第1話 護り神の火
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
城が落ちた夜、護衛騎士ライナスは、十年仕えてきた姫エルナを抱えて崖から身を投げた。 川岸で目を覚ますと、姫の体は氷のように冷たく、息はかすかに残るだけだった。ライナスは姫を背負い、夜の森へ踏みこむ。幼い日の姫が話してくれた言い伝えを、ひとつだけ頼りにして。森で迷った者の前には、護り神の火が灯る――。 森の奥で見つけたのは、揺れもせず煙も上げない金色の焚き火と、そのそばに座る白い獣だった。けれど、その火は何をくべても燃え移らない。白い獣は答えず、ただ何かを待つような目で彼を見つめている。 姫に一度も伝えられなかった想いを胸に、男の長い旅が、ここから始まる。 記憶と喪失、帰りたいという願いを描く、全9話の不穏な幻想小説。 全9話・完結原稿あり。 原案と最終判断を人間が担い、本文制作・編集に生成AIを使用しています。 内容注意:戦争、死、喪失、暴力、強いストレスを伴う職場描写。 戦乱・死・暴力・心理的恐怖の描写を含みます。
本文
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崖の上の道は行き止まりだった。背後から鎧の鳴る音が迫ってくる。振り返ると、塔の方角に黒い煙が上がっていた。ついさっきまで、あそこで鐘が鳴っていたはずだ。
城は落ちた。
「ライナス」
腕の中で、姫が俺の名を呼んだ。人前では低く抑える声が、二人きりのときだけ少し高くなる。「ナ」のところでほんの少し上がる、いつもの呼び方だった。煤に汚れた頬。乱れた金の髪。
それでも瞳だけは、いつもと同じだった。灰色がかった、淡い青。
冬の朝の湖の色だ、と、初めてお会いした日に思った。十年前のことだ。俺はそれを、姫にも誰にも言ったことがない。
姫の指が、俺の袖口を二度つまんだ。怖いとき、姫はいつもこうする。
「手を、離さないで」
「離しません」
即答した。それ以外の答えを、俺は持っていなかった。
崖の下で川が白く光っている。落ちて助かる高さじゃない。それでも、追ってくる槍の数よりはまだ望みがあった。こんなふうに抱いていいのは今だけだ。そう自分に言い訳して、腕に力をこめた。
「姫様。目を閉じていてください」
「ライナスは?」
「俺は、開けています。あなたの分まで」
姫はこんなときなのに、小さく息を吸ってから少しだけ笑った。笑う前に息を吸うのは、昔からの癖だ。それから俺の首に腕を回して目を閉じた。本当に目を閉じたかったのは俺のほうだ。膝がさっきから細かく震えている。
俺は崖の縁を蹴った。
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冷たさで目が覚めた。川岸の石の上だった。いつ流れ着いたのか思い出せない。空はもう暗く、雲が低く垂れこめて星ひとつ見えなかった。
「エルナ様」
腕の中をのぞきこむ。姫は、いた。俺は姫の外套を、指が固まってほどけないほど強くつかんでいた。離していなかった。それだけは守れたらしい。
けれど、唇は紫色だった。頬に触れる。氷のようだった。口元に耳を寄せる。かすかに、息があった。
生きている。それだけで膝に力が戻った。姫の頬に、濡れた髪がひと筋貼りついている。払おうとした指が途中で止まった。息を確かめるのは護衛の務めだ。けれど髪を払ってやるのは、騎士の手のすることじゃない。さっきは平気で頬に触れたくせに、手のほうがその違いを知っていた。
「大丈夫です。大丈夫ですから」
姫に言ったのか、自分に言い聞かせたのか。口だけが勝手に動いていた。
鎧が重い。水を吸った鉄は、もう俺を守ってはくれない。このままでは二人とも沈む。肩の留め具を外し、胸当てを捨て、籠手を捨てる。腰の剣だけは手放さなかった。
剣を地面について立ち上がり、姫を背負った。軽い。いつも背筋を伸ばして、大臣たちに一歩も引かなかった人だ。その人がこんなに軽い方だったのか。奥歯を噛んで、俺は森へ踏みこんだ。
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夜の森は足元も見えなかった。枝が顔を打つ。剣で払っても、また打たれる。根に何度もつまずき、そのたびに背中の姫が小さく揺れた。
小屋でいい。洞窟でもいい。風をしのげて火を起こせる場所がほしかった。火打ち石は川で失くしたのに、それでも探した。見つけたところで、どうやって火を起こすつもりだったんだか。
背中で、姫の体がどんどん冷えていく。濡れた服ごしでも、それは伝わってきた。
「もう少しです」
返事はない。それでも前を向いたまま続けた。
「もう少しで、温かい場所に着きます。俺が見つけます」
やはり返事はない。黙ったら、何かが終わってしまいそうだった。だから話しかけるのをやめなかった。
「覚えていますか。子どものころ、あなたが話してくれた話」
枝を払いのけながら、俺は言葉をつないだ。
「森で迷った者の前には、護り神の火が灯る。正しい心で祈れば、火は迷い子を温めて、帰り道を照らしてくれる」
ばあやから聞いた話だと、姫は得意そうに教えてくれた。八つのときだ。護衛についたばかりの俺は十五で、「そんなものは、おとぎ話です」とにこりともせずに返した。
「じゃあ、ライナスが迷子になっても、火は灯らないわね」
姫は頬をふくらませて、そっぽを向いた。あのときの顔が、暗い森の中で妙にはっきり浮かぶ。それより前のことは、たどろうとしても冬の朝の白い光しか出てこないのに。
「今なら、信じます」
声がかすれた。本当に信じたのかは怪しい。ほかにすがるものがなかっただけだ。
「信じますから。だから」
そのとき、木々の向こうに橙色の明かりがのぞいた。
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森が少し開けた場所に、ぽつんと焚き火があった。不思議な火だった。風が吹いても揺れず、煙も上がらず、爆ぜる音もしない。金色の光が静かにそこにあるだけだった。
周りに人の気配はない。荷物も足跡もない。誰かが焚いたというより、ずっと昔からそこに置かれていたように見えた。
護り神の火だ。本当にあったんだ。喉の奥が熱くなった。
そして、火のそばに獣がいた。たぶん獣なんだろう。白い毛並みは鹿のようで、目の奥は狼のようで、どちらとも言い切れない。大きさも、よく分からない。見るたびに違って見えた。
聖獣だ。一目で分かった。誰に教わったわけでもないのに。
足が止まる。襲われる。助かったと息をつくより先に、手が剣の柄を探していた。すぐにでも姫を火に当てたいのに、体は火より先に剣を選んでしまう。
だが、聖獣は動かなかった。こちらをじっと見つめているだけだ。にらむでもなく、哀れむでもない。何かを、待っているような目だった。
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俺は姫をそっと下ろし、柔らかい草の上に横たえて外套で包み直した。それから剣を地面に突き立てた。武器を手放すのが、俺にできる精一杯の礼だ。柄から手を離すとき、指が一度だけためらった。
膝をつく。額を、土に押しつける。
「お願いします」
声が震えた。
「この方を、火に当たらせてください」
返事はなかった。
「俺はどうなってもいい。この方だけは。お願いします」
風の音だけがした。震えていたのは声だけで、「どうなってもいい」のところは少しも震えなかった。そんな自分が、少し怖い。
どれくらいそうしていたのか見当もつかない。やがて顔を上げると、聖獣はゆっくりと目を閉じた。
許すというより、好きにしろ、と言われた気がした。それで十分だった。
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姫を抱き上げ、火のそばへ運んだ。金色の光が姫の頬を照らす。これで温まる。これで助かる。
俺は火の前に手をかざした。温かさを感じなかった。
……凍えきって、指の感覚が壊れているだけだ。そう思った。そう思うことにした。
姫の顔をのぞきこむ。光は当たっているのに、血の気は戻らない。唇は紫のままだ。
「薪を」
足りないんだ。火が小さいから温まらない。森で折ってきた枝を、俺は火にくべた。
火は枝に移らなかった。枝は確かに炎の中にあるのに、焦げもしない。煙も出ない。
濡れているからだ。懐を探ると、油紙に包んでおいた乾いた布が一枚だけ残っていた。火に近づける。移らない。
剣の鞘の革を短剣で剥ぎ、近づけた。それも移らない。外套の端を裂き、枯れ葉をかき集め、松の枝を探してきた。
移らない。移らない。移らない。燃えろ。頼むから、燃えてくれ。
何を近づけても、火はそこにあるだけだった。何も、受け取らなかった。
「なんで……」
顔を上げると、聖獣の目がこちらに向いていた。
「なんでだ。俺は祈った。正しい心で祈ったはずだ。何が足りない。何をくべればいい」
聖獣は答えなかった。
「俺の何が欲しい。言ってくれ。何でもやる」
答えない。あの目で、俺を見ているだけだった。待っている目で。
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炎が少し小さくなった。気のせいだと決めて、目をこらした。やはり小さくなっている。誰も何もしていないのに、金色の光は少しずつ、少しずつ縮んでいった。
「待ってくれ」
火に向かって叫んだ。
「まだ、駄目だ。この方が、まだ」
立ち上がろうとして、膝が笑った。おかしい。さっきまで、姫を背負って森を抜けてきたのに。指先から力が抜け、火が縮むのと同じ速さで体が重くなる。視界が、端から暗くなっていく。
俺は這って、姫のそばへにじり寄った。姫の背中側、火とは反対の風上に体を横たえる。姫の顔は火に向けたまま、背中に当たる夜風だけを自分の体で遮る。本当は抱き寄せたかったが、腕はもう上がらない。それくらいしか、もうできなかった。
すぐそばに、姫の横顔があった。閉じたまぶた。濡れて頬に貼りついた髪。川岸で払いそこねた、あのひと筋だ。
細い指に、金の指輪が光っていた。小さな青い石がはまった、王妃様の形見の指輪だ。火の色を映して、石がほんの少しだけ緑に見えた。
――二人きりのときは、名前で呼んで。
いつだったか、姫はそうねだった。十七の春だった。
俺は一度も呼ばなかった。呼べば、何かを越えてしまう。越えてはいけないものがあることを、俺は知っていた。姫には、守る騎士が一人いればいい。それ以上のものは、要らないはずだった。
一度くらい、呼んでおけばよかった。湖の色のことも、言っておけばよかった。いまさら、遅い。
「エルナ」
口が動いた。ずっと喉の奥にしまっていた名前だった。
「……様」
声になったかどうか、自分の耳ではもう聞き取れなかった。火の向こうで、聖獣はまばたきもせずにこちらへ目を据えていた。その目が、ほんの少しだけ細くなった気がした。
笑ったのか。悲しんだのか。分からないまま、目の前が閉じていった。
火が消えた。
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干した草と、獣の脂と、煙の匂いがした。知らない匂いだ。目に入ったのは、古い木の梁が渡された天井だった。俺はベッドの上にいた。
森は。火は。起き上がろうとして、腕が思うように動かないことに気づいた。持ち上げた手に、剣だこがなかった。骨ばって青白い、細い指だった。爪の形まで違う。
俺の手じゃない。背中がすうっと冷たくなる。それでも、手のことはあとでいい。
「姫は、どこだ」と声に出そうとして、出てきたのは聞き覚えのないかすれた声だった。