アルの気遣い
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
アルバルト王国 貴族たちが多く住むとても華やかなこの王国 でもその裏にはたくさんの闇がある そんな王国で暮らす少年少女のちょっとした暮らしを描く日記 どうぞ最後までご覧ください
本文
廊下は、広間の灯りが届かないぶん、かえって静かだった。天井の高い窓に夜が貼りついて、擦りガラスの向こうで馬車の灯がひとつ、またひとつと動いている。
ユノはシリルに手を引かれたまま、絨毯の柔らかい足ざわりを踏んでいた。指先はまだ、彼の手のひらの冷たさを覚えている。
「あ」
シリルが、不意に足を止めた。
廊下の突き当たり、柱の陰から、黒い髪がひと房のぞいていた。ゆるふわのセンターパート。レッドダイヤモンドの瞳が、灯りを拾って、こちらを見ている。
「お兄様」
「やあ」
アル・ローズマリーは、壁にもたれた姿勢のまま、片手を軽く上げた。その手には、湯気の立つ紅茶のカップが二つ。片方をユノへ差し出して、もう片方は……少し迷ってから、シリルのほうへも向けた。
「迎えに来た。遅いからな。……で、これ、飲むか?」
「お兄様、こんなところで何を」
「待ってたんだよ。広間のほうは、なんか妙に静かになったり、急に音が戻ったりしてただろ。あれ、たぶん妹が何かやらかした音だなって思って」
ユノは、カップを受け取る手が止まった。
「やらかして、おりませんわ」
「うん。わかってる。……たぶん、ちゃんとやったんだろ」
アルはそう言って、目を細めた。笑い方に、棘がない。第1話の庭園で紅茶を差し出したときと、同じ笑い方だった。
シリルが、差し出されたカップを受け取った。
「悪いな。助かる」
「どういたしまして。……で」
アルの声が、ほんの少しだけ低くなった。軽さは残したまま、その下に、別のものが沈んでいる。
「うちの妹を、広間の真ん中に立たせたのは、どこのどいつだ」
「俺だ」
シリルは、隠さなかった。
「そっか」
アルは、うなずいた。それきり、何も言わなかった。紅茶を一口飲んで、それから、シリルの肩を軽く叩いた。叩き方に、力は入っていなかった。けれど、手を離すのが、少しだけ遅かった。
「まあ、いい。あの子が自分で立ったなら、それでいい。……俺が前に出ると、あの子が嫌がるからな」
ユノは、カップを両手で包んだ。湯気が、鼻の奥をくすぐる。庭園で飲んだのと同じ香りだった。
「お兄様」
「なんだ」
「わたくし、言いましたの。自分の口で。望んでおります、と」
アルは、しばらく黙って妹を見ていた。それから、カップの縁に口をつけて、短く息を吐いた。
「……そりゃ、よかった」
それは、祝いの言葉というより、確認だった。確認して、安心して、それから少しだけ寂しそうだった。兄というのは、そういうものなのかもしれない、とユノは思った。
「じゃあ、俺は帰る。……ああ、そうだ」
アルは、柱の陰から一歩出て、シリルのほうを向いた。
「シリル。馬車、うちのを使え。こっちのほうが近い」
「いいのか」
「妹を送るのに、他家の馬車に揺られて帰られるのは、さすがに兄として格好がつかないんでな」
そう言って、彼はもう振り返っていた。ひらひらと手を振る背中が、廊下の奥へ消えていく。最後に、こちらを見ずに、声だけが残った。
「ユノ。紅茶、冷める前に飲めよ」
廊下の突き当たりで、黒い髪が角を曲がった。それきり、足音もしなくなった。
シリルが、隣で小さく笑った。
「いい兄貴だな」
「……はい。少し、過保護ですけれど」
「うちも大概だよ。母さんが平民だから、余計にな。……行くか」
彼はカップを片手に、もう片方の手を差し出した。さっきまで冷たかった指先が、今は少しだけ温かい。
ユノは、その手を取った。