第4話「神様にならなかった青年」
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あらすじ
大学生の高橋悠斗は、小さな喫茶店「こもれび」でアルバイトを始めた。 店長の佐伯和夫は、穏やかで親切な人物だった。 一緒に働く先輩アルバイトの中村健太とも仲良くなり、悠斗は楽しく働いていた。 ところが、ある日、健太が突然アルバイトに来なくなってしまう。 困り果てる悠斗。 しかし、店長の反応は、なぜか少し変わっていた。 そして悠斗は、店の奥に隠された、奇妙な秘密を知ることになる。 これは、ちょっと変わった店長と、そこで働く青年たちの、少しおかしくて温かい物語。
本文
喫茶こもれびには、今日も穏やかな時間が流れていた。
窓から差し込む柔らかな日差し。
店内に漂う、挽きたてのコーヒーの香り。
静かに流れる音楽。
そして、カウンターの奥には、いつものように優しく微笑む店長の佐伯和夫がいた。
「高橋くん、三番テーブルのお客様にコーヒーをお願いします」
「はい!」
高橋悠斗は、慣れた手つきでカップをトレーに載せた。
「お待たせしました」
客の前にコーヒーを置く。
「ありがとう」
「ごゆっくりどうぞ」
悠斗は、笑顔で頭を下げた。
この店で働き始めてから、ずいぶん時間が経った。
最初のころは、注文を間違えたり、料理を運ぶのに緊張したりしていた。
しかし、今では仕事にも慣れ、客と自然に会話できるようになっていた。
何より、悠斗は、この喫茶店が好きだった。
店長は穏やかで、誰にでも優しい。
仕事で失敗しても、必要以上に叱ることはない。
困っている客がいれば、さりげなく手を差し伸べる。
そんな佐伯の人柄に、悠斗は何度も助けられてきた。
ただし。
悠斗は、この店長について、ほかの人にはなかなか説明できない秘密を知っていた。
店の奥にある、鍵のかかった小さな部屋。
そこには、歴代のバイトを飛んだ人々の人形が置かれている。
しかも、店長は、その人たちを本物の神様だと信じているのである。
「……やっぱり、不思議だよなあ」
悠斗は、食器を片づけながら、小さくつぶやいた。
あの秘密の部屋を初めて見た日のことは、今でも鮮明に覚えている。
緑豊かな丘。
色とりどりの花畑。
小川や、小さな家々。
そして、幸せそうに暮らす人形たち。
何より驚いたのは、店長がそれらの人形に、
まるで生きている人間のように優しく話しかけていたことだった。
けれども、不思議なことに。
あの日を境に、佐伯の態度が変わったわけではなかった。
◆
「高橋くん」
ある日の休憩時間、佐伯が声をかけた。
「はい?」
「今日は、ナポリタンが少し多めにできましてね。
よかったら、まかないで食べませんか?」
「いいんですか?」
「もちろんですよ」
「ありがとうございます!」
悠斗は、嬉しくなった。
佐伯の作るナポリタンは、相変わらずおいしかった。
昔ながらの、少し甘酸っぱい味。
ほどよく炒められた玉ねぎとピーマン。
太めの麺に、ケチャップの香りがよく絡んでいる。
「……おいしいです」
悠斗が言うと、佐伯は嬉しそうに笑った。
「それはよかった」
二人は、しばらく他愛のない話をした。
最近の天気。
店の近くで始まった道路工事。
新しく仕入れたコーヒー豆。
そんな、ごく普通の話だった。
佐伯は、秘密の部屋について何も言わなかった。
もちろん、バイトを飛んだ人々を神様として崇拝するよう、
悠斗に勧めることもなかった。
それどころか、あの部屋を見せたことさえ、
忘れているのではないかと思うほどだった。
悠斗は、少し気になっていた。
「……店長」
「はい?」
「あの部屋のことなんですけど」
佐伯は、顔を上げた。
「ああ、あの部屋ですか」
「はい」
「どうかしましたか?」
「いや、その……僕にも、何かしてほしいこととか、ありますか?」
佐伯は、不思議そうに首をかしげた。
「何か、ですか?」
「例えば、お祈りするとか……」
佐伯は、少し驚いたようだった。
そして、優しく笑った。
「いいえ。そんなことはありませんよ」
「……そうなんですか?」
「ええ。あれは、私が大切にしていることですから」
佐伯は、穏やかに続けた。
「高橋くんには、高橋くんの大切なものがあるでしょう?」
「……はい」
「それを大事にしていただければ、私は嬉しいですよ」
悠斗は、少し安心した。
「ありがとうございます」
佐伯は、にっこり微笑んだ。
「さあ、ナポリタンが冷めてしまいますよ」
「はい!」
悠斗は、再びフォークを手に取った。
やはり、この店長は優しい。
そして、やはり、少し変わっている。
悠斗は、心の中でそう思った。
◆
それからも、店の日常は続いていった。
悠斗は、ときどき、佐伯が秘密の部屋に入っていく姿を見かけた。
閉店後。
仕事を終えた佐伯が、小さな箱や紙袋を持って、廊下の奥へ向かう。
そして、鍵を開け、静かに部屋へ入っていく。
ある日、悠斗は、佐伯に声をかけた。
「店長、今日は何を持っているんですか?」
佐伯は、手にしていた小さな袋を見せた。
「これですか?」
「はい」
「小さな花を作ったんですよ」
「花?」
「ええ。ジオラマの花畑を、少し広げようと思いましてね」
佐伯は、嬉しそうに笑った。
「山本さんは、お花が好きでしたから」
悠斗は、あの日見た女性の人形を思い出した。
花畑の真ん中に立っていた、山本さんという元アルバイト。
「……そうでしたね」
「ええ。もっとたくさんの花に囲まれて過ごしていただきたくて」
佐伯は、袋を大切そうに持ち直した。
「高橋くんも、見ていきますか?」
悠斗は、少し迷った。
しかし、やがてうなずいた。
「はい。少しだけ」
二人は、秘密の部屋へ入った。
柔らかな明かりが灯ると、あの美しいジオラマが姿を現した。
何度見ても、不思議な光景だった。
そこには、穏やかな時間が流れているように見えた。
佐伯は、小さな花を一つずつ、丁寧に植えていった。
「山本さん、今日は新しいお花が増えましたよ」
そう言って、優しく微笑む。
「気に入っていただけるといいのですが」
悠斗は、その様子を静かに見守った。
ふと、広場の方に目を向けた。
そこには、中村健太の人形があった。
そして、その隣には、可愛らしい女性の人形が並んでいた。
「……中村さん」
悠斗は、小さくつぶやいた。
健太が突然来なくなってから、もうずいぶん経っていた。
結局、その後も連絡はなかった。
今、どこで何をしているのか。
元気に暮らしているのか。
悠斗には、何も分からなかった。
「中村くん、元気にしているでしょうかねえ」
佐伯が、静かに言った。
「……そうですね」
悠斗は、二体の人形を見つめた。
「彼女、できてるといいですね」
佐伯は、嬉しそうに笑った。
「ええ。本当に」
そして、人形に向かって優しく語りかけた。
「中村くん、仲良くしていますか?」
もちろん、返事はなかった。
それでも佐伯は、満足そうに微笑んでいた。
悠斗も、少し笑った。
最初は、どうかしていると思った。
けれども、今では、この光景を見ることが、少し楽しみにさえなっていた。
◆
ある日の午後。
店内には、客が一人もいなかった。
悠斗は、カウンターでカップを磨いていた。
佐伯は、窓際の席に座り、一冊の薄い冊子を読んでいた。
「店長、何を読んでいるんですか?」
悠斗が尋ねると、佐伯は顔を上げた。
「ああ、これですか」
冊子の表紙には、小さな鳥が空を飛ぶ絵が描かれていた。
「以前お話しした、店長さんたちとの会報ですよ」
「ああ……」
悠斗は、思い出した。
佐伯と同じように、バイトを飛んだ人々を神様として大切にしている店長たちが、
ほかにもいるという話だった。
「新しいのが届いたんですか?」
「ええ。先ほど郵便で」
佐伯は、嬉しそうに冊子を開いた。
「皆さん、お元気そうですよ」
「……そうですか」
悠斗は、何となく冊子をのぞき込んだ。
そこには、各地の店長たちから寄せられた近況が載っていた。
『先月、長く働いてくれた方が突然来なくなりました。
寂しくもありますが、幸せを願っています』
『私たちの店でも、新たな神様をお迎えすることになりました』
『今年も、ささやかな交流会を開く予定です』
悠斗は、何とも言えない表情になった。
「……本当に、ほかにもいるんですね」
「ええ」
佐伯は、にっこり笑った。
「ありがたいことに、少しずつ交流が広がっているんですよ」
「店長が、最初に始めたんですよね?」
「そうですね。私の考えを、何人かの方にお話ししたのが始まりでした」
「じゃあ、店長が代表なんですか?」
佐伯は、少し驚いたようだった。
「代表?」
「はい。何というか……みんなの中心というか」
佐伯は、しばらく考えた。
そして、首を横に振った。
「いいえ。そんな立派なものではありませんよ」
「そうなんですか?」
「ええ。ただ、皆さんと仲良くさせていただいているだけです」
佐伯は、照れくさそうに笑った。
「皆さん、それぞれのお店で頑張っていらっしゃいますからね」
悠斗は、冊子を眺めた。
世の中には、本当にいろいろな人がいる。
そして、佐伯のような考え方を持つ人が、ほかにもいる。
そのことが、何だか不思議だった。
「……店長」
「はい?」
「世の中って、広いですね」
佐伯は、声を上げて笑った。
「ははは。本当に、そうですね」
◆
やがて、季節が移り変わった。
窓の外の木々は、緑から黄色へ、そして赤へと色を変えていった。
喫茶こもれびでは、温かいコーヒーを注文する客が増えた。
悠斗は、いつもどおり働いていた。
注文を取り、料理を運び、食器を片づける。
忙しい日もあれば、静かな日もある。
そんな毎日を過ごしているうちに、悠斗は、一つの決心をした。
アルバイトを辞めることにしたのである。
特別な理由があったわけではない。
ただ、自分のこれからのことを考えたとき、
そろそろ別の道へ進もうと思ったのだった。
ある日の閉店後。
悠斗は、佐伯に声をかけた。
「店長、少しお話ししてもいいですか?」
佐伯は、手を止めた。
「もちろんですよ」
悠斗は、少し緊張した。
「実は……」
そして、ゆっくりと言った。
「アルバイトを辞めようと思っているんです」
佐伯は、少し驚いたようだった。
「そうですか……」
「はい。急に言って、すみません」
「いいえ。きちんと相談してくださって、ありがとうございます」
佐伯は、穏やかに微笑んだ。
「何か、困ったことでもありましたか?」
「いえ、そういうわけじゃないんです」
悠斗は、慌てて首を横に振った。
「この店は好きですし、店長にも本当にお世話になりました」
「そうですか」
「でも、そろそろ、次のことを考えようと思って……」
佐伯は、静かにうなずいた。
「分かりました」
そして、優しく微笑んだ。
「高橋くんが、よく考えて決めたことなら、私は応援しますよ」
悠斗は、胸が温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ。今まで、本当に助かりました」
二人は、今後の勤務について話し合った。
悠斗は、引き継ぎや残りの仕事をきちんと済ませてから退職することになった。
佐伯は、最後まで、悠斗の決心を尊重してくれた。
◆
そして、最後の勤務日がやって来た。
その日は、よく晴れていた。
窓から差し込む日差しが、木製のテーブルを柔らかく照らしている。
悠斗は、いつもどおり仕事をした。
注文を取り、料理を運び、食器を片づける。
慣れ親しんだ店内。
コーヒーの香り。
壁に飾られた風景画。
そして、カウンターの奥で働く佐伯の姿。
どれも、今日で最後だと思うと、少し寂しかった。
昼の混雑が落ち着いたころ。
佐伯が、悠斗に声をかけた。
「高橋くん」
「はい?」
「今日は、まかないにナポリタンを作りましょうか」
悠斗は、思わず笑った。
「ぜひ、お願いします!」
「ははは。分かりました」
佐伯は、いつものように厨房へ向かった。
しばらくして、温かなナポリタンが運ばれてきた。
悠斗は、フォークを手に取った。
「いただきます」
一口食べる。
昔ながらの、少し甘酸っぱい味。
何度も食べた味だった。
けれども、今日は、いつもより少し特別に感じられた。
「……おいしいです」
悠斗が言うと、佐伯は微笑んだ。
「それはよかった」
悠斗は、ゆっくりと食べ続けた。
この店で過ごした日々が、次々と思い出された。
初めて扉を開けた日のこと。
注文を間違えた日のこと。
健太と笑い合った休憩時間。
そして、あの秘密の部屋を初めて見た日のこと。
本当に、不思議な店だった。
◆
やがて、閉店時間になった。
最後の客が帰り、店内は静かになった。
悠斗は、最後の片づけを終えた。
「店長」
「はい?」
「今まで、本当にありがとうございました」
悠斗は、深く頭を下げた。
佐伯も、丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
そして、優しく微笑んだ。
「高橋くんには、随分助けていただきました」
「いえ、そんな……」
「本当ですよ」
佐伯は、穏やかに続けた。
「高橋くんがいてくださって、私は嬉しかったです」
悠斗は、少し照れくさくなった。
「……ありがとうございます」
しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。
そして、悠斗は、ふと思いついたように言った。
「そういえば、店長」
「はい?」
「僕は、神様にはなれませんでしたね」
佐伯は、少し驚いたようだった。
「……神様?」
「はい」
悠斗は、冗談めかして笑った。
「僕、一度もバイトを飛びませんでしたから」
佐伯は、悠斗を見つめた。
そして、ふっと微笑んだ。
「ああ……そうですね」
「だから、あのジオラマには、僕の人形は置かれないんですよね」
「ええ」
佐伯は、穏やかにうなずいた。
「あそこは、神様たちの場所ですからね」
悠斗は、少し笑った。
「やっぱり、そうですか」
すると、佐伯は、優しい声で言った。
「でもね、高橋くん」
「はい?」
「神様にならなくたって、君には幸せになってほしいよ」
悠斗は、佐伯を見た。
その表情は、いつもどおり穏やかだった。
「この店を飛んでいった方々も、きちんとお別れをしてくださった方々も、
私にとっては大切な人たちです」
佐伯は、ゆっくりと続けた。
「ただ、神様になられた方々には、少し特別な思いがあるんですけどね」
そう言って、照れくさそうに笑った。
悠斗も、思わず笑った。
やっぱり、この店長は変わっている。
最後まで、何だかよく分からない。
でも。
「……店長」
「はい?」
「僕、この店で働けて、本当によかったです」
佐伯は、嬉しそうに微笑んだ。
「そう言っていただけると、私も嬉しいですよ」
悠斗は、もう一度、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。本当に、ありがとうございました」
佐伯は、優しく言った。
「これからも、お元気で」
「はい。店長も、お元気で」
悠斗は、エプロンを外した。
そして、店の扉へ向かった。
からん、からん。
懐かしい鈴の音が鳴った。
悠斗は、扉の前で振り返った。
佐伯が、カウンターの奥から手を振っていた。
「高橋くん、どうかお幸せに」
悠斗は、笑顔で答えた。
「はい! 店長も!」
そして、喫茶こもれびを後にした。
◆
店の外には、穏やかな夕暮れが広がっていた。
悠斗は、ゆっくりと歩き始めた。
不思議なアルバイトだった。
優しい店長。
明るい先輩。
そして、誰にも理解できないような、奇妙な信仰。
バイトを飛んだ人間が、神様になる。
そんな話を、悠斗は今でも信じていなかった。
おそらく、これからも信じることはないだろう。
けれども。
あの秘密の部屋を思い出す。
緑豊かな丘。
美しい花畑。
小川のそばに立つ人形たち。
そして、恋人と仲良く並んでいる、中村健太の人形。
「……中村さん」
悠斗は、小さくつぶやいた。
今、どこにいるのだろう。
本当に、恋人ができただろうか。
幸せに暮らしているだろうか。
もちろん、分からない。
それでも、悠斗は願った。
どうか、元気でいてほしい。
そして、いつか幸せになってほしい。
そんなことを考えていると、ふと、佐伯の顔が浮かんだ。
「……店長みたいだな」
悠斗は、少し笑った。
そして、夕暮れの道を歩いていった。
◆
その夜。
喫茶こもれびでは、佐伯が一人、店内の片づけを終えていた。
テーブルを整え、食器を片づけ、レジを確認する。
いつもと変わらない仕事だった。
けれども、今日は、少しだけ寂しかった。
「……高橋くんも、卒業しましたねえ」
佐伯は、静かにつぶやいた。
そして、厨房の奥へ向かった。
小さな廊下。
そのいちばん奥にある、木製の扉。
佐伯は、ポケットから鍵を取り出した。
かちゃり。
扉を開け、部屋の中へ入る。
柔らかな明かりを灯すと、そこには、いつもの美しいジオラマが広がっていた。
緑の丘。
花畑。
静かに流れる小川。
温かな家々。
そして、幸せそうに過ごす、たくさんの人形たち。
佐伯は、ゆっくりと台の前に立った。
「皆さん、こんばんは」
いつものように、優しく声をかけた。
「今日も、お元気でしたか?」
もちろん、返事はなかった。
それでも佐伯は、穏やかに微笑んだ。
「今日はね、皆さんにご報告があるんですよ」
佐伯は、ジオラマの中の人形たちを見渡した。
「今日ね、悠斗くんが卒業したんですよ。いい子でした」
その声には、少しだけ寂しさが混じっていた。
「最初のころは、注文を間違えたりして、緊張していましたけどね」
佐伯は、懐かしそうに笑った。
「今では、すっかり立派になりました」
しばらく、静かな時間が流れた。
「高橋くんは、神様にはなりませんでしたけどね」
佐伯は、優しく微笑んだ。
「これからも、幸せに暮らしていただきたいものです」
そして、ジオラマの広場に目を向けた。
そこには、中村健太の人形があった。
隣には、可愛らしい女性の人形が並んでいる。
二体は、花の咲く小道のそばで、仲良く微笑んでいた。
佐伯は、そっと顔を近づけた。
「中村くん、そちらでも幸せに暮らしているかい?」
返事はなかった。
小さな人形たちは、ただ静かに並んでいる。
「恋人さんとも、仲良くしていますか?」
佐伯は、少し嬉しそうに笑った。
「君が、彼女が欲しいって言っていたのを、今でもよく覚えていますよ」
そして、二体の人形を、優しく見つめた。
「よかったですね、中村くん」
その声は、まるで本当に、健太の幸せを祝福しているようだった。
佐伯は、ほかの人形たちにも、順番に声をかけていった。
「田中くん、今日もお元気ですか?」
「山本さん、お花がきれいに咲いていますよ」
「鈴木くん、読書は楽しんでいますか?」
一人ひとりに、優しく語りかける。
誰も答えない。
誰も動かない。
それでも、佐伯は少しも寂しそうではなかった。
なぜなら、佐伯には、
この小さな世界が、幸せに満ちた場所に見えていたからである。
◆
やがて、佐伯は、ジオラマの前で静かに手を合わせた。
「皆さん」
穏やかな声が、部屋に響いた。
「どうか、これからも幸せでいてくださいね」
そして、深く頭を下げた。
部屋には、静かな時間が流れていた。
ジオラマの中では、花々が咲き、小川が流れ、家々が柔らかな光に包まれている。
人形たちは、それぞれの場所で、穏やかな表情を浮かべていた。
もちろん、それは人形だった。
佐伯が、一つ一つ心を込めて作った、小さな人形たち。
本当に神様になった人間がいるのかどうか。
そんなことは、誰にも分からない。
けれども、佐伯は信じていた。
突然いなくなったあの人たちが、どこかで幸せに暮らしていることを。
そして、その人たちが、神様として、安らかな日々を過ごしていることを。
佐伯は、もう一度、ジオラマを見渡した。
広場には、健太と恋人の人形が並んでいた。
花畑では、山本さんが微笑んでいた。
木陰では、鈴木くんが本を読んでいた。
小さな家の前には、田中くんが立っていた。
誰も動かなかった。
誰も声を出さなかった。
それでも。
佐伯には、人形たちが、本当にそこで幸せに暮らしているように見えていた。
「……よかったですねえ、皆さん」
佐伯は、幸せそうに微笑んだ。
そして、静かに部屋の明かりを消した。
扉を閉め、鍵をかける。
かちゃり。
小さな音が、廊下に響いた。
明日も、喫茶こもれびには、いつもどおりの朝が訪れるだろう。
コーヒーの香りが漂い、客たちが訪れ、佐伯は穏やかな笑顔で迎える。
そして、閉店後には、あの小さな部屋で、神様たちの幸せを祈る。
それが、佐伯和夫という店長の日常だった。
誰かには、理解できないかもしれない。
笑われることも、あるかもしれない。
それでも、佐伯は、これからも変わらずに祈り続けるのだろう。
かつて、この店で働き、ある日突然いなくなった人々の幸せを。
そして、きちんと別れを告げて旅立った、悠斗の幸せも。
喫茶こもれびの奥にある、小さな秘密の部屋。
そこには今夜も、店長が心を込めて作った、神様たちの楽園が広がっていた。
――『バイトを飛んだ奴を崇拝する店長』完――