ひとつずつ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
アルバルト王国 貴族たちが多く住むとても華やかなこの王国 でもその裏にはたくさんの闇がある そんな王国で暮らす少年少女のちょっとした暮らしを描く日記 どうぞ最後までご覧ください
本文
馬車は、思っていたより揺れなかった。革の座面が深く沈んで、ユノの膝がシリルの膝に触れそうな距離で並んでいる。窓の外を、夜会の灯りがゆっくりと流れていった。
「長くなるって、言いましたわね」
「言った。……覚えてるよ」
シリルは、カップを座面の隣の台に置いた。紅茶はもう、半分も残っていない。
「俺の母さんの話から、していいか」
「はい」
「母さんは、平民だった。今も、家の外じゃそう呼ばれる。オーカーに嫁いで、十八年経つけどな」
彼は窓のほうを見たまま話していた。薄紫の髪が、走る灯りを拾っては流れていく。
「俺が小さいころ、母さんはよく、家の中の階段で泣いてた。外では笑ってた。笑い方を、覚えたんだと思う。……俺は、それを見て育った」
「シリル様」
「別に、不幸な話をしたいわけじゃない。母さんは今、笑ってる。父さんが、そういう家に変えた。変えるのに、十年かかったけど」
そこで、彼はようやくユノのほうを向いた。
「俺が君を広間の真ん中に立たせたのは、たぶん、それと同じだ。隠れて、誰にも見えないところで、静かに決められるのが、いちばん嫌だった。……君の婚約を、俺の家の都合だけで決めたくなかった。だから、公にした。君の口から、言わせた」
「わたくしが、望んでおりますと」
「そう。……あれが、俺の家のやり方じゃなくて、君の言葉だったら、もう誰にも消せない。そういうふうに、したかった」
ユノは、手の中のカップを見ていた。紅茶は、もう温くなりかけていた。
「……では、わたくしも、ひとつ」
「うん」
「わたくし、家の中で、ひとりでしたの」
顔を上げると、シリルの目が、まっすぐこちらを向いていた。急かす色は、なかった。
「お兄様は、いつも側にいてくれました。でも、お兄様は次の当主で、わたくしは、その妹で。……ローズマリーの名は、わたくしを守ってくれましたけれど、わたくしが誰なのかは、教えてくれませんでした」
「ユノ…」
「夜会で、誰も寄ってこないのは、知っておりました。慣れておりました。……慣れるのは、怖いことですわね。慣れたら、それが当たり前になってしまうから」
シリルは、何も言わなかった。代わりに、手を伸ばして、ユノのカップをそっと取り上げ、台の上に置いた。空になった両手が、膝の上で重なる。
「じゃあ、ひとつずつだな」
「え」
「俺が、一つ話した。君が、一つ話した。……これで一緒だ」
彼は、少し笑った。けれど、その笑い方は、夜会で見せていた軽いものではなかった。
「残りは、また今度かと思ってた。けど、今日、言う」
「……何を」
「さっき、広間で。アリス様に『望んでる』って言っただろ。あれ、半分は、君を守るための言葉だった」
ユノの喉が、鳴った。
「半分は?」
「半分は、本心だ。……残りの半分が、まだある」
シリルは、膝の上のユノの手に、自分の手を重ねた。冷たい指では、もうなかった。
「君が、俺のことをどう思ってるかは、聞かない。聞いたら、君はきっと、困った顔で、正直に答える。……それが怖いんだ。俺は、この婚約を、家のためだけのものにしたくない。君が、俺を選んでくれるなら。そうでなくても、俺は、君を選んでる」
馬車が、ゆっくりと速度を落とした。外の灯りが、止まる。ローズマリーの屋敷の門だった。
「だから、急がなくていい。今日の答えは、いらない。……ただ、覚えててほしかった」
ユノは、重ねられた手を見ていた。自分の指が、少し震えているのが、自分でも分かった。震えを隠すように、彼の指を、そっと握り返した。
「……覚えておきますわ。忘れるわけ、ありませんもの」
シリルが、息を吐いて、それから、くしゃりと笑った。夜会の広間で見せたどの顔よりも、子どもに近い笑い方だった。
「そっか。……よかった」
外で、馬車の扉が開く音がした。