33年後、初恋が僕を救った
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
五十二歳の佐伯直樹は、孫娘の笑い声で朝を迎える、ごく穏やかな男だった。 ある日、固定電話が鳴る。骨髄バンクからの、適合の知らせ。迷わず協力を決めた彼の手元に届いた封筒には、三十三年間、看板からも地図からも目を逸らし続けてきた、病院の名前があった。 十九歳の春。サッカーしか見えていなかった青年が、その待合室で出会った一人の少女。 「隣、いいですか?」 飴の数で待ち時間を割る癖。焦げた卵焼き。夕焼けの海。 あの日から止まったままの時間が、いま、静かに動きはじめる。 これは、ひとつの初恋の記憶と、その先に続いていく人生の物語。
本文
第2話 長い髪の人
針が入る瞬間、直樹は、天井の蛍光灯の数を数えていた。
六本。いや、七本。
数えていないと、この匂いに、足首を掴まれそうだった。
アルコール綿の、鼻の奥を薄く切るような冷たさ。二の腕に食い込む駆血帯のゴム。壁際の消毒液が放つ、甘さのない清潔の匂い。六月の第一週、尾道の坂の下にある総合病院の採血室は、直樹が三十三年避けてきた街の病院とは、建物も廊下も、何ひとつ似ていない。それなのに、匂いだけは、距離も年月も無視して届く。
「佐伯さん、血管、逃げ足が速いですねえ」
看護師が、留守宅のチャイムを鳴らすみたいに、針の先で腕の内側を探っている。五十がらみの、声のよく通る人だった。
「すみません。昔から、採血は苦手でして」
「謝らなくていいんですよ。大の男の方ほど、ここで静かになるんです。はい、息、吐いて」
針先が、ようやく目当ての場所を見つけた。暗赤色の血が、細い管をゆっくり上ってくる。日本骨髄バンクの確認検査。提供者の体に問題がないかを調べる、最初の関門だった。
出がけに、玄関で静香が言ったことを思い出す。
「病院、ひとりで大丈夫?」
「子供じゃない」
「知ってます。でも、病院は、ひとりで行く場所じゃないから」
靴べらを差し出しながら、何でもないことのように言って、傘立てから黒い傘を一本抜き、直樹の手に握らせた。梅雨入りの朝だった。この人の優しさは、いつも先回りしている。相手が濡れる前に、傘を差し出す人だ。
その何でもなさが、胸のいちばん古い場所を、そっと押した。
ひとりで座る長椅子。読んでもいない雑誌。順番を待つあいだの、うっすらとした心細さ。――ひとりじゃなかった日が、一度だけ、ある。
比べている、と自分で思う。静香の「ひとりで行く場所じゃない」と、あの日の「隣、いいですか?」を。比べたくないのに、物差しは、勝手に目盛りを読んでしまう。
「お疲れさまでした。ここ、押さえててくださいね」
八本目の試験管が満ちて、針が抜かれた。問診票を覗き込んだ看護師が、ふっと笑う。
「この『直』の字、最後の横線が、定規で引いたみたいに長いですねえ」
「昔から言われます。直らないんです」
「あら、お上手」
廊下の長椅子に腰を下ろすと、窓の外で、雨が降りはじめていた。鼻の奥に居座った匂いは、帰らない。直樹は、目を閉じた。
あの日も、こんな匂いがしていた。
*
三十三年前の春。十九歳の直樹は、その街の病院の待合室に、ひとりで座っていた。
半月前の練習で、左足首を捻った。たいした怪我ではないと思っていたが、監督に「経過を診てもらえ」と言われ、仕事の合間を縫って来ていた。県外から工場に就職して一年。実業団のチームで、左サイドバックのポジションを争う毎日。体は動く。夢は遠いが、見えている。
待合室のテレビは、開幕を控えたJリーグの特集を流していた。日本中が、あの熱に浮かれはじめていた春だった。直樹は、その空気の端っこで、雑誌のページを、意味もなくめくっていた。
「隣、いいですか?」
顔を上げた先にいたのは、白いカーディガンの少女だった。
肩まで伸びた黒髪。淡い色のスカート。派手さはないのに、不思議と目が離せない。病院には似合わないほど、明るい空気をまとっている。
「あ、はい」
頷いたあとで、喉が思ったより乾いていることに気づいた。サッカーの話なら何時間でも喋れるが、女の子となると話は別だ。まして初対面。彼女が腰を下ろすと、石鹸のような清潔な匂いが、かすかに届いた。
そこへ事務員が、小走りで近づいてきた。
「藤原舞さん、診察券、お忘れでしたよ」
「あ! すみません、ありがとうございます」
少女が慌てて頭を下げる。直樹は、雑誌から目を離さないまま、その名前を、頭の中でそっと繰り返した。
――藤原、舞。
「ままぁー!」
足元から、小さな声がした。二歳くらいの男の子だった。受付で話し込む母親の目を盗んで、椅子から抜け出してきたらしい。男の子はじっと直樹を見上げ、次の瞬間、ぐいっと、後ろで束ねた髪を引っ張った。
「あっ」
痛くはない。ただ、洗濯バサミ並みの握力で、がっちり掴まれている。
「すみません! 本当にすみません、この子、何でも掴んでしまって!」
血相を変えた母親に、直樹は笑って手を振った。
「大丈夫ですよ。痛くないですから」
しゃがみ込んで目の高さを合わせ、束ねた髪を、前に持ってきてやる。
「ほら。遊ぶか?」
男の子の目が、宝物を見つけたみたいに輝いた。妹がいる。小さい頃から、世話をするのが当たり前だった。だから、こういう時間は、嫌いじゃない。
直樹は気づかなかった。その光景を、隣で、ひとりの少女が、息をするのも忘れて見つめていたことを。
*
これは、あとから、本人に聞いた話だ。
舞は、それを笑い話みたいに話した。「最初は、怖い人だと思ったんです」と。いまなら分かる。あれは、笑い話ではなかったのだ。
あの日、予約より早く病院へ着いたのは、家にいると、考えたくないことばかり考えてしまうからだった。通い慣れた待合室。数えきれない待ち時間。その中で、壁際の長髪の青年は、肩幅が広くて、少し近寄りがたかった。それなのに、気づけば、隣に座っていた。理由は分からない。ただ、そこだけ、窓から入る光の濃さが違って見えたのだ。
髪を引っ張る子供に、彼は少しも怒らず、笑って、自分の髪を差し出した。弟か妹を見るみたいな、嘘のない顔で。
その瞬間、舞の胸が、慣れない靴で走るみたいに、ちぐはぐに鳴った。病気のせいじゃない。それくらいは、分かった。
「優しいんですね」
「え?」
「子供に」
「別に、普通ですよ」
「普通じゃないです。私だったら、髪を引っ張られたら、怒ります」
「怒るんですか。見えないな」
「ひどい」
頬を膨らませてみせると、青年は声を出して笑った。その笑い声で、胸の奥の、鍵のかかった場所が、わずかに開いた気がした。
診察室で、担当医は「最近はどうですか」と訊いた。「元気です」と答えると、「それ、毎回言いますね。藤原さんの場合、その元気が問題なんです」と苦笑された。舞も笑った。怖いときほど笑うのが、昔からの癖だった。笑えば前を向ける。泣いたら、立てなくなるから。
診察を終えて、廊下を歩く。足取りは軽い。でも、胸の奥には、小さな石が残っている。いつもなら、まっすぐ出口へ向かうはずだった。
けれど、足が、待合室のほうへ向いた。
今、話しかけなかったら、もう会えないかもしれない。そんな気がした。見知らぬ男性に自分から声をかけるような性格ではないのに、気づけば、長椅子の端に座る青年の前に、立っていた。
*
「終わったんですか」
「あ、はい」
戻ってきた彼女は、さっきより、少しだけ頬が赤かった。
何を話せばいいのか分からないまま、二人のあいだに沈黙が降りた。けれど、居心地は悪くなかった。ちょうどいい温度に冷めた麦茶みたいな、気取りのない沈黙だった。
「あの」
「はい」
「名前、まだ聞いてませんでした」
彼女の声が、少しだけ震えていた。直樹は、一拍、返事が遅れた。自分から名前を訊かれることなど、滅多にない。
「佐伯」
「佐伯さん」
彼女が、その名前を舌の上で転がすように繰り返す。声になった途端、それは、ずっと前から知っていた名前のように、直樹の耳に馴染んだ。
「藤原さん、だよね。いや、舞さん、か」
「え?」
「さっき、呼ばれてたから」
「覚えてたんですか」
「たまたまです」
「嘘ですね」
「嘘じゃないです」
「怪しいです」
くすくす笑う声に、待合室の空気の目盛りが、ひとつ、明るくなった。
館内に、診察番号を呼ぶ声が響く。直樹の番号だった。立ち上がると、左足首が、少し疼いた。名残惜しい、と思う自分に、驚く。名前しか知らない。それなのに。
数歩進んで、足を止めた。振り返ると、舞が、診察券を両手で握りしめて、こちらを見ている。何か言いたそうで、何を言えばいいのか分からない顔だった。
直樹も、同じだった。だから、頭を掻いて、いちばんあたりさわりがなく、いちばん正直な言葉を選んだ。
「また会えたら、よろしく」
彼女の顔が、ふわりとほどけた。
「……はい!」
少し大きな声になって、周りの人が振り返る。舞が肩をすくめて笑う。その笑顔を背中に感じながら、直樹は診察室の扉を開けた。
*
「佐伯さん? 大丈夫ですか」
肩を軽く叩かれて、直樹は目を開けた。さっきの看護師が覗き込んでいる。
「顔色、悪いですよ。もう少し座っていかれたら」
「いえ。ちょっと、考えごとを」
窓の外は、本降りになっていた。傘を持ってきてよかった、と思う。静香が握らせてくれた、黒い傘。
膝の上に、丸めた脱脂綿がある。赤い点が、ひとつ。針の跡は、腕の内側で、まだ脈に合わせて疼いていた。
あの日、自分は、確かに言ったのだ。「また会えたら、よろしく」と。
約束とも言えないあの一言が、翌週、本当に叶ってしまったことを、直樹は今でも、奇跡の側に数えている。
(第3話へ続く)