33年後、初恋が僕を救った
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
五十二歳の佐伯直樹は、孫娘の笑い声で朝を迎える、ごく穏やかな男だった。 ある日、固定電話が鳴る。骨髄バンクからの、適合の知らせ。迷わず協力を決めた彼の手元に届いた封筒には、三十三年間、看板からも地図からも目を逸らし続けてきた、病院の名前があった。 十九歳の春。サッカーしか見えていなかった青年が、その待合室で出会った一人の少女。 「隣、いいですか?」 飴の数で待ち時間を割る癖。焦げた卵焼き。夕焼けの海。 あの日から止まったままの時間が、いま、静かに動きはじめる。 これは、ひとつの初恋の記憶と、その先に続いていく人生の物語。
本文
第3話 また会いたい
署名欄の「直」の字は、いつも、最後の横線だけが勝手に走る。
紙の端まで届きそうに伸びたその一本を、直樹は、書き終えてからしばらく見つめた。
三十三年前、同じ線を見て笑った人がいる。
*
七月の半ば。梅雨が明けたばかりの空は、洗い立てのシャツみたいに、頼りないほど青かった。市の保健センターの小会議室は、冷房が効きすぎていて、半袖の腕に、冷たい空気が薄く貼りつく。窓の向こうでは、蝉が、思い出したように鳴いては止む。
「では、こちらが最終同意書です」
向かいの席で、コーディネーターの岡崎が、書類を一枚ずつ丁寧に滑らせた。四十代半ばの、眼鏡をかけた女性だった。声は低く落ち着いていて、一語ずつ、相手が飲み込むのを待ってから次へ進む。
「ひとつだけ、大事なお話をします。最終同意をいただいたあと、患者さんは、移植に向けた治療を始めます。その段階に入ると、提供を取りやめることは、患者さんの命に直結します。ですから、ここから先は、原則として、後戻りができません」
会議室の空気が、冷房のせいではなく、ほんの少し冷えた。
「承知しています」
「はい。……それでも、迷いがあれば、今日が最後に言える日です」
直樹は、隣を見た。静香は、膝の上で、四つ折りのハンカチを握っていた。面談に同席すると言い出したのは、彼女のほうだった。配偶者の同意が要るから、というだけでなく、「聞いておきたいから」と。
「入院は、十二月の上旬で調整しています。採取は、先日お送りした施設で行います。遠方になりますので、移動の交通費は、バンクのほうで補助できます」
「新幹線ですね」
「はい。ご負担のないよう、手配しますので」
岡崎の説明は、淡々と続いた。全身麻酔のこと。数日の入院。提供後の体の回復。静香は、手帳を開き、ときどき質問を挟む。仕事は何日休ませればいいか、食事で気をつけることは、と。
「この人、最近ぼうっとしていて。先日は、味噌汁に醤油を入れていたそうで」
「え」
「部下の子に聞きました」
岡崎が、笑いを噛み殺した。直樹は、頭を搔くしかなかった。誰が、いつ、静香に話したのか。だがそれより、笑っている静香の目尻が、口より先に笑っていることのほうが、胸に残った。
「それでは、ご署名をお願いします」
差し出されたボールペンで、署名欄に名前を書いた。
最後の横線が、定規でも当てたように、まっすぐ伸びる。静香が、隣から覗き込んで言った。
「あなたの字、昔から、読みやすいわよね」
そう言って、自分の署名欄に、すっと名前を書いた。丸くて小さな字が、枠の中に行儀よく収まっていく。比べるつもりはない。ただ、枠からはみ出す線を、この人は書かない。
署名を終えた紙を、岡崎が受け取り、ホチキスで留める。乾いた、小さな音。
その音が、ふいに、遠い春の、紙の切れ端を引き裂く音に重なった。
*
翌週の水曜、直樹は、予約の四十分も前に、病院へ着いた。
工場の早番を終えて、石鹸で油の匂いを三度洗い流してから来た。診察は午後なのに、そんなに急ぐ理由は、自分でも説明がつかない。ただ、あの待合室の、あの長椅子に、もう一度座ってみたかった。
自動ドアが開くと、消毒液の匂いが、昨日の続きのように鼻をくすぐった。
待合室は、人影がまばらだった。窓際の長椅子の端に、白いカーディガンが見えた。
足が、勝手に止まる。
舞は、膝の上に文庫本を開いたまま、ページを一枚もめくらずに、窓の外を見ていた。直樹の気配に気づくと、顔を上げて、目を丸くして、それから、ふわりと笑った。
「あ、本当に会えた」
「……会えた」
「奇遇ですね」
「うん。奇遇」
「私、三十分前からここにいましたけど」
「え」
「あ」
舞が、口を押さえた。耳まで赤い。直樹も、つられて耳が熱くなる。
「ち、違います。待ち伏せじゃないです。いや、待ってましたけど。待ち伏せじゃなくて、待ってて。同じですか?」
「……同じかもしれない」
「ですよね」
二人は、顔を見合わせて、同時に吹き出した。笑い声が、人のまばらな待合室に、小さく跳ねた。
隣に座る。先週と同じ距離だった。
「診察まで、長いですか?」
「四十分」
「じゃあ、飴三個ぶんですね」
「飴?」
「待ち時間は、飴で数えるんです」
舞は、カーディガンのポケットから、小さな包みを三つ取り出した。レモン色の、透ける包み紙。ひとつを、直樹の掌に載せる。
「長い時間も、飴の数で割ると、そんなに長くないんです」
「割り算か」
「そうです。病院の待ち時間は、割り算で勝てます」
包みを開けて、口に入れる。舌の上で、薄い酸っぱさが、角のない甘さに変わっていく。舞は、自分のぶんを頬の裏に転がしながら、満足そうに窓の外を見ていた。
病院が、少しだけ、病院らしくなくなった。
*
診察を終えると、二人は、病院の前の小さな公園へ出た。
桜はほとんど散り終えて、舗道の端に、茶色く濡れた花びらが、名残のように貼りついていた。代わりに、街路樹が、若葉の緑を、一斉に吹き出している。風が吹くたび、新しい葉の青い匂いが、鼻の奥を撫でた。
古い木のベンチに、並んで腰かけた。
「こんな日は、海に行きたくなります」
舞が、空を見上げて言った。雲が、薄い綿の切れ端みたいに、ゆっくり流れている。
「海?」
「好きなんです。波の音を聞いてると、考えなくていいことが、全部、どこかへ流れていくから」
「分かる気がする」
「本当ですか」
「うん。実家が海の近くで。冬の海ばっかり見て育ったけど」
そう答えながら、直樹は、胸の奥が、ほんの少し軋むのを感じた。海。故郷。そこにあるものを、まだ、舞に話す気にはなれない。舞は、それに気づいたのか、気づかなかったのか、「いいなあ」とだけ呟いて、足をぶらぶら揺らした。
「また会えますかね」
不意に、舞が言った。会えたばかりなのに、もう次の約束を探すみたいに。
「会えると思う」
「根拠は?」
「ない」
「適当」
「でも、会える気がする」
真面目な顔で言ってしまってから、直樹は、慌てて視線を逸らした。舞が、肩を震わせて笑っている。
「あの、連絡先、聞いてもいいですか。私、手帳とかなくて」
舞は、薬の説明書の端を、びりっと細長く破いて、直樹に差し出した。病院の窓口で借りてきた短いボールペンを、その横に添える。
「寮の電話番号でいいか。共用で、廊下のピンク電話なんだけど。夜の九時以降なら、だいたい誰か出る」
「うち、固定電話で、母が出るので。私から、かけます」
「分かった」
直樹は、紙の切れ端に、番号と名前を書いた。急いで書いた数字が、いつもより少し、前のめりに傾いていた。受け取った舞は、両手で紙を持って、じっと見つめた。
「字、独特ですね」
「そう?」
「『直』の最後の線、伸びすぎじゃないですか。レールみたい」
「書道の先生にも、言われた。線が逃げてるって」
「逃げてないですよ」
舞は、その一本を、指先でそっとなぞった。
「どこまでも行きたい線です。私、この字、好きです」
不意打ちだった。直樹は、返す言葉を見失って、ベンチの背もたれに、深く背中を預けた。照れ隠しに、空を見る。若葉が、風に光っていた。
舞は、紙を四つに折って、カーディガンのポケットへしまった。飴の包みの隣に。
「お守りにします」
*
それから、水曜日は、二人の曜日になった。
直樹の診察は、三週目で終わった。足首は、もう治っていた。それでも、水曜の午後になると、仕事の合間を縫って、病院へ足が向く。舞の通院日に、合わせるように。
長椅子の端に並んで、飴を数える。最初は三個。次は四個。二人で喋っていると、時間は、飴の数を追い越して、すぐに溶けた。いつのまにか、舞のポケットは、飴と、四つ折りの紙の切れ端で、ふくらんでいった。
直樹は、舞を知っていった。バレーボールが好きなこと。負けず嫌いで、ジャンケンに負けると、三回勝つまで終わらせないこと。本の最後のページから先に読む癖があること。人の目を見て話すとき、必ず、ほんの少しだけ、身を乗り出すこと。
そして、気づかないふりをすることも、増えていった。
ある水曜の夕方だった。空の端が、うっすら茜に染まりはじめていた。公園のベンチから立ち上がった舞が、ふいに、足を止めた。
「……っ」
小さな息が、喉の奥で潰れる音がした。舞の指が、胸元のカーディガンを、ぎゅっと握りしめる。肩が、ほんの少し、前へ傾いた。
直樹は、とっさに手を伸ばしかけた。血の気が引いていくのが、横顔の頬の色で分かった。唇が、さっきより、ずっと白い。
けれど、舞は、顔を上げて、笑った。
「ごめんなさい、立ちくらみ。飴、食べすぎたかな」
それは、嘘だった。嘘だと分かる笑顔だった。笑えば前を向ける。そう信じている人の、必死に整えられた笑顔だった。
直樹は、喉まで上がってきた言葉を、飲み込んだ。
大丈夫か。どこか悪いのか。いつからだ。
訊けば、きっと、舞は笑って答える。大丈夫です、と。そして、その「大丈夫」の分だけ、彼女は、また一枚、仮面を重ねる。そんな気がした。言いたくないことには、たぶん、鍵がかかっている。その鍵を、乱暴に叩く人間には、なりたくなかった。
「そうか。食べすぎだな」
「そうです。食べすぎです」
「明日から、二個にしろ」
「ひどい。三個がいいです」
軽口を返すと、舞の肩から、力が抜けた。ほんの一瞬、泣き出しそうな目が、直樹を見た。
「……ありがとう」
何に対する礼なのか、舞は言わなかった。直樹も、訊かなかった。
ただ、帰り道、舞の少し後ろを歩きながら、直樹は、自分の鼓動の速さに気づいていた。知らないふりをするのは、見て見ぬふりをするより、ずっと難しい。目を逸らすのではなく、見えていることを、自分の胸の中にしまうのだから。
その夜、直樹は、寮の廊下に立った。ピンク電話の前で、受話器が鳴るのを待った。十時近くになって、ようやくベルが鳴った。
「もしもし、佐伯さん……じゃなくて、直樹さん?」
「どっちでもいい」
そう答えたあとで、直樹は、付け足していた。
「直樹のほうが、いい」
受話器を握る手が、汗ばんでいた。受話器の向こうで、舞が、小さく息を吸う気配がした。
*
五月が来た。
新緑は、濃い緑に変わりつつあった。待合室の窓から射す光は、春の柔らかさを失って、白く硬くなった。
その日、舞は、いつもより早く、病院に来ていた。直樹が長椅子に腰を下ろすと、膝の上で、飴を一つ、両手で握りしめていた。包みを開ける気配もない。
「飴、食べないのか」
「……うん」
「どうした」
「あの」
舞は、窓の外を見ていた。それから、ゆっくりと、こちらを向いた。目が、まっすぐに直樹を捉える。いつもの、少しだけ身を乗り出す、あの仕草。けれど、今日は、その奥に、揺れる光があった。
「直樹さん」
「ん」
「私、言いたいことがあるんです」
待合室の時計が、カチリ、と鳴った。
直樹の掌のなかで、レモン色の包み紙が、小さく、音を立てた。
(第4話へ続く)
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