33年後、初恋が僕を救ったの表紙画像

33年後、初恋が僕を救った

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/11/3 📚 シリーズ: 33年後、初恋が僕を救った 📝 3,608文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

五十二歳の佐伯直樹は、孫娘の笑い声で朝を迎える、ごく穏やかな男だった。 ある日、固定電話が鳴る。骨髄バンクからの、適合の知らせ。迷わず協力を決めた彼の手元に届いた封筒には、三十三年間、看板からも地図からも目を逸らし続けてきた、病院の名前があった。 十九歳の春。サッカーしか見えていなかった青年が、その待合室で出会った一人の少女。 「隣、いいですか?」 飴の数で待ち時間を割る癖。焦げた卵焼き。夕焼けの海。 あの日から止まったままの時間が、いま、静かに動きはじめる。 これは、ひとつの初恋の記憶と、その先に続いていく人生の物語。

本文

第2話 長い髪の人

針が入る瞬間、直樹は、天井の蛍光灯の数を数えていた。

六本。いや、七本。

数えていないと、この匂いに、足首を掴まれそうだった。

アルコール綿の、鼻の奥を薄く切るような冷たさ。二の腕に食い込む駆血帯のゴム。壁際の消毒液が放つ、甘さのない清潔の匂い。六月の第一週、尾道の坂の下にある総合病院の採血室は、直樹が三十三年避けてきた街の病院とは、建物も廊下も、何ひとつ似ていない。それなのに、匂いだけは、距離も年月も無視して届く。

「佐伯さん、血管、逃げ足が速いですねえ」

看護師が、留守宅のチャイムを鳴らすみたいに、針の先で腕の内側を探っている。五十がらみの、声のよく通る人だった。

「すみません。昔から、採血は苦手でして」

「謝らなくていいんですよ。大の男の方ほど、ここで静かになるんです。はい、息、吐いて」

針先が、ようやく目当ての場所を見つけた。暗赤色の血が、細い管をゆっくり上ってくる。日本骨髄バンクの確認検査。提供者の体に問題がないかを調べる、最初の関門だった。

出がけに、玄関で静香が言ったことを思い出す。

「病院、ひとりで大丈夫?」

「子供じゃない」

「知ってます。でも、病院は、ひとりで行く場所じゃないから」

靴べらを差し出しながら、何でもないことのように言って、傘立てから黒い傘を一本抜き、直樹の手に握らせた。梅雨入りの朝だった。この人の優しさは、いつも先回りしている。相手が濡れる前に、傘を差し出す人だ。

その何でもなさが、胸のいちばん古い場所を、そっと押した。

ひとりで座る長椅子。読んでもいない雑誌。順番を待つあいだの、うっすらとした心細さ。――ひとりじゃなかった日が、一度だけ、ある。

比べている、と自分で思う。静香の「ひとりで行く場所じゃない」と、あの日の「隣、いいですか?」を。比べたくないのに、物差しは、勝手に目盛りを読んでしまう。

「お疲れさまでした。ここ、押さえててくださいね」

八本目の試験管が満ちて、針が抜かれた。問診票を覗き込んだ看護師が、ふっと笑う。

「この『直』の字、最後の横線が、定規で引いたみたいに長いですねえ」

「昔から言われます。直らないんです」

「あら、お上手」

廊下の長椅子に腰を下ろすと、窓の外で、雨が降りはじめていた。鼻の奥に居座った匂いは、帰らない。直樹は、目を閉じた。

あの日も、こんな匂いがしていた。

  *

三十三年前の春。十九歳の直樹は、その街の病院の待合室に、ひとりで座っていた。

半月前の練習で、左足首を捻った。たいした怪我ではないと思っていたが、監督に「経過を診てもらえ」と言われ、仕事の合間を縫って来ていた。県外から工場に就職して一年。実業団のチームで、左サイドバックのポジションを争う毎日。体は動く。夢は遠いが、見えている。

待合室のテレビは、開幕を控えたJリーグの特集を流していた。日本中が、あの熱に浮かれはじめていた春だった。直樹は、その空気の端っこで、雑誌のページを、意味もなくめくっていた。

「隣、いいですか?」

顔を上げた先にいたのは、白いカーディガンの少女だった。

肩まで伸びた黒髪。淡い色のスカート。派手さはないのに、不思議と目が離せない。病院には似合わないほど、明るい空気をまとっている。

「あ、はい」

頷いたあとで、喉が思ったより乾いていることに気づいた。サッカーの話なら何時間でも喋れるが、女の子となると話は別だ。まして初対面。彼女が腰を下ろすと、石鹸のような清潔な匂いが、かすかに届いた。

そこへ事務員が、小走りで近づいてきた。

「藤原舞さん、診察券、お忘れでしたよ」

「あ! すみません、ありがとうございます」

少女が慌てて頭を下げる。直樹は、雑誌から目を離さないまま、その名前を、頭の中でそっと繰り返した。

――藤原、舞。

「ままぁー!」

足元から、小さな声がした。二歳くらいの男の子だった。受付で話し込む母親の目を盗んで、椅子から抜け出してきたらしい。男の子はじっと直樹を見上げ、次の瞬間、ぐいっと、後ろで束ねた髪を引っ張った。

「あっ」

痛くはない。ただ、洗濯バサミ並みの握力で、がっちり掴まれている。

「すみません! 本当にすみません、この子、何でも掴んでしまって!」

血相を変えた母親に、直樹は笑って手を振った。

「大丈夫ですよ。痛くないですから」

しゃがみ込んで目の高さを合わせ、束ねた髪を、前に持ってきてやる。

「ほら。遊ぶか?」

男の子の目が、宝物を見つけたみたいに輝いた。妹がいる。小さい頃から、世話をするのが当たり前だった。だから、こういう時間は、嫌いじゃない。

直樹は気づかなかった。その光景を、隣で、ひとりの少女が、息をするのも忘れて見つめていたことを。

  *

これは、あとから、本人に聞いた話だ。

舞は、それを笑い話みたいに話した。「最初は、怖い人だと思ったんです」と。いまなら分かる。あれは、笑い話ではなかったのだ。

あの日、予約より早く病院へ着いたのは、家にいると、考えたくないことばかり考えてしまうからだった。通い慣れた待合室。数えきれない待ち時間。その中で、壁際の長髪の青年は、肩幅が広くて、少し近寄りがたかった。それなのに、気づけば、隣に座っていた。理由は分からない。ただ、そこだけ、窓から入る光の濃さが違って見えたのだ。

髪を引っ張る子供に、彼は少しも怒らず、笑って、自分の髪を差し出した。弟か妹を見るみたいな、嘘のない顔で。

その瞬間、舞の胸が、慣れない靴で走るみたいに、ちぐはぐに鳴った。病気のせいじゃない。それくらいは、分かった。

「優しいんですね」

「え?」

「子供に」

「別に、普通ですよ」

「普通じゃないです。私だったら、髪を引っ張られたら、怒ります」

「怒るんですか。見えないな」

「ひどい」

頬を膨らませてみせると、青年は声を出して笑った。その笑い声で、胸の奥の、鍵のかかった場所が、わずかに開いた気がした。

診察室で、担当医は「最近はどうですか」と訊いた。「元気です」と答えると、「それ、毎回言いますね。藤原さんの場合、その元気が問題なんです」と苦笑された。舞も笑った。怖いときほど笑うのが、昔からの癖だった。笑えば前を向ける。泣いたら、立てなくなるから。

診察を終えて、廊下を歩く。足取りは軽い。でも、胸の奥には、小さな石が残っている。いつもなら、まっすぐ出口へ向かうはずだった。

けれど、足が、待合室のほうへ向いた。

今、話しかけなかったら、もう会えないかもしれない。そんな気がした。見知らぬ男性に自分から声をかけるような性格ではないのに、気づけば、長椅子の端に座る青年の前に、立っていた。

  *

「終わったんですか」

「あ、はい」

戻ってきた彼女は、さっきより、少しだけ頬が赤かった。

何を話せばいいのか分からないまま、二人のあいだに沈黙が降りた。けれど、居心地は悪くなかった。ちょうどいい温度に冷めた麦茶みたいな、気取りのない沈黙だった。

「あの」

「はい」

「名前、まだ聞いてませんでした」

彼女の声が、少しだけ震えていた。直樹は、一拍、返事が遅れた。自分から名前を訊かれることなど、滅多にない。

「佐伯」

「佐伯さん」

彼女が、その名前を舌の上で転がすように繰り返す。声になった途端、それは、ずっと前から知っていた名前のように、直樹の耳に馴染んだ。

「藤原さん、だよね。いや、舞さん、か」

「え?」

「さっき、呼ばれてたから」

「覚えてたんですか」

「たまたまです」

「嘘ですね」

「嘘じゃないです」

「怪しいです」

くすくす笑う声に、待合室の空気の目盛りが、ひとつ、明るくなった。

館内に、診察番号を呼ぶ声が響く。直樹の番号だった。立ち上がると、左足首が、少し疼いた。名残惜しい、と思う自分に、驚く。名前しか知らない。それなのに。

数歩進んで、足を止めた。振り返ると、舞が、診察券を両手で握りしめて、こちらを見ている。何か言いたそうで、何を言えばいいのか分からない顔だった。

直樹も、同じだった。だから、頭を掻いて、いちばんあたりさわりがなく、いちばん正直な言葉を選んだ。

「また会えたら、よろしく」

彼女の顔が、ふわりとほどけた。

「……はい!」

少し大きな声になって、周りの人が振り返る。舞が肩をすくめて笑う。その笑顔を背中に感じながら、直樹は診察室の扉を開けた。

  *

「佐伯さん? 大丈夫ですか」

肩を軽く叩かれて、直樹は目を開けた。さっきの看護師が覗き込んでいる。

「顔色、悪いですよ。もう少し座っていかれたら」

「いえ。ちょっと、考えごとを」

窓の外は、本降りになっていた。傘を持ってきてよかった、と思う。静香が握らせてくれた、黒い傘。

膝の上に、丸めた脱脂綿がある。赤い点が、ひとつ。針の跡は、腕の内側で、まだ脈に合わせて疼いていた。

あの日、自分は、確かに言ったのだ。「また会えたら、よろしく」と。

約束とも言えないあの一言が、翌週、本当に叶ってしまったことを、直樹は今でも、奇跡の側に数えている。

(第3話へ続く)

ジャンル・タグ

, , , , , , , , ,

作品統計

👁️ 閲覧数: 1 👍 いいね: 0 📚 本棚登録: 0

作者について

天霧 セナ

天霧 セナ

広島在住。AI生成を使用し小説とイラストをやってます。 ファンタジー・SF・恋愛など色々書いてますが、 一番大事にしてるのは感情の動き。AIで感情表現は何処までできるかをテーマにしてます。 今年...

👥 フォロワー: 13人

作者ページを見る