33年後、初恋が僕を救った
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
五十二歳の佐伯直樹は、孫娘の笑い声で朝を迎える、ごく穏やかな男だった。 ある日、固定電話が鳴る。骨髄バンクからの、適合の知らせ。迷わず協力を決めた彼の手元に届いた封筒には、三十三年間、看板からも地図からも目を逸らし続けてきた、病院の名前があった。 十九歳の春。サッカーしか見えていなかった青年が、その待合室で出会った一人の少女。 「隣、いいですか?」 飴の数で待ち時間を割る癖。焦げた卵焼き。夕焼けの海。 あの日から止まったままの時間が、いま、静かに動きはじめる。 これは、ひとつの初恋の記憶と、その先に続いていく人生の物語。
本文
第6話 夢
夢
2歳になる孫が蹴ったボールは、ころころと転がって、僕の左足の前で止まった。
蹴り返せばいい。それだけのことだった。三十三年前の僕なら、目を閉じていても、孫の小さな両手にすとんと収まるように返せたはずだ。
足が動かなかった。膝から下が、他人のものにすり替わっていた。
「じぃじ、はやくー!」
秋の公園には金木犀の匂いが溜まっていた。甘い香りが空気を重くして、頭上では銀杏がまだ青いまま風に揺れている。土曜の午後の日差しは柔らかいのに、僕の背中にだけ冷たい汗が一筋、つうと伝った。
旋盤の刃が加工の途中でふっと止まる瞬間がある。モーターは唸っているのに、削るべき相手を見失って、刃だけが空を切る。いまの僕の左足は、あれによく似ていた。
「はいはい、いくぞ」
右足の内側で、そっと押し出した。ボールは情けなくよろよろと転がり、孫の三歩手前で力尽きた。孫は一瞬きょとんとして、それから弾けるように笑い、ボールに飛びついた。
「じぃじ、へたっぴ!」
「じぃじは、昔はうまかったんだぞ」
「うそだー」
ベンチで下の孫を抱いていた静香が、こちらを見て目を細めた。何も言わない。ただ、僕の左足を一度だけ見て、すぐに視線を孫に戻した。気づいたのだ。三十年近く連れ添った人は、こういうところで容赦なく鋭い。そして、こういうところで何も訊かない。
僕はボールを拾う孫の背中を見ながら、胸の中で小さく言い訳をした。歳のせいだ。五十二にもなれば、足の一本や二本、言うことを聞かなくなる。
けれど本当は知っていた。足が止まったのは、歳のせいだけではなかった。
*
あの日も、こんなふうに空が高かった。
十九の秋、僕は会社のサッカー部で左サイドを走っていた。昼は工場で金属の削りくずにまみれ、夕方からグラウンドで芝にまみれる。社会人リーグの試合は、観客席と呼べるほどのものもない土手の上で行われた。ベンチ代わりのパイプ椅子に、近所の年寄りがちらほら座っているだけだ。
その土手の、いちばん前の席に、舞がいた。
白いカーディガンの袖を、指先がほとんど隠れるほど伸ばして、魔法瓶を両手で抱えている。僕と目が合うと、彼女は小さく手を振った。振った手の先で、袖がぱたぱたと揺れた。
それだけで、僕の足は軽くなった。
前半二十分、右サイドの先輩からのパスを、ワンタッチで前へ流した。芝を蹴る乾いた音が、自分の心臓の音と重なった。ゴールラインぎりぎりで折り返したボールに、フォワードの先輩が頭で合わせる。ネットが揺れた。
土手が沸いた。年寄りたちの拍手と、舞の、高く澄んだ声。
「直くん! すごい!」
あの声だけは、三十三年たっても耳の奥で鳴る。工場の始業ベルのように、僕の背筋を伸ばす声だった。
後半、気がつくと舞の席が空いていた。
ボールを追いながら、僕は一瞬だけ視線を土手へ泳がせた。魔法瓶だけが、ぽつんと椅子に残されている。手洗いかな、とそのときは思った。それ以上は考えなかった。試合は終盤で、同点で、僕の頭の中にはゴールのことしかなかった。
終了間際、ペナルティエリアの手前でこぼれ球を拾った。ディフェンダーが二人、寄せてくる。右へ振るふりをして、左足の裏でボールを引いた。体が勝手に動いた。二人の間を抜け、左足を振り抜く。
ボールは、キーパーの指先をかすめて、ネットの上隅に突き刺さった。
笛が鳴った。二対一。
仲間にもみくちゃにされながら、僕はまた土手を見上げた。舞は席に戻っていた。魔法瓶を抱え直して、顔の半分をカーディガンの襟に埋めて、それでも笑っていた。
その笑顔が、いつもより少しだけ白いことに、僕は気づかなかった。
*
試合後、グラウンドの隅で汗を拭いていると、グレーのジャンパーを着た見知らぬ男が近づいてきた。五十がらみで、日に焼けた首筋に、古い傷のような皺が何本も刻まれている。
「佐伯くん、だね」
「はい」
「いまの左足、いいね。ぜんぶ見ていたよ」
男は名刺を差し出した。聞いたことのあるプロクラブの名前が、小さな活字で刷られていた。今年の春に始まったばかりの、あのプロリーグの。
「うちの強化部の者でね。このあたりの試合は、ときどき覗きにきているんだ」
僕は返事ができなかった。名刺を持つ指先が、自分のものではないみたいに痺れていた。
「もう少し体ができれば、行けますよ。Jリーグ」
耳の奥で、何かが鳴った。大きな鐘のようでもあり、小さな鈴のようでもあった。
「来月、改めて試合を見に来ます。そのときは、きみのことを、ちゃんと『見る』つもりで来る」
男はそう言って、軽く手を挙げ、土手の向こうへ去っていった。
僕はしばらく動けなかった。足元の芝の匂い、遠くの工場の煙突から立ちのぼる白い煙、夕方の風に混じる誰かの家の味噌汁の匂い。そのすべてが、急に、くっきりと輪郭を持ち始めた。ずっと曇っていた眼鏡を、いきなり拭かれたみたいに。
「直くん!」
駆けてくる足音がして、振り向くと、舞が息を弾ませていた。
「いまの人、誰? なに話してたの?」
僕は名刺を見せた。舞はそれを両手で受け取り、顔を近づけて、活字を一文字ずつ指でなぞった。読み終えると、顔をあげた。目が、濡れた硝子玉のように光っていた。
「……うそ」
「うそじゃない。行けるって。Jリーグ」
「直くん」
舞は名刺を胸に抱いて、それから突然、僕に抱きついた。背の低い彼女の頭が、僕の顎の下にすっぽり収まる。汗だくのユニフォームに、遠慮もなく顔を埋めてくる。
「すごい、すごいよ、直くん。ほんとにすごい」
「汗くさいぞ」
「いいの。直くんの汗は、きれいなの」
どこで覚えたのか分からない台詞で、彼女は笑った。笑いながら、少し泣いていた。ストーブをつけた部屋で窓の曇りが一瞬で晴れるように、彼女の泣き笑いは、僕の中の不安をいっぺんに消してしまった。
*
帰り道は、川沿いを歩いた。
日が落ちて、空の端だけがまだ柿の実の色をしていた。川面には街灯の光が、割れた硝子のように揺れて浮かんでいる。僕はしゃべり続けていた。月末の練習のこと、来月の試合のこと、もし本当にプロになれたら、最初の給料で何をするか。
「まず、舞に新しいカーディガン」
「いらないよ、これ気に入ってるもん」
「じゃあ、魔法瓶」
「それはもう持ってる」
「じゃあ……なんだろう」
「いいの。直くんが走ってるのを見られたら、それがいちばんのごほうび」
舞は半歩うしろを、僕の袖をつまんで歩いていた。歩調を合わせようと、ときどき僕が速度を落とす。それでも舞はだんだん遅れていく。僕は夢の話に夢中で、そのことに、なかなか気づけなかった。
「だからさ、舞。もし俺がプロになったら——」
袖が、ぐい、と後ろへ引かれた。
振り返ると、舞が立ち止まっていた。
街灯の下で、顔の色が、昼間よりずっと薄かった。唇のあたりから血の気が引いて、陶器のような白さになっている。肩がほんの少し、上下していた。
「舞?」
「……ううん、なんでもない。石ころ、踏んだだけ」
舞はにっこり笑った。いつもの笑顔だった。三十三年たった今でも、僕の記憶の中でいちばんきれいな顔のまま、そこにある。
だから僕は、疑わなかった。
「大丈夫か?」
「うん。大丈夫。ほら、行こう」
舞は僕の袖をまた掴んだ。さっきよりずっと強く。爪の先が白くなるほど、袖口の布を握りしめていた。その力が、石ころのせいで入るものではないことを、十九の僕は知らなかった。
僕は何も気づかないまま、彼女の歩調に合わせて、またゆっくり歩き出した。
*
「じぃじ?」
孫の声で、現実に引き戻された。
足元のボールを、孫が両手で抱えている。小さな顔を傾けて、僕を見上げていた。
「じぃじ、ないてるの?」
「泣いてないよ。目に、銀杏の葉っぱが入っただけだ」
「うそだー」
「ほんとだ」
僕は笑って、孫の頭を撫でた。ベンチの静香が、遠くから何も言わずにこちらを見ている。傘の柄を握るように、赤ん坊を抱く腕に力を込めて。
三十三年前、止まったのは舞の足だった。
そして今、止まるのは僕の足のほうだ。
あの夜、袖を掴んだ彼女の握力の意味を、僕が知るのは、ほんの少しだけ先のことになる。