第2話「飛んだ先輩」
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あらすじ
大学生の高橋悠斗は、小さな喫茶店「こもれび」でアルバイトを始めた。 店長の佐伯和夫は、穏やかで親切な人物だった。 一緒に働く先輩アルバイトの中村健太とも仲良くなり、悠斗は楽しく働いていた。 ところが、ある日、健太が突然アルバイトに来なくなってしまう。 困り果てる悠斗。 しかし、店長の反応は、なぜか少し変わっていた。 そして悠斗は、店の奥に隠された、奇妙な秘密を知ることになる。 これは、ちょっと変わった店長と、そこで働く青年たちの、少しおかしくて温かい物語。
本文
その日の朝も、喫茶こもれびには、いつもと変わらない時間が流れていた。
窓からは柔らかな日差しが差し込み、
店内には挽きたてのコーヒーの香りが漂っている。
高橋悠斗は、カウンターの内側で、開店の準備をしていた。
テーブルを拭き、椅子を整え、砂糖やミルクの補充をする。
少し前までは、一つ一つ確認しながら行っていた作業も、
今ではずいぶん慣れてきた。
「高橋くん、おはようございます」
厨房から、店長の佐伯和夫が声をかけた。
「おはようございます!」
「今日もよろしくお願いしますね」
「はい!」
佐伯は、いつものように穏やかに微笑んだ。
悠斗は、この店で働くことが好きになっていた。
仕事は決して楽ではない。
忙しい時間帯には、注文が重なり、料理を運ぶだけでも大変になる。
それでも、佐伯の優しい人柄と、先輩アルバイトの中村健太の明るさのおかげで、
毎日楽しく働けていた。
「そういえば……」
悠斗は、壁の時計を見た。
「中村さん、まだ来ていないんですね」
健太は、今日も出勤する予定だった。
いつもなら、そろそろ店に現れる時間である。
「そうですね」
佐伯も時計を見た。
「少し遅れているのかもしれませんね」
「中村さん、寝坊でもしたんですかね」
悠斗は笑った。
健太なら、ありそうな話だった。
いつも元気で、よくしゃべる。
そして、ときどき調子に乗りすぎる。
けれども、仕事はきちんとする人だった。
遅刻することはあっても、連絡をせずに休むような人ではない。
少なくとも、悠斗はそう思っていた。
「もう少し待ってみましょう」
佐伯は、そう言って開店の準備を続けた。
やがて、開店時間になった。
からん、からん。
最初の客が入ってきた。
「いらっしゃいませ!」
悠斗は、いつものように声をかけた。
しかし、健太はまだ来なかった。
◆
開店から三十分ほどが過ぎたころ。
佐伯が、スマートフォンを手に取った。
「中村くんに連絡してみますね」
「はい」
佐伯は電話をかけた。
悠斗は、少し離れた場所から、その様子を見ていた。
しかし、相手が電話に出る気配はなかった。
佐伯は、しばらく待ってから電話を切った。
「出ませんねえ……」
「寝てるんでしょうか」
「そうかもしれませんね」
佐伯は、もう一度時計を見た。
そして、メッセージを送った。
『中村くん、おはようございます。今日は出勤予定ですが、何かありましたか?
体調が悪いようでしたら、無理をしないでくださいね。
落ち着いたら連絡をお願いします』
佐伯は、文章を確認してから送信した。
「これで、少し待ちましょう」
「はい」
しかし、返事はなかった。
一時間が過ぎても、二時間が過ぎても、健太は姿を現さなかった。
そして、昼前。
店は、いつも以上に忙しくなってきた。
「すみません、注文お願いします!」
「はい! 少々お待ちください!」
「コーヒー、まだですか?」
「申し訳ありません! ただいまお持ちします!」
悠斗は、店内を慌ただしく動き回った。
いつもなら健太が担当してくれる仕事まで、今日は悠斗がしなければならない。
注文を取り、料理を運び、食器を片づける。
空いた席を拭いていると、別の席から呼ばれる。
水を注ぎに行こうとすると、新しい客が入ってくる。
「いらっしゃいませ!」
悠斗は、何度も店内を往復した。
厨房では、佐伯が次々と料理を作っていた。
「高橋くん、ナポリタンができましたよ」
「はい!」
「そのあと、少し休憩してくださいね」
「だ、大丈夫です!」
悠斗は答えたものの、額には汗が浮かんでいた。
ようやく昼の混雑が落ち着いたころには、すっかり疲れ果てていた。
「……ふう」
悠斗は、厨房の隅で小さく息をついた。
佐伯が、冷たい水を差し出した。
「お疲れさまでした」
「あ、ありがとうございます……」
悠斗は、水を一口飲んだ。
冷たさが、体に染み渡るようだった。
「今日は大変でしたね」
佐伯が言った。
「はい……中村さんがいないと、こんなに違うんですね」
「そうですね」
佐伯は、静かにうなずいた。
「中村くんには、いつも助けてもらっていたんだと、改めて感じます」
悠斗は、少し驚いた。
健太が来なかったことを怒るのではなく、普段の働きに感謝している。
いかにも、佐伯らしい言葉だった。
「でも、店長」
「はい?」
「中村さん、大丈夫なんでしょうか」
佐伯は、少し表情を曇らせた。
「それが心配ですね」
「電話も出ないんですよね?」
「ええ。まだ返事はありません」
佐伯は、しばらく考えてから言った。
「何か事情があるのかもしれません。もう少し連絡を試してみましょう」
悠斗は、うなずいた。
「そうですね……」
◆
その日、健太は結局、店に来なかった。
翌日も、姿を現さなかった。
佐伯は電話をかけ、メッセージも送った。
しかし、返事はない。
悠斗も、健太に連絡してみた。
『中村さん、大丈夫ですか? 店長も心配しています。
連絡できるときに返事をください』
だが、そのメッセージにも返信はなかった。
「……どうしたんだろう」
悠斗は、スマートフォンを見つめながらつぶやいた。
いつも明るく、よくしゃべっていた健太。
休憩時間には、何度も「彼女が欲しい」と話していた。
冗談を言っては笑い、悠斗の失敗をからかいながらも、
仕事では何かと助けてくれた。
そんな健太が、突然いなくなってしまったのである。
事故にでも遭ったのだろうか。
それとも、何か困ったことがあったのだろうか。
悠斗は、不安になった。
佐伯も、心配しているようだった。
緊急時の連絡先も確認してみたが、健太の状況を確かめることはできなかった。
警察に相談すべきかとも考えたが、
今のところ、事件や事故に巻き込まれたと判断できる情報はない。
結局、二人には、健太からの連絡を待つことしかできなかった。
数日が過ぎた。
健太は、相変わらず来なかった。
「……やっぱり、飛んじゃったんですかね」
ある日の閉店後、悠斗は、ぽつりと言った。
佐伯は、カウンターを拭く手を止めた。
「飛んだ、ですか」
「はい。バイトを飛ぶって、言うじゃないですか」
「ええ」
「何も言わずに、突然来なくなることです」
佐伯は、静かにうなずいた。
「そうですね」
悠斗は、少し考えた。
「でも、中村さんがそんなことするなんて、思わなかったです」
「私も、少し驚きました」
佐伯は、穏やかな声で答えた。
「ただ、どんな事情があったのか、私たちには分かりませんからね」
「……そうですね」
「元気でいてくれるといいのですが」
佐伯は、少し寂しそうに微笑んだ。
悠斗は、その表情を見て、胸がちくりとした。
店長は、本当に健太のことを心配しているのだ。
突然来なくなって、店にも迷惑がかかっている。
それなのに、悪口一つ言わない。
「店長って、本当に優しいですね」
悠斗が言うと、佐伯は少し驚いたようだった。
「そうですか?」
「普通、怒ると思いますよ。何も言わずに来なくなったんですから」
佐伯は、しばらく考えた。
「もちろん、困ってはいますよ」
「はい」
「でも、怒ったところで、中村くんが戻ってくるわけではありませんからね」
佐伯は、優しく微笑んだ。
「それに、中村くんにも、中村くんの人生がありますから」
悠斗は、黙って聞いていた。
「この店で働いてくれたことには、感謝しています」
その言葉には、不思議なほど穏やかな響きがあった。
◆
さらに数日が過ぎた。
健太が来なくなってから、店の仕事は少しずつ落ち着きを取り戻していた。
佐伯は、営業時間や仕事の分担を工夫し、
悠斗に無理な負担がかからないよう気を配っていた。
「高橋くん、一人で頑張りすぎないでくださいね」
「はい」
「忙しいときは、お客様に少しお待ちいただいてもいいんです」
「でも……」
「無理をして倒れてしまったら、大変ですから」
佐伯は、そう言って笑った。
悠斗は、この店長のもとで働けてよかったと思った。
けれども、健太のことは、やはり気になっていた。
ある日の午後。
客が途切れ、店内が静かになったころだった。
悠斗は、カウンターで食器を拭いていた。
佐伯は、窓際の席に置かれた花瓶の花を整えていた。
「店長」
悠斗が声をかけた。
「はい?」
「中村さん、結局どうなったんでしょうね」
佐伯は、花瓶からそっと手を離した。
「そうですねえ……」
「もう、戻ってこないんでしょうか」
「分かりませんね」
佐伯は、静かに答えた。
そして、しばらく窓の外を眺めていた。
午後の日差しが、店内に柔らかく差し込んでいる。
遠くで、小鳥の鳴く声が聞こえた。
悠斗は、食器を拭きながら言った。
「中村さん、いつかバイトを飛ぶかもしれないって、冗談で言ってましたよね」
「ええ。覚えていますよ」
「あれ、本当になっちゃいましたね」
佐伯は、小さくうなずいた。
「そうですね」
そして、何かを思い出したように微笑んだ。
「……新しい神様が生まれたんだね」
「……え?」
悠斗の手が止まった。
今、何と言ったのだろう。
神様?
「店長?」
「はい?」
「今、何か言いました?」
佐伯は、少し不思議そうに悠斗を見た。
「何か、ですか?」
「はい。神様がどうとか……」
「ああ……」
佐伯は、穏やかに微笑んだ。
「つい、独り言を言ってしまいましたね」
「独り言……ですか」
「ええ。気にしないでください」
そう言って、佐伯は花瓶を元の場所に置いた。
悠斗は、何も言えなかった。
聞き間違いだろうか。
いや、確かに聞こえた。
新しい神様が生まれた。
佐伯は、そう言ったのだ。
しかし、健太が来なくなったことと、神様に何の関係があるのだろう。
悠斗には、さっぱり分からなかった。
「……変なの」
思わず、小さくつぶやいた。
幸い、佐伯には聞こえなかったらしい。
店長は、いつものように穏やかな表情で、花瓶の花を眺めていた。
◆
その日の閉店後。
悠斗は、厨房の掃除をしていた。
佐伯は、レジの確認を終え、奥の物置で何かを探しているようだった。
店内には、もう客はいない。
時計の針が、静かに進んでいた。
「……あれ?」
悠斗は、ふと顔を上げた。
廊下の向こうから、佐伯が歩いてきたのである。
その手には、小さな箱があった。
両手で大切そうに抱えられるほどの、木製の箱だった。
何が入っているのかは分からない。
ただ、佐伯の表情が、いつもより少し真剣に見えた。
佐伯は、悠斗に気づくと、にっこり笑った。
「高橋くん、まだ掃除をしていたんですね」
「あ、はい。もう少しで終わります」
「ありがとうございます。無理しないでくださいね」
「はい」
佐伯は、そう言って廊下の奥へ歩いていった。
悠斗は、その背中を見送った。
そして、気づいた。
佐伯が向かったのは、あの部屋だった。
普段は鍵がかかっている、廊下のいちばん奥の部屋。
悠斗も健太も、一度も入ったことのない部屋である。
佐伯は、ポケットから鍵を取り出した。
かちゃり。
扉の鍵が開く音がした。
佐伯は、箱を大切そうに抱えたまま、中へ入っていった。
そして、静かに扉を閉めた。
悠斗は、しばらく廊下を見つめていた。
「……何なんだろう」
以前、健太は、店長の趣味の部屋ではないかと言っていた。
確かに、そうかもしれない。
しかし、あの箱は何だろう。
そして、今日の午後に聞いた、あの不思議な言葉。
『新しい神様が生まれたんだね』
悠斗は、何となく落ち着かない気持ちになった。
もちろん、店長にだって、秘密はあるだろう。
誰にも見せたくない趣味の一つや二つ、あってもおかしくない。
それを勝手に詮索するのは、よくないことだ。
そう思いながらも、悠斗の好奇心は、少しずつ大きくなっていた。
◆
しばらくして、佐伯が部屋から出てきた。
先ほどの箱は、もう持っていなかった。
佐伯は、扉を閉め、丁寧に鍵をかけた。
そして、廊下を歩いてきた。
悠斗は、思い切って声をかけた。
「あの、店長」
「はい?」
「ちょっと、聞いてもいいですか?」
佐伯は、にっこり笑った。
「もちろんですよ」
悠斗は、少しためらった。
「店の奥にある、あの部屋なんですけど……」
佐伯の表情が、ほんの少し変わった。
「……あの部屋ですか」
「はい」
悠斗は、慌てて付け加えた。
「あ、別に、無理に聞こうと思ってるわけじゃないんです。
ただ、ちょっと気になって……」
佐伯は、静かにうなずいた。
「そうでしたか」
「中村さんも、入ったことがないって言ってました」
「ええ。普段は、私しか使っていませんからね」
「何の部屋なんですか?」
佐伯は、すぐには答えなかった。
少し考えるように、廊下の奥を見た。
悠斗は、聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれないと思った。
「すみません。やっぱり、いいです」
すると、佐伯が首を横に振った。
「いえ、構いませんよ」
「……え?」
佐伯は、優しく微笑んだ。
「ただ、ちょっと変わった部屋なのでね」
「変わった部屋?」
「ええ」
佐伯は、少し照れくさそうに笑った。
「初めて見る人は、驚くかもしれません」
悠斗は、ますます気になった。
「そんなに変わってるんですか?」
「そうですねえ……」
佐伯は、しばらく考えた。
そして、悠斗を見た。
「高橋くんは、私のことを、どんな人間だと思っていますか?」
突然の質問だった。
悠斗は、少し戸惑った。
「えっ? 店長のことですか?」
「ええ」
「……優しい人だと思います」
佐伯は、少し驚いたようだった。
「そうですか」
「はい。いつも、僕たちのことを気にかけてくれますし……」
悠斗は、少し照れくさくなった。
「僕、店長のこと、尊敬しています」
佐伯は、しばらく黙っていた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます。嬉しいですね」
「いえ……」
「でも、高橋くん」
「はい?」
「人間には、ほかの人には理解してもらえないような部分も、あるものですよ」
悠斗は、首をかしげた。
「……そうなんですか?」
「ええ」
佐伯は、少し遠くを見るような目をした。
「それでも、悪いことばかりではないと思うんです」
悠斗には、その言葉の意味がよく分からなかった。
佐伯は、そんな悠斗を見て、優しく笑った。
「……見てみるかい?」
「えっ?」
「奥の部屋ですよ」
悠斗は、目を丸くした。
「いいんですか?」
「ええ。高橋くんになら、見てもらってもいいかもしれません」
「でも、秘密の部屋なんじゃ……」
「秘密というほど、大げさなものではありませんよ」
佐伯は、少し照れくさそうに微笑んだ。
「ただ、私が大切にしている場所なんです」
悠斗は、しばらく考えた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……見せてください」
佐伯は、穏やかに微笑んだ。
「分かりました」
◆
二人は、廊下の奥へ向かった。
厨房の明かりが遠ざかり、廊下には静かな空気が漂っていた。
いちばん奥には、あの木製の扉がある。
悠斗は、少し緊張していた。
何があるのだろう。
趣味の道具だろうか。
古い写真や、思い出の品だろうか。
それとも、何か大切なものを保管しているのだろうか。
佐伯は、扉の前で足を止めた。
そして、ポケットから鍵を取り出した。
「高橋くん」
「はい」
「見ても、あまり驚かないでくださいね」
悠斗は、思わず笑った。
「そんなにすごいものがあるんですか?」
佐伯も笑った。
「すごいかどうかは、分かりませんけどね」
そう言って、鍵を差し込んだ。
かちゃり。
静かな廊下に、小さな音が響いた。
佐伯は、ゆっくりと扉を開けた。
部屋の中は、薄暗かった。
佐伯が、壁のスイッチを押した。
ぱちん。
柔らかな明かりが灯った。
「……え?」
悠斗は、思わず声を上げた。
そこには、悠斗が想像していたものとは、まったく違う光景が広がっていた。
部屋の中央には、大きな台があった。
その上には、何か小さな世界のようなものが広がっている。
奥の壁には、いくつもの棚が並んでいた。
そして、その棚には、さまざまなものが、大切そうに飾られていた。
悠斗は、目を見開いた。
「……店長」
「はい?」
「これ……何ですか?」
佐伯は、悠斗の隣に立った。
その表情は、どこまでも穏やかだった。
まるで、長い間大切にしてきた宝物を、初めて誰かに見せるような、
優しい顔だった。
「ここはね、高橋くん」
佐伯は、静かに言った。
「私にとって、とても大切な場所なんです」
悠斗は、もう一度部屋の中を見渡した。
そして、言葉を失った。
そこには、想像もしなかった、不思議な世界が広がっていたのである。
(第2話 完)