33年後、初恋が僕を救った
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
五十二歳の佐伯直樹は、孫娘の笑い声で朝を迎える、ごく穏やかな男だった。 ある日、固定電話が鳴る。骨髄バンクからの、適合の知らせ。迷わず協力を決めた彼の手元に届いた封筒には、三十三年間、看板からも地図からも目を逸らし続けてきた、病院の名前があった。 十九歳の春。サッカーしか見えていなかった青年が、その待合室で出会った一人の少女。 「隣、いいですか?」 飴の数で待ち時間を割る癖。焦げた卵焼き。夕焼けの海。 あの日から止まったままの時間が、いま、静かに動きはじめる。 これは、ひとつの初恋の記憶と、その先に続いていく人生の物語。
本文
第5話 海
その夕焼けは、焼き入れの直前の鋼の色をしていた。
台所の窓いっぱいに、赤から橙へ、橙から、触れたら火傷しそうな金色へ。
直樹は、洗った皿を拭く手を止めた。
九月の終わりの尾道は、日が沈むのが、急に早くなる。窓の向こうでは、瀬戸内の海が、傾いた太陽を水面いっぱいに受け止めて、ゆっくりと熱を帯びていた。対岸の島影は、墨を一滴落としたように濃く、その縁だけが赤く縁取られている。
「あら、いい夕焼け」
コンロの前で、静香が鍋の蓋を持ち上げながら言った。煮魚の甘辛い湯気が、窓ガラスをうっすら曇らせる。鼻歌は、今夜も半音ずれていた。
「洗濯物、取り込むの忘れてた。あなた、続きお願い。そこ拭いたら終わりだから」
「ああ」
静香がスリッパをぱたぱた鳴らして庭へ出ていくと、台所には、鍋の小さな泡の音だけが残った。
直樹は、布巾を握ったまま窓を見た。
提供の日まで、三か月を切っている。事務的な連絡は、何度か届いた。血液検査の結果、同意書の控え、静香が几帳面に貼り込んだカレンダーの、十二月の赤丸。日常は、その赤丸へ向かって、何事もなく進んでいく。
それなのに、窓の赤は、味噌汁の湯気を突き破って、直樹の胸のずっと奥まで届いた。
あの冬から、何も削らずに回り続けている旋盤が、ごう、と、いつもより一段低く唸る。
海だ。あの日の、海だった。
*
三十三年前、六月の終わり。梅雨の合間に奇跡みたいに空いた、晴れ間の日曜日だった。
十九歳の直樹は、待ち合わせの駅前に、約束の四十分前に着いていた。ベンチに座っては立ち上がり、自販機で缶コーヒーを買って、開けずに握りしめる。サッカーの試合前でも、こんなに喉は渇かない。
「直樹さん!」
声が先に届いた。顔を上げると、改札の向こうから、舞が小走りでやってくる。白いブラウスに、淡い水色のスカート。肩まで伸びた黒髪が、走るたびに軽く跳ねた。片腕には、小さな保冷バッグを、大事そうに抱えている。
「早いですね。私、三十分前に着いたと思ったのに」
「俺は四十分前」
「十分、負けた」
「勝負だったのか」
「勝負です。これから、全部」
さらりとそう言って、舞はバッグを少しだけ掲げてみせた。
「約束どおり、お弁当は持ってきてません。安心してください」
「じゃあ、それは」
「卵焼きです。単品です。お弁当ではありません」
真顔だった。直樹が吹き出すと、舞は頬を赤くして、「あとで試験します」とだけ言い、先に改札へ歩き出した。
電車は二両編成だった。窓際の席に並んで座ると、レールの継ぎ目が、一定の間隔で足の裏をノックしてくる。
最初は、工場の煙突が林のように立ち並ぶ埋立地を、延々と走った。直樹は、無意識に煙突の本数を数えてしまう。舞が、窓に額を寄せるようにして、その横顔をじっと見ていた。
「何か、いいことあるんですか」
「いや。癖で、煙突を数えてた」
「職業病ですね」
「そんな大層なもんじゃない」
「楽しそうです」
言われて、直樹は初めて、自分が口元を緩めていることに気づいた。
煙突の林が途切れた、その瞬間だった。
視界が、一気に開けた。
「あ」
舞が、小さく息を呑む。窓いっぱいに、青が広がっていた。空と、水と、そのあいだの細い白い線。陽の光が、無数の小さな鏡のように、波の上で跳ねている。
「海!」
子供みたいな声だった。舞は、窓ガラスに両手をついて、鼻先がくっつきそうなほど顔を寄せる。
「直樹さん、見てください、海です、海ですよ!」
「見てる」
「違うんです。海なんです。ちゃんと、海なんです」
何が違うのか、さっぱり分からない。けれど、舞は真剣だった。直樹は喉の奥で笑いを堪えて、「そうだな。海だな」とだけ返す。
「笑わないでください」
「笑ってない」
「絶対、思ってます」
「思ってない」
「怪しいです」
そう言いながら、舞の視線は、もう海のほうへ戻っていた。
*
小さな駅に降りた途端、潮の匂いが、鼻の奥まで入り込んできた。湿った風が、肌に塩の薄い膜を貼りつけていく。駅舎の屋根で、鴎が一羽、気だるそうに羽をたたんでいた。
海水浴場と呼ぶには、ささやかすぎる砂浜だった。ぐるりと防波堤に囲まれた入り江。遠くに貨物船が一艘、動かない染みのように浮かんでいる。人影は、犬を散歩させる老人がひとりだけだった。
「行きましょう!」
舞が、先に階段を駆け降りていく。白いスニーカーが、乾いた砂を蹴る。
「走るな、転ぶぞ」
「転びません」
「いつ転ぶか分からない奴は、だいたいそう言う」
「大丈夫、です」
波打ち際で、舞はしゃがみ込み、寄せてくる波に指先を浸した。
「冷たい」
「まだ六月だからな」
「でも、気持ちいいです」
顔を上げて笑う。陽を受けた横顔の輪郭が、端だけ白く透けて見えた。
この子は、全力で喜ぶ人だ、と直樹は思った。嬉しいときは体ごと嬉しい。楽しいときは息が続くかぎり楽しい。それが不思議と、隣にいる人間の肩の力まで抜いてくれる。
舞は、波に追われてきゃあと声を上げ、貝殻をひとつ拾って、耳に当てた。
「何も聞こえません」
「そうなのか」
「海に来すぎて、貝殻はもう、海の音に飽きたのかもしれません」
「理屈が強引だな」
「ジャンケンと同じです。納得するまで、終わらないので」
昼は、堤防に並んで腰かけた。舞が保冷バッグから小さな容器を取り出し、蓋を開ける。黄色い卵焼きが、三切れ、行儀よく並んでいた。
焦げ目はある。だが、前に見た炭のような黒ではない。ほどよく焼けた、琥珀色だった。
「リベンジです。あれから、卵を十九個、犠牲にしました。うち四個は殻が入ったので、母のみそ汁に」
一切れ、口に入れる。ふわりと出汁の香りが鼻に抜けた。砂糖は、まだ少し多い。けれど、焦げの苦味は、ほとんど消えていた。舞が、固唾を呑んで見つめている。
「採点、お願いします」
「六十五点」
「低い!」
「甘さは二割減った。焦げも、愛嬌程度だ」
「愛嬌は、点数に入りません!」
「じゃあ、七十」
「さっきより上がったのは、どういう理屈ですか」
「うまかったから」
舞は、一瞬固まった。それから容器を胸に抱え込んで、顔を伏せた。耳が、真っ赤だった。
「……来週は、八十点を目指します」
「来週も、作るのか」
「作ります。ジャンケンに、三回勝つまで」
*
午後は、海岸線をゆっくり歩いた。堤防沿いの遊歩道の端に、錆びたベンチが点々と並んでいる。潮風が、舞の髪を何度も目元へ運び、そのたびに舞は、耳の後ろへ髪を払った。
「直樹さん」
「ん」
「今日、ずっと私のこと、見てますよね」
「見てない」
「見てます。いま、見てました」
「風で、髪が目に入りそうだったから」
「心配してくれたんですか」
「……少し」
舞が、嬉しそうに笑った。
笑った顔のまま、ふいに足が止まった。
「っ」
息が、喉の奥で短く潰れる音がした。舞の指が、ブラウスの胸元を、ぎゅっと握る。顔から、血の気が、引き潮のようにすうっと失われていく。
直樹の体が、考えるより先に動いた。
「舞」
「平気、です」
「座るか」
「平気、ですって」
笑おうとして、うまくいかなかった。直樹は近くのベンチに舞の肩をそっと押して座らせ、自販機まで走った。冷えた麦茶の缶を買って戻ると、舞はうつむいたまま、膝の上で両手を握りしめていた。
「ほら」
缶を、額に当ててやる。
「……冷たい」
「そうだろ」
「ごめんなさい。せっかく、来たのに」
「謝るな」
「心配、させました」
「心配するくらいの権利は、恋人にあるだろ」
自分の口から出た言葉に、直樹のほうが驚いた。舞が、ゆっくりと顔を上げる。大きな目が、潤んでいた。
「……権利、ですか」
「ある」
「あるんですね」
「ある」
舞は、ふっと肩の力を抜くように笑った。さっきまでの、必死に整えた笑顔とは、少し違った。
「じゃあ、使ってください。権利」
小さな声だった。けれど潮騒の中で、はっきり聞こえた。
直樹は、何も訊かなかった。訊けなかった。舞の体の中に、何かが居座っている。それはもう、疑いようがなかった。けれど、ここで踏み込めば、せっかく開いた扉が、また閉まってしまう気がした。
だから、ただ隣に座った。肩が触れるくらいの近さで、同じ海を見た。
*
陽が傾いて、海の色が変わりはじめた。
昼間の青が褪せて、水面は、溶けた銅の色になった。水平線のあたりでは、太陽が、鋳型に流し込まれた鉄のように、赤く、重く、少しずつ沈んでいく。空は、橙から紅へ、紅から紫へ。雲の縁が、焼けた鋼の火花のように、細く光った。
風が、昼よりも少し冷たくなる。
舞は、靴を脱いで、素足で波打ち際に立っていた。白いブラウスの裾が、風で小さく踊る。寄せる波が足首を濡らすたびに、くすぐったそうに笑った。
直樹は、少し離れた場所から、その背中を見ていた。
綺麗だ、と思った。そんな言葉では足りないほどに。夕日が、舞の輪郭を縁取る。髪の一本一本まで、金色に透けている。この景色を、一生忘れない。根拠のない確信が、胸に落ちた。
上着を脱いで、歩み寄る。
「寒くないか」
「ちょっとだけ」
「着ろ」
「え、でも」
「風、強くなってきた」
肩にかけてやる。舞は、袖に腕を通して、少し大きすぎるそれを、体に巻きつけるように握った。
「直樹さんの匂いがします」
「汗くさいか」
「ううん。鉄と、石鹸と、あと、日なたの匂い」
袖口に、鼻先を埋める。
「似合わないか」
「似合わない」
「ひどい」
「いや、そうじゃなくて」
「分かってます」
舞はくすくす笑って、袖の中に、両手を隠した。
「今だけ、借ります」
並んで、砂浜を歩く。言葉は少なかったが、気まずさはどこにもなかった。波が寄せて、返して、足跡を消していく。海は、時間を、同じ場所で何度も畳み直している。
舞が、立ち止まった。夕日を背にして、振り返る。逆光で、表情がよく見えない。
「ねえ」
「ん」
「今日、楽しかったです」
「まだ、終わってないぞ」
「分かってます。でも、言いたくなりました」
一歩、近づく。
「海も好きです。卵焼きも、頑張りました。でも、いちばん楽しかったのは」
もう一歩。
「直樹さんと、一緒だったことです」
直樹は、目を逸らした。照れた顔を見せたくなかった。舞は、それをとうに見抜いている顔で、少し意地悪く笑う。
「照れてますか」
「照れてない」
「照れてます」
「照れてない」
「照れてます」
そこまで言って、舞は口をつぐんだ。息を吸って、その息を、小さな声に変える。
「……直くん」
世界が、止まった。
初めて呼ばれた。「さん」を取った、たったひと文字ぶんの短さが、胸の真ん中に、まっすぐ落ちた。
「え」
「直くん、です」
舞は、袖の中で、指先をぎゅっと握りしめている。耳まで、真っ赤だった。
「直樹さんより、一文字ぶん、近くなれる気がしたので」
波が、足元を洗った。夕日が、舞の瞳の中で、細く揺れる。
「だめ、ですか」
「……だめじゃない」
直樹の声は、かすれていた。
舞が、微笑んだ。そして、背伸びをした。
白いスニーカーのつま先が、砂を踏む。上着の袖から、細い手が出て、直樹の胸元に添えられる。近い。鼓動が聞こえる。自分のものか、舞のものか、もう分からない。
目を閉じる睫毛の影が、見えた。
唇が、触れた。
ほんの一瞬だった。けれど、時間が、糸を引くように長く伸びた。潮の味がした。少し冷たくて、柔らかくて、それなのに、触れたところだけ、驚くほどあたたかかった。
舞が、離れる。
直樹は、動けなかった。舞も動かなかった。互いの息だけが、潮風の中で、小さく揺れている。
「……先に、しちゃいました」
舞が、小さな声で言った。
「ずるいだろ」
「ですよね」
二人は、同時に笑った。声が震えて、うまく笑えなかった。それでも、おかしかった。幸せで、胸が詰まって、笑うしかなかった。
あとから思い出すたび、この日の舞は、ずっと笑っていたことになっている。夕日の中で、一度も、泣かなかった。そう記憶している。
*
夜が、水平線の端から、じわじわと滲んできた。
終電までには、まだ時間があった。二人は砂浜から遊歩道へ上がり、並んで駅のほうへ歩いた。街灯が、ぽつ、ぽつ、と灯りはじめる。波の音が、昼間より少し低く聞こえた。
舞は、直樹の腕に、そっと寄りかかっていた。上着の袖は、まだ返されていない。
「直くん」
「ん」
「もう少しだけ、このままでいさせて」
小さな声だった。夜風に溶けてしまいそうなほど。
「終電までは、まだある」
「……うん」
「間に合うように、ゆっくり歩こう」
「……うん」
舞は、直樹の腕に、額を、そっと押し当てた。
十九歳の直樹は、それを、時間の話だとしか思わなかった。
(第6話へ続く)