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香港に消えた外交行嚢

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/11/3 📚 シリーズ: 『求められる二人』幽遊白書改 📝 7,689文字 ✅ 全年齢

あらすじ

香港の海は、夜明け前がいちばん美しい。まだ暗い水面の向こうに、緑濃い山影が静かに横たわり、麓には無数の灯が瞬いていた。行き交うジャンク船の帆は薄闇に白く浮かび、蒸気船の汽笛が、眠りかけた港の空気を低く震わせる。豪華客船アストラル・クイーンは、香港入港を前に速度を落としていた。

本文

香港の海は、夜明け前がいちばん美しい。

まだ暗い水面の向こうに、緑濃い山影が静かに横たわり、麓には無数の灯が瞬いていた。行き交うジャンク船の帆は薄闇に白く浮かび、蒸気船の汽笛が、眠りかけた港の空気を低く震わせる。

豪華客船アストラル・クイーンは、香港入港を前に速度を落としていた。

私は船室のバルコニーで、夫の腕に背中を預けていた。

武威は背後から両腕を回し、私の腰をしっかりと抱いている。絹のガウン一枚の私では、彼の体温があまりに近く、潮風の冷たさまで甘く感じられた。長い黒髪が彼の指に絡み、ほどかれ、また絡む。夫は髪を梳くふりをしながら、ときおり私の首筋へ唇を寄せた。

「香港に着くわ」

「ああ」

「新婚旅行らしい朝ね」

「……そうだな」

「あなたの声、少し不満そう」

「朝が早すぎる」

私は笑って振り返った。

武威は既に礼装を整えていたが、その眼差しだけは、昨夜から続く熱を隠していなかった。大きな手が私の頬を包み、親指が唇の端をなぞる。私は彼の胸に掌を当て、わざとゆっくりと言った。

「入港したら、まず雲呑麺を食べに行きましょう」

「その後で?」

「その後は、旦那様のお望み通りに」

武威の腕に力が入った。

まさにその時、船室の扉が遠慮なく叩かれた。

三度。

間違いなくコエンマの叩き方だった。

武威の眉が、目に見えて跳ねた。

「あの小僧……」

「青年姿でも小僧呼ばわりなのね」

「中身は変わらん」

扉の外から、コエンマの声が響いた。

「くらま、武威。起きておるか。事件じゃ」

「新婚旅行の朝に事件を持ち込む探偵が、世界のどこにいますか」

「ここにおる」

あまりに堂々とした返事に、私は笑うしかなかった。

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## 一 香港警察と名探偵

船長室では、既に大勢の人間が険しい顔で向かい合っていた。

青年の姿を取ったコエンマは、鹿撃ち帽をかぶり、インバネスコートの裾を翻して歩き回っている。口には相変わらずパイプのつもりの小道具を咥え、机には航海日誌、乗客名簿、船内時刻表、そして香港の海図が広げられていた。

その向かいに立っていたのは、香港港湾警察のホー・チーキョン総警司だった。端正な制服に身を包み、短く刈った髪には白いものが混じっている。鋭い目をした実務家で、コエンマの探偵気取りを、最初からまったく相手にしていない様子だった。

「ここは香港水域だ」

ホー総警司は、きっぱりと言った。

「窃盗が発覚したのも、船が香港の管轄に入ってからである。捜査権は香港警察にある」

コエンマは虫眼鏡を掲げた。

「だが、消えたのは英国外務省の外交行嚢。被害品はロンドンのもので、船も英国籍。犯人はロンドンから追っている可能性が高い」

「では、ロンドン警察はロンドンで捜査なさい」

「わしがそのロンドン警察の特別顧問じゃ」

「自称でしょう」

「細かいことを言う男は出世せんぞ」

「貴方に言われたくありません」

船長が胃の痛そうな顔で二人を見比べた。

その横で、外交伝令官のアーサー・プライス氏が真っ青になっていた。彼は英国外務省の王室伝令官で、赤い紐と鉛の封印で厳重に閉じられた革製の外交行嚢――いわゆる外交書簡鞄を護衛してきた。

中には、香港で交わされる予定の通商条約草案と、暗号表の一部が入っている。

行嚢は昨夜、金庫室に保管された。

ところが、入港手続きのために今朝開けたところ、中身ごと消えていたという。

「鍵は壊されていない」

事務長ベラミーが震える声で言った。

「金庫室の扉にも、窓にも異常はありません。私と船長、それにプライス氏しか鍵を持っていないのに……」

コエンマは私たちへ振り返り、当然のように命じた。

「くらま、武威。お前たちはロンドン警視庁特別協力官として、この事件の実務を担当する」

ホー総警司が眉を上げた。

「この方々が?」

「わしの手足じゃ」

武威が静かに言った。

「誰が手足だ」

「正確には、警察協力者であり、できる便利屋じゃ」

「殴るぞ」

コエンマは私の夫の怒声を涼しく受け流した。

「現場の確認、聞き込み、船員の行動調査、荷物の捜索。名探偵は椅子に座って考える。足を使うのは警察協力者の仕事じゃ」

ホー総警司は、私の「ロンドン警視庁特別協力官」と刻まれた、いかにも怪しい革の証明書を見て、しばらく沈黙した。

やがて、彼は小さく息を吐いた。

「……結構。香港警察も協力します。ただし、逮捕は香港水域の法に従う」

「犯人を捕まえるのは、わしの手足じゃ」

「現場を仕切るのは香港警察です」

二人のあいだで、見えない火花が散った。

私は微笑んで一歩進んだ。

「では、こういたしましょう。証拠の保全と船内の捜索は共同。逮捕の瞬間は、両方のお名前で。よろしいですね?」

ホー総警司は少し驚いた顔をし、やがて頷いた。

「夫人は有能だ」

武威が私の腰に手を回した。

「俺の妻だ」

その声には、隠しようのない誇りと独占欲があった。私は彼の指先をそっと握り、仕事の顔に戻った。

---

## 二 消えた金庫室の三十分

金庫室は、事務長室の奥にあった。

厚い鉄扉。内側からも施錠できる二重鍵。窓はなく、通気口は人の指一本入らない。

プライス氏は、昨夜の出来事を繰り返した。

「二十三時四十分、私とベラミー事務長で外交行嚢を金庫室へ入れました。二人で鍵を確認し、事務長は当直表に署名した。その後、私は船長と喫煙室でチェスをしていた。零時二十分には、副事務長のハーコートが飲み物を運んできました。多くの者が見ています」

容疑者は、大きく分けて三人だった。

鍵を持っていた船長。

鍵を持っていたベラミー事務長。

そして、鍵を持っていたプライス氏本人。

しかし三人とも、零時前後には人前にいた。

とりわけ副事務長のフェリックス・ハーコートには、確かなアリバイがあった。

零時二十分、彼は喫煙室で船長とプライス氏にブランデーを出し、バー係が発行した伝票にも「00:20」と刻印されている。船長も、事務長も、数人の乗客も、その光景を覚えていた。

「盗まれたのは、いつなのですか」

私が尋ねると、ベラミーは当直表を差し出した。

「金庫室前の見張りは、零時三十分に交代予定でした。見張りのスチュワードは零時三十分に持ち場を離れましたが、交代者が来たのは一時でした。その三十分間、誰もいなかったのです」

「なぜ、そんなことが?」

「船の時計を、香港時間に合わせたからです」

船医が静かに言った。

「日本を出て西へ進むにつれ、船は日本時間から香港時間へ移ります。香港は日本より一時間遅い。昨夜一時ちょうど、船内の時計を一時間戻しました」

私は思わず顔を上げた。

「つまり、零時が二回あった」

コエンマが指を鳴らした。

「その通り」

彼は航海日誌を広げ、私たちに見せた。

航海日誌には、船の公式記録として、こう記されていた。

01:00 日本時間――全船の時計を一時間戻し、香港時間00:00とする。

つまり昨夜、船には二つの零時があった。

最初の一時間は日本時間。

次の一時間は香港時間。

零時二十分も、二度訪れたのである。

けれども、それだけでは犯人は分からない。

コエンマは金庫室の扉の前でしゃがみ込み、鍵穴を虫眼鏡で覗いた。

「くらま」

「はい」

「この鍵穴、冷やしてみろ」

私は掌を扉に近づけ、氷水の力をほんの少しだけ流した。金属の表面に薄く霜が降り、鍵穴の縁に、真新しい細かな傷が浮かび上がる。

「最近、合鍵が使われた跡ね」

武威は金庫室の横にある清掃具入れを開け、奥に落ちていた小さな石鹸片を拾った。石鹸には、鍵の形がくっきりと押し付けられている。

「型取りだ」

ホー総警司が厳しい顔になった。

「誰が、こんなものを」

その時だった。

通訳として同行していた船客、チン・コウゼンが進み出た。穏やかな笑顔の中国人青年で、香港に親戚を訪ねる途中だという。

彼は、困ったように言った。

「実は、昨夜見たのです。零時二十分ごろ、中国人の給仕が革の鞄を持って、船尾へ走るのを」

船内がざわついた。

「なぜ早く言わない」

ホー総警司が問う。

「私の見間違いかもしれないと思って。ですが、船員宿舎を調べれば分かるはずです。犯人は下層の船員に違いありません」

コエンマは、しばらく彼をじっと見つめた。

「ふむ。では、船員宿舎から調べよう」

私は驚いた。

コエンマが、こんなにも素直に他人の誘導を受け入れるはずがない。

案の定、船長室を出たところで、彼は私と武威だけを引き留めた。

「今のは嘘じゃ」

「チン氏の証言が?」

「あの男、見た時刻を誤魔化しておる。わざとこちらを船員宿舎へ向けたがっている」

「なぜ」

「分からん。だが、嘘をつく者は、守りたいものを持っておる」

コエンマは航海日誌を指で叩いた。

「お前たちは逆を調べろ。喫煙室、バー、そして航海日誌の時刻じゃ。犯人は幽霊でもなければ、船に詳しい素人でもない。船の時間そのものを盗んだ男じゃ」

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## 三 二度目の零時二十分

私と武威は、まずバーの帳簿を調べた。

「00:20」と刻まれた伝票は確かにあった。副事務長ハーコートが、船長とプライス氏へブランデーを出した記録だ。

ところが、伝票の紙は二枚重ねの複写だった。上の紙には「00:20」。しかし下の控えには、薄く別の時刻が残っている。

武威が伝票を光に透かした。

「……00:47」

「控えの方は、事務室の時計で後から書き直されているわ」

バー係の証言も奇妙だった。

「ハーコートさんが飲み物を出したのは、確かに零時二十分です。船長とプライスさんがチェスを始めたばかりでした。その後、ハーコートさんは一度事務室へ戻り、時計合わせの通知を配ると言っていました。次に見たのは、香港時間の一時を過ぎてからです」

「最初の零時二十分と、二度目の零時二十分のあいだ、彼はどこに?」

「さあ……」

船の時計を一時間戻す作業は、各部署の係が順に行った。食堂、喫煙室、事務室、客室廊下。ところが、金庫室のある事務区画だけ、時刻変更を知らせる桃色の通知が届いていなかった。

その通知を配る担当こそ、ハーコートだった。

私は事務室の引き出しを調べ、古い船内時刻表の下から、一枚の新しい紙を見つけた。

時刻変更通知。金庫室前当直は新時間に従うこと。

それは、誰の目にも触れない場所に隠されていた。

武威が機関室へ向かい、戻ってきたとき、彼の手には機関日誌の写しがあった。

「香港時間の零時三十七分、漁船団を避けるため、船は一時的に減速している」

「航海日誌にもあるわ」

「ああ。その時間、船尾の救命艇デッキで、エンジンの振動が止んだ。誰かが重いものを運べば、足音が響く」

当直の機関員は証言した。

減速中、救命艇デッキで「カタン」という金属音を聞いた。見に行くと、六号救命艇の備品箱が閉まったばかりだったという。

そこで見たのは、事務長の制服の袖だった。

その袖口には、金のモールが二本。

副事務長の袖章だった。

私は息を飲んだ。

やはり、ハーコート。

だが、彼は零時二十分に喫煙室にいた。それは確かな事実だ。

コエンマは船長室で、ホー総警司と向かい合って言った。

「問題は単純じゃ。ハーコートのアリバイは、どちらの零時二十分のものか、じゃ」

彼は黒板に、船の時刻を書き始めた。

**23:40 日本時間

プライス氏とベラミー事務長、外交行嚢を金庫室へ。**

**00:20 日本時間

ハーコート、喫煙室で船長とプライス氏に飲み物を出す。多数の目撃者。**

**01:00 日本時間

船内時計を一時間戻す。香港時間00:00となる。**

**00:20 香港時間

金庫室前の見張りは、古い当直表の『00:30交代』を新時間と誤解し、持ち場を離れる。交代者は01:00まで来ない。**

**00:37 香港時間

船は漁船団を避けて減速。救命艇デッキで物音。**

「ハーコートは、最初に現れた零時二十分には、確かに喫煙室におった」

コエンマはチョークで、最初の00:20を丸く囲んだ。

「だが、盗みが行われたのは、二度目の零時二十分の後じゃ。彼は時刻変更通知を隠し、当直の空白を作り、型取りした合鍵で金庫室を開けた」

ホー総警司が言った。

「証拠は?」

「石鹸の鍵型、鍵穴の新しい傷、書き換えられた伝票、そして六号救命艇の備品箱じゃ」

その時、チン・コウゼンが静かに口を開いた。

「……総警司。申し訳ありません」

彼は懐から、香港警察の身分証を取り出した。

「私は香港警察特別部の潜入捜査官です」

船長室に沈黙が落ちた。

「ハーコートがスパイと接触するのは、香港のパイロット船が来た時だと掴んでいました。彼が外交行嚢を持ち出す瞬間まで泳がせる必要があった。だから、コエンマ氏を別方向へ誘導した」

コエンマが目を細めた。

「わしを邪魔した理由はそれか」

「貴方が騒げば、相手が警戒する」

「わしは、いつも静かじゃ」

武威が低く言った。

「嘘をつくな」

ホー総警司は部下の勝手な判断に怒りを見せたが、同時にチン捜査官の情報が正しいことも理解した。

パイロット船には、行嚢の受け取り役が乗っている。

ハーコートは、入港直前の混乱に紛れて、行嚢を渡すつもりだった。

コエンマはにやりと笑った。

「では、計画を変えよう。わしは盛大に騒ぐ。犯人が慌てて動くようにな」

---

## 四 パイロット船の罠

午前六時三十分。

アストラル・クイーンは、香港のパイロットを迎えるため、さらに速度を落とした。

船内放送が流れた。

『外交行嚢の件につきまして、船内無線室の金庫から、類似の革鞄が発見されました。まもなく香港警察による確認が行われます』

もちろん嘘だった。

だが、その放送を聞いた犯人は、六号救命艇へ向かうはずだった。本物の行嚢がまだそこにあるか、確認せずにはいられない。

私は救命艇デッキの影に潜み、武威は反対側の通路を塞いだ。香港警察の警官たちが、ホー総警司の指揮で下層甲板に散る。チン捜査官はパイロット船を見張った。

潮風が強く、私の黒いドレスの裾を煽った。出港地で誂えた船上用の装いは、肩と背を大胆に開き、歩くたびにスリットから脚が覗く。潜伏には不向きだったが、武威の視線だけは、ときどき仕事を離れた。

「寒いか」

彼は私の肩に自分の上着をかけた。

「少し」

「終わったら、部屋へ戻る」

「雲呑麺が先よ」

「……後でもいい」

私は彼の胸元を指で軽く叩いた。

「旦那様、今はお仕事です」

「分かっている」

彼の手が、私の腰に一瞬だけ残った。その熱が消える前に、足音が聞こえた。

副事務長ハーコートだった。

彼は周囲を見回し、六号救命艇の備品箱を開けた。油布に包まれた革の鞄――外交行嚢が姿を現す。

その瞬間、パイロット船から一人の男がロープ梯子へ手を伸ばした。受け取り役だった。

ハーコートが行嚢を抱えて走る。

「止まれ!」

ホー総警司の声が響いた。

ハーコートは私の方へ突っ込んできた。

武威が前に出た。

巨躯が通路を塞ぐ。それでもハーコートは、行嚢を盾のように抱えて体当たりを試みた。武威は彼を傷つけぬよう片腕で受け止め、そのまま壁へ押し付けた。

「離せ! 私はロンドンへ行くんだ!」

「香港で降りろ」

甲板に逃げた受け取り役には、私が氷水の薔薇鞭を放った。鞭は彼の足元の濡れた甲板を凍らせ、走る勢いを奪う。転びかけた男を、香港警察の警官たちが取り押さえた。

チン捜査官が素早く行嚢を受け取り、封印を確認した。

「封は切られていません」

プライス氏が駆け寄り、震える手で行嚢を受け取った。

「中身も無事です。……助かりました」

ホー総警司はハーコートに手錠をかけながら、コエンマを見た。

「逮捕は香港警察だ」

コエンマは、船の手すりに肘をついて言った。

「発見はロンドン警察の協力者じゃ」

「では、共同逮捕で手を打ちましょう」

二人は不満そうに、しかしどこか満足げに頷いた。

---

## 五 ホームズの解説

入港後、アストラル・クイーンの応接室で、コエンマは関係者全員を前に、事件の解説を行った。

探偵小説の最後の場面のように、彼は一人ずつを指さして語った。

「まず、プライス氏は犯人ではない。彼は行嚢を預けた後、船長とチェスをしていた。そのアリバイは本物じゃ」

「ベラミー事務長も違う。彼は金庫室の鍵を持っていたが、時刻変更通知が届いていないことに気づき、朝まで事務室で当直表を確認しておった」

「問題はハーコートだった」

ハーコートは椅子に座らされ、青ざめた顔で床を見つめていた。

「彼は金庫室の鍵を、封蝋を取る石鹸に押し付けて型を取り、合鍵を作った。そして、時刻変更の通知を金庫室の当直へ渡さなかった」

コエンマは黒板を叩いた。

「船内時刻表と航海日誌の食い違いが、すべての鍵じゃ」

「日本時間の零時二十分、ハーコートは喫煙室におった。これは真実」

「しかし、船の時計が一時間戻された後、再び零時二十分が訪れた。こちらには目撃者がいない」

「見張りは古い当直表に従い、香港時間の零時三十分に持ち場を離れた。交代者は新しい時刻で一時まで来ない。その空白の三十分に、ハーコートは合鍵で金庫室を開け、外交行嚢を盗み、六号救命艇の備品箱へ隠した」

チン捜査官が静かに付け加えた。

「私は、彼が救命艇デッキに現れるのを見ていました。しかし、その場で捕まえれば、パイロット船の受け取り役を逃がすところだった」

「だからといって、名探偵を騙していい理由にはならん」

コエンマが言った。

「結果として、受け取り役も捕まったではありませんか」

「わしの推理が正しかったからじゃ」

ホー総警司が咳払いをした。

「香港警察の捜査もありました」

「まあ、共同捜査じゃな」

私は思わず笑った。

名探偵と警察の意地の張り合いは、どうやら、どちらも引く気がないらしい。

外交行嚢は、香港総督府の係官へ正式に引き渡された。封印は最後まで破られず、条約草案も暗号表も無事だった。

プライス氏は私たちに深く頭を下げた。

「ロンドンへ戻ったら、外務省に必ず報告します。貴方方は、立派な警察協力者だ」

武威はぶっきらぼうに答えた。

「便利屋で十分だ」

コエンマが横から言った。

「いや、ロンドン警察の誇りじゃ」

「使うな」

---

アストラル・クイーンが香港の埠頭に接岸したのは、午前八時を少し回った頃だった。

霧は晴れ、ビクトリア・ハーバーの水面は朝日を受けて金色に光っている。対岸の九龍半島が近くに見え、港にはフェリーとジャンク船が絶え間なく行き交っていた。

私は武威と並んでタラップを降りた。

事件の後の空気は、妙に澄んでいた。夫の大きな手が私の手を包み、指を絡める。人混みの中で離れないようにという実用的な仕草のはずなのに、その確かな熱は、私の胸を静かに騒がせた。

「雲呑麺よ、あなた」

「ああ」

「香港の朝ごはん」

「その後は?」

私は彼の腕に身体を寄せ、耳元で囁いた。

「事件の報告書は、コエンマに任せましょう」

「あいつは書かんだろう」

「じゃあ、記録係は私」

「お前の記録は長くなりそうだ」

「名探偵の助手ですから」

武威は少しだけ笑い、私の額へ唇を落とした。その仕草は、港の人混みの中では大胆で、けれど夫婦にとっては自然なものだった。

香港の街が、私たちを待っていた。

蒸気、香辛料、海の匂い。新しい港、新しい朝。

そして、私たちの新婚旅行は、香港で本当の始まりを迎えたのである。

――完

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作者について

水野くらま

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