第十九話 夜明けの訓練
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あらすじ
遺した記録、貴方の記憶、その手で全て解き明かして。
本文
夜が明けた。
シェイン王国の空は薄い青に染まり、東の山際から淡い光が差し込んでいた。
だが、王城の中に漂う空気は晴れやかとは言い難かった。
黒い羽根。
記録喰いの残滓。
トーマを襲った影。
そして、夜のうちに張り直された対記憶干渉結界。
城の者たちは表向きには落ち着いていたが、兵の配置は明らかに増えている。
廊下の角には普段より多くの見張りが立ち、魔法灯には青白い補助結界が重ねられていた。
それでも、訓練場には朝が来る。
剣を振る音。
靴が土を蹴る音。
魔力が空気を震わせる音。
不安があっても、止まってはいられない。
トーマは訓練場の中央に立っていた。
寝不足だった。
夜中に黒い影に襲われ、その後もノアたちがしばらくそばにいてくれたとはいえ、深く眠れたわけではない。
けれど、不思議と体は重くなかった。
怖さはある。
だが、一人ではない。
その実感が、胸の奥に残っていた。
「顔色は悪いな」
ソルが正面に立ち、そう言った。
「寝不足だからな」
「それでも訓練するのか」
「する」
トーマは木剣を握る。
「今休んでいる場合じゃない気がする」
ロイドが横から言う。
「その判断は半分正しく、半分危険です」
「半分か」
「はい。状況が動いている以上、訓練は必要です。しかし、焦りで無理をすれば逆効果になります」
レナが大きく頷く。
「そうだぞ! 無理はよくない!」
ロイドがレナを見る。
「あなたがそれを言いますか」
「昨日ロイドが言ってたから覚えた!」
「覚えたのは偉いです」
レナは嬉しそうに胸を張った。
訓練場の端には、ノア、ミア、ユナもいた。
本来なら今日も軽めの休養日だったが、三人とも「見学だけ」という条件で来ている。
ミアは不満そうだった。
「見学だけってつまらないな」
ユナが即座に言う。
「足、まだ痛いでしょ」
「痛い!」
「なら見学」
「はい……」
ノアは魔法灯を一つ手に持っていた。
小さな水晶灯。
昨日テリア女王から教わった感覚を忘れないよう、光を細く灯している。
その光は安定していた。
トーマはそれを見て、少し安心する。
「ノア、無理するなよ」
「うん。これは本当に少しだけ」
「それならいい」
ミアがにやっとする。
「トーマ、ノアには甘いな!」
ノアの顔が赤くなる。
「そ、そういうのじゃないよ」
ユナが小さく言う。
「事実ではある」
「ユナまで……」
トーマは首を傾げる。
「そうか?」
ミアは呆れたように笑った。
「本人だけ分かってないやつだ!」
ロイドが咳払いをする。
「雑談はそこまで。今日の訓練に入ります」
空気が引き締まる。
ロイドは訓練場の地面に、簡易魔法陣を三つ展開した。
「今日の目的は二つ。一つ、トーマが記憶干渉を受けた際に自分を保つ訓練。二つ、連携中に名前を呼ぶことで現在位置を確認する訓練です」
「現在位置?」
トーマが聞く。
「物理的な位置だけではありません」
ロイドは答える。
「自分が今どこにいるのか。誰といるのか。何をしているのか。記憶に引きずられそうになった時、それを確認するための言葉が必要です」
ロイの忠告。
思い出す時、名前を呼べ。
トーマは昨夜の部屋を思い出す。
ノア。
ミア。
ユナ。
レナ。
ロイド。
ソル。
ロイ。
名前が、自分を今に繋ぐ。
「つまり、戦いながら名前を呼ぶのか」
「はい」
ロイドは頷いた。
「ただし、無闇に叫べばいいわけではありません。誰に繋ぐのか、どの一手を受け取るのかを明確にする必要があります」
レナが目を輝かせる。
「つまり、私の名前を呼んだら私が突っ込む!」
「場合によります」
「場合によるのか!」
「当然です」
ソルが木剣を構える。
「最初は簡単にする。私が敵役。レナが補助。トーマはレナの名前を呼んでから、彼女の動きに合わせろ」
「分かった」
「ただし」
ソルの目が鋭くなる。
「途中で記憶が揺れる可能性がある。剣が反応したら、すぐに自分の名前を言え」
「自分の名前?」
「そうだ。トーマ、と」
トーマは少しだけ息を吸った。
自分の名前。
今、自分に残っている唯一の確かなもの。
「分かった」
ロイドが合図を出す。
「開始」
ソルが踏み込んだ。
速い。
トーマは構える。
その瞬間、胸の奥で小さなざわめきが起きた。
昨夜の影。
黒い羽根。
冷たい声。
──返せ。
記憶ではない。
だが、心の隙間から何かが覗く感覚。
トーマの足が一瞬止まりかける。
「トーマ!」
ノアの声が飛んだ。
見学のはずだった。
だが、その声は、今のトーマに必要だった。
トーマは歯を食いしばる。
「トーマ」
自分の名前を口にする。
すると、足元が少し戻る。
ここは崩れた塔ではない。
ここはシェイン王国の訓練場。
目の前にいるのは影ではない。
ソルだ。
「レナ!」
トーマが呼ぶ。
「任せろ!」
レナが横から走る。
まっすぐ。
勢いよく。
だが、昨日までより少しだけ角度がついていた。
ソルの真正面ではなく、剣の軌道を塞ぐ位置へ入る。
ソルは剣をずらす。
トーマはその隙に踏み込む。
今度は迷わない。
レナが作った一瞬を受け取り、自分の動きへ変える。
木剣がソルの腕へ向かう。
ソルは避ける。
だが、完全には避けきれなかった。
木剣の先が、ソルの袖をもう一度かすめる。
昨日と同じ。
いや、昨日より少し深い。
「止め」
ソルが言った。
トーマは息を吐く。
レナが跳ねる。
「やった! 昨日より当たった!」
ロイドが記録を見る。
「接触時間、昨日より増加。反応速度も改善しています」
ソルも頷いた。
「悪くない」
ノアがほっとしたように笑う。
ミアが両手を上げる。
「トーマ、いいぞ!」
ユナも静かに言う。
「名前、効果ありそう」
トーマは自分の胸に手を当てた。
確かに、名前を口にした瞬間、少し戻れた。
トーマ。
それはまだ空白だらけの名前だ。
でも、今ここで呼べる名前だった。
「もう一回」
トーマは言った。
ソルが少しだけ目を細める。
「休まずに?」
「今の感覚を忘れたくない」
ロイドがすぐに言う。
「三回までです。その後休憩」
「分かった」
レナが拳を握る。
「三回だな!」
「あなたも無理をしないでください」
「私は元気だ!」
「元気だから心配なのです」
二回目。
三回目。
トーマは少しずつ名前を使う感覚を掴んでいく。
自分の名前で戻る。
レナの名前で繋ぐ。
ソルの動きに飲まれず、今の戦いを見る。
だが、四回目に入ろうとした時、ロイドが止めた。
「ここまでです」
「まだいける」
「だから止めます」
ロイドの声は厳しかった。
「でき始めた時ほど、無理をしたくなる。昨日、テリア女王も言っていましたね。成功した感覚を壊さず持ち帰ることが重要です」
トーマは少し言葉に詰まる。
テリア女王の言葉。
続ければ伸びる。
だが、続けすぎれば壊れる。
「……分かった」
トーマは木剣を下ろした。
「休む」
ノアが小さく笑う。
「よかった」
「そんなに危なそうだったか?」
「ちょっと」
ユナが答える。
「集中しすぎてた」
ミアも頷く。
「顔が怖かったぞ!」
「また顔か」
レナも元気に言う。
「かなり!」
「全員に言われるな……」
トーマは少しだけ苦笑した。
その時、訓練場の入口にアリスが現れた。
その後ろには、テリア女王とロイもいる。
テリア女王はトーマの訓練を見て、興味深そうに目を細めた。
「ほう。名前を使う訓練か」
ロイドが礼を取る。
「はい。昨夜のロイの助言をもとに、即席ですが組みました」
ロイは短く言う。
「いい感じ」
トーマは彼女を見る。
「助かった」
ロイは少しだけ目を逸らした。
「別に」
ソルが横目で言う。
「嬉しいのか」
「別に」
「そうか」
アリスは訓練場を見回す。
「朝からよくやるわね。昨夜あんなことがあったのに」
トーマは答えた。
「だからやってる」
アリスは少しだけ目を細める。
「なるほど。無茶するタイプね」
「よく言われる」
「言われてるなら直しなさいよ」
「努力する」
「そこは断言しなさい」
トーマは何となくロイドを見た。
ロイドは頷く。
「私もそう思います」
テリア女王はノアの魔法灯を見た。
「ノア。光は安定しておるな」
ノアは少し緊張しながらも頷く。
「はい。昨日より少し楽です」
「それでよい。今日はそれ以上増やすな」
「はい」
テリア女王は満足そうに頷いた。
その姿を、トーマは見ていた。
昨日の測定室でのことが、まだ胸に残っている。
テリア女王は危うい。
研究者としての好奇心が強い。
だが、止まろうとしている。
ノアを見ようとしている。
それを完全に信用するにはまだ早い。
けれど、昨日よりは少しだけ見え方が変わった。
「トーマ」
テリア女王が声をかける。
「何だ」
「昨夜の黒い羽根について、少し分かったことがある」
空気が変わる。
ノアたちも顔を上げた。
テリア女王は真剣な表情で言った。
「記録喰いの残滓は、単独で動いたわけではない可能性がある」
ロイドの目が鋭くなる。
「誰かが操っていると?」
「操っている、というより、呼び起こした者がいるかもしれぬ」
ソルが問う。
「誰だ」
テリア女王は首を振る。
「まだ分からぬ。じゃが、あれは自然に発生したものにしては、トーマを狙う動きが正確すぎた」
トーマは拳を握る。
「俺を知っている誰かがいる?」
「可能性はある」
アリスが言う。
「しかも、神代の残滓を呼び起こせる相手よ。普通じゃない」
レナが眉を寄せる。
「つまり、レッドフラッグス以外にも敵がいるのか?」
「そう考えた方がいいでしょう」
ロイドの声も重い。
ノアが不安そうにトーマを見る。
ミアもユナも黙っていた。
ソルは静かに言う。
「トーマの過去を知る者。あるいは、忘却の剣を知る者」
ロイが短く加える。
「そして、トーマを喰わせたい者」
その言葉は不気味だった。
トーマを殺したいのではない。
喰わせたい。
記録を、記憶を、存在を。
「目的は何だ」
トーマが問う。
テリア女王は答えた。
「お主が何かを思い出す前に消したいのかもしれぬ。あるいは、お主の記憶を喰わせることで、何かを取り戻そうとしているのかもしれぬ」
「俺の記憶に、そんな価値があるのか」
「あるから隠されたのじゃろう」
沈黙。
その言葉は重かった。
トーマの記憶は、ただ失われたのではない。
隠された。
忘却の剣によって。
世界から。
記録喰いから。
そして、おそらく何者かから。
「ゼロに連絡は?」
ソルが問う。
ロイドが答える。
「シェイン王国経由で問い合わせを出しています。ただ、ゼロ一行は復興支援で各地を移動中。返答には時間がかかるでしょう」
テリア女王も頷く。
「テリア側でも探っておる。ベイルにも共有した」
「ベイル女王は何て?」
トーマが聞く。
アリスが少し疲れたように言う。
「『面倒なやつが出たなら殴ればよい!』って返事が来たわ」
レナが目を輝かせる。
「さすがベイル女王!」
ロイドが額を押さえる。
「分かりやすくはあります」
テリア女王は小さく笑ったが、すぐに表情を戻す。
「とはいえ、力で殴れる相手とは限らぬ。記録喰いは記憶と存在に干渉する。正面から剣を振れば済む敵ではない」
ミアが不安そうに言う。
「じゃあ、どうやって戦うんだ?」
テリア女王はミアを見る。
「まず、喰われぬことじゃ」
「喰われぬ?」
「自分が誰かをはっきり持つこと。仲間に名前を呼んでもらうこと。記憶を奪われそうになった時、今に繋ぎ止めるものを持つこと」
ユナが静かに言う。
「だから、名前の訓練」
「そうじゃ」
テリア女王は頷いた。
「記録喰いは、曖昧なものを喰いやすい。忘れかけた記憶。誰にも呼ばれぬ名前。自分でも意味を失った過去。そうした隙間に入り込む」
ノアは胸元で手を握る。
「じゃあ、トーマの名前を呼べばいいんですね」
テリア女王は少し微笑む。
「うむ。それは強い守りになる」
ミアが即座に言う。
「じゃあいっぱい呼ぶぞ!」
「無闇に叫ばなくていい」
ユナが止める。
「でも必要な時は呼ぶ」
「うん」
ノアも頷いた。
「呼ぶ」
トーマは三人を見る。
胸が少し熱くなる。
怖い。
自分の記憶が狙われていること。
自分の存在が喰われるかもしれないこと。
過去に何をしたのか分からないこと。
全部怖い。
けれど、怖いと言える場所がある。
名前を呼んでくれる者がいる。
「ありがとう」
トーマは静かに言った。
ミアは照れ隠しのように笑う。
「まだ何もしてないぞ!」
「これからする」
ユナが言う。
「必要な時に」
ノアも小さく頷いた。
その時だった。
王城の外から、鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
緊急ではない。
だが、通常の鐘でもない。
城門からの報告を知らせる鐘。
レナがすぐに反応する。
「誰か来た!」
ロイドが兵士へ合図を出す。
間もなく、伝令兵が訓練場へ駆け込んできた。
「ロイド様! 正門に来訪者です!」
「誰ですか」
兵士は少し戸惑ったように言った。
「ベイル王国より、リン様とガーネ様が到着されました。ベイル女王陛下からの追加情報を持ってきたとのことです」
リンとガーネ。
トーマは目を細める。
テリア女王、ロイ、アリスがいるシェイン王国へ、今度はベイルのヴァルキリーが来る。
三国の戦力が、また集まり始めている。
ソルが低く言った。
「偶然ではないな」
テリア女王も頷く。
「流れが早い」
ロイドはすぐに指示を出す。
「迎えに行きます。ソル、トーマ、同行を。レナはノアたちの護衛を」
レナが元気よく返事する。
「任せろ!」
ミアが不満げに言う。
「私たちも行きたい!」
「駄目」
ユナが先に言った。
「なんでユナが言うんだ!」
「危ないから」
「正しいです」
ロイドが頷く。
ノアはトーマを見る。
「気をつけて」
「ああ」
トーマは木剣を置き、腰の剣に触れた。
忘却の剣は静かだった。
だが、その静けさが逆に不気味だった。
正門へ向かう道中、テリア女王が小さく呟く。
「ベイルがこの速さで動くとはのう」
アリスが言う。
「向こうも何か掴んだのかもね」
ロイは短く言った。
「ルークかも」
その名に、空気が少し変わる。
ルーク。
ベイル女王の娘。
レッドフラッグスの片翼。
ゼロと戦い、生き残った怪物。
ベイル側が持ってきた情報が、彼女に関するものなら。
事態はさらに複雑になる。
⸻
正門に着くと、リンとガーネが立っていた。
リンは相変わらず妖艶な笑みを浮かべている。
だが、その目はいつもより真剣だった。
ガーネは大斧を背負い、無言で周囲を見ている。
「お久しぶりですねぇ、皆さん」
リンが言う。
「随分と賑やかなことになっているようで」
ロイドが前へ出る。
「リン、ガーネ。ベイル女王陛下からの情報とは?」
リンは笑みを少しだけ消した。
「昨夜、ベイル王国の古い地下闘技場跡で、黒い羽根が見つかりました」
トーマの胸が跳ねる。
ソルの目が鋭くなる。
テリア女王が低く言った。
「ベイルにも出たか」
ガーネが短く頷く。
「魔力反応はシェインのものと近い」
リンは続ける。
「そして、もう一つ」
彼女はトーマを見る。
「その地下闘技場跡には、古い壁画が残っていました。神との戦いの時代よりさらに古いものです」
「壁画?」
「ええ。そこに描かれていたのは、黒い剣を持つ人物。そして、その人物の背後に立つ、羽根のない黒い天使のような影」
トーマの手が剣に触れる。
リンは静かに言った。
「その人物の名が、古代語で刻まれていました」
一瞬、風が止まったようだった。
「完全には読めませんでしたが、ガーネが拓本を持っています」
ガーネが巻物を差し出す。
ロイドが受け取り、広げる。
そこには古い文字が写されていた。
一部は崩れている。
だが、テリア女王がそれを見た瞬間、表情を変えた。
「これは……」
トーマは問う。
「読めるのか」
テリア女王はゆっくり頷いた。
「断片的にじゃがな」
彼女は文字を指でなぞる。
「黒き記録を断つ者。世界より名を消されし剣士」
トーマの鼓動が速くなる。
テリア女王は最後の一文を見た。
そこだけ、文字が比較的残っている。
「名は……トーマ」
沈黙。
その場にいた全員が、トーマを見た。
トーマ自身も、動けなかった。
古代の壁画。
神代に近い時代。
そこに、自分の名がある。
なぜ。
どうして。
自分は、いったいいつから存在している。
忘却の剣が、低く震えた。
今度は、はっきりと声が聞こえた。
──まだ、足りない。
その声は、冷たくも温かくもなかった。
ただ、遠かった。
トーマは剣を握りしめる。
「俺は……何者なんだ」
誰も答えられなかった。
だが、物語は確実に、もう一段深い場所へ降り始めていた。
黒い羽根が示すもの。
古代の壁画に刻まれた名。
世界より名を消されし剣士。
トーマの過去は、ただの失われた記憶ではない。
世界の歴史そのものに空いた穴だった。