香港に消えた外交行嚢
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あらすじ
香港の海は、夜明け前がいちばん美しい。まだ暗い水面の向こうに、緑濃い山影が静かに横たわり、麓には無数の灯が瞬いていた。行き交うジャンク船の帆は薄闇に白く浮かび、蒸気船の汽笛が、眠りかけた港の空気を低く震わせる。豪華客船アストラル・クイーンは、香港入港を前に速度を落としていた。
本文
香港の海は、夜明け前がいちばん美しい。
まだ暗い水面の向こうに、緑濃い山影が静かに横たわり、麓には無数の灯が瞬いていた。行き交うジャンク船の帆は薄闇に白く浮かび、蒸気船の汽笛が、眠りかけた港の空気を低く震わせる。
豪華客船アストラル・クイーンは、香港入港を前に速度を落としていた。
私は船室のバルコニーで、夫の腕に背中を預けていた。
武威は背後から両腕を回し、私の腰をしっかりと抱いている。絹のガウン一枚の私では、彼の体温があまりに近く、潮風の冷たさまで甘く感じられた。長い黒髪が彼の指に絡み、ほどかれ、また絡む。夫は髪を梳くふりをしながら、ときおり私の首筋へ唇を寄せた。
「香港に着くわ」
「ああ」
「新婚旅行らしい朝ね」
「……そうだな」
「あなたの声、少し不満そう」
「朝が早すぎる」
私は笑って振り返った。
武威は既に礼装を整えていたが、その眼差しだけは、昨夜から続く熱を隠していなかった。大きな手が私の頬を包み、親指が唇の端をなぞる。私は彼の胸に掌を当て、わざとゆっくりと言った。
「入港したら、まず雲呑麺を食べに行きましょう」
「その後で?」
「その後は、旦那様のお望み通りに」
武威の腕に力が入った。
まさにその時、船室の扉が遠慮なく叩かれた。
三度。
間違いなくコエンマの叩き方だった。
武威の眉が、目に見えて跳ねた。
「あの小僧……」
「青年姿でも小僧呼ばわりなのね」
「中身は変わらん」
扉の外から、コエンマの声が響いた。
「くらま、武威。起きておるか。事件じゃ」
「新婚旅行の朝に事件を持ち込む探偵が、世界のどこにいますか」
「ここにおる」
あまりに堂々とした返事に、私は笑うしかなかった。
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## 一 香港警察と名探偵
船長室では、既に大勢の人間が険しい顔で向かい合っていた。
青年の姿を取ったコエンマは、鹿撃ち帽をかぶり、インバネスコートの裾を翻して歩き回っている。口には相変わらずパイプのつもりの小道具を咥え、机には航海日誌、乗客名簿、船内時刻表、そして香港の海図が広げられていた。
その向かいに立っていたのは、香港港湾警察のホー・チーキョン総警司だった。端正な制服に身を包み、短く刈った髪には白いものが混じっている。鋭い目をした実務家で、コエンマの探偵気取りを、最初からまったく相手にしていない様子だった。
「ここは香港水域だ」
ホー総警司は、きっぱりと言った。
「窃盗が発覚したのも、船が香港の管轄に入ってからである。捜査権は香港警察にある」
コエンマは虫眼鏡を掲げた。
「だが、消えたのは英国外務省の外交行嚢。被害品はロンドンのもので、船も英国籍。犯人はロンドンから追っている可能性が高い」
「では、ロンドン警察はロンドンで捜査なさい」
「わしがそのロンドン警察の特別顧問じゃ」
「自称でしょう」
「細かいことを言う男は出世せんぞ」
「貴方に言われたくありません」
船長が胃の痛そうな顔で二人を見比べた。
その横で、外交伝令官のアーサー・プライス氏が真っ青になっていた。彼は英国外務省の王室伝令官で、赤い紐と鉛の封印で厳重に閉じられた革製の外交行嚢――いわゆる外交書簡鞄を護衛してきた。
中には、香港で交わされる予定の通商条約草案と、暗号表の一部が入っている。
行嚢は昨夜、金庫室に保管された。
ところが、入港手続きのために今朝開けたところ、中身ごと消えていたという。
「鍵は壊されていない」
事務長ベラミーが震える声で言った。
「金庫室の扉にも、窓にも異常はありません。私と船長、それにプライス氏しか鍵を持っていないのに……」
コエンマは私たちへ振り返り、当然のように命じた。
「くらま、武威。お前たちはロンドン警視庁特別協力官として、この事件の実務を担当する」
ホー総警司が眉を上げた。
「この方々が?」
「わしの手足じゃ」
武威が静かに言った。
「誰が手足だ」
「正確には、警察協力者であり、できる便利屋じゃ」
「殴るぞ」
コエンマは私の夫の怒声を涼しく受け流した。
「現場の確認、聞き込み、船員の行動調査、荷物の捜索。名探偵は椅子に座って考える。足を使うのは警察協力者の仕事じゃ」
ホー総警司は、私の「ロンドン警視庁特別協力官」と刻まれた、いかにも怪しい革の証明書を見て、しばらく沈黙した。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「……結構。香港警察も協力します。ただし、逮捕は香港水域の法に従う」
「犯人を捕まえるのは、わしの手足じゃ」
「現場を仕切るのは香港警察です」
二人のあいだで、見えない火花が散った。
私は微笑んで一歩進んだ。
「では、こういたしましょう。証拠の保全と船内の捜索は共同。逮捕の瞬間は、両方のお名前で。よろしいですね?」
ホー総警司は少し驚いた顔をし、やがて頷いた。
「夫人は有能だ」
武威が私の腰に手を回した。
「俺の妻だ」
その声には、隠しようのない誇りと独占欲があった。私は彼の指先をそっと握り、仕事の顔に戻った。
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## 二 消えた金庫室の三十分
金庫室は、事務長室の奥にあった。
厚い鉄扉。内側からも施錠できる二重鍵。窓はなく、通気口は人の指一本入らない。
プライス氏は、昨夜の出来事を繰り返した。
「二十三時四十分、私とベラミー事務長で外交行嚢を金庫室へ入れました。二人で鍵を確認し、事務長は当直表に署名した。その後、私は船長と喫煙室でチェスをしていた。零時二十分には、副事務長のハーコートが飲み物を運んできました。多くの者が見ています」
容疑者は、大きく分けて三人だった。
鍵を持っていた船長。
鍵を持っていたベラミー事務長。
そして、鍵を持っていたプライス氏本人。
しかし三人とも、零時前後には人前にいた。
とりわけ副事務長のフェリックス・ハーコートには、確かなアリバイがあった。
零時二十分、彼は喫煙室で船長とプライス氏にブランデーを出し、バー係が発行した伝票にも「00:20」と刻印されている。船長も、事務長も、数人の乗客も、その光景を覚えていた。
「盗まれたのは、いつなのですか」
私が尋ねると、ベラミーは当直表を差し出した。
「金庫室前の見張りは、零時三十分に交代予定でした。見張りのスチュワードは零時三十分に持ち場を離れましたが、交代者が来たのは一時でした。その三十分間、誰もいなかったのです」
「なぜ、そんなことが?」
「船の時計を、香港時間に合わせたからです」
船医が静かに言った。
「日本を出て西へ進むにつれ、船は日本時間から香港時間へ移ります。香港は日本より一時間遅い。昨夜一時ちょうど、船内の時計を一時間戻しました」
私は思わず顔を上げた。
「つまり、零時が二回あった」
コエンマが指を鳴らした。
「その通り」
彼は航海日誌を広げ、私たちに見せた。
航海日誌には、船の公式記録として、こう記されていた。
01:00 日本時間――全船の時計を一時間戻し、香港時間00:00とする。
つまり昨夜、船には二つの零時があった。
最初の一時間は日本時間。
次の一時間は香港時間。
零時二十分も、二度訪れたのである。
けれども、それだけでは犯人は分からない。
コエンマは金庫室の扉の前でしゃがみ込み、鍵穴を虫眼鏡で覗いた。
「くらま」
「はい」
「この鍵穴、冷やしてみろ」
私は掌を扉に近づけ、氷水の力をほんの少しだけ流した。金属の表面に薄く霜が降り、鍵穴の縁に、真新しい細かな傷が浮かび上がる。
「最近、合鍵が使われた跡ね」
武威は金庫室の横にある清掃具入れを開け、奥に落ちていた小さな石鹸片を拾った。石鹸には、鍵の形がくっきりと押し付けられている。
「型取りだ」
ホー総警司が厳しい顔になった。
「誰が、こんなものを」
その時だった。
通訳として同行していた船客、チン・コウゼンが進み出た。穏やかな笑顔の中国人青年で、香港に親戚を訪ねる途中だという。
彼は、困ったように言った。
「実は、昨夜見たのです。零時二十分ごろ、中国人の給仕が革の鞄を持って、船尾へ走るのを」
船内がざわついた。
「なぜ早く言わない」
ホー総警司が問う。
「私の見間違いかもしれないと思って。ですが、船員宿舎を調べれば分かるはずです。犯人は下層の船員に違いありません」
コエンマは、しばらく彼をじっと見つめた。
「ふむ。では、船員宿舎から調べよう」
私は驚いた。
コエンマが、こんなにも素直に他人の誘導を受け入れるはずがない。
案の定、船長室を出たところで、彼は私と武威だけを引き留めた。
「今のは嘘じゃ」
「チン氏の証言が?」
「あの男、見た時刻を誤魔化しておる。わざとこちらを船員宿舎へ向けたがっている」
「なぜ」
「分からん。だが、嘘をつく者は、守りたいものを持っておる」
コエンマは航海日誌を指で叩いた。
「お前たちは逆を調べろ。喫煙室、バー、そして航海日誌の時刻じゃ。犯人は幽霊でもなければ、船に詳しい素人でもない。船の時間そのものを盗んだ男じゃ」
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## 三 二度目の零時二十分
私と武威は、まずバーの帳簿を調べた。
「00:20」と刻まれた伝票は確かにあった。副事務長ハーコートが、船長とプライス氏へブランデーを出した記録だ。
ところが、伝票の紙は二枚重ねの複写だった。上の紙には「00:20」。しかし下の控えには、薄く別の時刻が残っている。
武威が伝票を光に透かした。
「……00:47」
「控えの方は、事務室の時計で後から書き直されているわ」
バー係の証言も奇妙だった。
「ハーコートさんが飲み物を出したのは、確かに零時二十分です。船長とプライスさんがチェスを始めたばかりでした。その後、ハーコートさんは一度事務室へ戻り、時計合わせの通知を配ると言っていました。次に見たのは、香港時間の一時を過ぎてからです」
「最初の零時二十分と、二度目の零時二十分のあいだ、彼はどこに?」
「さあ……」
船の時計を一時間戻す作業は、各部署の係が順に行った。食堂、喫煙室、事務室、客室廊下。ところが、金庫室のある事務区画だけ、時刻変更を知らせる桃色の通知が届いていなかった。
その通知を配る担当こそ、ハーコートだった。
私は事務室の引き出しを調べ、古い船内時刻表の下から、一枚の新しい紙を見つけた。
時刻変更通知。金庫室前当直は新時間に従うこと。
それは、誰の目にも触れない場所に隠されていた。
武威が機関室へ向かい、戻ってきたとき、彼の手には機関日誌の写しがあった。
「香港時間の零時三十七分、漁船団を避けるため、船は一時的に減速している」
「航海日誌にもあるわ」
「ああ。その時間、船尾の救命艇デッキで、エンジンの振動が止んだ。誰かが重いものを運べば、足音が響く」
当直の機関員は証言した。
減速中、救命艇デッキで「カタン」という金属音を聞いた。見に行くと、六号救命艇の備品箱が閉まったばかりだったという。
そこで見たのは、事務長の制服の袖だった。
その袖口には、金のモールが二本。
副事務長の袖章だった。
私は息を飲んだ。
やはり、ハーコート。
だが、彼は零時二十分に喫煙室にいた。それは確かな事実だ。
コエンマは船長室で、ホー総警司と向かい合って言った。
「問題は単純じゃ。ハーコートのアリバイは、どちらの零時二十分のものか、じゃ」
彼は黒板に、船の時刻を書き始めた。
**23:40 日本時間
プライス氏とベラミー事務長、外交行嚢を金庫室へ。**
**00:20 日本時間
ハーコート、喫煙室で船長とプライス氏に飲み物を出す。多数の目撃者。**
**01:00 日本時間
船内時計を一時間戻す。香港時間00:00となる。**
**00:20 香港時間
金庫室前の見張りは、古い当直表の『00:30交代』を新時間と誤解し、持ち場を離れる。交代者は01:00まで来ない。**
**00:37 香港時間
船は漁船団を避けて減速。救命艇デッキで物音。**
「ハーコートは、最初に現れた零時二十分には、確かに喫煙室におった」
コエンマはチョークで、最初の00:20を丸く囲んだ。
「だが、盗みが行われたのは、二度目の零時二十分の後じゃ。彼は時刻変更通知を隠し、当直の空白を作り、型取りした合鍵で金庫室を開けた」
ホー総警司が言った。
「証拠は?」
「石鹸の鍵型、鍵穴の新しい傷、書き換えられた伝票、そして六号救命艇の備品箱じゃ」
その時、チン・コウゼンが静かに口を開いた。
「……総警司。申し訳ありません」
彼は懐から、香港警察の身分証を取り出した。
「私は香港警察特別部の潜入捜査官です」
船長室に沈黙が落ちた。
「ハーコートがスパイと接触するのは、香港のパイロット船が来た時だと掴んでいました。彼が外交行嚢を持ち出す瞬間まで泳がせる必要があった。だから、コエンマ氏を別方向へ誘導した」
コエンマが目を細めた。
「わしを邪魔した理由はそれか」
「貴方が騒げば、相手が警戒する」
「わしは、いつも静かじゃ」
武威が低く言った。
「嘘をつくな」
ホー総警司は部下の勝手な判断に怒りを見せたが、同時にチン捜査官の情報が正しいことも理解した。
パイロット船には、行嚢の受け取り役が乗っている。
ハーコートは、入港直前の混乱に紛れて、行嚢を渡すつもりだった。
コエンマはにやりと笑った。
「では、計画を変えよう。わしは盛大に騒ぐ。犯人が慌てて動くようにな」
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## 四 パイロット船の罠
午前六時三十分。
アストラル・クイーンは、香港のパイロットを迎えるため、さらに速度を落とした。
船内放送が流れた。
『外交行嚢の件につきまして、船内無線室の金庫から、類似の革鞄が発見されました。まもなく香港警察による確認が行われます』
もちろん嘘だった。
だが、その放送を聞いた犯人は、六号救命艇へ向かうはずだった。本物の行嚢がまだそこにあるか、確認せずにはいられない。
私は救命艇デッキの影に潜み、武威は反対側の通路を塞いだ。香港警察の警官たちが、ホー総警司の指揮で下層甲板に散る。チン捜査官はパイロット船を見張った。
潮風が強く、私の黒いドレスの裾を煽った。出港地で誂えた船上用の装いは、肩と背を大胆に開き、歩くたびにスリットから脚が覗く。潜伏には不向きだったが、武威の視線だけは、ときどき仕事を離れた。
「寒いか」
彼は私の肩に自分の上着をかけた。
「少し」
「終わったら、部屋へ戻る」
「雲呑麺が先よ」
「……後でもいい」
私は彼の胸元を指で軽く叩いた。
「旦那様、今はお仕事です」
「分かっている」
彼の手が、私の腰に一瞬だけ残った。その熱が消える前に、足音が聞こえた。
副事務長ハーコートだった。
彼は周囲を見回し、六号救命艇の備品箱を開けた。油布に包まれた革の鞄――外交行嚢が姿を現す。
その瞬間、パイロット船から一人の男がロープ梯子へ手を伸ばした。受け取り役だった。
ハーコートが行嚢を抱えて走る。
「止まれ!」
ホー総警司の声が響いた。
ハーコートは私の方へ突っ込んできた。
武威が前に出た。
巨躯が通路を塞ぐ。それでもハーコートは、行嚢を盾のように抱えて体当たりを試みた。武威は彼を傷つけぬよう片腕で受け止め、そのまま壁へ押し付けた。
「離せ! 私はロンドンへ行くんだ!」
「香港で降りろ」
甲板に逃げた受け取り役には、私が氷水の薔薇鞭を放った。鞭は彼の足元の濡れた甲板を凍らせ、走る勢いを奪う。転びかけた男を、香港警察の警官たちが取り押さえた。
チン捜査官が素早く行嚢を受け取り、封印を確認した。
「封は切られていません」
プライス氏が駆け寄り、震える手で行嚢を受け取った。
「中身も無事です。……助かりました」
ホー総警司はハーコートに手錠をかけながら、コエンマを見た。
「逮捕は香港警察だ」
コエンマは、船の手すりに肘をついて言った。
「発見はロンドン警察の協力者じゃ」
「では、共同逮捕で手を打ちましょう」
二人は不満そうに、しかしどこか満足げに頷いた。
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## 五 ホームズの解説
入港後、アストラル・クイーンの応接室で、コエンマは関係者全員を前に、事件の解説を行った。
探偵小説の最後の場面のように、彼は一人ずつを指さして語った。
「まず、プライス氏は犯人ではない。彼は行嚢を預けた後、船長とチェスをしていた。そのアリバイは本物じゃ」
「ベラミー事務長も違う。彼は金庫室の鍵を持っていたが、時刻変更通知が届いていないことに気づき、朝まで事務室で当直表を確認しておった」
「問題はハーコートだった」
ハーコートは椅子に座らされ、青ざめた顔で床を見つめていた。
「彼は金庫室の鍵を、封蝋を取る石鹸に押し付けて型を取り、合鍵を作った。そして、時刻変更の通知を金庫室の当直へ渡さなかった」
コエンマは黒板を叩いた。
「船内時刻表と航海日誌の食い違いが、すべての鍵じゃ」
「日本時間の零時二十分、ハーコートは喫煙室におった。これは真実」
「しかし、船の時計が一時間戻された後、再び零時二十分が訪れた。こちらには目撃者がいない」
「見張りは古い当直表に従い、香港時間の零時三十分に持ち場を離れた。交代者は新しい時刻で一時まで来ない。その空白の三十分に、ハーコートは合鍵で金庫室を開け、外交行嚢を盗み、六号救命艇の備品箱へ隠した」
チン捜査官が静かに付け加えた。
「私は、彼が救命艇デッキに現れるのを見ていました。しかし、その場で捕まえれば、パイロット船の受け取り役を逃がすところだった」
「だからといって、名探偵を騙していい理由にはならん」
コエンマが言った。
「結果として、受け取り役も捕まったではありませんか」
「わしの推理が正しかったからじゃ」
ホー総警司が咳払いをした。
「香港警察の捜査もありました」
「まあ、共同捜査じゃな」
私は思わず笑った。
名探偵と警察の意地の張り合いは、どうやら、どちらも引く気がないらしい。
外交行嚢は、香港総督府の係官へ正式に引き渡された。封印は最後まで破られず、条約草案も暗号表も無事だった。
プライス氏は私たちに深く頭を下げた。
「ロンドンへ戻ったら、外務省に必ず報告します。貴方方は、立派な警察協力者だ」
武威はぶっきらぼうに答えた。
「便利屋で十分だ」
コエンマが横から言った。
「いや、ロンドン警察の誇りじゃ」
「使うな」
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アストラル・クイーンが香港の埠頭に接岸したのは、午前八時を少し回った頃だった。
霧は晴れ、ビクトリア・ハーバーの水面は朝日を受けて金色に光っている。対岸の九龍半島が近くに見え、港にはフェリーとジャンク船が絶え間なく行き交っていた。
私は武威と並んでタラップを降りた。
事件の後の空気は、妙に澄んでいた。夫の大きな手が私の手を包み、指を絡める。人混みの中で離れないようにという実用的な仕草のはずなのに、その確かな熱は、私の胸を静かに騒がせた。
「雲呑麺よ、あなた」
「ああ」
「香港の朝ごはん」
「その後は?」
私は彼の腕に身体を寄せ、耳元で囁いた。
「事件の報告書は、コエンマに任せましょう」
「あいつは書かんだろう」
「じゃあ、記録係は私」
「お前の記録は長くなりそうだ」
「名探偵の助手ですから」
武威は少しだけ笑い、私の額へ唇を落とした。その仕草は、港の人混みの中では大胆で、けれど夫婦にとっては自然なものだった。
香港の街が、私たちを待っていた。
蒸気、香辛料、海の匂い。新しい港、新しい朝。
そして、私たちの新婚旅行は、香港で本当の始まりを迎えたのである。
――完