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33年後、初恋が僕を救った

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/11/8 📚 シリーズ: 33年後、初恋が僕を救った 📝 4,648文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

五十二歳の佐伯直樹は、孫娘の笑い声で朝を迎える、ごく穏やかな男だった。 ある日、固定電話が鳴る。骨髄バンクからの、適合の知らせ。迷わず協力を決めた彼の手元に届いた封筒には、三十三年間、看板からも地図からも目を逸らし続けてきた、病院の名前があった。 十九歳の春。サッカーしか見えていなかった青年が、その待合室で出会った一人の少女。 「隣、いいですか?」 飴の数で待ち時間を割る癖。焦げた卵焼き。夕焼けの海。 あの日から止まったままの時間が、いま、静かに動きはじめる。 これは、ひとつの初恋の記憶と、その先に続いていく人生の物語。

本文

第7話 秘密

傘は、黒くて大きかった。

二人で入っても、肩が濡れないほどに。

静香がそれを何も言わずに差し出したとき、直樹は、首筋に、あの日の雨の冷たさを思い出した。

  *

十月の最後の週は、雨ばかりだった。

玄関の硝子戸の向こうで、雨が、庭の紫陽花の枯れ葉を、一枚ずつ丁寧に叩いている。土と鉄の混じった匂いが、湿った風に乗って上がり框まで届いていた。直樹は、靴を履いたまま、動けずにいた。

「また、止まってる」

背後から、静香の声がした。

「え」

「雨の日の朝は、いつも、玄関で一度止まるの。三十年、見てきたから」

責めるでも、問うでもない声だった。静香は、傘立てから黒い傘を一本抜き取り、直樹の手に握らせた。骨の太い、重い傘だった。

「大きいのにしておいたから。濡れたまま帰ってこないでね」

「……ああ」

「行ってらっしゃい」

それだけ言って、静香は台所へ戻っていった。鼻歌は、今朝は聞こえなかった。

傘の柄は、静香の掌の温もりを、まだ少しだけ残していた。直樹は、それを握り直した。この人は、なぜ止まるのかを、一度も訊かない。訊かないことが、優しさなのか、それとも。

その先を考えるのが怖くて、硝子戸を開けた。雨音が、一気に耳へなだれ込む。

あの日も、こんな音だった。十九歳の直樹には、傘が、なかった。

  *

三十三年前の十月、最後の水曜日だった。

病院の窓の外は、朝から雨だった。灰色の雲が、屋根の高さまで降りてきている。待合室の蛍光灯は、昼間なのにすべて点いていて、人々の顔を、白く薄く、同じ色に塗り込めていた。

十九歳の直樹は、長椅子の端に座って、舞の診察が終わるのを待っていた。自分の足首は、とうに治っている。それでも、水曜になると、仕事の合間を縫って、ここへ来る。理由は、もう誰にも言い訳しなかった。

あの日、試合のあとの帰り道で、舞の足が、夕暮れの中でぴたりと止まったことを、直樹は、ずっと胸に抱えていた。尋ねなかった。尋ねないまま、二週間が過ぎた。舞は、前より少しだけ痩せた。笑う回数は、少しも減らなかった。笑顔の下に、薄い膜のような疲れが、ゆっくり広がっていくのが、分かった。

診察室の扉が開いて、舞が出てきた。

「お待たせしました」

「長かったな」

「先生が、お話好きで」

「そうか」

「今日は、割り算で、勝てませんでした」

冗談めかした口調だった。ポケットから出した飴の包みを、直樹の掌に載せる。レモン色の包み紙が、手のひらで、小さく鳴った。

舞の指先が、冷たかった。それが、妙に、掌に残った。

「寒いのか」

「ううん。雨の日は、冷えるだけです」

「何か、温かいものを買ってくる。そこの椅子で、待ってろ」

「じゃあ、お願いします。ミルクたっぷりで」

「分かった」

直樹は立ち上がり、廊下の突き当たりの自販機へ向かった。小銭を握る手が、心なしか、強く力んでいる。何か、が、胸の底に引っかかっている。その何かの名前が、まだ付けられなかった。

自販機の前は、柱の陰になっていて、待合室からは見えない。缶コーヒーを二本、買った。ミルクたっぷりと、ブラック。取り出し口から出した缶は、掌をじんわり焼いた。

そのとき、柱の向こうの廊下から、声が、聞こえた。

薬品のカートを押す、車輪の軋む音。二人分の足音。小声だった。声を落としているのに、病院の長い廊下は、それを、皮肉なほどはっきりと運んでくる。

「藤原さん、今日の数値、また下がってたでしょう」

「うん。先生、ご両親と、何度もお話ししてるみたい。移植のこと、本格的に考えたほうがいいって」

「まだ、十九歳なのに」

「本人は、いつもあんなに明るいんだけどね。聞いた? 先生、余命の話まで、していらしたって」

缶コーヒーを持つ手から、力が、抜けた。

聞き間違いだ、と思おうとした。藤原という名字は、珍しくない。十九歳の患者だって、この病院に、他にもいるかもしれない。

けれど、その「かもしれない」は、すぐに、床へ落ちて割れた。

藤原。十九歳。水曜の診察。いつもあんなに、明るい。

条件が、一つずつ、嵌まっていく。ばらばらだった記憶の欠片が、見えない糸に引かれて、一本の線になる。公園のベンチで握りしめた胸元。海岸で引いていった顔の血の気。試合の帰り道で、ぴたりと止まった足。〈人生は、後回しにすると、賞味期限が来るんです〉。

廊下の床が、一枚の薄い鉄板に変わった。踏んだ足の裏から、体温を、どんどん奪っていく。

余命。

たった二文字が、頭の中で、割れた鐘のように、鳴り続けた。

足音が遠ざかっても、直樹は、動けなかった。缶コーヒーの熱だけが、自分の体温の最後の砦のように、掌に残っていた。

  *

待合室に戻ると、舞は、長椅子に座って、膝の上で文庫本を開いていた。

ページは、一枚も、めくられていない。視線だけが、行の上を、ぼんやり泳いでいる。そんな舞の姿を、直樹は、初めて、遠くから眺めた気がした。いつもの、少しだけ身を乗り出す仕草が、どこにもない。小さな背中が、長椅子に、薄く貼りついていた。

あんなに近くにいたのに、気づかなかった。

「あ、直くん」

顔を上げた舞は、いつもの笑顔を作った。作った、と、はっきり分かった。

「ミルクたっぷり、買えました?」

「……ああ」

缶を渡す。舞が両手で包み込む。指先が、少し震えている。

「帰ろう」

「え、まだ時間」

「帰ろう」

直樹の声が、自分でも驚くほど、低かった。舞が、一瞬、目を見開く。

二人は、無言で病院を出た。

雨は、強くなっていた。傘を持っていなかった。舞の鞄から出てきた小さな折りたたみ傘は、二人で入るには、あまりに頼りない。それでも、舞は、それを広げて、直樹のほうへ傾けた。

「濡れちゃいますよ」

「いい」

「でも」

「いいから」

病院の前の公園は、誰もいなかった。濡れた砂場。濡れたブランコ。桜の葉が、茶色く腐って、舗道に貼りついている。直樹は、足を止めた。舞が、二歩先で、立ち止まる。

「舞」

「はい」

「話がある」

声が、雨音に削られて、薄く震えた。舞の肩が、ぴくりと動いた。傘が、傾く。

「病院で、聞いた」

舞の呼吸が、止まった。

「廊下で。看護師の話を」

「……」

「病気、なのか」

雨の音だけが、世界の全部になった。舞は、答えなかった。その沈黙が、答えだった。

「何の病気なんだ」

「……」

「いつからだ」

「……」

「なんで、言わなかった」

その瞬間だった。

傘が、舞の手から、滑り落ちた。濡れた地面に落ちて、くるりと半回転して、風に押されて、ころころと転がっていった。舞は、拾わなかった。傘のない頭の上から、雨が、容赦なく降り注ぐ。

髪が、見る間に濡れて、頬に貼りついた。肩が、小さく震えはじめた。両手で口を押さえて、声を殺す。それでも、喉の奥から、細い音が、漏れてくる。

「……ごめんなさい」

掠れた声だった。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

壊れたレコードのように、繰り返す。

あとから思い出すと、あのとき、舞は、泣き出す前に、笑おうとしていた。唇の端が、確かに、持ち上がったのを、覚えている。笑顔の形を作ろうとして、作りきれずに崩れた。その順番を、記憶は、優しく、笑顔のほうに寄せてくれている。

「言えなかったの」

舞が、ようやく、顔を上げた。雨と涙の区別がつかない。目が、真っ赤だった。

「言ったら、終わるって、思って。言ったら、直くんが、離れていくって」

「俺が?」

「だって、普通は、嫌になりますよね」

舞は、雨の中で、笑おうとした。笑えなかった。

「十九歳で。結婚できるかも分からなくて。子供を産めるかも分からなくて。いつまで生きられるかも、分からなくて。そんな女の子、重いじゃないですか。直くんには、夢があるのに。Jリーグにだって、行く人なのに」

声が、ばらばらに崩れた。

「好きになっちゃったから。本当に、好きになっちゃったから、言えなかったの。嫌われたく、なかった」

その、最後の一言が。

直樹の中の、何かを、切った。

「ふざけんな」

自分の声とは思えない、低さだった。舞が、びくりと肩を震わせた。雨が、二人のあいだを、細い線で縫い合わせる。

「なんで、そうなる」

「だって」

「なんで、一人で決めるんだ。俺が離れるって、誰が決めた。お前か」

拳が、震えていた。怒っている。けれど、舞にではない。自分に。何も気づけなかった自分に。何も知らないまま、一緒に飴を数えていた自分に。そして、この子に、笑うことしか許さなかった、何かに。

「苦しいなら、言えよ。辛いなら、言えよ。怖いなら、怖いって、言えよ」

声が、掠れた。

「一人で抱えるな。……頼むから」

最後は、ほとんど、呟きだった。

舞の目から、大粒の涙が、堰を切ったように溢れた。

「だって、」

「だっても何もあるか」

「……こわいんです」

舞は、初めて、そう言った。

「怖いんです。ずっと、怖かった。どうして私だけって、毎晩、思って。でも、泣いたら、立てなくなるから。だから、笑ってたの。笑ってたら、大丈夫な気がして」

直樹は、もう、何も言えなかった。ただ、気づいたら、体が動いていた。濡れた腕で、舞の肩を、引き寄せていた。

舞の体は、驚くほど小さかった。雨に濡れた髪が、直樹の胸元に、冷たく貼りつく。それなのに、触れたところだけ、熱かった。舞は、最初、身を固くして、それから、堰が外れたように、しがみついてきた。両手で、直樹のシャツを、握りしめる。溺れる人が、浮き輪を掴むみたいに。

「馬鹿だな」

直樹は、舞の濡れた頭の上で、言った。

「本当に、馬鹿だ」

舞が、声を上げて泣いた。今まで、押し込めてきたものを、全部、吐き出すように。雨音が、その泣き声を飲み込んで、世界に溶かしていく。

「俺が、お前を嫌いになるわけ、ないだろ」

声が、震えた。

「一人にはしない」

雨は、止む気配がなかった。長い髪から、水が滴り落ちて、顎を伝って、舞の肩に落ちる。ブランコが、風に揺れて、軋んだ音を立てた。転がっていった折りたたみ傘が、遠くの水たまりの中で、ゆっくりと回っていた。

直樹は、その瞬間、思った。何があっても、この子を守る。何があっても、手を離さない。

それは、誓いと呼ぶには、あまりに幼く、あまりに必死な、祈りだった。その祈りが、どれほど残酷な未来へ繋がっているかを、十九歳の直樹は、まだ知らなかった。

  *

どれくらい、そうしていたのか分からない。

舞が、ようやく、体を離した。濡れた髪が、頬に貼りついている。目の周りが、赤く腫れている。それなのに、その顔は、泣く前より、ずっと、軽かった。

「……直くん」

「ん」

「ありがとう」

「何が」

「怒ってくれて」

舞は、洟をすすって、少し笑った。今度の笑顔は、作ったものではなかった。ぐしゃぐしゃで、不格好で、それなのに、いままで見たどんな笑顔より、美しかった。

「私、ずっと、誰かに、怒ってほしかったのかもしれません」

濡れた手の甲で、目元を拭う。それから、足元の水たまりを見て、小さく呟いた。

「傘、拾わないと」

「いい。もう、手遅れだ」

「風邪、引きますね」

「引く。二人とも」

「じゃあ、割り算で、勝てないですね」

舞が、泣き笑いの顔で、直樹を見上げた。それから、少し、息を吸って、言った。

「あの、直くん。お願いが、あります」

「何だ」

「私の、やりたいことリストに、一つ、足してもいいですか」

雨が、まつげの先で、小さく弾けた。

「次は、直くんの故郷へ、行きたいです」

直樹の中で、何かが、小さく、軋んだ。

故郷。海。坂道。蝉の声。墓石の列。五歳の夏。

それは、直樹が、誰にも、見せたことのない部屋だった。

(第8話へ続く)

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作者について

天霧 セナ

天霧 セナ

広島在住。AI生成を使用し小説とイラストをやってます。 ファンタジー・SF・恋愛など色々書いてますが、 一番大事にしてるのは感情の動き。AIで感情表現は何処までできるかをテーマにしてます。 今年...

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