2-5 聖女と友達
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あらすじ
魔王亡き世界で、再び魔の時代が動き出す。 魔王ゼルヴァディスが討たれてから、六百二十八年。 平和を取り戻したアストラリア大陸では、三つの主要勢力が微妙な均衡を保ちながら共存していた。 しかし、今なお人の立ち入れない旧魔王領では、魔物たちが静かに活動範囲を広げ始めていた。 各地では怪しい薬が出回り、魔王を崇める新興宗教も勢力を増していく。 そんな異変をまだ知らず、自由交易都市に暮らす青年レオン・ヴェスタは、見知らぬ世界を求めて旅立つ。 やがて彼は、森の外へ憧れる若きエルフの癒し手フィリアと、その護衛リュシアに出会う。 三人の小さな旅立ちは、やがて国家、宗教、人間、魔物――大陸に生きる者すべてを巻き込む事変へ繋がっていく。 善と悪の境界が揺らぐ世界で、彼らは何を知り、何を選ぶのか。 これは、魔王亡き世界で再び動き始めた、魔の時代を巡る物語。
本文
新暦628年、4月11日。
夜。
レオンたちが泊まる宿の一室は、決して広くはなかった。
部屋の中央には二人用の大きめの寝台が一つ。
壁際には荷物を置くための棚と、小さな机。
床には、宿の主人が追加で貸してくれた毛布が畳まれている。
本来なら、そこで今後の寝床についてもう一度話し合うはずだった。
だが今、部屋の空気はそれどころではない。
レオン、フィリア、リュシア。
そして、地味な外套を羽織ったままの少女、アリア・レイシア。
四人は小さな机を囲むように座っていた。
部屋へ入ったあと、リュシアはまず扉を閉め、
廊下に誰もいないことを確認した。
それからようやく、アリアに椅子を勧めた。
アリアは最初、かなり戸惑っていた。
だが、フィリアはそんな空気を気にすることなく、にこにこと笑っていた。
「じゃあ、改めて自己紹介しよっか!」
フィリアは自分の胸に手を当てる。
「私はフィリア・エルフェリア。フィリアでいいよ」
続いてレオンが軽く手を上げた。
「レオン・ヴェスタ。ヴェントゥス出身の冒険者だよ」
最後にリュシアが静かに頭を下げる。
「リュシア・ミストリーフです。フィリア様の護衛として同行しています」
アリアは三人を順に見たあと、少し緊張した様子で膝の上の手を握った。
「アリア・レイシア、です」
声は小さい。
だが、先ほど通りで呼び止めた時よりは、少しだけ落ち着いていた。
「アリアちゃんだね!」
フィリアは明るく頷いた。
「よろしくね、アリアちゃん」
「は、はい……よろしくお願いします」
アリアは小さく頭を下げた。
その仕草は丁寧で、年齢に比べて妙に大人びていた。
レオンはそれを見て、少しだけ胸に引っかかるものを覚える。
十三歳前後の少女にしては、随分と自分を抑えることに慣れている。
そんな印象だった。
フィリアも同じものを感じ取ったのか、
アリアの向かいに座り直すと、少しだけ声を柔らかくした。
「それで、アリアちゃん」
「はい」
「改めて聞くけど、何かあったんだよね?」
アリアの肩がわずかに揺れた。
「私は……」
言いかけて、口を閉じる。
フードの下で視線が落ちる。
フィリアは急かさなかった。
リュシアも黙っている。
レオンも、余計なことは言わなかった。
しばらく、小さな沈黙が部屋に落ちた。
やがて、アリアがぽつりと話し始めた。
「私……明日、街頭演説をするんです」
「街頭演説?」
フィリアが首を傾げる。
アリアは小さく頷いた。
「ギノマイ教の聖女として、人々の前に立って、
女神様のお話をすることになっています。
王都の中では何度かあったんですけど、
王国の外で話すのは、明日が初めてで……」
「そっか。だから緊張してたんだね」
フィリアが言うと、アリアは少し目を伏せた。
「それだけじゃ、ないんです」
声が震える。
「私、ずっと……そういうふうに育てられてきたんです」
言葉はゆっくりだった。
だが、一度口にし始めると、
止められないものが少しずつ溢れていくようだった。
「小さい頃から、周りの人たちが私を特別だって言いました。
女神様に愛された子だって。奇跡の子だって。
生まれつき加護を持っているから、私は普通の子じゃないんだって」
アリアは膝の上の手を握りしめる。
「でも、私にはよく分からなかったんです。
加護があるって言われても、それがどれだけ凄いことなのか、
自分では分からなくて。
ただ、皆が凄い凄いって言うから、そうなんだって思うしかなくて」
部屋の明かりが、静かに揺れる。
「お父さんもお母さんも、私のことを大切にしてくれます。
優しくしてくれます。でも……」
そこで、アリアの声が少し詰まった。
「でも、いつも言うんです。アリアは女神様に選ばれた子だ。
アリアは人々を導く子だ。
アリアはいずれ、もっと大きな役目を背負う子だって」
「……」
「中には、私を女神様の生まれ変わりみたいに言う人もいます。
あなたは女神になるのよ、って言われたこともあります」
アリアは小さく首を振った。
「そんなの、分からないのに」
その言葉は、ひどく幼く聞こえた。
今まで懸命に大人びた振る舞いをしていた少女の、
本当の年齢がそこに滲んでいた。
「私は、女神様じゃありません。
朝は眠いし、知らない人の前に立つのは怖いし、
失敗したらどうしようって思うし……
本当は、皆が思っているみたいな立派な子じゃないんです」
アリアの声が少しずつ早くなる。
「でも、皆が期待してくれるから。
お父さんもお母さんも、教団の人たちも、セラフィナ様も、
私ならできるって言ってくれるから。
だから、できませんなんて言えなくて」
「セラフィナ様?」
フィリアが小さく尋ねた。
アリアは頷く。
「ギノマイ教で、次代の教主様になるかもしれないって
言われている凄い方です。
私が小さい頃から、目をかけてくださっていて……
いつも優しくしてくれます。
明日の演説も、アリアなら上手くできるって言ってくださいました」
「そっか。すごい人なんだね」
アリアはまた視線を落とした。
「だから、余計に失敗できないんです」
そう言った瞬間、何かが決壊したようだった。
「私、怖いんです。明日、人前に立って、
声が震えたらどうしようって。言葉を間違えたらどうしようって。
皆が期待している聖女じゃないって思われたらどうしようって」
ぽつぽつと落ちていた言葉が、止まらなくなる。
「でも、怖いって言ったら駄目なんです。
聖女だから。女神様に愛された子だから。
皆を安心させないといけないから。
お父さんとお母さんをがっかりさせたくないから」
アリアの目に涙が浮かぶ。
「本当は……本当は、普通の子みたいにしてみたいんです。
友達とお話したり、笑ったり、屋台のご飯を食べたり、
誰かに凄いねって言われるんじゃなくて、
一緒に凄かったねって言ったり……」
彼女はぎゅっと目を閉じた。
「さっき、窓から見ていました。
レオンさんが戦って、フィリアさんが笑って、
リュシアさんが呆れたみたいにしていて……
三人が、すごく楽しそうで」
声が震えた。
「いいなって、思ったんです」
部屋は静かだった。
誰も、アリアの言葉を遮らなかった。
アリアは小さく息を吸う。
そして、ようやく顔を上げた。
「長々と、すみませんでした」
そう言って、彼女は三人を見回す。
「こんなこと、急に話されても困りますよね……」
その瞬間。
フィリアが震えていた。
俯き加減で、肩を小さく震わせている。
アリアはぎょっとした。
「フィ、フィリアさん?」
次の瞬間、フィリアはがっとアリアの両手を握った。
「よく頑張ってきたね、アリアちゃん!」
「えっ」
「本当にすごいよ!」
フィリアの声は真剣だった。
驚くほどまっすぐで、温かかった。
アリアは目を瞬かせる。
「あはは……ありがとうございます。
でも、結局、周りの人たちの言いなりにやってきただけなんですけどね……」
「それが凄いんだよ!」
フィリアは強く言った。
「つまり、アリアちゃんは期待に応え続けてきたんでしょ!
それが凄いんだよ!」
「そ、そうですかね」
「そうだよ!」
フィリアは何度も頷く。
「私もね、エルフの里で守護巫女だのなんだのって言われてきたし、
里の外には出してもらえないしで、ずっと退屈な日々を過ごしてきたんだ」
アリアは少し驚いたようにフィリアを見る。
「フィリアさんも……?」
「うん。ああ、私このまま一生を過ごすのかなって、
何度思ったことか……」
フィリアは遠い目をした。
アリアの表情が沈む。
「フィリアさんも、辛い役目を負わされてきたんですね……」
「いえ」
リュシアがすかさず口を挟んだ。
「フィリア様の場合、確かにエルフの里からは出られませんでしたが、
エルフの里ではかなり気ままに過ごしていましたけどね」
「リュ、リュシアは黙ってて!」
フィリアが慌てて振り返る。
「大事なところなんだから!」
「事実を補足しただけです」
「補足しなくていいの!」
アリアはそのやり取りに、少しだけ目を丸くした。
そして、ほんの少し笑った。
フィリアは咳払いをして、アリアに向き直る。
「とにかく、アリアちゃんは偉いよ!」
「は、はい」
「明日の演説も、アリアちゃんなら大丈夫だよ!」
「そう、でしょうか」
「だって、これまでも頑張ってきたんでしょ! やれるやれる!」
その軽さに、リュシアが少しだけ目を細めた。
だが、止めはしなかった。
アリアは不安そうにしながらも、どこか救われたように息を吐く。
「そうだといいんですけど……」
「そうだ!」
フィリアはぱっと手を打った。
「私たちも明日、見守っててあげるよ!」
「え?」
「そしたら、少しだけ勇気出るでしょ?
もし失敗しても、大丈夫だよって盛り上げてあげるよ!」
「それは……」
アリアは困ったように笑った。
「あはは、それはありがたいです」
「うんうん!」
フィリアは満足そうに頷いた。
アリアはその笑顔を見つめた。
明るくて、まっすぐで、少し強引で。
でも、不思議と嫌ではない。
むしろ、胸の奥が少し温かくなる。
アリアは少し迷った。
何度も口を開きかけて、閉じる。
そして、勇気を振り絞るように言った。
「あの、フィリアさん」
「なに?」
「も、もしよかったら……」
アリアは両手を膝の上でぎゅっと握る。
「友達に、なってくれませんか?」
フィリアの目が丸くなった。
アリアは慌てて言葉を続ける。
「私、そういう人がいたことなくて……。
だから、その……迷惑じゃなければ……」
「もちろん!」
フィリアは即答した。
「もう私たち友達だよ!」
「えっ」
「ほら、私のこと、フィリアって呼んでみて!」
「え!? え、えーと……」
アリアは真っ赤になりながら、恐る恐る口を開く。
「フィリア……ちゃん……」
フィリアはぱっと笑った。
「あはは! それでもいいよ!」
そして、両手を広げる。
「これからよろしくね、アリアちゃん!」
そう言って、フィリアはアリアをぎゅっと抱きしめた。
アリアは最初、完全に固まった。
誰かにこうして抱きしめられることはあった。
両親にも、教団の人にも、儀式の場で手を取られることもあった。
けれど、それはどこか違っていた。
祝福。
期待。
崇拝。
畏敬。
今のフィリアの抱擁は、それとは違う。
友達を抱きしめる、ただそれだけの温かさだった。
アリアはゆっくりと手を上げる。
そして、ぎゅっと抱き返した。
「……よろしくお願いします、フィリアちゃん」
声は小さかった。
けれど、確かに笑っていた。
しばらくして、二人は体を離した。
アリアは目元を軽く拭い、はっとしたように顔を上げる。
「あっ……そろそろ、私、帰らないと」
「そうだね!」
フィリアは立ち上がる。
「あっ、送ってくよ」
「フィリア様は宿で待っていてください」
リュシアが即座に止めた。
「え?」
「私が送っていきます」
「なんで?」
リュシアは静かに言った。
「もしアリアさんのご両親と鉢合わせた場合、
とてつもなくややこしいことになりそうなので」
「そ、そっかな」
「そうです」
リュシアの断言に、フィリアは少し肩を落とした。
「それじゃあ、お願い」
「はい」
リュシアはアリアの方を見る。
「さあ、行きましょう。できるだけ目立たず戻ります」
「あ、はい」
アリアは立ち上がった。
部屋から出る前に、彼女はレオンへ向かってぺこりと頭を下げる。
「レオンさんも、ありがとうございました」
「気をつけて」
レオンが軽く手を上げる。
アリアは次に、フィリアへ向かって小さく手を振った。
「おやすみなさい、フィリアちゃん」
「うん! おやすみ、アリアちゃん! 明日、見に行くからね!」
「はい」
アリアは、少し恥ずかしそうに笑った。
そしてリュシアに促され、部屋を出ていく。
扉が静かに閉まった。
部屋には、レオンとフィリアの二人が残される。
急に静かになったように感じた。
フィリアはしばらく、扉の方を見ていた。
それから、ぽつりと言う。
「もし、レオンが現れなかったら」
レオンはフィリアを見る。
フィリアは扉を見たまま続けた。
「私もエルフの里で、ああなってたのかな……」
「……」
レオンはすぐには答えなかった。
フィリアはゆっくりと振り返った。
「レオン」
「うん」
「改めて、ありがとうね」
フィリアは柔らかく微笑んだ。
「私を連れ出してくれて」
レオンは少しだけ目を伏せる。
「俺は大したことしてないよ」
それは本心だった。
「フィリアが決断して、里を出たんだ。俺はきっかけに過ぎないよ」
「ううん。そんなことない」
フィリアは首を横に振った。
そして、少し照れたように笑う。
「少なくとも、レオンと出会ってから、
一日も退屈って思ったことないよ!」
その笑顔は、まっすぐだった。
外套を脱いだ室内で、柔らかな灯りに照らされたフィリアの表情は、
里で初めて出会った時よりも少しだけ大人びて見えた。
レオンの胸が、不意に跳ねる。
「……っ」
彼はそれを誤魔化すように、軽く咳払いをした。
「それなら、よかった」
そう言って、レオンも微笑み返す。
フィリアは満足そうに笑った。
窓の外では、宿場町の夜の喧騒がまだ続いている。
夜は静かに更けていく。
明日、アリアは人々の前に立つ。
その時、彼女を見守る友達がいることを、
まだ彼女自身も少し信じきれないまま。