33年後、初恋が僕を救った
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
五十二歳の佐伯直樹は、孫娘の笑い声で朝を迎える、ごく穏やかな男だった。 ある日、固定電話が鳴る。骨髄バンクからの、適合の知らせ。迷わず協力を決めた彼の手元に届いた封筒には、三十三年間、看板からも地図からも目を逸らし続けてきた、病院の名前があった。 十九歳の春。サッカーしか見えていなかった青年が、その待合室で出会った一人の少女。 「隣、いいですか?」 飴の数で待ち時間を割る癖。焦げた卵焼き。夕焼けの海。 あの日から止まったままの時間が、いま、静かに動きはじめる。 これは、ひとつの初恋の記憶と、その先に続いていく人生の物語。
本文
第7話 秘密
傘は、黒くて大きかった。
二人で入っても、肩が濡れないほどに。
静香がそれを何も言わずに差し出したとき、直樹は、首筋に、あの日の雨の冷たさを思い出した。
*
十月の最後の週は、雨ばかりだった。
玄関の硝子戸の向こうで、雨が、庭の紫陽花の枯れ葉を、一枚ずつ丁寧に叩いている。土と鉄の混じった匂いが、湿った風に乗って上がり框まで届いていた。直樹は、靴を履いたまま、動けずにいた。
「また、止まってる」
背後から、静香の声がした。
「え」
「雨の日の朝は、いつも、玄関で一度止まるの。三十年、見てきたから」
責めるでも、問うでもない声だった。静香は、傘立てから黒い傘を一本抜き取り、直樹の手に握らせた。骨の太い、重い傘だった。
「大きいのにしておいたから。濡れたまま帰ってこないでね」
「……ああ」
「行ってらっしゃい」
それだけ言って、静香は台所へ戻っていった。鼻歌は、今朝は聞こえなかった。
傘の柄は、静香の掌の温もりを、まだ少しだけ残していた。直樹は、それを握り直した。この人は、なぜ止まるのかを、一度も訊かない。訊かないことが、優しさなのか、それとも。
その先を考えるのが怖くて、硝子戸を開けた。雨音が、一気に耳へなだれ込む。
あの日も、こんな音だった。十九歳の直樹には、傘が、なかった。
*
三十三年前の十月、最後の水曜日だった。
病院の窓の外は、朝から雨だった。灰色の雲が、屋根の高さまで降りてきている。待合室の蛍光灯は、昼間なのにすべて点いていて、人々の顔を、白く薄く、同じ色に塗り込めていた。
十九歳の直樹は、長椅子の端に座って、舞の診察が終わるのを待っていた。自分の足首は、とうに治っている。それでも、水曜になると、仕事の合間を縫って、ここへ来る。理由は、もう誰にも言い訳しなかった。
あの日、試合のあとの帰り道で、舞の足が、夕暮れの中でぴたりと止まったことを、直樹は、ずっと胸に抱えていた。尋ねなかった。尋ねないまま、二週間が過ぎた。舞は、前より少しだけ痩せた。笑う回数は、少しも減らなかった。笑顔の下に、薄い膜のような疲れが、ゆっくり広がっていくのが、分かった。
診察室の扉が開いて、舞が出てきた。
「お待たせしました」
「長かったな」
「先生が、お話好きで」
「そうか」
「今日は、割り算で、勝てませんでした」
冗談めかした口調だった。ポケットから出した飴の包みを、直樹の掌に載せる。レモン色の包み紙が、手のひらで、小さく鳴った。
舞の指先が、冷たかった。それが、妙に、掌に残った。
「寒いのか」
「ううん。雨の日は、冷えるだけです」
「何か、温かいものを買ってくる。そこの椅子で、待ってろ」
「じゃあ、お願いします。ミルクたっぷりで」
「分かった」
直樹は立ち上がり、廊下の突き当たりの自販機へ向かった。小銭を握る手が、心なしか、強く力んでいる。何か、が、胸の底に引っかかっている。その何かの名前が、まだ付けられなかった。
自販機の前は、柱の陰になっていて、待合室からは見えない。缶コーヒーを二本、買った。ミルクたっぷりと、ブラック。取り出し口から出した缶は、掌をじんわり焼いた。
そのとき、柱の向こうの廊下から、声が、聞こえた。
薬品のカートを押す、車輪の軋む音。二人分の足音。小声だった。声を落としているのに、病院の長い廊下は、それを、皮肉なほどはっきりと運んでくる。
「藤原さん、今日の数値、また下がってたでしょう」
「うん。先生、ご両親と、何度もお話ししてるみたい。移植のこと、本格的に考えたほうがいいって」
「まだ、十九歳なのに」
「本人は、いつもあんなに明るいんだけどね。聞いた? 先生、余命の話まで、していらしたって」
缶コーヒーを持つ手から、力が、抜けた。
聞き間違いだ、と思おうとした。藤原という名字は、珍しくない。十九歳の患者だって、この病院に、他にもいるかもしれない。
けれど、その「かもしれない」は、すぐに、床へ落ちて割れた。
藤原。十九歳。水曜の診察。いつもあんなに、明るい。
条件が、一つずつ、嵌まっていく。ばらばらだった記憶の欠片が、見えない糸に引かれて、一本の線になる。公園のベンチで握りしめた胸元。海岸で引いていった顔の血の気。試合の帰り道で、ぴたりと止まった足。〈人生は、後回しにすると、賞味期限が来るんです〉。
廊下の床が、一枚の薄い鉄板に変わった。踏んだ足の裏から、体温を、どんどん奪っていく。
余命。
たった二文字が、頭の中で、割れた鐘のように、鳴り続けた。
足音が遠ざかっても、直樹は、動けなかった。缶コーヒーの熱だけが、自分の体温の最後の砦のように、掌に残っていた。
*
待合室に戻ると、舞は、長椅子に座って、膝の上で文庫本を開いていた。
ページは、一枚も、めくられていない。視線だけが、行の上を、ぼんやり泳いでいる。そんな舞の姿を、直樹は、初めて、遠くから眺めた気がした。いつもの、少しだけ身を乗り出す仕草が、どこにもない。小さな背中が、長椅子に、薄く貼りついていた。
あんなに近くにいたのに、気づかなかった。
「あ、直くん」
顔を上げた舞は、いつもの笑顔を作った。作った、と、はっきり分かった。
「ミルクたっぷり、買えました?」
「……ああ」
缶を渡す。舞が両手で包み込む。指先が、少し震えている。
「帰ろう」
「え、まだ時間」
「帰ろう」
直樹の声が、自分でも驚くほど、低かった。舞が、一瞬、目を見開く。
二人は、無言で病院を出た。
雨は、強くなっていた。傘を持っていなかった。舞の鞄から出てきた小さな折りたたみ傘は、二人で入るには、あまりに頼りない。それでも、舞は、それを広げて、直樹のほうへ傾けた。
「濡れちゃいますよ」
「いい」
「でも」
「いいから」
病院の前の公園は、誰もいなかった。濡れた砂場。濡れたブランコ。桜の葉が、茶色く腐って、舗道に貼りついている。直樹は、足を止めた。舞が、二歩先で、立ち止まる。
「舞」
「はい」
「話がある」
声が、雨音に削られて、薄く震えた。舞の肩が、ぴくりと動いた。傘が、傾く。
「病院で、聞いた」
舞の呼吸が、止まった。
「廊下で。看護師の話を」
「……」
「病気、なのか」
雨の音だけが、世界の全部になった。舞は、答えなかった。その沈黙が、答えだった。
「何の病気なんだ」
「……」
「いつからだ」
「……」
「なんで、言わなかった」
その瞬間だった。
傘が、舞の手から、滑り落ちた。濡れた地面に落ちて、くるりと半回転して、風に押されて、ころころと転がっていった。舞は、拾わなかった。傘のない頭の上から、雨が、容赦なく降り注ぐ。
髪が、見る間に濡れて、頬に貼りついた。肩が、小さく震えはじめた。両手で口を押さえて、声を殺す。それでも、喉の奥から、細い音が、漏れてくる。
「……ごめんなさい」
掠れた声だった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
壊れたレコードのように、繰り返す。
あとから思い出すと、あのとき、舞は、泣き出す前に、笑おうとしていた。唇の端が、確かに、持ち上がったのを、覚えている。笑顔の形を作ろうとして、作りきれずに崩れた。その順番を、記憶は、優しく、笑顔のほうに寄せてくれている。
「言えなかったの」
舞が、ようやく、顔を上げた。雨と涙の区別がつかない。目が、真っ赤だった。
「言ったら、終わるって、思って。言ったら、直くんが、離れていくって」
「俺が?」
「だって、普通は、嫌になりますよね」
舞は、雨の中で、笑おうとした。笑えなかった。
「十九歳で。結婚できるかも分からなくて。子供を産めるかも分からなくて。いつまで生きられるかも、分からなくて。そんな女の子、重いじゃないですか。直くんには、夢があるのに。Jリーグにだって、行く人なのに」
声が、ばらばらに崩れた。
「好きになっちゃったから。本当に、好きになっちゃったから、言えなかったの。嫌われたく、なかった」
その、最後の一言が。
直樹の中の、何かを、切った。
「ふざけんな」
自分の声とは思えない、低さだった。舞が、びくりと肩を震わせた。雨が、二人のあいだを、細い線で縫い合わせる。
「なんで、そうなる」
「だって」
「なんで、一人で決めるんだ。俺が離れるって、誰が決めた。お前か」
拳が、震えていた。怒っている。けれど、舞にではない。自分に。何も気づけなかった自分に。何も知らないまま、一緒に飴を数えていた自分に。そして、この子に、笑うことしか許さなかった、何かに。
「苦しいなら、言えよ。辛いなら、言えよ。怖いなら、怖いって、言えよ」
声が、掠れた。
「一人で抱えるな。……頼むから」
最後は、ほとんど、呟きだった。
舞の目から、大粒の涙が、堰を切ったように溢れた。
「だって、」
「だっても何もあるか」
「……こわいんです」
舞は、初めて、そう言った。
「怖いんです。ずっと、怖かった。どうして私だけって、毎晩、思って。でも、泣いたら、立てなくなるから。だから、笑ってたの。笑ってたら、大丈夫な気がして」
直樹は、もう、何も言えなかった。ただ、気づいたら、体が動いていた。濡れた腕で、舞の肩を、引き寄せていた。
舞の体は、驚くほど小さかった。雨に濡れた髪が、直樹の胸元に、冷たく貼りつく。それなのに、触れたところだけ、熱かった。舞は、最初、身を固くして、それから、堰が外れたように、しがみついてきた。両手で、直樹のシャツを、握りしめる。溺れる人が、浮き輪を掴むみたいに。
「馬鹿だな」
直樹は、舞の濡れた頭の上で、言った。
「本当に、馬鹿だ」
舞が、声を上げて泣いた。今まで、押し込めてきたものを、全部、吐き出すように。雨音が、その泣き声を飲み込んで、世界に溶かしていく。
「俺が、お前を嫌いになるわけ、ないだろ」
声が、震えた。
「一人にはしない」
雨は、止む気配がなかった。長い髪から、水が滴り落ちて、顎を伝って、舞の肩に落ちる。ブランコが、風に揺れて、軋んだ音を立てた。転がっていった折りたたみ傘が、遠くの水たまりの中で、ゆっくりと回っていた。
直樹は、その瞬間、思った。何があっても、この子を守る。何があっても、手を離さない。
それは、誓いと呼ぶには、あまりに幼く、あまりに必死な、祈りだった。その祈りが、どれほど残酷な未来へ繋がっているかを、十九歳の直樹は、まだ知らなかった。
*
どれくらい、そうしていたのか分からない。
舞が、ようやく、体を離した。濡れた髪が、頬に貼りついている。目の周りが、赤く腫れている。それなのに、その顔は、泣く前より、ずっと、軽かった。
「……直くん」
「ん」
「ありがとう」
「何が」
「怒ってくれて」
舞は、洟をすすって、少し笑った。今度の笑顔は、作ったものではなかった。ぐしゃぐしゃで、不格好で、それなのに、いままで見たどんな笑顔より、美しかった。
「私、ずっと、誰かに、怒ってほしかったのかもしれません」
濡れた手の甲で、目元を拭う。それから、足元の水たまりを見て、小さく呟いた。
「傘、拾わないと」
「いい。もう、手遅れだ」
「風邪、引きますね」
「引く。二人とも」
「じゃあ、割り算で、勝てないですね」
舞が、泣き笑いの顔で、直樹を見上げた。それから、少し、息を吸って、言った。
「あの、直くん。お願いが、あります」
「何だ」
「私の、やりたいことリストに、一つ、足してもいいですか」
雨が、まつげの先で、小さく弾けた。
「次は、直くんの故郷へ、行きたいです」
直樹の中で、何かが、小さく、軋んだ。
故郷。海。坂道。蝉の声。墓石の列。五歳の夏。
それは、直樹が、誰にも、見せたことのない部屋だった。
(第8話へ続く)
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