33年後、初恋が僕を救った
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
五十二歳の佐伯直樹は、孫娘の笑い声で朝を迎える、ごく穏やかな男だった。 ある日、固定電話が鳴る。骨髄バンクからの、適合の知らせ。迷わず協力を決めた彼の手元に届いた封筒には、三十三年間、看板からも地図からも目を逸らし続けてきた、病院の名前があった。 十九歳の春。サッカーしか見えていなかった青年が、その待合室で出会った一人の少女。 「隣、いいですか?」 飴の数で待ち時間を割る癖。焦げた卵焼き。夕焼けの海。 あの日から止まったままの時間が、いま、静かに動きはじめる。 これは、ひとつの初恋の記憶と、その先に続いていく人生の物語。
本文
第4話 初めての恋人
弁当箱の蓋を開けた瞬間、直樹の箸は、卵焼きの上で止まった。
切り口は、ミリ単位で測ったみたいに揃っている。焦げ目は、どこにもない。
それが、どうしようもなく、胸の奥に刺さった。
*
八月の工場は、機械の熱と太陽の熱が、鉄の屋根の下で出会って、そのまま居座っていた。扇風機が三台、首を振りながら熱い空気をかき回している。切削油の匂いに、汗と麦茶の匂いが混じる。昼休みの作業場で、直樹は自分の席に腰を下ろし、ひとつ息を吐いた。
「社長、今日は弁当なんすね」
向かいから、太一が顔を出した。唐揚げを頰張ったまま、弁当箱を覗き込んでくる。
「静香さんの手作りじゃないですか。いいなあ。うちの母ちゃん、冷凍食品しか詰めてくんないですよ」
「お前の昼は」
「コンビニのおにぎりっす。あ、これ、どうぞ。社長、昨日も汗すごかったんで」
太一が机の端から滑らせてきたのは、塩飴だった。包み紙の透ける黄色が、一瞬、別の黄色を呼びそうになる。直樹は、袋ごと作業着のポケットへ押し込んだ。
弁当に目を戻す。
三日前から、静香は毎朝、弁当を持たせるようになった。確認検査の結果が届いた日に、「体が資本でしょ。入院まで、あと四か月だもの」と、台所で袖をまくったのだ。それまでは、仕出しで済ませていた。静香は、直樹が何も言わなくても、必要になる前に動く人だった。
ほうれん草の胡麻和え。鶏と牛蒡の煮物。小さなおにぎりが三つ。蓋の裏には、付箋が一枚貼ってある。
〈今日も暑いので、水分をとること。 静〉
丸くて小さな、行儀のいい字だった。
卵焼きを割ると、出汁の湯気がふわりと立った。口に運ぶ。甘さも塩気もうまみも、どこにも齟齬がない。帳簿が一円も狂っていない、という種類の完璧さだった。
「……うまい」
「社長、うまいって顔してないっすよ」
「そうか?」
「なんか、悪いことしたあとの顔っす」
太一は、あっけらかんと笑って、唐揚げに戻っていった。
悪いこと。していない。何ひとつ。静香の卵焼きは、本当にうまい。それなのに、舌の奥が、もうひとつの味を、勝手に探している。
焦げていて、しょっぱくて、少し甘すぎた、あの卵焼きを。
比べている、と自分で思う。比べたくないのに。静香は何も悪くない。悪いのは、この箸を持つ手が、三十三年前の味を、まだ手放していないことだ。
直樹は、蓋をそっと裏返した。付箋の字が、蛍光灯を白く跳ね返した。
*
三十三年前の五月。
待合室の時計が、カチリと鳴った。舞は、膝の上に飴を置いて、少しだけ身を乗り出した。直樹の目をまっすぐ覗き込むときの、いつもの癖だ。けれど今日は、声の端が、張りすぎた糸みたいに、触れたら鳴りそうだった。
「私、直樹さんのことが、好きです」
世界の音が、一枚、剝がれた。ざわめきも、アナウンスも、冷房の唸りも、水の底へ沈んだように遠のいて、聞こえるのは、自分の鼓動だけだった。
「付き合ってください」
直球だった。逃げ道も、ごまかしの余白もない。
直樹は、言葉を失った。サッカーのことなら、いくらでも出てくるのに、この種類の問いには、持ち合わせの答えがひとつもない。
「……なんで、俺」
「優しかったから」
「それだけ?」
「それだけです。でも、いちばん大事なことだと思ったので」
舞は微笑んだ。笑っているのに、膝の上の指先は、小さく震えていた。
「髪を引っ張られても、怒らなかったでしょう。あのとき、この人は、人の痛みより先に、人の楽しさを見つける人なんだな、って思ったんです」
「そんな、大層なもんじゃ」
「大層なんです。私にとっては」
それから、いたずらを思いついた子供の顔になって、直樹の掌の上の飴を、指でちょんとつついた。
「じゃあ、その飴が溶けるまでに、答えを出してください。ゆっくり考えていいです」
直樹は包み紙を剝がして、丸い飴を口に入れた。舌の上で、薄い酸味がじわりと広がる。舞は息を止めるようにして、こちらを見ている。
三秒、考えた。いや、考える必要はなかった。
ガリッ。
噛み砕いた。乾いた音が、静かな待合室に、はっきり響いた。
「えっ」
「溶けた」
「噛んだ! 噛むのは反則です!」
「溶けたことには、変わりない」
「そんなの、ずるいです!」
「付き合う」
自分の口から出た言葉の短さに、直樹自身が驚いた。舞が、ぽかんと口を開けて、それから目をまんまるにした。
「……え?」
「俺でいいなら」
舞の目から、涙がひと粒、ぽろりと落ちた。本人が一番驚いた顔をして、慌てて袖で拭う。
「ご、ごめんなさい。嬉しくて。じゃなくて、びっくりして。あの、噛まれたのは納得してないんですけど」
「納得しなくていい」
「ひどい」
泣きながら笑っていた。笑いながら泣いていた。あとから思い出すと、舞は、先に笑っていた。涙は、そのあとだった。そう記憶している。きっと、実際には逆だった。順番を入れ替えてしまうのは、記憶の、優しい嘘だ。
*
恋人になって最初の水曜日、直樹は、手を繋ごうとして、掌の汗を三回、ズボンで拭いた。
公園のベンチ。舞が隣で、足をぶらぶらさせている。右手が、二人のあいだに無防備に置かれている。直樹の右手は、膝の上で、そこへ向かう道を探しあぐねていた。
「あの」
「はい」
「手、繋いでいいか」
言ってしまってから、耳まで熱くなった。舞がくすりと笑って、自分の左手を、ベンチの板の上へ、すっと滑らせた。
重なった指は、小さくて、少し冷たかった。鉄を握り続けてきた自分の指とは、まるで別の素材でできているみたいだ。壊さないように、力を抜く。それなのに、舞のほうが、ぎゅっと握り返してきた。
「温かいですね」
「汗だ」
「汗でも、温かいです」
その日から、季節は少しずつ、夏へ傾いていった。水曜の午後は、二人の時間だった。待合室の長椅子から、病院の前の公園のベンチへ。飴の数は、会話の数に変わった。
六月の第二水曜、舞が、鞄から一冊のノートを取り出した。表紙の角が、少し折れている。
「やりたいことリストです」
丸い字が並んでいた。〈海へ行く〉〈花火を見る〉〈観覧車に乗る〉〈お弁当を作る〉〈サッカーの試合を応援する〉〈動物園へ行く〉。
「多いな」
「まだ増えます」
舞は、ペンのキャップで余白をこつこつ叩いた。
「人生は、後回しにすると、賞味期限が来るんです」
軽い口調だった。笑っていた。けれど、その言葉は、飲み込み損ねた小骨みたいに、直樹の喉の奥へ、小さく刺さった。
冗談だ。そう思う。思いたい。
「じゃあ、まず、これから」
舞が、四つ目をペン先で指した。〈お弁当を作る〉。
*
次の水曜、舞は、風呂敷包みを両手で抱えて現れた。
昼のベンチで包みを開けると、小さな二段の弁当箱が出てきた。ご飯、唐揚げ、プチトマト、ブロッコリー。そして、卵焼き。
その卵焼きは、黒かった。
外側は炭に近い焦げ茶色で、ところどころに、地図にない国の輪郭みたいな黒い島が浮かんでいる。切り口からは、固まりきらない黄色が、はみ出していた。
「直樹さんのために、作ったんです。母に、十三回、叱られながら」
「十三回」
「卵を、十三個、割りました」
直樹は黙って箸を取り、一切れ、口に運んだ。
焦げの苦味が、先に来た。次に、舌の奥から、殴るような甘さがやってきた。砂糖だ。塩の三倍は入っている。ご飯は芯が少し残っていて、噛むたびに小さく音を立てた。
舞が、固唾を呑んで見つめている。
「どう、ですか」
「……うまい」
「嘘です」
「嘘じゃない」
「顔が、泣きそうです」
「甘すぎるだけだ」
「やっぱり、甘すぎるんじゃないですか!」
舞が両手で顔を覆って、足をばたつかせた。耳が真っ赤になっている。
直樹は、声を出して笑った。それから、箸を止めなかった。唐揚げも、ご飯も、焦げた卵焼きも、蓋の裏の米粒ひとつまで、全部平らげた。
「完食」
「無理しなくていいのに」
「無理してない。焦げてるけど、うまかった」
「焦げてるのは、認めます」
舞はそう言って、鞄から赤いペンを取り出し、ノートの〈お弁当を作る〉の隣に、大きな丸を描いた。丸の端が、少し震えていた。
「来週、リベンジします。ジャンケンに三回勝つまで、終わらないタイプなので」
「知ってる」
「最初の一個、叶いました」
その笑顔があまりに眩しくて、直樹は思わず空を見た。初夏の空が、その瞬間、少し滲んで見えた。
*
これは、ずっとあとになって、舞が泣きながら話してくれたことだ。
その日の診察で、担当医は、検査結果の説明に、いつもより長い時間をかけた。「ご両親とも、よく話し合ってください」と声を落として言い、帰りに、白い封筒を渡された。
家に帰ると、舞は自室の机の前に座った。台所から、母が鍋の蓋をかたかた鳴らす音がする。
封筒から、紙を引き出す。見慣れた病院の名前。見慣れた判子。病名の欄に、長い漢字が並んでいた。先天性、という文字で始まる、その先に、進行、という二文字。最後の行に、移植、という言葉。
何度読んでも、文字は変わらなかった。
舞は、ゆっくり紙を畳んだ。折り目に沿って、きっちりと。机の一番下の引き出しを開ける。そこは、光の届かない、小さな暗がりだった。紙を、いちばん奥へ、そっと置く。
引き出しを閉めかけて、一度、止まった。握った拳が、机の上に、ことり、と落ちた。叩いたのではない。ただ、手の行き場がなかっただけだ。
どうして、私だけ。
その言葉は、声にならず、喉の奥で固い石になった。涙は出なかった。出したら、止まらなくなる気がした。
舞は深く息を吸って、ノートを開いた。赤い丸の下に、新しい行を書き足す。
〈好きな人と、たくさん思い出を作る〉
書いてから、ペンを置いて、小さく笑った。
――叶えるんだ。全部。
引き出しの奥の暗がりに、背を向けるようにして、そう決めた。
*
その夜、寮の廊下の電話が鳴ったのは、九時を少し回った頃だった。
受話器を取ると、風の音が先に聞こえた。続いて、息を吸い込む気配。
「もしもし。直樹さん?」
「ああ」
「今、いいですか」
「いい」
「日曜日、空いてますか」
「空いてる」
「海に行きませんか」
声は、いつもと同じ明るさだった。ただ、ほんの少しだけ、早口だった。
「リストの、いちばん最初のやつです。お弁当は持っていきませんから、安心してください」
「持ってきてもいい」
「えっ」
「焦げてても」
受話器の向こうで、舞が息を詰める気配がした。それから、くすくすと、小さな笑い声が、電話線を伝って耳の奥へ届いた。
「……行きます。絶対」
通話が切れたあとも、直樹は、受話器を握ったまま、しばらく動けなかった。廊下の窓の外に、夏の夜が濃く沈んでいる。遠くで、蛙が鳴いていた。
あの声の明るさの下に、何が隠れていたのか。十九歳の直樹は、まだ、知らなかった。
(第5話へ続く)