アストラル・クイーン号の青薔薇
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あらすじ
横浜港を出る船の汽笛は、まるで遠い国から届いた手紙の封を切る音のようだった。暮れかけた埠頭には、まだ大勢の見送り人が残っていた。白いハンカチ、帽子を振る手、泣き笑いの顔。その全部を置いて、豪華客船アストラル・クイーンはゆっくり岸壁を離れた。横浜の灯が水面に砕け、やがて赤や金の細い帯になって、船尾の闇へ流れていく。私は甲板の手すりにもたれ、潮風に長い黒髪をなぶらせていた。
本文
横浜港を出る船の汽笛は、まるで遠い国から届いた手紙の封を切る音のようだった。
暮れかけた埠頭には、まだ大勢の見送り人が残っていた。白いハンカチ、帽子を振る手、泣き笑いの顔。その全部を置いて、豪華客船アストラル・クイーンはゆっくり岸壁を離れた。横浜の灯が水面に砕け、やがて赤や金の細い帯になって、船尾の闇へ流れていく。
私は甲板の手すりにもたれ、潮風に長い黒髪をなぶらせていた。
新婚旅行。
その言葉を、まさか自分の人生で使う日が来るとは思っていなかった。まして相手が、あの暗黒武術会で敵として向かい合った武威だなどと。
「寒いか」
低い声とともに、大きな外套が私の肩へかけられた。
振り返らなくてもわかる。武威は、どんなに人混みに紛れても、近づけば空気の圧が変わる男だった。黒い礼服を着せても、鍛え上げられた巨躯は隠しようもない。シャツの胸元は窮屈そうに張り、袖口から覗く手首には戦士の古傷がある。普段なら鎧の下にしまわれている圧迫感が、今夜は旦那様らしく整えた髪と礼服のせいで、かえって際立っていた。
「少しだけ。でも、悪くないわ」
「部屋に戻るか」
「もう? まだ出港したばかりよ」
武威の手が、私の腰に回された。遠慮のない、所有する者の手つきだった。外套越しでも、その掌の熱ははっきり伝わる。彼は私を手すりと自分の身体のあいだに閉じ込めるように立ち、耳元へ唇を寄せた。
「新婚旅行だ」
「ええ」
「船の夜は長い」
「ええ」
「……お前は分かって言っているな」
私はくつくつ笑って、彼の胸に指先を這わせた。今夜の私は、薔薇の紋をあしらった黒いイブニングドレスを着ていた。肩を露出し、腰で細く絞まり、深いスリットから歩くたびに白い脚が覗く。船上の視線が何度もこちらへ流れたけれど、武威の腕の中にいる限り、それらは遠い灯のようにしか感じなかった。
「分かっているわ、あなた」
そう言って、少しだけ背伸びをした。
武威の唇が私の唇に触れる直前だった。
――コンコンコン。
背後の船室棟の扉が、実に間の悪い音を立てた。
武威の眉間に、深い皺が刻まれる。
扉の向こうから、従者の少年が青ざめた顔で告げた。
「水野様、武威様。船長がお呼びです。あの、霊界探偵様が……いえ、ホームズ様が、至急にと」
「ホームズ様?」
私は思わず聞き返した。
従者は困り切った顔で言った。
「コエンマ様です。出港前から探偵帽をかぶって、船長室に陣取っておられます」
武威が舌打ちした。
「あのガキ、まだ船にいたのか」
「同乗するとは聞いていたけれど、まさか本気で探偵ごっこを始めるなんてね」
ところが、船長室の扉を開けた瞬間、私は「ごっこ」と言ったことを少しだけ後悔した。
コエンマは青年の姿を取り、鹿撃ち帽をかぶり、インバネスコートを羽織っていた。手には虫眼鏡。口にはいつものおしゃぶりではなく、火のついていないパイプを咥えているつもりらしい。机の上にはロンドンから届いた電報、船の見取り図、乗客名簿、そしてインク壺に立てた何本ものペンが、まるで小さな作戦司令部のように並んでいた。
彼は私たちを見るなり、虫眼鏡を振った。
「遅いぞ、くらま、武威。事件は待ってくれん」
「まだ事件は起きていないでしょう」
「起きる」
コエンマは断言した。
「この船には、ロンドン警視庁が三年追っている宝石泥棒が乗っている。しかも今夜、ベンガル随一と謳われた青い首飾り『青薔薇』が、英国の富豪アッシュクーム伯爵夫人に伴って船内にある。泥棒が指をくわえて見ているはずがない」
武威が私の後ろで静かに言った。
「帰るぞ、くらま」
「待ちなさい、あなた」
コエンマは机から二枚のカードを放り投げた。黒革の表紙に金文字で、こう刻まれている。
**METROPOLITAN POLICE
SPECIAL CONSULTING OFFICERS
KURAMA & BUI MIZUNO**
「何これ」
「ロンドン警視庁特別協力官の証明書じゃ」
「偽物でしょう」
「細部にこだわるな。お前たちは今夜から、わしの手足として働く。正確には、警察協力者であり、できる便利屋じゃ」
「ホームズ役はあなた一人で満足なさったら?」
「名探偵は、汚れ仕事をしない」
彼は当然のように言った。
「聞き込み、捜索、潜入、追跡、力仕事、船底の点検。そういったものは、できる者に任せるのが合理的じゃ」
武威の声が一段低くなった。
「俺たちをロンドン警察扱いする気か」
「扱いではない。任命じゃ」
その時だった。
船内電話がけたたましく鳴り、船長が受話器を取った。数秒後、船長の顔から血の気が引いた。
「アッシュクーム夫人付きのメイドが……『青薔薇』が消えたと」
コエンマはパイプを口から外し、にやりと笑った。
「ほらな。事件は、名探偵の予定より少し早く始まるものじゃ」
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## 一 鍵のかかった部屋と濡れた足跡
アッシュクーム伯爵夫人のスイートは、船上とは思えないほど豪奢だった。金の縁取りの鏡、深紅のカーテン、薔薇を生けた銀の花瓶。夫人は六十代の英国婦人で、背筋はぴんと伸び、取り乱した様子を見せるくらいなら船ごと沈んだ方がましだとでも言いたげな顔をしていた。
消えた首飾りは、青いサファイアを薔薇の形に配した逸品だった。中央の大粒はとりわけ深い青で、暗い海の底から掬い上げた星のようだという。
「夕食に出る前、確かに宝石箱へ入れました」
夫人は言った。
「夕食の間、メイドのエリザは廊下にずっと立っていました。誰も部屋には入っていない。私が戻ると、箱は空。しかも……ご覧なさい」
絨毯の上には、濡れた足跡があった。
小さく、奇妙に細長い足跡が、寝室から浴室まで一列に続いている。そばには青い薔薇の花びらが数枚。浴室の丸窓の近くでは、女の溜息のような声がした、とエリザは震えながら証言した。
「奥様、この船には幽霊がいます。昔、この航路で死んだ伯爵夫人の……」
若い乗客の一人が、興奮した声で割り込んできた。
桐生院慶吾。二十四歳。父は日本の警察庁の幹部、母は有名なミステリ小説家という、探偵趣味が服を着て歩いているような青年だった。懐中時計を振り回しながら言う。
「これはオカルトですよ! 青い薔薇は呪われた宝石だ。持ち主の女の霊が、首飾りを取り戻しに来たんです!」
コエンマは彼を一瞥した。
「坊や、推理と妄想の違いは知っておるか」
「僕は桐生院警視です!」
「自称は肩書きに入らん」
私は絨毯に膝をつき、濡れた足跡に指先を触れた。ただの水ではない。ほんのり甘い、油のような香りがする。花びらを拾うと、それは本物ではなかった。薄い紙に青い染料を重ね、香油を染み込ませた舞台用の造花だった。
武威が浴室の扉横にある、清掃用の小さな点検扉を見つけた。リネン室へ通じる業務用通路だ。蝶番には新しい擦り傷があり、把手には蝋のような白い粉がついている。
その時、給仕係の男が青い顔で駆け込んできた。
「おい、お前たち、勝手に船内を嗅ぎ回るな!」
彼は私たちの偽物の証明書を見ると、なぜか一瞬だけ表情を固くした。
給仕係トーマス・レン。だが、彼は給仕係ではなかった。
「ロンドン警視庁、犯罪捜査局。巡査部長レン」
彼は懐から本物の警察手帳を取り出し、ぴしゃりと言った。
「この宝石泥棒は三年越しの獲物だ。素人は手を引け。……そこの大男、点検扉を開けたな。お前を器物損壊と捜査妨害で逮捕する」
武威がゆっくり振り向いた。
「やってみろ」
「武威、待ちなさい」
私は間に立った。なるほど、コエンマが言った通りだった。ロンドン警察は、ここぞという場面で、実に邪魔な形で現れる。
もう一人、扉口に立っていたのは、保険会社に雇われた私立探偵セプティマス・クロウ。元ロンドン警視庁の男で、コエンマを「東洋の小僧探偵」と呼んで鼻で笑った。
「スコットランドヤードの事件に、なぜ船医でも船長でもない連中が首を突っ込む」
コエンマは涼しい顔で虫眼鏡を磨いた。
「彼らは、わしの手足じゃ。あんたは引退した足じゃな」
クロウの顔が赤くなった。
その騒ぎの中で、私は浴室の換気口から、とても小さな音を聞いた。
オルゴール。
夕食の余興で演奏されるはずの手品師、「偉大なるザンベッティ」の呼び込み音楽だった。
コエンマの目が細まった。
「初歩だよ、くらま。幽霊は、オルゴールを巻いたりしない」
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## 二 名探偵のしないこと
調査は、その夜のうちに始まった。
コエンマは船長室で紅茶を啜りながら、乗客名簿と船内図を睨んでいた。
「わしはここで考える。お前たちは足で稼げ」
「はいはい、ロンドン警察の便利屋ですからね」
「文句を言う前に聞け。まず、すべての給仕係と清掃係に、夕食時の居場所を聞く。次に、厨房の氷の出納を調べる。三つ目に、業務用通路を実際に通ってみる」
「なぜ氷?」
「濡れた足跡のせいじゃ」
彼は紙の花びらをピンセットでつまみ上げた。
「犯人は幽霊の仕業に見せかけるため、水をまいたつもりだった。だが、絨毯に残った液体には、氷を溶かした水特有の冷たさと、舞台香油の匂いが残っておる。しかも足跡の間隔が正確すぎる。人間が歩いた跡ではない。杖か棒の先にスポンジを付け、押して回ったのじゃ」
武威が言った。
「通路は狭い。俺は入れん」
「だから、お前は入口の鉄格子を外せ。くらまが入れ」
私は自分のドレスを見下ろした。
「この格好で?」
コエンマは平然と答えた。
「新婚旅行の思い出になろう」
武威が私のドレスの背に手を添え、ファスナーではなく、点検通路へ入れるよう裾を短く結んでくれた。その指先が太腿の際を掠め、私は思わず彼の腕を掴んだ。
「あなた、わざとでしょう」
「仕事だ」
「目が笑ってるわ」
「……急げ」
業務用通路は、蒸気と洗剤と埃の匂いがした。私は薄暗い中を進み、途中で引っかかったものを氷水の細い糸で引き寄せた。舞台衣装に使う青いガラス玉、女物の髪留め、そして手品師の楽屋で使う小さな金属製の鍵だった。
通路の先のリネン室では、桐生院慶吾がカメラを構えて待ち伏せしていた。
「やっぱり! 犯人は通路を使った! 僕の推理通り!」
「あなた、なぜここに」
「幽霊の写真を撮るためです。……あ、でもこれ、使えますよ。夕食時、廊下を横切る荷物車を撮っていました。ほら、オルゴールの箱と、その下の影」
写真には、ザンベッティの道具車が写っていた。車輪の横に、もう一つ小さな影。スポンジを付けた杖の先だった。
その頃、厨房では武威が氷の記録を調べていた。支配人は「氷など誰も気にしない」と言ったが、武威が無言で腕を組むと、すぐに帳簿を持ってきた。
夕食後、氷の彫刻用に三羽の白鳥が用意されるはずだった。ところが、記録では四羽分の氷が出庫されている。余分な一羽は、手品師の「氷の中から鳩を出す」演目のために出されたことになっていた。
コエンマはその報告を聞くと、初めて満足そうに頷いた。
「首飾りを船外へ持ち出すには、税関と船内の目を避けねばならん。だが、厨房の生ごみや溶けた氷なら、誰も調べない。犯人は宝石を氷の中に隠し、神戸で回収するつもりじゃ」
「じゃあ、今すぐ厨房の氷を割ればいい」
「それは最後の楽しみじゃ。まず、犯人に動いてもらう」
彼は船長に命じ、わざと船内放送を流させた。
『アッシュクーム夫人の紛失物について、明朝、神戸入港時に税関による全貨物検査を行います』
嘘だった。
しかし、嘘は時に、真実よりよく人を動かす。
深夜、私たちの船室に戻ったのは、ほんの短い休憩のためだった。
武威は扉を閉めるなり、私の腰を引き寄せた。通路で乱れた髪、少し湿ったドレスの裾、肌に残る蒸気の匂い。その全部を、彼は見逃さなかった。
「怪我は」
「ないわ」
「汚れたな」
「あら、幻滅した?」
彼の手が、私の顎をそっと持ち上げた。
「逆だ」
唇が重なった。最初は優しく、次第に深く。私は彼の礼服の前を掴み、広い胸に身体を預けた。船の揺れと、遠くの汽笛と、事件のざわめきが、全部遠くなっていく。
「……あなた」
「ん」
「今夜は、事件に譲らないって言ったはずよ」
「言ったな」
その時、またしてもノックがした。
武威のこめかみに青筋が浮いた。
扉の向こうから、レン巡査部長の申し訳なさそうな声がした。
「す、すまん! 厨房の氷が一羽、予定より早く荷揚げ場へ運ばれた!」
武威は深く息を吐き、私の額に唇を落とした。
「後で、続きだ」
「ええ。必ずね」
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## 三 神戸の朝、氷の白鳥
神戸の港は、薄い朝霧の中にあった。
税関検査の噂に慌てた犯人は、夜明け前の搬出を選んだ。厨房の裏口から、氷の白鳥を載せた荷車が生ごみ用の小舟へ運ばれていく。白鳥は美しかった。長い首、広げた翼、朝日に透ける羽。その胸の奥で、ほんの一瞬、青い光が瞬いた。
私は手すりから身を乗り出した。
「あれよ」
武威が頷く。
小舟には給仕係に変装した男がいた。大柄な帽子を目深にかぶっているが、歩くときの癖が違った。右足を引きずるように見せて、左手だけで荷車を操っている。舞台で見せたザンベッティの仕草そのものだった。
「止まれ!」
声を上げたのは、神戸の港湾警察、田辺警部だった。霧の中から警察艇が滑り出し、小舟の進路を塞ぐ。岸壁には地元警察の制服組が並び、船の乗客たちがざわめいた。
まさに、ここぞという場面だった。
ザンベッティは笑った。
「ただの氷だ! 溶ける前に運ばせろ!」
彼は荷車を蹴り、白鳥ごと小舟の端へ滑らせた。逃げるためなら、宝石もろとも海へ落とすつもりだったのだろう。
武威が飛んだ。
船の搬出口から小舟まで、普通の人間なら躊躇する距離だった。けれど彼は躊躇しなかった。巨体が朝霧を切り、小舟の縁に着地する。船が大きく傾ぎ、ザンベッティはよろめいた。
私は氷水の薔薇鞭を放った。白鳥そのものを壊さないよう、荷車の車輪とザンベッティの足元だけを狙う。氷の蔓が彼の靴を甲板に縫い止め、武威の腕が彼の襟首を掴んだ。
「動くな」
ザンベッティは観念したように両手を上げた。
「旦那、奥さん、夫婦で警察とは恐れ入るね」
レン巡査部長が駆けつけ、ロンドン警視庁の手帳を見せた。
「ザンベッティこと、ジョージ・ミラー。ロンドン、パリ、ウィーンでの宝石窃盗容疑。国際指名手配だ」
クロウ元警部も、古い事件簿を持って現れた。
「三年前、ロンドンの劇場で消えたエメラルドと同じ手口だ。今度こそ年貢の納め時だな」
氷の白鳥は、田辺警部の立ち会いのもとで割られた。
中から現れたのは、小さな防水ケースだった。
蓋を開けると、青い薔薇が朝日を受けて輝いた。
アッシュクーム夫人は、首飾りを手に取り、初めてほんの少しだけ微笑んだ。
「まあ。幽霊ではなかったのね」
コエンマは帽子を取り、得意げに言った。
「幽霊は便利な言い訳じゃ。だが、どんな怪談も、香油の匂いと帳簿の嘘までは消せん」
桐生院慶吾が悔しそうに叫んだ。
「僕のオカルト説は、ほぼ当たっていたのに!」
「ほぼ、という言葉は敗者の勲章じゃな」
コエンマは私たちに向き直った。
「くらま、武威。よくやった。ロンドン警視庁の便利屋として、及第点じゃ」
武威が言った。
「二度と使うな、その呼び方」
「では、次回は正式に『有能な警察協力者』と呼んでやろう」
「次回はない」
私は笑いながら、武威の腕に自分の腕を絡めた。朝日が彼の横顔を照らし、昨夜の疲れも、事件の埃も、その向こうにある夫としての顔を隠しはしなかった。
船室へ戻る途中、誰もいない回廊で、武威は突然立ち止まった。
「くらま」
「なに?」
彼は私を壁際へ押しやるのではなく、扉の前で足を止め、昨夜果たせなかった分を取り戻すように、ゆっくりと顔を近づけた。
「事件は終わった」
「ええ」
「新婚旅行の続きだ」
扉が開き、私は彼の腕に抱えられて中へ入った。鍵の落ちる音。外套が床に滑り落ちる音。朝の光がカーテンの隙間から差し込み、私の黒髪と彼の大きな手とを、同じ金色に染めた。
その先のことは、探偵の記録には残さない。
ただ一つだけ記しておくなら――
アストラル・クイーンの航海は、まだ始まったばかりだった。
そして私は、その日初めて知ったのである。
名探偵というものは事件を解く。
けれど、夫婦の朝を守るのは、やはり夫婦の仕事なのだ、と。
――第一話 完