもほどけない。

 その時だった。

 ガラッ、とスライドドアが開く。

「動くな」

 低い声。ワニが片腕でニーナを引き寄せ、盾にしていた。もう片方の手には拳銃。銃口は、ニーナの頭へ押し当てられている。

「お前の大事なこの子の脳みそなんて見たくねぇだろ?」

 グレーの足が、止まった。

 一秒。

 二秒。

 彼は動かなかった。

 動けなかった、のではない。動かなかったのだ。

 ニーナの肩が震えている。涙を堪えた声が、静かに漏れた。

「……グレー」

 グレーはその顔を見ていた。

 そして、静かに息を吸った。

 すぅ――。まだ吸う。すぅぅ――。

 ワニの眉がひそむ。

「何をする気だ」

 グレーは小さく口をすぼめた。

 ろうそくの火を吹き消すように。

「……ふっ」

 爆風のような風が地下駐車場を駆け抜けた。

「グワッ!」

 ワニの身体が大きく揺れる。拳銃だけが弾かれ、はるか遠くまで吹き飛んでいく。ガランガラン、と乾いた音が響いた。

「なっ――!?」

 ワニが呆然とした、その一瞬。

 グレーはもう目の前にいた。肩を軽く押す。それだけで、ワニの身体は勢いよく後方へ倒れ込む。

 ダクトテープが何重にも地面とワニを覆っていく。腕、脚、胴。まるで地面へ縫い付けられたように、動かなくなった。

「う、動けねぇ……!」

 数秒で、抵抗は終わった。

 地下駐車場が、静まり返る。

 グレーはゆっくりと振り返った。

 ニーナが立っている。

 二人の間に、もう誰もいない。

 グレーは彼女を見た。ニーナも、彼を見た。

「……ニーナ」

「……グレー」

 グレーは近付いた。ゆっくりと、一歩ずつ。その足取りは、バンの前に立ったときと同じくらい遅かった。

「大丈夫?」

 ニーナが、かすれた声でそう言った。

 あれだけのショットガンを浴びておきながら傷一つない相手へ掛ける言葉としては、あまりにも意味のない心配だった。

「うん……」

 グレーは小さく頷く。

 ニーナの視線が、彼の身体を滑っていく。破れた服。ぼろきれ同然のマント。

 そして、ふと止まった。

「服、ボロボロになっちゃったね」

「あちゃ〜……」

 グレーが自分の服を見下ろす。

「服の穴とか気にしてたのにね」

「あはは……そうだね……」

 グレーは困ったように笑った。

 けれど、その笑みは、いつもの軽さではなかった。口元だけが笑って、目は笑っていない。

 服の下から覗くのは、どこにそんな力があるのかと思うほど細い身体。柔らかそうな灰色の毛。肉体的には、一切傷ついていない。

 それなのに、その姿はひどく痛ましかった。

 グレーの瞳に映るのは、

悲しみ。

憐れみ。

憂い。

 その瞳が、ニーナの心をえぐった。

 グレーを裏切った。自分は、彼を利用した。その現実だけは、確かだった。

「……」

 長い沈黙が落ちた。

 二人とも、何を言えばいいのか分からなかった。

 換気扇のゴーという音だけが、重く響く。

 やがて。

「あは」

 ニーナが小さく笑う。

「あはははっ……」

 笑っている。なのに、その笑い声はどこか壊れそうだった。

「……バカだよね」

 涙が溢れだしながら、笑う。

「敵同士で人質を取ったって」

 唇が震える。

「何の意味もないのに……」

 その自嘲の言葉は、地下駐車場の冷たいコンクリートへ静かに落ちていった。

ーーーー

静まり返った地下駐車場。

拘束されたクマとワニの荒い息遣いだけが、重苦しい空気を揺らしていた。

ニーナはゆっくりと顔を上げる。

涙で濡れた瞳が、まっすぐグレーを見つめる。

「……どうして、分かったの?」

その問いに、グレーは少し考えるように間を置いた。

「……君が初めて廃ビルの屋上にいた日。」

「あの日?」

「うん」

グレーは静かに頷く。

「あの時、君は周りを見ていなかった。」

「普通なら、一人であんな場所にいたら安全かどうか確認すると思うんだ。」

「でも君は違った。」

思い返すように続ける。

「何度も、何度も空を見上げていた。」

「まるで。」

少しだけ寂しそうに笑う。

「僕を探してるみたいだった。」

ニーナは黙って聞いている。

「だから、何か目的があるんだろうなって思った。」

「家出のことも……。」

グレーは視線を落とす。

「女の子が一人であんな廃ビルにいるなんて、やっぱり変だと思った。」

「でも。」

「服で隠しきれない傷やアザが見えた。」

その言葉に、ニーナの肩が小さく震える。

「ああ、本当に何かから逃げたかったんだなって。」

「だから僕は。」

ゆっくり息を吐く。

「君が家に帰るところまで見届けて、何事もなかったことを確認するつもりだった。」

ニーナは何も言わない。

ただ俯いたまま立っていた。

「だけど。」

グレーは静かに首を横へ振る。

「違った。」

その一言だけで十分だった。

「家出をやめる日に。」

「プレゼントをくれたよね。」

ニーナの瞳が揺れる。

「発信器付きだったけど。」

地下駐車場に沈黙が落ちた。

「……。」

「プレゼントは、本当に嬉しかった。」

「だから余計に悲しかった。」

「君は、最後まで一人で抱えようとしてたんだね。」

グレーは小さく微笑んでいた。

その笑顔は優しかった。

けれど。

瞳だけは、どうしようもなく悲しそうだった。

そこまで聞いて。

ニーナは天井を見上げた。

「あーあ。」

肩の力が抜けたように笑う。

「私……本当に最低だ。グレーのこと、こんなに悲しませちゃってさ…。」

「たぶん歴史上最もグレーを傷付けた犯罪者だよ…。」

その笑い方は、廃ビルの屋上でサンドイッチを頬張っていた頃と同じだった。

少しおどけていて。

少し寂しい。

グレーは一歩近付く。

「ニーナ。」

「……。」

「君は。」

言葉を選ぶ。

「あいつらから逃げられずにいたんだよね。」

「だから――」

「ダメ!」

ニーナが鋭く遮った。

「それ以上言わないで。」

グレーは口を閉じる。

ニーナは震える声で続けた。

「私だって十八歳なの。」

「全部が全部じゃない。」

「でも。」

拳を強く握る。

「自分で選んだこともある。」

「その結果、あいつらに弱みを握られた。」

涙が頬を伝う。

「私が選んだことなんだから。」

「自分のツケは、自分で払わないと。」

「でも……。」

グレーはなおも言葉を探そうとする。

ニーナは首を振った。

「グレー。」

静かな声だった。

「あなたは立派なヒーローだよ。」

その一言に、グレーは息をのむ。

「だからこそ。」

「ちゃんと悪いことは悪いことだって言ってほしいの。」

ニーナは拘束されたクマとワニへ視線を向ける。

床には吹き飛ばされた拳銃が転がっていた。

「もし迷ってるなら。」

ゆっくりとその方へ歩き出す。

「私は、あそこにある銃で。」

「動けないあいつらを撃つわ。」

「おい!」

クマが叫ぶ。

「ふざけるな!」

ワニも必死にもがく。

「やめろ!」

二人の怒鳴り声が地下駐車場へ響く。

ニーナは、床に拘束されたまま蠢く二人へ視線を向けた。

「……この人達は。」

小さく息を吸う。

「私なの。」

グレーは黙って彼女を見つめる。

ニーナは二人から目を逸らさなかった。

「自分の責任を、人に向けた。」

震える声で、ゆっくりと言葉を続ける。

「自分で選んだ結果に、向き合わなかった。」

拳を強く握る。

「そんな私が、あんな風になっちゃうの。」

床の上で喚き続ける二人を見つめる。

「……そうなりたくない。」

その声は、かすかに震えていた。

けれど。

「今の私を、許しちゃダメなんだよ。」

ニーナはそう言って、グレーを見た。

長い沈黙。

そして。

「……ニーナ。」

「……はい。」

ニーナは振り返る。

グレーはまっすぐ彼女の目を見る。

その目には涙が浮かんでいた。

「君は……犯罪に加担した。」

その言葉は重かった。

責めるためではない。

事実として伝えるための言葉だった。

ニーナは静かに頷く。

「だから。」

グレーは涙を流しながら続ける。

「然るべきところで、罪を償ってほしい。」

一筋の涙が頬を伝う。

「そして。」

少しだけ笑った。

「社会復帰して。」

「幸せに暮らしてほしい。」

ニーナの瞳からも涙があふれる。

廃ビルでのグレーとの思い出がフラッシュバックのように流れていた。

屋上。

「やぁ、初めまして。」

ぎこちなく笑うグレー。

夜空。

「怖くない?」

お姫様抱っこで浮かぶ街。

揺らめく焚き火。

「いただきます。」

嬉しそうにシチューを頬張る姿。

誕生日。

「ちゃんと歳は取る。」

二人で笑った屋上。

あの時は、

こんな別れが来るなんて思わなかった。

彼女は笑った。

屋上で見せていた、あの笑顔に少しだけ近い笑みだった。

「……分かりました。」

小さく、でもはっきりと答える。

「ちゃんと戻ってきます。」

その約束に、嘘はなかった。

地下駐車場の冷たい空気の中で。

ヒーローは一人の少女を裁いたのではない。

罪を認めた先にも未来があることを信じ、その未来へ送り出そうとしていた。

ーーーー

それから。

何十年という歳月が流れた。

季節は巡り、街並みは変わり、人々の暮らしも変わった。

けれど、灰色のウサギのヒーローの物語だけは、世代を越えて語り継がれていた。

「こっちこっち!」

幼いトラの兄妹が、小さな手で一人の老婦人の手を引く。

白い毛が少し混じった縞模様。

ゆっくりと歩くその女性の名は、ニーナ。

今では孫たちから「ニーナおばあちゃん」と呼ばれていた。

「わぁ!」

子どもたちが足を止めた先には、大きなガラスケース。

その中には、一体の灰色のウサギのマネキンが立っている。

背中には、見慣れたマント。

顔には、目元だけがくり抜かれた布製のバンダナ。

ケースの横には説明文が添えられていた。

---

《グレー 初代コスチューム》

〜ヒーローとして活動を開始した際に着用していた、記念すべき第一号のコスチューム。〜

〜身元が判明しないよう、身近にあった布の切れ端を縫い合わせて製作されたとされる、手作りならではの温かみが感じられる一着。〜

---

ニーナは思わず吹き出した。

「ふふっ……。」

"手作りならではの温かみ。"

"記念すべき第一号。"

随分と立派な言い方になったものだ。

実際は、身元がばれないよう慌ててあり合わせの布を巻いただけ。

裁縫も得意ではなく、縫い目はあちこち曲がっていた。

本人がこの説明を見たら、きっと照れ笑いを浮かべるだろう。

「ニーナおばあちゃん。」

孫の一人が服の裾を引っ張る。

「この頃のグレーに会ったことあるの?」

ニーナはケースの中のマントを見つめた。

胸元には、小さな灰色のウサギのピンバッジ。

何十年経っても、そこに付けられたままだった。

「あったわよ。」

優しく目を細める。

「ちょっと不器用だったけど。」

「あの人は、とても優しい人だった。」

「へぇー。」

子どもたちは目を輝かせる。

「グレーって宇宙人だったのかな?」

「そうじゃない?」

もう一人が身振り手振りを交えて話す。

「だって、すっごく強かったんでしょ!」

「空も飛べるし!」

「宇宙まで行ったんでしょ!」

子どもたちは、自分たちが生まれるずっと前のヒーローを思い思いに想像する。

宇宙から来た戦士。

神様の使い。

未来人。

自由な発想で語り合う声が、展示室へ響いていた。

ニーナは微笑む。

(違うのよ。)

心の中で、静かに呟く。

グレーは確かに人間離れした力を持っていた。

傷付かず。

疲れず。

空を飛び。

宇宙へも行ける。

そんな存在だった。

でも。

誰かを見捨てられず。

迷いながら答えを探し。

泣きながら「罪を償ってほしい」と言えた。

あの日の彼ほど、人として生きようとした人を、ニーナは他に知らなかった。

だから。

誰よりも人間だった。

展示を見終えると、一行はゆっくりと建物の外へ出た。

青空がどこまでも広がっている。

風は穏やかで、雲がゆっくりと流れていく。

「あれ見て!」

「凄い!」

孫たちは歓声を上げた。

ニーナは足を止める。

白い雲が、一直線に綺麗に左右へ割れていた。

はしゃぐ孫たちを横目にニーナは空へ向かって静かに手を振った。

言葉にはしない。

それでも胸の中では、自然と一つの想いが浮かぶ。

(……ちゃんと、幸せに暮らせました。)

あの日。

涙を流しながら「戻ってきます」と約束した少女は、その約束を守った。

罪を償い、社会へ戻り、家族を持ち、この子たちと笑い合える人生を歩んだ。

そのことを、一番伝えたかった相手はここからは見えない。

けれど。

きっと見てくれている。

そう思えた。

澄み渡る青空の向こう。

誰よりも優しく、誰よりも人間らしかった灰色のヒーローが、今日もどこかで世界を見守っているような気がした。

ジャンル・タグ

, , ,

作品統計

👁️ 閲覧数: 2 👍 いいね: 0 📚 本棚登録: 0

作者について

もっち

漫画やイラストを描いてますが、頭のストーリーのストックを処理しきれない為、ストーリーやセリフ、構成など全て箇条書きにしてAIで小説化した作品を公開していきます。

👥 フォロワー: 1人

作者ページを見る