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終章、灯のほとりで、いつもの朝を

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/28 📚 シリーズ: 凪の彼方、灯のほとりで 📝 17,828文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。

本文

窓ガラスが、白く凍っていた。

朔夜は、毛布の中で目を覚まして、まず、その白さに気がついた。

カーテンの隙間から差し込む薄青い光の中で、窓の縁に、細かな氷の花が、いくつも咲いている。

指先でなぞったら、すぐに溶けてしまいそうな、繊細な結晶だった。

五時四十分。

起床の鐘が鳴る二十分前に、朔夜は、ぱちりと目を開けていた。

天井の木目が、淡い光の中に、ゆっくりと浮かび上がってくる。

節がひとつ、渦を巻くように黒ずんでいる。

目玉のような、あの節。

朔夜は、仰向けのまま、口の中だけで言った。

「おはよ」

目玉は、今朝も、何も言わなかった。

けれど、その沈黙は、もうずっと前から、冷たくなかった。

吐く息が、白い。

十一月の終わりの夜明け前は、山裾の寮舎を、澄んだ冷気で満たしている。

毛布の外へ出した指先が、じんと痺れた。

その痺れを、朔夜は、また、好きだと思えるようになっていた。

眠気の膜を、一枚ずつ剥がしてくれる冷たさ。

世界が、確かにここにあることを、教えてくれる冷たさ。

『サクヤ、おきてる?』

胸の奥から、小さな声が、ことりと響いた。

朔夜は、くすりと笑った。

「うん。おはよう、灯」

『おはよう!』

声が、弾んだ。

『ねえ、きょう、おやすみのひ?』

「そうだよ。日曜日」

『にちようび!』

灯は、その言葉を、まるで宝物のように、何度も口の中で転がした。

『にちようび、にちようび』

「気に入った?」

『うん。なんか、あったかいひびき』

「そっか」

朔夜は、胸に手を当てた。

そこに、確かに、小さな温もりがある。

もう、暴れる火ではなかった。

押さえつけるべき怪物でもなかった。

毎朝、おはようと言い合う、一番近くにいる友達。

「今日はね、いいことがあるよ」

『いいこと』

「お母さんが、来るの」

『おかあさん』

灯の声が、ふわりと、柔らかくなった。

『サクヤの、おかあさん』

「うん」

『わたしも、あいたい』

「会えるよ。わたしの中から、見てて」

『うん!』

朔夜は、毛布を跳ね上げた。

「ひゃっ」

冷気が、全身に噛みつく。

その声が、自分でもおかしくて、また、くすくすと笑ってしまった。

二段ベッドの下段で、毛布の山が、もぞもぞと動いた。

「……ん」

「あ、ごめん、起こしちゃった」

「ううん」

美月が、毛布の中から、ぽんと、顔を出した。

寝癖で、おさげがほどけて、ふわふわと広がっている。

眠そうな目をこすりながら、にっこりと笑った。

「おはよう、朔夜ちゃん」

「おはよう、美月ちゃん」

「今日、お母さんが来る日だよね」

「うん」

「どきどき、してる?」

「してる」

朔夜は、正直に答えた。

「心臓が、さっきから、とくとく言ってる」

「ふふ」

美月は、毛布をぎゅっと引き寄せて、微笑んだ。

「大丈夫だよ。朔夜ちゃんのお母さんなら、絶対、優しい人」

「うん」

「それにね」

「うん」

「朔夜ちゃんのお母さんが来るって聞いてから、わたし、お守り、もう一つ縫ったの」

「え」

美月は、枕の下から、小さな布の袋を取り出した。

淡い桃色の布。

縫い目は、あの最初のお守りよりも、ずっと整っていた。

「お母さんに、渡してもいいかな」

朔夜の目の奥が、じんと熱くなった。

「……うん」

声が、少しだけ、震えた。

「絶対、喜ぶよ」

「えへへ」

美月は、頬を赤くして、笑った。

*

廊下は、寒かった。

石の床が、素足の裏を、容赦なく刺してくる。

けれど、朔夜は、靴下を履かなかった。

この冷たさを、一歩ずつ、確かめるように歩きたかった。

壁には、額装された訓示が、掛かっている。

――『秩序は、美しさに先立つ』

朔夜は、その前で、ふと立ち止まった。

墨痕の太い、初代長官の文字。

最初は、よく分からなかった。

いまも、全部が分かったわけではない。

けれど、ほんの少しだけ、違って見える。

(秩序って、みんなが、安心して眠れること)

(美しさって、朝起きて、おはようって言えること)

(順番なんて、どっちでもいいけど)

(でも、安心して眠れなきゃ、朝は、綺麗に見えないから)

(だから、先、なのかな)

そう思って、朔夜は、小さく笑った。

「……あ、なるほど」

『なあに、サクヤ』

「ううん。独り言」

『えー、おしえて』

「あとでね」

洗面所の蛇口をひねる。

水が、管の奥でごぼりと鳴ってから、勢いよく流れ出した。

両手で受ける。

冷たい。

指の骨まで、凍みる。

その水を、顔に叩きつけた。

「ぷはあっ!」

頬が、じんと熱くなる。

まぶたの裏で、小さな火花が散る。

顔を上げると、曇った鏡の中に、少女がいた。

黒髪のボブカットが、寝癖で、右側だけ跳ねている。

頬が、ほんのり薔薇色に染まっている。

琥珀色の瞳が、薄暗い洗面所の中で、柔らかく輝いていた。

その奥に、ちらり、と、金色の光が瞬く。

灯が、鏡の中から、こちらを覗いているのだ。

朔夜は、鏡に向かって、にっと笑った。

「今日もよろしく」

そして、胸に手を当てて、続けた。

「灯も、今日もよろしくね」

『よろしく!』

灯の声が、明るく響いた。

『ねえ、サクヤ。かがみのなかの、わたし、みえる?』

「見えるよ。目の奥に、ちっちゃい金色の光」

『ふふ。ちゃんと、いるんだね』

「ちゃんと、いるよ」

朔夜は、鏡の中の自分に、小さく手を振った。

背後の廊下から、足音が近づいてきた。

ゆったりとした、迷いのない足取り。

床を踏む音が、ほとんど立たない。

朔夜は、顔を見る前から、その足音の主を言い当てられた。

「おはよう、朔夜ちゃん」

低く落ち着いた声が、耳の奥に、すとんと落ちた。

振り返ると、芹香が、洗面所の入口に立っていた。

紺の訓練服。

栗色の髪は、緩い三つ編みにして、肩の前に流している。

手には、湯気の立つマグカップが、二つ。

「おはよう、先輩」

「やっぱり、起きていたわね」

「なんで分かるの」

「毎朝、五時四十分に、水を最大まで出す人がいるもの」

「えっ、今日は、半分にしたのに」

「半分でも、管が鳴るのよ」

芹香は、くすくすと笑って、片方のカップを、朔夜に差し出した。

「はい。白湯に、蜂蜜」

朔夜は、両手で受け取った。

陶器の側面から、じわじわと熱が掌へ染み込んでくる。

顔を近づけると、ほのかな甘い香りが、鼻腔をくすぐった。

「……あったかい」

「でしょう」

「ありがと」

一口、飲む。

熱い液体が、喉を通って、胸の真ん中に落ちていく。

蜂蜜の甘さが、舌の奥に、ゆっくりと残った。

『わあ』

灯が、胸の奥で、小さく声を上げた。

『いま、なに、のんだの』

「白湯。蜂蜜入り」

『はちみつ!』

「甘い味」

『あまい!』

灯は、感動したように、ふうう、と長い息を吐いた。

『わたし、たべたこと、ない』

「じゃあ、今日は、いっぱい、食べさせてあげる」

『ほんと?』

「うん。おにぎりも、焼き芋も、お菓子も」

『おやつ!』

「そう、おやつ」

朔夜は、くすくすと笑った。

芹香が、その様子を、穏やかな目で見つめていた。

「灯さんと、お話ししていたの?」

「うん。灯、甘いのが気になるみたい」

「そう」

芹香は、柔らかく微笑んだ。

「それなら、後で、焼きたてのお菓子を、一緒に作りましょうか」

「え」

「調理員の方が、昨日、言っていたわ。『明日は、日曜だから、お菓子を焼こうね』と」

「やった!」

朔夜は、思わず、拳を握った。

その拍子に、マグカップの湯が、ちゃぷんと波打った。

「こぼれるわよ」

「あっ、ごめん」

「ふふ。朝から元気ね」

芹香は、朔夜の頭に、そっと掌を置いた。

跳ねた寝癖を、ふわりと押さえる。

「ほら、ここ。まだ、跳ねているわ」

「直したのに!」

「直っていないわ。じっとしていて」

朔夜は、素直に、動きを止めた。

芹香の顔が、すぐ近くにある。

長い睫毛の影が、頬に落ちている。

石鹸と、乾いた紙の匂い。

書庫の匂い。

それが、世界でいちばん安心する匂いだと、朔夜は、もう、よく知っていた。

細い指が、跳ねた髪を、丁寧に、ゆっくりと押さえつけていく。

「はい。これで、少しは、ましね」

「ありがと」

「どういたしまして」

芹香は、満足げに微笑んで、自分のマグカップに、口をつけた。

その仕草を見ながら、朔夜は、ふと、思った。

(この景色を)

(わたしは、ずっと、覚えていよう)

何気ない、朝の洗面所。

白い湯気。

温かい指。

こんな、小さなことが。

世界の、どんな大きな出来事よりも、愛おしい。

*

道場の引き戸は、重く、低く唸りながら、横へ滑った。

その途端に、匂いが来た。

長年染み込んだ汗の酸っぱさ。

樫の床板に擦り込まれた蝋の、重たく甘い匂い。

畳の乾いた草の匂い。

そして、今朝は、そこに、ほのかな、温かい人の気配が、満ちていた。

朔夜は、足を止めた。

道場は、ぎっしりだった。

十人どころではない。

二十人。

三十人。

寝間着の上に半纏を羽織った少女たち、制服の袖をまくった少女たち、髪をきゅっと結んだ少女たちが、壁際から壁際まで、整然と並んで、竹刀を振っていた。

ひゅ。

ひゅ。

ひゅ。

何十本もの竹刀が、一斉に、空気を切る。

その音が、道場の高い天井に反響して、柔らかな、澄んだ風の音楽になっている。

「あ、橘さん!」

最前列にいた佐伯が、竹刀を下ろして、駆け寄ってきた。

眼鏡の奥の目が、きらきらと輝いている。

「おはようございます!」

「おはよう! すごい人数!」

「みんな、来たいって言うんです」

佐伯は、頬を紅潮させて、後ろを振り返った。

「橘さんの朝練、毎日、人が増えて」

「えへへ、嬉しい」

「今日は、日曜なのに、全員、来ました!」

「全員って」

朔夜は、道場を見回した。

見覚えのある顔が、いくつもあった。

食堂で、目を逸らした子。

廊下の角で、息を詰めた子。

窓から、手を振り返してくれた子。

その全員が、笑顔で、朔夜に手を振っていた。

「……ありがとう」

朔夜の声が、少し震えた。

「みんな、ありがとう」

「いえ」

佐伯は、はにかんで首を振った。

「私たちが、来たいんです」

その隣で、中村と高橋が、竹刀を掲げて、にっこりと笑っている。

朔夜は、胸がいっぱいになって、ただ、頷いた。

「おねえちゃーん!」

小さな声が、道場の奥から、響いた。

朔夜は、顔を上げた。

壁際の、一番隅に。

小さな、白銀の髪の子供が、ちょこんと立っていた。

浅い藍色の、小さな稽古着。

手には、少女たちの竹刀よりも、ずっと短い、子供用の木刀を握っている。

あまねだった。

その左右の瞳が、琥珀色と銀青色に、きらきらと輝いている。

左の琥珀色の瞳は、もう、濁っていなかった。

澄み切った、あたたかな金色が、朝の光を映して、柔らかく揺れている。

「あまねくん!」

「おねえちゃん、みて、みて!」

あまねは、木刀を、頭の上に振りかぶった。

そして、全身を使って、えいっと振り下ろした。

ぶん。

ぶんぶん。

木刀が、よたよたと空を切る。

重さに引きずられて、小さな身体が、ぐらぐらと揺れた。

「わっ、わっ」

あまねは、尻餅をつきかけて、慌てて足を踏ん張った。

その背中を、横から、大きな手が、そっと支えた。

濃紺の教官服の袖。

銀縁の眼鏡。

鬼塚教官だった。

「……握りが、浅い」

低い声が、道場に響いた。

けれど、その声は、いつもよりも、ずっと柔らかかった。

「え」

「手を貸せ」

鬼塚は、あまねの後ろにしゃがみ込んで、小さな両手の上から、木刀の柄を包み込んだ。

その指が、あまねの指を、一本ずつ、丁寧に、正しい位置へ導いていく。

「ここだ。小指と薬指で、締める」

「こう?」

「そうだ。人差し指と親指は、添えるだけ」

「そえるだけ」

「振ってみろ」

あまねは、木刀を、ゆっくりと振り上げた。

そして、振り下ろす。

ひゅっ。

さっきよりも、ずっと鋭い、澄んだ音が響いた。

あまねの目が、ぱあっと輝いた。

「できた!」

「ああ」

「おにづかせんせい、すごい!」

その呼び方に、鬼塚の肩が、ぴくりと震えた。

眼鏡の奥の瞳が、わずかに泳ぐ。

「……先生では、ない」

「えー、でも、おしえてくれたから」

「…………」

「せんせいだよ」

鬼塚は、数秒、黙っていた。

それから、ふい、と顔を背けた。

けれど、その耳の先が、真っ赤に染まっているのを、朔夜は、見逃さなかった。

「……好きに、呼べ」

「やった!」

あまねは、嬉しそうに、鬼塚の袖を、きゅっと握った。

壁際で、少女たちが、くすくすと笑った。

その笑い声が、柔らかく、道場の空気を揺らした。

朔夜も、堪えきれずに、吹き出した。

隣で、芹香が、口元を押さえて、肩を震わせている。

「鬼塚先生、さっそく、お孫さん、ができたみたいね」

「聞こえているぞ、一条」

「あら」

「……何でもない」

鬼塚は、咳払いをして、立ち上がった。

けれど、あまねの小さな手を、握ったまま、離さなかった。

そのとき。

道場の入口で、遠慮がちな、咳払いの音がした。

「……失礼する」

朔夜は、振り返った。

引き戸の脇に、灰色の髪の男が、立っていた。

濃い藍色の制服ではなかった。

質素な、紺のセーターに、薄い茶色のコート。

その手には、小さな、毛糸の帽子が、握られている。

参事官だった。

けれど、その姿は、会議室で見た、冷たい男とは、まるで別人のようだった。

肩の力が抜けて、眼窩の奥の瞳が、柔らかく緩んでいる。

「あ、おじちゃん!」

あまねが、ぱっと顔を輝かせて、駆け寄った。

「きた!」

「ああ。約束だからな」

参事官は、ぎこちなく、しゃがみ込んだ。

そして、毛糸の帽子を、あまねの頭に、ぽすりと被せた。

「寒いだろう。これを」

「わあ、あったかい!」

帽子は、淡い藍色で、てっぺんに、小さな白いぽんぽんがついている。

あまねは、帽子の縁を引っ張って、嬉しそうに、くるくると回った。

「にあう?」

「……ああ。似合う」

「えへへ」

「私が、編んだ」

その一言に、道場が、しんと静まった。

少女たちが、一斉に、目を丸くした。

参事官は、しまった、という顔で、口を押さえた。

「……いや、その、教えてもらいながら」

「教えてもらいながら」

芹香が、にっこりと、問い返した。

「どなたに」

「…………調理員の、方に」

道場が、爆発した。

少女たちが、一斉に、お腹を抱えて笑い出した。

「参事官が、編み物!」

「ぽんぽんまで!」

「かわいい!」

参事官は、真っ赤になって、咳払いを繰り返した。

けれど、その唇が、確かに、微笑んでいた。

朔夜は、笑いすぎて、涙が出てきた。

「参事官、似合ってます、毛糸」

「橘訓練生、からかうな」

「からかってないです。嬉しいんです」

「…………」

参事官は、観念したように、肩を落とした。

そして、あまねの小さな手を握って、道場の中へ、一歩、足を踏み入れた。

草履を脱いで、床板に上がる。

その足が、わずかにためらった。

けれど、あまねが、くいくいと手を引いて、導いた。

「だいじょうぶ。ここ、あったかいよ」

「…………ああ」

参事官は、樫の床の上に、静かに立った。

そして、深く、息を吸った。

蝋の匂い。

汗の匂い。

畳の匂い。

「……いい匂いだな」

「でしょ」

朔夜が、にっと笑った。

「みんなの、朝の匂いです」

参事官は、何も言わずに、ただ、頷いた。

その目が、うっすらと、潤んでいた。

*

打ち込みの時間になった。

朔夜は、腰の後ろから、二本のトンファーを引き抜いた。

入寮のときから握り続けてきた、あの樫のトンファー。

握りの黒ずんだ艶。

木肌に走る、無数の傷。

その一本一本に、いつ、どこで、誰と打ち合って付いた傷なのか、朔夜は、大抵、覚えている。

けれど、最近、その傷の中に、新しいものが、増えていた。

霖ヶ谷の鳥居の下で。

旧療養棟の庭で。

小さな、細い、けれど確かな傷。

朔夜は、それを、親指で、そっと撫でた。

「じゃあ、佐伯さん、一本いこう」

「はいっ!」

佐伯が、竹刀を構えた。

眼鏡の奥の瞳が、静かに、凪いでいる。

朔夜と出会ったばかりの頃の、怯えた震えは、もう、どこにもなかった。

朔夜は、トンファーを逆手に持って、腕に沿わせた。

足幅を、肩より少し広く。

膝を、わずかに折って。

「いつでも、いいよ」

「いきます!」

佐伯が、踏み込んだ。

ひゅっ。

鋭く、無駄のない、真っ直ぐな一撃だった。

朔夜は、半歩、左へ滑って、受け流した。

ぱん。

乾いた、小気味よい音。

けれど、その直後、佐伯の竹刀が、手首のしなりで、軌道を変えた。

朔夜の脇腹を、狙ってくる。

「おっ」

朔夜は、反射的に、身体を捻った。

けれど、わずかに、間に合わなかった。

竹刀の先が、制服の布を、ぽん、と掠めた。

「当たった!」

佐伯が、目を見開いた。

「当たりました!」

「うん、当たったね」

朔夜は、目を丸くして、それから、満面の笑みを浮かべた。

「すごい! いつの間に」

「毎日、二百回、振りました」

「えらい!」

「橘さんが、帰ってきたら、一本、取るって、約束したので」

「約束、守ったね」

「はい!」

佐伯の瞳から、涙が一粒、零れた。

けれど、その顔は、満面の笑みだった。

道場に、歓声が上がった。

「佐伯さん、すごい!」

「取った!」

「橘さんから、一本!」

朔夜は、笑いながら、両手を広げた。

「みんなも、挑戦していいよ!」

「えっ、いいんですか!」

「うん。順番ね、順番!」

「はーい!」

少女たちが、わあっと、列を作った。

その賑やかな喧騒の中で、朔夜は、一人ずつ、打ち込みを受けていった。

ぱん、ぱん、と、乾いた打撃音が、道場に響く。

汗が、額を伝う。

頬が、火照る。

けれど、その熱が、胸の奥の灯を、ふんわりと温めていた。

『サクヤ』

灯が、囁いた。

『たのしい』

「うん」

『わたしも、これ、すき』

「でしょ」

朔夜は、トンファーを振りながら、心の中で、にっと笑った。

壁際で、芹香が、腕を組んで、静かに見守っていた。

その視線が、背中に、じんわりと温かい。

その隣で、あまねが、鬼塚と参事官の間に挟まれて、小さな木刀を、一生懸命に振っている。

「いち、にい、さん!」

「手首を、柔らかく」

「こう?」

「ああ、それでいい」

「おじちゃんも、やって、やって!」

「……私が、か」

「うん!」

参事官は、観念したように、あまねから、小さな木刀を受け取った。

そして、おそるおそる、振り上げた。

ぶん。

あまりにも、不器用な、へっぴり腰の一振り。

少女たちが、一斉に、くすくすと笑った。

「……笑うな」

「ごめんなさい!」

「でも、参事官、かわいい!」

「…………」

参事官は、咳払いをして、もう一度、振った。

ぶん。

今度は、少しだけ、ましになっていた。

「おお、うまくなった!」

あまねが、手を叩いて喜んだ。

「おじちゃん、すごい!」

「……そうか」

参事官は、頬を緩めて、小さく笑った。

その横顔を見て、鬼塚が、わずかに、口元を持ち上げた。

「……意外と、筋は、悪くないかもしれん」

「本当ですか」

「ああ。毎朝、来ればいい」

「…………」

参事官は、目を瞬いた。

それから、ふっと、息を吐いた。

「……そうさせて、もらおう」

朝の光が、高窓から斜めに差し込んで、道場の床に、長い、金色の筋を落としていた。

その光の中を、埃が、きらきらと舞っている。

何十本もの竹刀の音。

笑い声。

誰かの、元気な掛け声。

朔夜は、それらの全てを、胸いっぱいに吸い込んで、大きく、笑った。

*

食堂の厨房の窓は、朝から、白い湯気で曇っていた。

甘い匂いが、廊下にまで、漂っていた。

バターと、砂糖と、焼いた林檎の、温かい香り。

朔夜が、食堂の扉を押し開けたとき、鼻先を、その香りが、ふわりと撫でた。

「わあ……」

思わず、声が漏れた。

厨房の奥から、割烹着姿の丸顔の調理員が、顔を覗かせた。

頬が、小麦粉で、ほんのり白くなっている。

「あら、朔夜ちゃん! いいところに来たね!」

「おばさん、いい匂い!」

「焼きたての、林檎のパイだよ。もうすぐ、出来上がるからね」

「やった!」

朔夜は、厨房の中へ、ひょいと入った。

大きな作業台の上に、粉と、バターと、薄切りの林檎が、きれいに並べられている。

その傍らで、美月が、エプロンをつけて、真剣な顔で、生地を伸ばしていた。

「朔夜ちゃん!」

「美月ちゃん、お菓子作り?」

「うん。調理員さんに、教えてもらってるの」

「すごい」

美月は、照れ臭そうに、頬を染めた。

「これ、お母さんにも、食べてもらおうと思って」

「え」

「朔夜ちゃんのお母さんに。初めて来る日だから」

朔夜は、胸が、じんと熱くなった。

「……ありがとう」

「ううん。わたしが、したいの」

美月は、にっこりと笑った。

その隣で、あまねが、小さな踏み台に乗って、生地の端を、ちょんちょんと突いている。

「ぼくも、てつだう!」

「あまねちゃんは、あっちで、林檎に、お砂糖をまぶす係ね」

「やった!」

あまねは、小さな両手で、薄切りの林檎を一枚ずつ、砂糖の入ったボウルへ、ぽとぽとと落としていった。

その顔が、真剣そのものだった。

朔夜は、その光景を眺めながら、ふと、胸の奥が、ゆっくりと満たされていくのを感じた。

(……ここは)

(本当に、あったかい)

あの、冷たい雨の谷で、ひとりきりで四十年を過ごした子が。

いま、ここで、砂糖まみれになって、笑っている。

それだけで、あの日の全てが、報われた気がした。

「ほら、朔夜ちゃんも、手伝いな」

調理員が、エプロンを、ぽんと投げてよこした。

「あんたは、おにぎりを握る係だよ」

「おにぎり」

「お母さんにも、食べてもらうんだろう」

朔夜の目が、大きく見開かれた。

「……いいの?」

「いいに決まってるさ。あんたが握ったおにぎりを、お母さんは、きっと、一番喜ぶよ」

「うん……!」

朔夜は、エプロンをつけて、手を、丁寧に洗った。

水が、冷たい。

けれど、心は、温かかった。

炊きたての白いご飯が、大きな釜から、ほかほかと立ち昇っている。

しゃもじで、茶碗によそう。

手に塩をつけて、ご飯を、ふんわりと握る。

熱い。

指の腹が、じんじんと痺れる。

けれど、その熱が、嬉しかった。

焼き鮭の身を、真ん中に入れる。

三角に、きゅっ、きゅっ、と整える。

黒い海苔を、帯のように巻く。

「……できた」

掌の上に、白い三角のおにぎりが、ちょこんと載っていた。

少し、いびつ。

右の角が、潰れている。

けれど、その不格好さが、朔夜には、世界で一番、愛おしく見えた。

『わあ』

灯が、胸の奥から、嬉しそうな声を上げた。

『サクヤの、おにぎり』

「うん」

『おいしそう』

「食べてみる?」

『え、たべられるの』

「わたしが食べたら、灯にも、味が分かるよ」

『ほんと!』

朔夜は、おにぎりの端を、ひと口、齧った。

米の甘み。

塩気。

鮭の旨み。

それが、口いっぱいに広がっていく。

『……わあ』

灯が、ふうう、と、感動のため息を漏らした。

『おいしい』

「でしょ」

『これが、おにぎり』

「そう。これが、おにぎり」

『わたし、いま、しあわせ』

その一言に、朔夜は、笑った。

涙が、ほんの少しだけ、滲んだ。

「うん」

「わたしも」

*

正午を、少し過ぎた頃。

寮舎の正門の前に、一台の黒い車が、静かに停まった。

朔夜は、門の内側の砂利の上に、立っていた。

銀杏の並木は、すっかり葉を落として、黄金色の絨毯が、石畳の上に厚く敷き詰められている。

その上を、冷たい風が、さらさらと渡っていく。

芹香が、隣に立っていた。

肩にショールを掛けて、穏やかな表情で、車を見つめている。

反対側に、あまねが、毛糸の帽子を被って、朔夜の手を、ぎゅっと握りしめていた。

「……きた」

「うん」

「どきどき、する?」

「する」

朔夜は、正直に答えた。

「手が、冷たい」

「ええ」

芹香が、そっと、朔夜のもう片方の手を、握った。

温かい。

「私が、いるわ」

「うん」

「ぼくも、いる」

あまねが、胸を張った。

「ぼくが、おねえちゃんの、ひだりのて」

「ふふ。ありがとう」

車の扉が、静かに開いた。

最初に降りたのは、運転席の男だった。

あの、疲れた顔の、優しい運転手だった。

彼は、後部座席の扉に回って、うやうやしく、それを開いた。

そして、一人の女性が、ゆっくりと、車から降りてきた。

小柄な人だった。

細い、柔らかい身体。

肩までの黒髪に、ところどころ、白いものが混じっている。

淡い灰色のコートを羽織り、両手で、小さな布の包みを抱えている。

その顔が、ゆっくりと、こちらを向いた。

朔夜の呼吸が、止まった。

あの、病室の雨の夜に見た、涙に濡れた顔。

十八年の歳月が、その顔に、静かな皺を刻んでいる。

けれど、その瞳の形。

その、優しい、少し下がった目尻。

朔夜と、そっくりだった。

「…………」

女性は、立ち尽くしていた。

唇が、震えている。

何かを言おうとして、言葉にならない。

朔夜も、動けなかった。

足が、砂利に縫いつけられたように。

「……朔夜」

最初に声を発したのは、女性のほうだった。

か細い、掠れた、けれど、確かに、あの夜と同じ声だった。

その声が、朔夜の名前を呼んだ瞬間、朔夜の胸の奥で、何かが、決壊した。

「……おかあ、さん」

声が、震えた。

そして、足が、勝手に、動いた。

駆け出していた。

砂利を蹴って。

銀杏の葉を、踏みしめて。

息が、苦しい。

涙で、視界が滲む。

けれど、止まらなかった。

女性も、駆け出していた。

両腕を、大きく広げて。

二人の身体が、門と車の間の、黄金色の絨毯の上で、ぶつかった。

「朔夜……朔夜……!」

「おかあさん……!」

強く、強く、抱きしめ合った。

細い腕が、朔夜の背中に、しっかりと回されている。

その腕が、震えていた。

温かい。

驚くほど、温かい。

「……大きくなって」

母の声が、耳元で、嗚咽に溶けた。

「こんなに、大きく」

「うん」

「ごめんね。ごめんね」

「ううん」

「ずっと、会えなくて」

「ううん、ううん」

朔夜は、首を横に振り続けた。

涙が、頬を伝って、母の肩に、ぽたぽたと落ちた。

「会えたよ」

「…………」

「いま、会えた」

「…………ええ」

母は、朔夜の髪に、頬を押しつけた。

その手が、朔夜の黒髪を、ゆっくりと、何度も、何度も、撫でた。

「……朔の夜に、生まれたのよ」

「うん。知ってる」

「元気に、育ってね、って」

「うん」

「ちゃんと、育ったね」

「うん……うん……!」

朔夜は、母の胸に、顔を埋めた。

石鹸と、陽だまりと、ほんのりと、薬草の匂いがした。

幼い頃、確かに、ずっと昔に、この匂いの中で眠っていた気がした。

胸の奥で、灯が、そっと、囁いた。

『サクヤ』

『よかったね』

朔夜は、頷いた。

声に出さずに、何度も。

しばらくの間、二人は、そのまま、動かなかった。

風が、銀杏の葉を、さらさらと巻き上げた。

黄金色の葉が、二人の周りを、ふわりと舞った。

やがて、母が、そっと、体を離した。

朔夜の両頬を、両手で包んで、じっと、顔を見つめた。

「……見せて」

「うん」

「ああ」

母の目から、また、涙が溢れた。

「あの人に、そっくり」

「あの人」

「あなたの、お父さん」

朔夜は、目を瞬いた。

「お父さん」

「ええ」

母は、涙の中で、微笑んだ。

「今度、ゆっくり、話すわね」

「……うん」

「あなたが、どんなに、愛されて、生まれてきたか」

朔夜は、また、涙が溢れた。

その背後で、砂利を踏む足音が、近づいてきた。

「…………あの」

控えめな、柔らかな声。

芹香だった。

あまねの手を引いて、少し離れたところで、立ち止まっている。

灰茶色の瞳が、潤んでいた。

母が、顔を向けた。

「あなたが」

「はい」

「一条、芹香さん」

「……はい」

芹香は、少し緊張した顔で、背筋を伸ばした。

母は、朔夜から、ゆっくりと手を離して、芹香の前へ歩み寄った。

そして、深く、深く、頭を下げた。

「娘が、お世話になっております」

「いえ、そんな」

芹香は、慌てて、手を振った。

「私のほうこそ」

「いいえ」

母は、顔を上げた。

その目に、あたたかな光が宿っていた。

「話は、全て、伺いました」

「…………」

「あなたが、朔夜を、何度も、止めて、守ってくれたこと」

「…………」

「そして、朔夜を、本当に、大切にしてくれていること」

芹香の頬が、みるみる、赤く染まった。

「……お母様」

「ありがとう」

母は、芹香の手を、そっと取った。

「あの子の、お母さんになってくれて」

芹香の目から、涙が、ぽろりと零れた。

「……私は」

声が、掠れた。

「私は、ただ」

「ええ」

「あの子の、そばに、いたかっただけです」

「それが、何よりの、贈り物よ」

母は、微笑んだ。

その笑顔が、あまりにも温かくて、芹香は、堪えきれずに、嗚咽を漏らした。

朔夜は、その光景を、涙で滲んだ目で、見つめていた。

(……先輩)

(お母さんに、お母さんって、言われた)

その嬉しさが、胸を締めつけた。

「あのね」

母が、いたずらっぽく、微笑んだ。

「少し、残念だわ」

「え」

「私の役目を、あなたに、取られてしまったから」

芹香が、目を丸くした。

それから、耳まで、真っ赤になった。

「そ、そんな、取るなんて」

「ふふふ」

「お母様、からかわないでください」

「ごめんなさいね。でも」

母は、朔夜のほうへ、振り返った。

「これからは、二人で、分け合いましょう」

「…………」

「あの子を、愛する役目を」

芹香は、涙を拭いながら、微笑んだ。

「……はい」

「喜んで」

朔夜は、駆け寄って、二人の間に、飛び込んだ。

母の腕と、芹香の腕が、同時に、朔夜を包み込んだ。

温かい。

温かい。

世界で一番、温かい場所だった。

「……あのう」

小さな声が、足元から、聞こえた。

朔夜は、顔を上げた。

あまねが、毛糸の帽子の下から、じっと、母を見上げていた。

「おねえちゃんの、おかあさん?」

「ええ」

母は、膝を折って、あまねと、目線を合わせた。

「あなたが、あまねくんね」

「うん」

「朔夜から、聞いたわ」

「…………」

「あなたが、朔夜を、助けてくれたって」

「ううん」

あまねは、首を振った。

「おねえちゃんが、ぼくを、たすけてくれたの」

「そう」

母は、あまねの頬に、そっと手を添えた。

「二人とも、強い子ね」

あまねの顔が、ぱっと、赤くなった。

それから、おずおずと、ポケットから、淡い光る貝殻を取り出した。

「あのね、これ」

「まあ」

「おかあさんが、くれたの。むこうの、おとが、きこえる」

あまねは、貝殻を、母の耳へ、そっと当てた。

母は、目を閉じて、耳を澄ませた。

さらさら、と、波の音。

微かな、遠い歌声。

母の目が、ゆっくりと、潤んだ。

「……きれい」

「でしょ」

「海の、音」

「うん。ぼくの、おかあさんの、いるところ」

「…………」

母は、あまねを、ぎゅっと抱きしめた。

「素敵な、お母さんね」

「うん!」

「あなたも、素敵な子よ」

あまねは、嬉しそうに、母の肩に、顔を埋めた。

その光景を、少し離れたところから、灰色の髪の男が、静かに見つめていた。

参事官だった。

車の脇に、直立不動で立っている。

その顔が、ひどく強張っていた。

母が、ゆっくりと、振り返った。

目が、合った。

数秒の沈黙。

参事官は、深く、頭を下げた。

「……お久しぶりです」

声が、掠れた。

「十八年ぶりに」

「…………ええ」

母の声は、静かだった。

けれど、その静けさの底に、何かが、揺れていた。

「あなたを、許したわけでは、ありません」

「承知しております」

「それでも」

母は、一歩、前へ出た。

「朔夜を、守ってくださったことは、知っています」

「…………」

「そして、いま、あの子を、返してくださったことも」

参事官の肩が、小さく震えた。

「……私には、もったいない、お言葉です」

「だから、お願いがあります」

「何なりと」

「毎月、朔夜に、会わせてください」

参事官は、顔を上げた。

その目に、大粒の涙が、一杯に溜まっていた。

「……はい」

「それから」

「はい」

「あなたも、時々、朔夜の顔を、見に来てあげて」

「…………」

「あの子は、きっと、喜びます」

参事官は、もう、言葉にならなかった。

ただ、何度も、何度も、頷いた。

涙が、頬を伝って、地面に落ちた。

朔夜は、その光景を、胸の奥に、深く、深く、刻みつけた。

(……みんな)

(みんな、ほどけたんだ)

長い間、固く結ばれていたものが。

ひとつ、またひとつ、やさしく、ほどけて。

陽だまりの中へ、溶けていく。

*

昼食は、食堂の一番大きな丸いテーブルで、みんなで囲んだ。

白い湯気の立つ、味噌汁。

焼き鮭。

卵焼き。

大根おろし。

そして、大皿に山盛りの、おにぎり。

その中央に、朔夜が握った、少しいびつな三角のおにぎりが、ちょこんと載っていた。

「いただきます」

全員で、手を合わせた。

母が、朔夜の握ったおにぎりを、そっと手に取った。

ひと口、齧る。

ゆっくりと、咀嚼する。

その目が、潤んだ。

「……おいしい」

「ほんと?」

「ええ。とても」

母は、微笑んだ。

「あの子が、握ってくれたのね」

「うん。ちょっと、形が」

「ううん、完璧よ」

母は、おにぎりを、愛おしそうに、両手で包んだ。

「世界で、一番」

朔夜は、真っ赤になって、俯いた。

『サクヤ、かお、あかい』

(うるさい、灯)

『えへへ』

その二人のやりとりを、芹香が、隣で、くすくすと笑いながら、見ていた。

テーブルの向こうでは、美月が、佐伯たちと並んで、焼き林檎のパイを、切り分けていた。

甘い香りが、湯気に混じって、食堂中に広がっている。

「はい、お母様、どうぞ」

「まあ、ありがとう」

「わたしが、焼きました」

「あなたが」

「はい。朔夜ちゃんの、同室の、美月です」

母は、パイを一口、口に運んだ。

さくり、と、軽やかな音。

バターの香りと、林檎の甘酸っぱさが、口いっぱいに広がる。

母は、目を閉じて、じっくりと味わった。

「……優しい、味」

「…………」

「あなたの、心の味ね」

美月は、頬を真っ赤にして、俯いた。

その手の中の、小さな桃色のお守りが、ぎゅっと握りしめられている。

「あの」

「なあに」

「これ」

美月は、おずおずと、お守りを差し出した。

「朔夜ちゃんのお母さんに、渡したくて」

母は、お守りを受け取って、掌の上で、そっと眺めた。

縫い目は、小さくて、丁寧で、ほんの少しだけ歪んでいる。

「……手縫い?」

「はい。下手ですけど」

「いいえ」

母は、お守りを、胸に抱きしめた。

「世界で、一番、温かいお守りだわ」

美月の目から、涙が、ぽろぽろと零れた。

朔夜も、鼻の奥が、つんとした。

食堂の隅で、鬼塚が、眼鏡を外して、目頭を押さえていた。

その隣で、白髪の老人が、湯呑みを持って、にこにこと笑っている。

厨房の窓口では、割烹着姿の丸顔の調理員が、腕組みをして、満足げに頷いていた。

その目が、真っ赤だった。

笑い声が、あちこちから、響いてくる。

食器の触れ合う音。

椅子の軋み。

窓の外の、風の音。

その全てが、混じり合って、一つの、穏やかな、愛おしい音楽になっていた。

朔夜は、その音楽の中に、静かに、身を委ねた。

胸の奥の灯が、ふわり、ふわりと、嬉しそうに揺れていた。

*

午後の光は、低く、金色に傾き始めていた。

母が、帰る時間になった。

正門の前で、朔夜は、母と向かい合った。

「また、来るわね」

「うん」

「来月の、第一日曜日」

「うん。待ってる」

「お手紙も、書くわ」

「わたしも、書く」

「ええ」

母は、朔夜の頬に、そっと、口づけた。

乾いた、柔らかい、温かい唇。

「いってらっしゃい」

「え」

「毎朝、そう言いたかったの」

母は、微笑んだ。

「十八年分、言わせてね」

朔夜は、こらえきれずに、母に抱きついた。

「……いってきます」

「ええ」

「いってきます、おかあさん」

「いってらっしゃい、朔夜」

二人は、もう一度、強く、抱きしめ合った。

やがて、母は、車に乗り込んだ。

扉が、閉まる。

窓が、静かに降りる。

母が、窓から手を伸ばして、朔夜の手を、ぎゅっと握った。

「元気で」

「うん」

「また、すぐに」

「うん!」

車が、ゆっくりと動き出した。

母の手が、するりと離れていく。

朔夜は、車の後ろを、数歩、歩いて、立ち止まった。

そして、大きく、手を振った。

「ばいばーい!」

車の窓から、母の手が、ひらひらと振られている。

その手が、銀杏の並木の向こうへ、遠ざかっていく。

朔夜は、見えなくなるまで、手を振り続けた。

黄金色の落ち葉が、風に舞って、朔夜の肩に降り積もる。

車の音が、遠くの山の向こうへ消えていった。

静寂が、降りた。

けれど、それは、寂しい静寂ではなかった。

虫の声が、足元で、微かに聞こえた。

風の音が、木の枝を、優しく揺らした。

遠くの山の稜線が、淡い茜色に縁取られ始めている。

朔夜は、ゆっくりと、手を下ろした。

涙が、頬を伝っていた。

けれど、その顔は、晴れやかだった。

「……行っちゃった」

「ええ」

隣で、芹香が、静かに頷いた。

「でも、また、来月ね」

「うん」

「それまで、手紙を書きましょうか」

「うん!」

朔夜は、くるりと振り返って、芹香に抱きついた。

「ありがとう、先輩」

「あら」

「先輩がいてくれたから、わたし、お母さんに会えたんだよ」

「それは、違うわ」

芹香は、朔夜の背中を、ぽんぽんと撫でた。

「あなたが、自分で、掴んだのよ」

「えへへ」

「でも」

「でも?」

「ありがとうと言われるのは、嬉しいわ」

芹香は、柔らかく笑った。

*

夕暮れの旧療養棟の縁側は、橙色の光に、染まっていた。

杉木立の影が、長く伸びて、縁側の板に、縞模様を描いている。

朔夜は、縁側に腰を下ろして、毛布を肩から掛けていた。

その隣に、芹香が、湯呑みを両手で包んで、座っている。

縁側の奥の、障子の向こうの和室では、あまねが、布団の中で、すうすうと寝息を立てていた。

一日中、はしゃぎ回って、疲れ果てたのだろう。

枕元には、あの、淡い光る貝殻が、そっと置かれている。

耳を澄ますと、微かに、波の音が、聞こえてくる気がした。

「……疲れた」

朔夜が、ぽつりと言った。

「今日は、いろんなことが、あったから」

「ええ」

「でも、嬉しい疲れ」

「そうね」

芹香は、湯呑みを、縁側の板に、そっと置いた。

「手を、出して」

「ん?」

朔夜が、右手を出すと、芹香が、その手を、掌で包み込んだ。

細くて長くて少し乾いて、温かい指。

「冷たいわ」

「あ、ほんと?」

「ずっと、外にいたから」

芹香は、朔夜の手を、両手で、ゆっくりと擦った。

指の一本一本を、丁寧に。

血が、巡っていく。

じんわりと、指先が、温まっていく。

「……気持ちいい」

「でしょう」

「先輩の手、魔法みたい」

「それは、気のせいよ」

「気のせいでも、いいの」

「……ふふ」

芹香は、小さく笑った。

それから、傍らの小さな籠から、橙色の蜜柑を、一つ、取り出した。

爪を立てて、皮を、くるくると剥いていく。

柑橘の爽やかな香りが、冷たい空気の中に、ふわりと広がった。

「はい」

「え」

「あーん」

「ええっ」

朔夜は、顔を赤くした。

「自分で、食べられるよ」

「いいから」

芹香は、蜜柑の房を一つ、朔夜の口元へ運んだ。

灰茶色の瞳が、悪戯っぽく細められている。

「今日は、特別な日でしょう」

「…………」

「お母さんに、再会した日。ちょっとくらい、甘やかしてもいいじゃない」

朔夜は、観念して、口を開けた。

蜜柑の房が、そっと舌の上に置かれる。

噛むと、じゅわ、と、甘酸っぱい果汁が弾けた。

「……おいしい」

「でしょう」

『わあ』

灯が、胸の奥で、感嘆の声を上げた。

『すっぱい! あまい!』

「でしょ」

『これも、すき!』

「灯、何でも好きだね」

『だって、ぜんぶ、はじめてだから』

その声が、あまりにも無邪気で、朔夜は、堪えきれずに笑った。

「灯、すっごく嬉しそう」

「そうなの?」

芹香が、微笑んで尋ねた。

「うん。『すっぱい! あまい!』って、さっきから、大騒ぎ」

「ふふ」

「灯、先輩にも、ありがとうって」

「あら」

芹香は、少し、目を見開いた。

それから、そっと、朔夜の胸のあたりに、掌を当てた。

「どういたしまして」

声が、柔らかく、優しかった。

「これからも、朔夜ちゃんと、仲良くしてあげてね」

『うん!』

灯の声が、弾んだ。

『せりかおねえちゃん、だいすき!』

「…………」

朔夜は、通訳した。

「『せりかおねえちゃん、だいすき』だって」

芹香の目から、涙が、ぽろりと零れた。

「……私も」

声が、掠れた。

「大好きよ」

三人は、しばらく、黙って、夕暮れの空を見ていた。

橙色の光が、少しずつ、薔薇色に、そして、淡い紫へと、移ろっていく。

遠くの山の稜線が、墨のように、黒く、くっきりと浮かび上がる。

その上に、一番星が、きらりと瞬いた。

朔夜は、その星を、じっと見つめた。

そして、ぽつりと言った。

「……ねえ、先輩」

「なあに」

「わたし、前は、自分のこと、兵器だと思ってたの」

「…………」

「みんなに、そう言われて」

「ええ」

「それが、自分の価値なんだって、思ってた」

芹香は、何も言わずに、朔夜の話を、聞いていた。

「でもね」

朔夜は、毛布の端を、ぎゅっと握った。

「いまは、違う」

「…………」

「わたしは、ただの、橘朔夜」

「ええ」

「お母さんの子供で、先輩の後輩で、あまねくんの、おねえちゃんで」

「ええ」

「佐伯さんたちの、朝練仲間で、美月ちゃんの、同室で」

朔夜の声が、少しずつ、震え始めた。

「そんなふうに、いろんな名前で、呼んでもらえる、人間なんだって」

「ええ」

「やっと、分かった」

芹香は、そっと、朔夜の肩を抱き寄せた。

「あなたは、最初から、人間よ」

「…………」

「ずっと、そうだったわ」

「……うん」

朔夜は、芹香の肩に、頭を預けた。

温かい。

石鹸と、乾いた紙の匂い。

「でも、気づくまでに、時間が、かかっちゃった」

「いいのよ」

「うん」

「ゆっくりで、いいの」

芹香の指が、朔夜の髪を、ゆっくりと撫でた。

跳ねた毛先を、丁寧に押さえつける。

「これから、たくさん、気づいていけばいいわ」

「うん」

「私が、隣で、見ているから」

「うん」

「ずっと」

朔夜は、目を閉じた。

縁側の板の冷たさと、毛布の温かさと、芹香の肩の温もりが、全身を、柔らかく包んでいた。

「……先輩」

「なあに」

「次の任務、また、来るよね」

「ええ。きっと」

「また、危ないところに、行くよね」

「ええ」

「それでも」

朔夜は、顔を上げて、芹香を見つめた。

琥珀色の瞳が、夕暮れの紫の光を映して、静かに輝いている。

「二人で、帰ってこようね」

「ええ」

芹香は、微笑んだ。

灰茶色の瞳が、潤んでいる。

「必ず」

「約束」

「ええ。約束」

二人は、小指を、そっと絡めた。

細い指と、小さな指。

その結び目が、夕暮れの空気の中で、ほんのりと、温かく光ったように見えた。

障子の向こうから、小さな寝言が、聞こえた。

「……おねえちゃん……」

「あ」

朔夜が、くすりと笑った。

「あまねくん、夢の中で、呼んでる」

「ええ」

「行ってあげなきゃ」

「ええ。でも、もう少しだけ」

芹香は、朔夜の肩を、きゅっと抱いた。

「もう少しだけ、この夕焼けを、見ていましょう」

「うん」

空が、ゆっくりと、群青に染まっていく。

星が、一つ、また一つと、瞬き始める。

遠くの寮舎の窓に、橙色の灯りが、ぽつぽつと灯っていった。

道場の窓。

食堂の窓。

美月と、自分の部屋の窓。

その一つ一つに、誰かがいて、誰かが笑って、誰かが、明日を待っている。

朔夜は、その灯りを、胸いっぱいに、見つめた。

『サクヤ』

灯が、そっと、囁いた。

『きれいだね』

「うん」

『これが、サクヤの、せかい』

「そう」

朔夜は、頷いた。

「わたしの、世界」

『わたしの、せかいにも、なった』

「うん」

朔夜は、胸に、そっと、手を当てた。

そこに、確かに、小さな灯が、あった。

温かく、静かに、決して消えない、明かり。

その明かりが、これから、どんな夜も、照らしてくれる。

そう、信じられた。

障子の向こうの、枕元の貝殻から、さらさらと、波の音が、聞こえた。

遠い、遠い、水底の向こうの、青い海の岸辺から。

あまねの母が、きっと、そっと、耳を澄ませている。

その波の音に、混じって、微かな、懐かしい旋律が、風に乗って、聞こえた気がした。

ほどけ、ほどけ、名のないものよ。

灯をたよりに、帰っておいで。

朔夜は、目を閉じて、その旋律に、静かに、耳を傾けた。

そして、小さく、口ずさんだ。

雨の底から、空の下へ。

呼ぶ声のほうへ、おかえりなさい。

芹香が、その歌声に、そっと、自分の声を、重ねた。

柔らかく、低く、凪いだ声。

二人の歌声が、夕暮れの縁側に、静かに、溶けていく。

星空が、少しずつ、深く、広がっていった。

世界は、壊れやすい。

いつだって、ほんの少しのきっかけで、ひびが入り、軋み、崩れ落ちてしまう。

けれど、だからこそ、美しい。

その壊れやすいものを、そっと、ほどきながら、守っていく。

そんな、小さな、けれど尊い営みが、確かに、ここにある。

橘朔夜は、胸の灯を抱きしめて、夜空を見上げた。

その瞳に、無数の星が、きらきらと映り込む。

琥珀色の奥に、金色の光が、ほんのりと瞬いていた。

「……いい夜だね」

「ええ」

「明日も、いい朝になるよ」

「ええ。きっと」

朝は、また、来る。

五時四十分に、目を覚まして。

天井の目玉に、おはよ、と言って。

冷たい水で、顔を洗って。

鏡の中の自分と、胸の中の友達に、今日もよろしくと笑って。

道場で、みんなと、汗を流して。

食堂で、あったかいご飯を、食べて。

そうやって、一日、また一日と、積み重ねていく。

それが、橘朔夜という少女の、幸せのかたちだった。

凪の彼方に、灯がともる。

その灯のほとりで、少女たちは、今日も、笑っている。

――『凪の彼方、灯のほとりで』 完

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作者について

紫陽花工房

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家事や仕事の間にAIに物語を書いてもらってます。 好きな花は紫陽花。 座右の銘、チャンスをもたらしてくれるものは冒険である 夢うつつな時に閃くものがネタだったりします(笑)

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