第137話 余白と射程
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1943年3月4日、木曜日。
ミュンヘンの朝は、薄い雲に覆われていた。
雪はほとんど消えたものの、石畳の隙間にはまだ冬の名残があった。風は冷たく、通りを歩く人々も外套の襟を立てている。
アドルフ・ヒトラー意匠事務所では、朝から応接卓の上が片付けられていた。
「この図面は、こちらですね」
ユンゲが大判の紙を広げた。
「違う。それは会場全体の配置図だ。将軍に最初に見ていただくのは軍事資料の構成だ」
ヒトラーは机の上を指した。
「鉄道網、道路、部隊の配置、工業生産。順序を変えるな」
「では、会場配置図は後にします」
「そうだ」
フランツが別の資料を持ってきた。
「こちらは?」
「それは先週送ったものの控えだ」
「並べておきますか」
「いや、将軍が持ってこられる資料と照らし合わせる。手元へ置いておけ」
ユンゲが時計を見た。
「10時のお約束でしたね」
「そうだ」
ヒトラーは窓の外を見た。
「ヒムラーは時間にうるさい。まして今日は将軍を連れてくる、遅れんだろう」
その時、通りから聞き慣れないエンジン音がした。
フランツが窓へ近づいた。
「軍の車でしょうか」
ヒトラーも顔を上げた。
事務所の前へ、低く角張った小型車が入ってきた。
車体は灰色がかった緑色。
屋根は幌で、前後の張り出しは短い。
飾り気のない平板な車体に、細い扉が4枚ついている。
車は建物の前で停止した。
運転席から軍服姿の兵士が降りた。
助手席からは書類鞄を持った若い大尉。
後席からヒムラーが姿を現し、最後にもう1人、背の高い軍人が降りてきた。
細身の体に軍服がよく馴染んでいる。
額は広く、長い顔には深い皺が刻まれていた。目元には疲れたような影があるが、視線そのものは鋭い。
どこか長年、部下の報告書に目を通し続けてきたような顔だった。
ヒトラーは上着を取った。
「来られたな」
ユンゲが受付から出てきた。
「お迎えします」
「私も行こう」
ヒトラーは玄関の階段を下りた。
駐車スペースへ向かう途中、彼の視線は来客よりも先に車へ向いていた。
「これは…」
建物の外へ出る。
ヒムラーが挨拶した。
「おはようございます、所長」
「おはよう、ヒムラー」
そして背の高い軍人へ向き直った。
「ヴァイトリング将軍ですね。お越しいただきありがとうございます。アドルフ・ヒトラーです」
軍人が手を差し出した。
「東部方面砲兵監察・訓練担当のヘルムート・ヴァイトリングです。こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
握手を交わした。
ヴァイトリングの声は低く、落ち着いていた。
ヒムラーが続けた。
「こちらは軍との連絡を担当するホフマイスター大尉です。公開できる資料の範囲についても調整していただきます」
大尉も挨拶した。
ヒトラーは頷いた。
しかし、その目はすぐに車へ戻った。
「失礼ですが、将軍。これはキューベルワーゲンですね」
「ええ。軍の連絡用車両です」
ヒトラーは車の横へ回った。
「先日、ちょうどこの車の話を聞いたところです」
「ほう」
「ポルシェ博士の設計だそうですね」
「そうです。民生用のポルシェワーゲンを基礎に、軍用に改めたものと聞いています」
ヒトラーは車体を眺めた。
「無骨ですな」
ヒムラーが口を開きかけた。
だが、その前にヒトラーが続けた。
「しかし、4人乗りにしては非常によくまとまっています。前後に無駄な長さがない」
ヴァイトリングも車を見た。
「軍用ですから、装飾は必要ありません」
「それは分かります。ただ、飾りをなくせば良いというものでもない。必要なものが正しい位置へ収まっているかが大事です」
ヒトラーは扉の位置を見た。
「4人が乗り降りできて、この寸法ですか」
「道幅の狭い場所では便利です。大きな軍用車では入れないところにも入れますからな」
「なるほど」
ヒトラーは車体後部を見た。
「エンジンは後ろですね」
「ええ。そこもポルシェワーゲンと同じ考え方です」
「私の事務所でも1931年からポルシェワーゲンを使っています。つい先日、エンジンを修理したばかりですが」
「それは随分長く使っておられますな」
「まだ走ります。ただ、そろそろ新型が出るという話も聞きまして」
ヴァイトリングは少し頷いた。
「軍用型の経験が、民生車にも戻されるのでしょう」
「私もそう聞きました」
ヒトラーはもう一度車の側面を見た。
「この車体をそのまま民生用にするつもりはないでしょうが、寸法のまとめ方は参考になりますね」
ヒムラーが資料鞄を持ち直した。
「所長。そろそろ将軍を中へお連れした方が…」
ヒトラーは振り返った。
「ああ、そうだった」
ヴァイトリングがわずかに口元を緩めた。
「車の話なら、私も嫌いではありません」
「それは何よりです。どうぞ、こちらへ」
一行は事務所へ入った。
応接卓には、すでに資料が並べられていた。
ヒムラーは持参した鞄から企画書を出した。
「本日は『東方情勢と欧州の安全』の軍事資料について、ご意見をいただくことになっております」
ヴァイトリングは椅子へ座り、書類を取り出した。
「事前に送っていただいたものは、ひと通り拝見しました」
「ありがとうございます」
ヒトラーも向かいに座った。
ヴァイトリングは数枚の紙を広げた。
「まず、こちらです」
紙には細かな数字と文章が並んでいた。
赤鉛筆で線が引かれ、余白には手書きの数字や短い注釈が書き込まれている。
「ソ連軍の部隊配置を説明する部分ですが、ここの数字は確認が必要です」
ヴァイトリングが指を置いた。
「師団数そのものは、おおむね妥当でしょう。ただし、常備の兵力と動員後の推定兵力が混在しています」
ヒトラーは頷いた。
「区分を分けた方がよいですか」
「ええ。同じ数字として扱うと、実態を誤解させます」
「なるほど」
ヒトラーは紙を手元へ引き寄せた。
そこにはさらに、鉄道輸送についての書き込みがあった。
だが、ヒトラーの視線は、途中から別のところへ向かった。
紙を少し持ち上げる。
もう一度見る。
裏返す。
表へ戻す。
ヴァイトリングが顔を上げた。
「何かお気づきですか」
「…将軍。この資料は、私どもが送ったものと様式が違いますね」
「内容は同じはずですが」
「ええ、文章は同じです。しかし、この文字は」
ヒトラーは紙を指した。
「別のタイプライターの文字ですね」
ヴァイトリングが頷いた。
「軍の通信所で打ち直したものです。ヒムラーさんから受け取った資料の文章部分を、私のところへ転送してもらいました」
ヒムラーが補足した。
「図面や写真は原資料を別送し、文章と数字表は軍の通信系統を通しています」
「なるほど。テレタイプか」
ヒトラーは紙を少し離して見た。
「余白が狭いな…」
ヴァイトリングは一瞬、黙った。
「余白ですか」
「ええ。左右が詰まりすぎています。見出しと本文の間も狭い。しかも段落の区切りが分かりにくい」
ヒムラーが言った。
「しかし、内容は正確に転送されています」
「内容の正確さを疑っているのではない」
ヒトラーは紙の端を指した。
「この文書構成では余白が狭い!資料としての書き込みなどを考慮していない」
少し声が大きくなった。
フランツが隣の席から顔を上げた。
ヒトラーはヴァイトリングへ向き直った。
「失礼、将軍。しかし、ここをご覧ください」
彼はヴァイトリングの赤鉛筆による書き込みを指した。
「注釈が文字に重なっています。こちらは余白がなくなったので、裏面にまで書かれていますね」
ヴァイトリングが頷いた。
「確かに、書く場所には困りました」
「でしょう。資料というものは、印刷されて完成するだけではありません。読む人間が考え、疑問を書き、修正する場所も必要です」
「なるほど」
ヴァイトリングは改めて紙を見た。
「軍の通信では、まず内容が届くことを優先します。組み方までは考えておりませんでしたな」
「通信ならそれでよいのでしょう。しかし、監修に使うなら別です」
ヒトラーは自分たちが作成した控えを取り出した。
横に並べる。
「こちらをご覧ください。見出し、本文、注釈欄。それぞれの役割を分けてあります」
ヴァイトリングは2枚を見比べた。
「確かに、こちらの方が書き込みやすそうです」
ヒトラーの顔が少し明るくなった。
「そうでしょう」
「もっとも、私は数字が読めれば仕事はできますがね」
「読めることと、読みやすいことは違います」
ヴァイトリングは軽く頷いた。
「それは認めましょう」
ヒムラーが言った。
「では、今後の資料は通信所にも余白の指定を…」
「そこまでする必要はない」
ヒトラーは即座に止めた。
「軍の通信書式まで私が決めるつもりはない。軍には軍の通信規格があるのだ」
「承知しました」
ヒムラーは手帳へ書き込んだ。
ヴァイトリングが別の図面を出した。
「では、内容の方へ戻りましょう」
「お願いします」
今度は東欧の鉄道網を描いた地図だった。
ソ連西部。
黒海沿岸。
ルーマニア東部。
主要な鉄道路線。
橋梁。
道路。
工業地域。
ヒムラーは図面を指した。
「ここでは、東方に存在する軍事力が欧州へ及ぼす影響を示す予定です」
ヴァイトリングは地図を眺めた。
「この矢印は何を意味していますか」
「ソ連軍の進出可能な方向です」
「可能、ということですな」
「はい」
「では、ここは修正が必要でしょう」
ヴァイトリングは赤鉛筆を取った。
地図の一部を指す。
「この方面には、大部隊を短期間で移動させるだけの道路がありません」
ヒムラーが言った。
「しかし、地理的には進出可能です」
「地理的には、です」
ヴァイトリングは淡々と答えた。
「部隊は地図の上を滑って移動するわけではありません。歩兵だけならともかく、砲兵、車両、弾薬、燃料、食料も必要になります」
ヒトラーが地図へ身を乗り出した。
「この矢印は、少し太すぎるとも思っていました」
ヴァイトリングは顔を上げた。
「私は太さではなく、輸送条件の話をしているのですが」
「分かっています。しかし、その条件を考えれば、これほど強調した線を引くべきではないでしょう」
ヴァイトリングは地図を見直した。
「それなら、同じ結論ですな」
ヒムラーが咳払いをした。
「今回の展示では、来場者に東方の軍事的な現状を理解してもらう必要があります」
「そのために、正確な地図が要るのです」
ヴァイトリングが答えた。
「数字だけを並べても、部隊が何をできるのかは分かりません」
ヒトラーも頷いた。
「そして正確な数字を並べても、読み方を誤らせては意味がない」
ヒムラーは2人を交互に見た。
「では、数字と地図を併記するということで」
「それがよいでしょう」
ヴァイトリングが言った。
「ただし、兵力の推定には幅があります。断定できない数字には、その旨を明記してください」
「承知しました」
ヒトラーは別の赤鉛筆を取った。
「では、こちらの見出しも変えましょう。『東方軍事力の進出』では、すでに進出が決まっているように見えます」
「どうされますか」
「『軍事力と交通条件』。まずはそれで十分です」
ヴァイトリングは頷いた。
「よいと思います」
ヒムラーは手帳にもう一つ書き込んだ。
一段落したところで、ユンゲが茶を運んできた。
カップが並ぶ。
ヴァイトリングは礼を言い、茶を一口飲んだ。
ヒトラーは机の脇に置いてあった新聞を取った。
「そういえば将軍。ひとつ伺ってもよろしいかな」
「何でしょう」
「太平洋の戦況です」
ヴァイトリングが新聞を見た。
「日本とアメリカですか」
「ええ。ドイツには双方の発表が入ってきますが、どうにも紙面が整っていない」
ヒムラーが少し身を乗り出した。
ヒトラーは新聞を広げた。
「ガダルカナル島の話です。日本側は部隊の移動を説明し、アメリカ側は島を確保したと発表する」
「そうですな」
「それはよい。しかし、こちらの記事は発表日、こちらは作戦の日付。損害についても、艦船と航空機の分類が揃っていない。これでは比較できません」
ヴァイトリングは新聞を受け取った。
「報道機関も、それぞれ別の経路から情報を得ているのでしょう」
「ならば、どこが違うのか分かるように並べるべきです。読者に勝手に比較させるのは不親切でしょう」
ヴァイトリングは少し考えた。
「国防省でも、日米双方の発表を照合しています」
ヒトラーが顔を上げた。
「将軍は、どちらが実情に近いとお考えですか」
「私自身が太平洋の担当というわけではありませんが、国防省の分析では、ガダルカナル島については概ねアメリカ側の説明が実態に近いと見る意見が多いようですな」
「日本は部隊を移したと言っています」
「撤退そのものは否定していないのでしょう。ただ、その意味づけが異なります」
ヒトラーは新聞を見た。
「同じ出来事へ別の見出しをつけたわけですか」
「そういうことです」
「見出しで結果まで変わるなら、新聞屋は楽な商売ですな」
ヴァイトリングは口元を少し緩めた。
「もっとも、アメリカ側の発表も、数字までそのまま信用できるとは限りません」
「では、何を基準にするのですか」
「その後、何ができるようになったかです」
「ほう」
「島を確保したなら、航空機を進出させられる。港や飛行場を使える。敵の輸送路を妨害できる。戦果の数字が多少違っていても、そうした結果は隠しにくいものです」
ヒトラーは頷いた。
「なるほど。何を失わせ、何を使えるようにしたかを見るわけですな」
「そうです」
ヴァイトリングは新聞の別の記事を指した。
「それに今はニューギニア方面でも大きな海空戦が起きているようです。日本軍の輸送船団が攻撃を受けたとの報告がありますが、まだ数字は落ち着いていません」
「アメリカ側は大きな戦果を発表していますね」
「速報ですからな。沈没と損傷、攻撃を加えた目標の数が混ざることもあります」
ヒトラーは新聞を畳んだ。
「やはり、同じ項目を揃えて並べなければ駄目ですな」
「軍でも苦労しているところです」
ヒムラーが話を戻した。
「それでしたら、今回の展示でもソ連軍の師団数を大きく掲示してはどうでしょう。来場者には非常に分かりやすい数字です」
ヴァイトリングは首を横に振った。
「数だけでは足りません」
ヒトラーも言った。
「しかも数字だけ大きくすると、客はそこしか見なくなる」
ヒムラーは少し黙った。
ヴァイトリングが地図を指した。
「部隊の数、装備、輸送能力。少なくともこの3つを並べる必要があるでしょう」
「では、3項目を同じ大きさで」
「内容によるだろう」
ヒトラーが言った。
「何でも同じ大きさにすればよいというものではない」
ヒムラーは手帳を開いたまま、少しだけ息を吐いた。
ヴァイトリングは茶を飲んだ。
その後、資料の照合はさらに続いた。
工業地帯の地図。
鉄道輸送能力。
軍事演習の記録。
周辺諸国の国境警備。
公開してよい資料と、軍内部の参考に留めるべき資料。
ホフマイスター大尉も時折口を挟み、軍から提供できる内容を確認した。
ヒトラーは、情報を伏せる必要がある部分については特に異議を唱えなかった。
ただし、伏せ方には注文をつけた。
「ここだけ空白にすると、かえって何かあると思わせます」
ホフマイスター大尉が答えた。
「では、その項目自体を外しますか」
「その方がよいでしょう。説明できない数字を見せて、客に想像させる必要はありません」
ヴァイトリングが頷いた。
「それで結構です」
一通りの確認が終わったところで、ヴァイトリングは応接間に掛けられた写真を見た。
「これは、ポルシェ博士の次期戦車案の写真ですな」
ヒトラーが顔を上げた。
「ええ。Ⅴ号戦車とⅥ号戦車のポルシェ博士案の模型を、どう展示するか請け負ったときの写真です」
ヴァイトリングは席を立ち写真を眺めた。
「こちらの事務所のお仕事でしたか」
「ご覧になったのですか」
「ええ。ベルリンへ出た折に国防省で各社の案を見せてもらいました」
写真には、新型戦車の模型と説明図が並んでいた。
Ⅴ号標準中戦車。
Ⅵ号重突破戦車。
設計案。
寸法図。
機構の説明。
そして模型の配置。
ヴァイトリングは写真を眺めた。
「よくできた展示でした」
ヒトラーの姿勢が少し変わった。
「そうでしょう」
「模型に加えて参考写真が整理され、違いが分かりやすかった。軍の資料展示というと、技術者が知っていることをそのまま並べるだけのものも少なくありませんが、ポルシェ博士の案は見る者のことを考えていました」
ヒトラーは少し胸を張った。
「私が決めたのですから、当然でしょう」
フランツが机の向こうで顔を伏せ笑みを堪えた。
ヴァイトリングは写真を戻した。
「もっとも、ポルシェ博士の新技術案については、ロンメル将軍も頭を悩ませておられるそうですな」
ヒトラーは興味を示した。
「実用審査の件ですか」
「ええ。構想は先進的ですが、現場でどう動かせるかという問題があります」
「博士の設計には、新しい考え方が多いですから」
「それだけに、整備や補給の側が追いつけるかどうかでしょう」
ヴァイトリングは資料の端を軽く叩いた。
「車両そのものが優秀でも、部品が届かなければ動きません。輸送できなければ、必要な場所へ行けません」
「ロンメル将軍は、その点を重視されていると」
「そう聞いています。戦車は工場の中だけで動くものではありませんからな」
ヒトラーは頷いた。
「それはポルシェ博士も承知しておられるでしょう。ただ、採用するかどうかは軍の判断です。私はポルシェ博士の案を、公平に比較できるように並べたまでです」
「そこがよかったのです」
ヴァイトリングは静かに言った。
「模型はどれも、すぐにでも動き出しそうに見えました」
「実際に走らせるのは、皆さんの仕事ですが」
ヴァイトリングは少しだけ笑った。
「それが一番難しいのですがね」
ヒムラーが時計を見た。
「では、そろそろ会場配置の確認へ移ってもよろしいでしょうか」
ヒトラーは頷いた。
「そうしましょう」
ユンゲが大判の会場配置図を運んできた。
紙を広げると、卓の半分が埋まった。
入口。
導入展示。
東方情勢の解説。
鉄道・工業資料。
軍事関係の展示。
講演用の区画。
出口。
それぞれの位置に、番号が振られている。
ヒムラーが説明を始めた。
「会場そのものの構成は、以前ご確認いただいた案を基本としております」
「そのようだな」
「ただし、後援団体から新しい提案がありました」
「何だ?」
「物販出店です」
ヒトラーが顔を上げた。
「物販?」
「はい。関連書籍、地図、軍事技術の解説書などを扱う業者です。それから模型類を扱う業者も、すでに参加を希望しています」
「模型?」
「軍用車両や航空機の完成品模型、それに木製模型や組み立て用の材料などです」
ヒトラーは配置図を見た。
会場入口から中央展示へ向かう通路の脇に、新しく区画が描き加えられていた。
物販。
そう書かれている。
「これは誰が決めたのだ」
「後援団体と出店希望者の意見をもとに、仮に置きました」
「入口から真正面に見える」
「人通りの多い場所ですから」
「それがいけない」
ヒトラーは図面を手元へ引いた。
ヒムラーが少し身を乗り出した。
「何か問題が?」
「ある。これでは客が入って最初に見るのが書籍と模型になってしまう」
「それも展示への関心を高める一つの方法では」
「関心を高めるのと、気を散らすのは違う」
ヒトラーは赤鉛筆を取った。
「客はまず、何の展示会なのか理解しなければならない。東方の地理、経済、軍事、そして欧州との関係。それを順番に見せるための会場だ」
赤鉛筆で物販区画に斜線を引いた。
「入口へ店を置いてどうする。これでは展示よりも出し物にばかり目が行く」
ヒムラーが言った。
「ただ、業者側は入口に近い場所を希望しておりまして」
「確かに物販としては希望するだろう。目立つからな」
「それでは」
「だが、ここは最後へ移す」
ヒトラーは会場配置図の出口付近を指した。
「ここだ」
赤鉛筆で四角を描いた。
そして入口から展示区画を順番に通り、出口へ至る線を引いていく。
「ここで東方情勢の概要を見せる。次に軍事資料。鉄道と工業の展示を通り、最後に講演関係の案内。その先に書籍や模型の売り場を置く」
フランツが横から図面を覗いた。
「ずいぶん奥になりましたね」
「買い物は展示を全部見てからでよい」
ヒムラーは図面を見た。
「しかし、それでは物販を目的に来た人も会場を通ることになります」
「展示会なのだから、展示を見てもらわなければ困る」
ヴァイトリングも図面を眺めた。
「途中で人が集まって通路を塞ぐよりは、よい配置でしょうな」
「そうでしょう」
ヒトラーは頷いた。
「しかも、見学の途中で買ったものを持ち歩かなくて済みます」
ヒムラーが顔を上げた。
「なるほど。それは業者にも説明しやすいですね」
「どういうことだ?」
「見学を終えた方が、帰り際に関連書籍や模型を購入できるわけですから」
「そういうことではない。私は展示の順序を守らせたいのだ」
「もちろんです」
ヒムラーは手帳へ書き込んだ。
ヒトラーはもう一度赤鉛筆で線を引いた。
「この通路は少し広げる。出口へ向かう人間と、売り場へ入る人間が交差しないようにする」
ヴァイトリングが図面を見た。
「これなら、来場者は最後に必ず売り場の前を通りますな」
「ええ」
ヒトラーは満足げに答えた。
「その前に、展示をすべてご覧いただけます」
「なるほど」
ヒムラーは配置図を見ながら頷いた。
「では、その案で出店業者へ通知しましょう」
「ただし、看板を必要以上に大きくさせないこと。展示会の中に別の展示会ができてしまう」
「承知しました」
「それから模型を並べる場合、種類ごとに整理するように。戦車と航空機を無秩序に積み上げるのは困る」
「その点も伝えます」
「値札も揃えるべきだ」
「値札までですか」
「当たり前だ。数字の大きさがばらばらでは、見る者が落ち着かん」
ヴァイトリングは少し横を向いて大尉と笑った。
フランツは下を向いた。
ヒムラーは手帳へまた一つ書き加えた。
やがて、打ち合わせは終わった。
資料は修正点ごとに分けられ、軍へ照会する項目と事務所側で直す項目が整理された。
ヴァイトリングは書類を鞄へ収めた。
「本日は有意義でした」
ヒトラーも立ち上がった。
「こちらこそ。軍事関係の数字については、引き続きご教示いただければ助かります」
「できる範囲で協力しましょう」
「ありがとうございます」
ヴァイトリングは机に残された原資料を一度見た。
「次は、こちらの様式で送っていただけますかな」
ヒトラーはすぐに頷いた。
「もちろんです。注釈の余白も、少し広げておきましょう」
「それはありがたい」
「今度は裏まで書き込まずに済むはずです」
ヴァイトリングは低い声で笑った。
「私の書き込みが多すぎなければ、ですがね」
一行は玄関へ向かった。
外ではキューベルワーゲンが待っていた。
運転手が扉を開ける。
ヒトラーはもう一度、角張った車体を眺めた。
「やはり、よくまとまっていますな」
ヴァイトリングが頷いた。
「便利な車です」
「ただし、この外観のまま民生車になったら、少し困ります」
「なぜです」
「毎朝、出勤するたびに軍へ召集されたような気分になるでしょう」
ヴァイトリングは少し考えた。
「確かに、それは困りますな」
ヒムラーが先に車へ乗り込んだ。
ヴァイトリングも後席へ入った。
ヒトラーは一歩下がった。
「お気をつけて、将軍」
「それでは。また」
エンジンがかかった。
キューベルワーゲンは軽い音を立て、通りへ出ていった。
ヒトラーはしばらく見送っていた。
フランツが横へ来た。
「将軍とは、うまくお話ができたようですね」
「当然だ。専門家だからな」
「所長も専門家ですから」
「それはそうだ」
ヒトラーは建物へ戻った。
応接卓には、赤鉛筆で修正された会場配置図が残っていた。
フランツがそれを丸めようとした。
「待て」
ヒトラーが止めた。
「まだ何か?」
「物販区画の看板だ」
「はい」
「ちゃんと大きさを指定しておけ。展示そのものより目立っては困る」
フランツは頷いた。
「分かりました」
ヒトラーは満足そうに図面を見た。
入口から始まり、出口へ向かう赤い線。
途中には、資料と模型、地図と数字。
そして最後に、小さな物販区画。
客はまず展示を見る。
それから出口へ向かう。
これなら、何のための展示会なのかを見失うこともないだろう。
ヒトラーは赤鉛筆を置いた。
「これでよい」
フランツは配置図を丸めた。
机の端では、ヒムラーが置いていった出店希望業者の一覧が、まだ開かれたままになっていた。
書籍。
地図。
木製模型。
金属製模型。
その下には、さらに数社の名前が書き加えられていた。
ヒトラーはそれを一瞥した。
「ずいぶん集まったものだな」
フランツが言った。
「出店する場所が決まれば、もっと増えるかもしれませんね」
「増やしすぎるなよ」
「ヒムラーさんに伝えておきます」
ヒトラーは頷いた。
「展示会なのだからな」
そして所長室へ戻った。
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