第1話「喫茶店こもれび」
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あらすじ
大学生の高橋悠斗は、小さな喫茶店「こもれび」でアルバイトを始めた。 店長の佐伯和夫は、穏やかで親切な人物だった。 一緒に働く先輩アルバイトの中村健太とも仲良くなり、悠斗は楽しく働いていた。 ところが、ある日、健太が突然アルバイトに来なくなってしまう。 困り果てる悠斗。 しかし、店長の反応は、なぜか少し変わっていた。 そして悠斗は、店の奥に隠された、奇妙な秘密を知ることになる。 これは、ちょっと変わった店長と、そこで働く青年たちの、少しおかしくて温かい物語。
本文
その喫茶店は、駅前の賑やかな通りから少し離れた場所にあった。
大きな店ではない。
古びた木製の扉に、小さな窓。
入り口の横には、季節の花が植えられた鉢がいくつか並んでいる。
扉の上には、控えめな文字で店の名前が書かれていた。
『喫茶こもれび』
高橋悠斗は、その看板を見上げた。
「……ここか」
今日から、この店でアルバイトを始めるのである。
悠斗は、少し緊張していた。
喫茶店で働くことには興味があったが、
初めての職場というのは、やはり落ち着かない。
どんな店長なのだろう。
仕事は難しいのだろうか。
ほかのアルバイトとうまくやっていけるだろうか。
そんなことを考えながら、悠斗は扉に手をかけた。
からん、からん。
小さな鈴の音が鳴った。
店内には、コーヒーの香りが漂っていた。
木製のテーブルがいくつか並び、窓際には柔らかな日差しが差し込んでいる。
壁には古い風景画が飾られ、棚には色とりどりのコーヒーカップが並んでいた。
どこか懐かしく、落ち着いた雰囲気だった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、男性の声が聞こえた。
五十代半ばほどの、穏やかな顔立ちの男性だった。
白いシャツに茶色のエプロンを身につけている。
悠斗は、慌てて頭を下げた。
「あの、今日からアルバイトでお世話になる、高橋悠斗です」
すると男性は、ぱっと表情を明るくした。
「ああ、高橋くん! 待っていましたよ」
男性はカウンターから出てきた。
「店長の佐伯和夫です。これからよろしくお願いしますね」
「よろしくお願いします!」
悠斗が深く頭を下げると、佐伯は優しく笑った。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「は、はい」
「最初から何でもできる人なんていませんから。少しずつ覚えていきましょう」
その言葉に、悠斗は少し安心した。
どうやら、怖い店長ではなさそうだった。
◆
「中村くん、ちょっといいかな」
佐伯が店の奥に声をかけた。
「はーい!」
元気な返事とともに、一人の青年が現れた。
悠斗より少し年上に見える、明るい雰囲気の男性だった。
「こちら、今日から働いてくれる高橋悠斗くんです」
「おっ、新人さん!」
青年は嬉しそうに笑った。
「俺、中村健太。よろしく!」
「高橋悠斗です。よろしくお願いします」
「そんなに堅くならなくていいって! 俺も最初は何にも分からなかったからさ」
健太は、悠斗の肩を軽くたたいた。
「分からないことがあったら、何でも聞いてよ」
「ありがとうございます」
「ただし、俺にも分からないことはあるけどな!」
そう言って、健太は豪快に笑った。
佐伯も、つられて微笑んだ。
「中村くんは、よく働いてくれるんですよ」
「いやあ、店長! もっと褒めてくださいよ!」
「ええ。とても助かっています」
「そこは給料アップでお願いします!」
「ははは。それは考えておきましょう」
二人のやり取りを見て、悠斗も思わず笑った。
どうやら、職場の雰囲気は悪くなさそうだった。
その日、悠斗は健太に教わりながら、仕事を覚えていった。
テーブルの拭き方。
食器の片づけ方。
注文の取り方。
料理や飲み物の運び方。
喫茶こもれびでは、コーヒーや紅茶だけでなく、
トーストやサンドイッチ、ナポリタンなどの軽食も出していた。
「この店のナポリタン、結構人気あるんだよ」
健太が言った。
「そうなんですか?」
「うん。店長が作るんだけどさ、昔ながらの味っていうのかな。
あれがいいんだよなあ」
「へえ……」
「まかないで食べられることもあるから、楽しみにしてな」
悠斗は、少し嬉しくなった。
初めての職場で、食事の楽しみまでできたのである。
◆
しかし、仕事というものは、そう簡単にはいかない。
悠斗が初めて注文を取りに行ったのは、昼前のことだった。
窓際の席に座っていた客が、メニューを閉じた。
「ホットコーヒーと、チーズトーストをお願いします」
「はい!」
悠斗は注文をメモした。
ところが、緊張していたせいか、
厨房に戻る途中で、うっかりメモを読み違えてしまった。
「店長、ホットコーヒーと、普通のトーストをお願いします!」
「はい、分かりました」
佐伯は、いつもの穏やかな声で答えた。
しばらくして、料理ができあがった。
悠斗はトーストとコーヒーを運んだ。
「お待たせしました!」
すると、客は少し不思議そうな顔をした。
「あれ? チーズトーストを頼んだんだけど……」
「……えっ?」
悠斗は、はっとした。
手元のメモを見る。
そこには、確かに「チーズトースト」と書かれていた。
「す、すみません!」
悠斗は慌てて頭を下げた。
「すぐに作り直します!」
客は、穏やかにうなずいた。
「大丈夫ですよ。お願いしますね」
悠斗は、急いで厨房へ戻った。
「店長、すみません! 注文を間違えました!」
佐伯は、少し驚いたようだったが、すぐに微笑んだ。
「そうでしたか」
「チーズトーストだったんです。僕が間違えて……」
「分かりました。では、すぐに作りましょう」
佐伯は、落ち着いた様子で調理を始めた。
悠斗は、申し訳なさそうに立っていた。
「本当に、すみません……」
すると、佐伯が振り返った。
「高橋くん」
「はい……」
「失敗したときは、まずお客様にきちんと対応することが大切です」
「はい」
「それから、同じ間違いをしないように考えることですね」
「……はい」
「だから、いつまでも落ち込まなくていいんですよ」
佐伯は、にっこり笑った。
「次から気をつければ大丈夫です」
悠斗は、少し驚いた。
怒られると思っていた。
少なくとも、注意されることは覚悟していた。
しかし、佐伯の声には、怒りらしいものが少しも感じられなかった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
佐伯は、チーズトーストを皿に載せた。
「さあ、お待たせしてしまいましたから、早くお持ちしましょう」
「はい!」
悠斗は、今度こそ間違えないように、慎重に皿を運んだ。
その様子を、健太が少し離れた場所から見ていた。
客が帰ったあと、健太は悠斗に声をかけた。
「な? うちの店長、優しいだろ?」
「はい。本当に……」
「俺なんか、最初の頃、もっとひどいミスしたことあるぜ」
「そうなんですか?」
「アイスコーヒーを運んでて、派手にひっくり返した」
「ええっ!」
「床がコーヒーの海になった」
悠斗は思わず笑った。
「それで、店長は?」
「まず、俺がやけどしてないか心配してくれた」
「……へえ」
「そのあと、一緒に床を拭いてくれたんだよ」
健太は、少し照れくさそうに笑った。
「だから俺、この店、結構好きなんだ」
悠斗は、深くうなずいた。
「僕も、好きになれそうです」
◆
それから、何日かが過ぎた。
悠斗は、少しずつ仕事に慣れていった。
常連客の顔も覚え始め、注文を取るときの緊張も和らいできた。
健太とは、休憩時間によく話すようになった。
健太は、とにかく話題の多い青年だった。
好きな食べ物。
最近見た映画。
昔の失敗談。
そして、何よりよく話すのが、恋人についてだった。
もっとも、健太に恋人がいるわけではない。
むしろ、いないからこそ、その話をするのである。
「なあ、高橋」
ある日の休憩時間。
健太は、まかないのナポリタンを食べながら言った。
「俺、彼女が欲しいんだよ」
「……そうなんですか」
「そうなんだよ!」
健太は、妙に力強くうなずいた。
「一緒に映画を見たり、遊園地に行ったり、そういうことをしてみたいんだ」
「いいですね」
「だろ?」
健太は、しばらく遠い目をした。
「でも、現実は厳しいんだよなあ……」
「そうなんですか?」
「そもそも、出会いがない!」
悠斗は苦笑した。
「中村さん、明るいから、すぐにできそうですけど」
「それ! それなんだよ!」
「えっ?」
「みんな、そう言うんだよ! でも、できないんだ!」
健太は、真剣な顔で悠斗を見た。
「高橋、お前に彼女ができたら、ちゃんと報告しろよ」
「どうしてですか?」
「俺より先に幸せになるなんて、許せないからな!」
「ええっ!」
健太は、一瞬だけ怖い顔をした。
しかし、すぐに吹き出した。
「冗談だよ、冗談! できたらお祝いするって!」
悠斗も笑った。
そのとき、厨房から佐伯が出てきた。
「楽しそうですね」
「あっ、店長!」
健太が振り返った。
「俺、彼女が欲しいんですよ!」
「そうですか」
佐伯は微笑んだ。
「素敵な方と出会えるといいですね」
「店長、紹介してくださいよ!」
「残念ながら、そういうお知り合いはあまりいませんねえ」
「ええーっ!」
健太は、がっくりと肩を落とした。
佐伯は、そんな健太を優しい目で見ていた。
「でも、中村くん」
「はい?」
「いつか、きっといいことがありますよ」
健太は、ぱっと顔を上げた。
「本当ですか?」
「ええ。そう願っています」
「よーし! 店長がそう言うなら、期待しちゃおうかな!」
健太は、嬉しそうに笑った。
悠斗も、つられて笑った。
佐伯は、二人の食べ終わった皿を片づけながら、穏やかに微笑んでいた。
◆
ある日の夕方。
悠斗は、店の奥で掃除をしていた。
喫茶こもれびには、厨房のさらに奥に、小さな廊下があった。
そこには、食材を保管する物置や、掃除道具を入れる棚がある。
そして、廊下のいちばん奥には、一枚の木製の扉があった。
その扉には、鍵がかかっていた。
悠斗は、何となく気になった。
ほかの部屋は、仕事のために出入りすることがある。
しかし、その部屋だけは、一度も使ったことがなかった。
「あれ……?」
悠斗は、扉を見つめた。
何の部屋なのだろう。
物置だろうか。
それにしては、ずいぶん丁寧な造りの扉だった。
悠斗が首をかしげていると、後ろから声がした。
「高橋、何してんの?」
振り返ると、健太が立っていた。
「あ、中村さん」
「そんなところで、どうした?」
「いや、この部屋って、何なのかなと思って」
悠斗は、奥の扉を指さした。
健太は、扉を見ると、あっさり答えた。
「ああ、そこ?」
「はい」
「店長の部屋らしいよ」
「店長の?」
「うん。俺も入ったことないけど」
「そうなんですか」
「店長が一人で使ってるらしいんだよな」
悠斗は、もう一度扉を見た。
「何をしているんでしょうね」
「さあ?」
健太は肩をすくめた。
「趣味の部屋とかじゃない?」
「趣味ですか?」
「模型とか、そういうの作ってたりしてな」
「へえ……」
「ま、別にいいじゃん。店長にも秘密の一つくらいあるだろ」
健太は、あまり気にしていない様子だった。
「それより高橋、そろそろ店に戻ろうぜ」
「あ、はい」
悠斗は、掃除道具を片づけた。
そして、健太と一緒に店へ戻った。
けれども、廊下の奥の扉が、少しだけ気になっていた。
◆
その数日後。
閉店時間が近づき、最後の客が帰ったころだった。
悠斗は、カウンターを拭いていた。
健太は、椅子を整えている。
佐伯は、レジの売り上げを確認していた。
店内には、穏やかな音楽だけが流れていた。
「いやあ、今日も働いたなあ!」
健太が、大きく伸びをした。
「お疲れさまでした」
悠斗が言うと、健太は笑った。
「高橋も、だいぶ仕事に慣れてきたな」
「そうですか?」
「うん。最初の頃は、ちょっと危なっかしかったけど」
「それは……すみません」
「いやいや、褒めてるんだって!」
健太は笑った。
佐伯も、顔を上げた。
「本当に、高橋くんはよく頑張っていますよ」
「ありがとうございます」
悠斗は、少し照れくさくなった。
「二人とも、いつも助かっています」
佐伯は、穏やかに言った。
「ありがとうございます」
「いやあ、店長!」
健太は、嬉しそうに笑った。
「そんなに褒められると、俺、調子に乗っちゃいますよ!」
「ははは。それは困りますね」
三人は笑い合った。
すると、健太が突然、いたずらっぽい顔をした。
「でも店長、あんまり優しくしすぎると、俺、甘えちゃうかもしれませんよ」
「そうですか?」
「ええ。ある日突然、来なくなっちゃったりして!」
悠斗は、思わず健太を見た。
「中村さん、そんなこと言っちゃ駄目ですよ」
「分かってるって!」
健太は笑った。
そして、佐伯に向かって言った。
「俺もいつか、バイト飛んじゃうかもしれませんよ!」
もちろん、冗談だった。
健太自身、そんなつもりはなかったのだろう。
いつもの軽口の一つだった。
悠斗も、最初はそう思っていた。
ところが。
佐伯は、その言葉を聞いた瞬間、ふと手を止めた。
「……そうですか」
いつもの穏やかな声だった。
しかし、その表情が、ほんの少し変わったように見えた。
驚いたような。
何かを考えているような。
それでいて、どこか嬉しそうな。
悠斗には、うまく説明できない表情だった。
「店長?」
健太が、不思議そうに声をかけた。
佐伯は、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「いえ、何でもありませんよ」
「いやいや、冗談ですからね!」
健太は、慌てて付け加えた。
「俺、そんな無責任なことしませんって!」
「ええ。分かっていますよ」
佐伯は、優しくうなずいた。
「中村くんには、いつも助けてもらっていますから」
「ですよね!」
健太は、安心したように笑った。
悠斗も、少し笑った。
しかし、佐伯は、もう一度だけ健太を見た。
そして、静かに微笑んだ。
その微笑みは、いつもの優しい笑顔と、ほとんど変わらなかった。
ただ、悠斗には、なぜか少し違って見えた。
◆
その日の仕事が終わった。
健太は、エプロンを外しながら言った。
「じゃあ、俺、先に帰るわ!」
「お疲れさまでした」
悠斗が答えると、健太は手を振った。
「またな、高橋!」
「はい。また!」
健太は、いつもの元気な足取りで店を出ていった。
からん、からん。
扉の鈴が鳴った。
悠斗も帰る準備を始めた。
「高橋くん」
佐伯が声をかけた。
「はい?」
「今日も、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
「気をつけて帰ってくださいね」
「ありがとうございます。店長も、お疲れさまでした」
佐伯は、にっこり笑った。
「お疲れさまでした」
悠斗は、店を出ようとした。
しかし、ふと振り返った。
佐伯は、カウンターの奥で、何かを考えるように立っていた。
その横顔は、いつもどおり穏やかだった。
けれども、悠斗は、先ほどの健太とのやり取りを思い出していた。
『俺もいつか、バイト飛んじゃうかもしれませんよ!』
あの冗談を聞いたときの、店長の表情。
怒ったわけではなかった。
困ったわけでもなかった。
むしろ、どこか嬉しそうにさえ見えた。
「……気のせいかな」
悠斗は、小さくつぶやいた。
店長は、いつも優しい。
仕事を間違えても怒らないし、誰に対しても穏やかに接する。
きっと、あのときも、健太の冗談を優しく受け止めただけなのだろう。
そう思うことにした。
悠斗は、もう一度頭を下げた。
「それじゃあ、失礼します」
「はい。また次の勤務日に」
からん、からん。
鈴の音とともに、悠斗は店の外へ出た。
夕暮れの通りには、涼しい風が吹いていた。
悠斗は、ゆっくりと歩き始めた。
悪くない職場だと思った。
店長は優しい。
先輩も明るい。
店の雰囲気も落ち着いている。
できれば、長く働きたい。
そんなことを考えながら、悠斗は家路についた。
一方、喫茶こもれびでは。
佐伯が、静かに店内の明かりを消していた。
テーブルを見渡し、戸締まりを確認する。
そして、厨房の奥へと歩いていった。
小さな廊下。
そのいちばん奥にある、鍵のかかった木製の扉。
佐伯は、その前で足を止めた。
しばらく、何も言わずに扉を見つめていた。
そして、ふと、健太の言葉を思い出した。
『俺もいつか、バイト飛んじゃうかもしれませんよ!』
佐伯は、小さく微笑んだ。
「……中村くん」
その声は、誰に聞かせるでもない、静かなものだった。
佐伯はポケットから鍵を取り出した。
そして、ゆっくりと扉の鍵穴に差し込んだ。
かちゃり。
小さな音が、静かな廊下に響いた。
扉の向こうに何があるのか。
そこだけは、悠斗も健太も、まだ知らなかった。
佐伯は、いつもの穏やかな表情のまま、扉をそっと開いた。
そして、中へ入っていった。
誰もいなくなった喫茶こもれびには、静かな夜が訪れようとしていた。
(第1話 完)