第二十話 世界より名を消されし剣士
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あらすじ
遺した記録、貴方の記憶、その手で全て解き明かして。
本文
「名は……トーマ」
テリア女王の声が、正門前の空気に落ちた。
誰も動かなかった。
ロイドは拓本を持ったまま固まり、ソルは静かにトーマを見る。
レナは珍しく言葉を失い、リンも微笑みを消していた。
ガーネは無言のまま、ただ巻物に写された古代文字を見つめている。
トーマ自身は、息をすることすら忘れかけていた。
古代の壁画。
神代に近い時代。
黒い剣を持つ人物。
羽根のない黒い天使のような影。
そして、そこに刻まれた自分の名前。
トーマ。
今の自分に残された、たった一つのもの。
それが、ずっと昔の壁画にある。
「……偶然じゃないのか」
トーマはようやく言った。
自分でも苦しい言い訳だと思った。
だが、そう言わずにはいられなかった。
テリア女王は拓本から目を離さない。
「偶然と見るには、符号が多すぎる」
リンが静かに言う。
「黒い剣。黒い羽根。記録を断つ者。そしてトーマという名。ここまで揃って偶然なら、世界は随分と悪趣味な冗談を言うものですねぇ」
いつもの甘い声だったが、軽さはなかった。
ロイドが眉を寄せる。
「古代語の読み違いの可能性は?」
テリア女王は頷いた。
「もちろんある。文字は欠けておるし、時代によって意味も揺れる。じゃが、この名の部分は比較的保存状態が良い」
彼女は拓本の下部を指差した。
そこには、崩れかけた文字列がある。
トーマには読めない。
だが、見ているだけで胸の奥がざわついた。
まるで、自分の名前を知らない誰かに呼ばれているような感覚。
「トーマ」
ソルの声で、意識が戻る。
「大丈夫か」
「……分からない」
トーマは正直に答えた。
「俺の名前が、古い壁画にある。なのに俺は何も知らない。分からないことが増えただけだ」
レナが一歩近づいた。
「でも、名前があったんだろ?」
トーマはレナを見る。
レナは真剣な顔だった。
「トーマの名前が、昔からあったってことだろ? なら、それは大事な手がかりだ!」
「手がかり……」
「そうだ! 分からないことが増えたんじゃなくて、探す場所が増えたんだ!」
ロイドが少しだけ目を細める。
「言い方は大雑把ですが、正しいですね」
レナはぱっと顔を輝かせる。
「また正しいこと言った!」
「今日は調子がいいですね」
「やった!」
そのやり取りに、少しだけ空気が緩んだ。
だが、状況の重さは変わらない。
ロイドは拓本を丁寧に巻き直す。
「ここで話し続けるべき内容ではありません。会議室へ移動しましょう。リン、ガーネ。詳細な報告をお願いします」
リンは頷いた。
「もちろんです」
ガーネも短く言う。
「地下闘技場の地図もある」
テリア女王はトーマを見る。
「お主も来るか?」
「行く」
即答だった。
ソルが少しだけ目を細める。
「無理はするな」
「無理じゃない。これは俺のことだ」
「だから危うい」
ソルの声は静かだったが、鋭かった。
トーマは言い返そうとして、止まった。
昨夜、ロイが言った。
怖さを隠すな。
隠した怖さが、隙間になる。
トーマは息を吐く。
「怖い。でも、知りたい」
ソルは少しだけ表情を和らげた。
「それならいい」
リンが小さく笑う。
「良い顔になりましたねぇ。前より、少しだけ」
「顔の話ばかりだな」
「顔には色々出ますから」
ロイドが淡々と頷く。
「かなり出ます」
「お主、顔芸の才能があるのかもしれぬな」
テリア女王が言う。
「いらない才能だ」
トーマはそう返したが、声には少しだけ力が戻っていた。
一人で抱え込まない。
名前を呼ぶ。
怖いと言う。
それだけで、足元が少しだけ崩れにくくなる。
正門前にいた一行は、急ぎ会議室へ向かった。
⸻
会議室には、三国の主要な者たちが集まった。
シェイン側はロイド、ソル、レナ、トーマ。
テリア側はテリア女王、アリス、ロイ。
ベイル側はリン、ガーネ。
ノア、ミア、ユナは呼ばれなかった。
黒い羽根や記録喰いの話は、まだリトルヴァルキリーたちに詳しく伝えるには重い。
ただ、トーマが「ノアたちにも後で話す」と言ったため、ロイドは完全に隠すのではなく、段階的に共有する方針を取ることにした。
机の中央に、拓本が広げられる。
黒い剣を持つ人物。
その線は古く、ところどころ欠けていた。
顔は潰れていて分からない。
だが、腰に下げた剣の形は、トーマの忘却の剣に似ている。
人物の背後には、巨大な黒い影。
天使のような輪郭。
だが、羽根がない。
背中からは、無数の黒い糸のようなものが伸びている。
それらは周囲の人々や建物、文字らしきものへ絡みついていた。
まるで、世界そのものから何かを剥ぎ取っているようだった。
「これが地下闘技場の壁画ですか」
ロイドが問う。
ガーネは頷く。
「古い封鎖区画の奥。崩れた壁の裏にあった」
リンが説明を継ぐ。
「黒い羽根が発見されたことで、ベイル側が地下闘技場跡を再調査しました。そこで隠し壁が崩れ、この壁画が露出したのです」
アリスが腕を組む。
「タイミングが良すぎるわね」
「ええ」
リンは微笑む。
「まるで、見つけさせられたようでした」
その言葉に、空気が重くなる。
見つけさせられた。
誰に。
記録喰いの残滓か。
それを呼び起こした何者かか。
あるいは、もっと別の存在か。
テリア女王は拓本の文字部分を見つめる。
「まず読めるところだけ整理するぞ」
彼女は古代文字を指でなぞった。
「ここは、“黒き記録を断つ者”。おそらく記録喰いに対抗した者、あるいは記録喰いそのものを断った者を指しておる」
ロイドが記録する。
「トーマが記録喰いと敵対していた可能性」
「うむ」
テリア女王は次の文字へ移る。
「ここは、“世界より名を消されし剣士”。これは二通りに読める」
「二通り?」
トーマが聞く。
「一つは、世界によって名を消された剣士。つまり、何者かに存在を抹消された者」
「もう一つは?」
テリア女王の声が少し低くなる。
「世界を守るため、自ら名を消した剣士」
会議室が静まり返る。
自ら名を消した。
トーマは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「俺が、自分で?」
「可能性の一つじゃ」
「なんのために」
「それが分かれば苦労せぬ」
テリア女王は正直に言った。
「じゃが、忘却の剣が存在を隠す鞘であるなら、自ら隠れるために使った可能性もある」
リンが唇に指を当てる。
「記録喰いから逃れるため。あるいは、記録喰いを封じるために自分ごと世界から切り離した、とか」
ロイドが頷く。
「理論上はあり得ます。もし記録喰いが“世界の記録”を辿って対象を喰うなら、世界から名を消すことは防御策になる」
ソルが言う。
「だが、それならなぜ今戻ってきた」
ロイが短く答えた。
「誰かが戻した」
全員の視線がロイへ向く。
ロイは拓本を見たまま続ける。
「トーマは空から落ちた。自然じゃない。誰かが落とした。もしくは、隠れていた場所から弾き出した」
トーマの頭に、最初の日の光景が蘇る。
空から落ちる感覚。
光。
そして、何もない荒野に横たわっていた自分。
あれは事故ではなかったのか。
誰かが自分をこの時代、この場所へ落としたのか。
「誰が」
トーマが問う。
ロイは首を振る。
「知らない」
ソルが続ける。
「ゼロか?」
ロイドが慎重に言う。
「ゼロが関与している可能性はあります。しかし、現時点で断定はできません」
テリア女王も頷く。
「ゼロは神を倒した英雄じゃ。神代の残滓や記録喰いについて何か知っている可能性はある。だが、トーマを落とした本人かどうかは別問題じゃ」
リンが静かに言う。
「そもそも、ゼロが知っているなら、なぜ今まで黙っていたのか、という問題もありますねぇ」
重い言葉だった。
ゼロは英雄だ。
世界を救った存在。
トーマはまだ会ったこともない。
だが、世界中の人々が彼を讃えている。
そのゼロが、自分の過去を知っていて隠しているのかもしれない。
そう考えるだけで、胸の奥がざわついた。
「まだ決めつけるな」
ソルが言った。
トーマの方を見ている。
「ゼロが敵だと考えるのは早い」
「分かってる」
「本当にか」
トーマは息を吐いた。
「……分かってる。けど、気にはなる」
「それでいい」
ソルは頷く。
「疑問を持つことと、敵と決めつけることは違う」
レナが腕を組む。
「ゼロが悪い人なわけないぞ!」
ロイドが少しだけ目を細める。
「レナ。英雄であっても、全てを正しく選べるとは限りません」
「でも……」
「もちろん、悪いと決めつけるべきでもありません。だから調べるのです」
レナは少し難しそうな顔で頷いた。
「分かった。調べてから考える」
「よろしい」
テリア女王は拓本の最後の部分を見る。
「ここが最も欠けておる」
彼女は指で、文字の欠損した箇所をなぞった。
「読めるのは、“彼は■■を殺し、■■を救い、■■を失った”」
トーマの心臓が強く鳴った。
彼は何かを殺した。
影の言葉と重なる。
思い出せ。お前が何を殺したのか。
「黒い影が言っていた」
トーマは低く言う。
「お前が何を殺したのか、と」
アリスが表情を曇らせる。
「壁画と繋がってるわね」
「何を殺したのか、そこが欠けている」
ロイドが言う。
「偶然ではないでしょう。最重要部分が失われている」
リンは薄く目を細めた。
「あるいは、食われた」
記録喰い。
記憶や歴史を喰う存在。
なら、この壁画の欠損はただの風化ではなく、意図的に記録を喰われた痕跡なのかもしれない。
ガーネが短く言う。
「地下闘技場に、他の壁画もある」
全員がガーネを見る。
「まだ全部は見ていない。危険区域が多い」
リンが頷く。
「ベイル女王は、三国共同調査を提案しています。シェイン、テリア、ベイル、それぞれから少数精鋭を出して、地下闘技場跡を詳しく調べるべきだと」
ロイドはすぐに考え込む。
「妥当です。黒い羽根が発見された場所であり、トーマに関する壁画がある。放置はできません」
テリア女王も頷く。
「ワシも行く」
アリスが即座に言う。
「駄目」
「なぜじゃ」
「女王がほいほい危険地帯に行くなって何回言えば分かるの」
「危険だからこそワシが」
「そういうところよ」
アリスの声が鋭くなる。
「昨日、ノアの前で何を学んだのよ。あなたは何でも自分で見に行きすぎる」
テリア女王は言葉に詰まった。
ロイドは冷静に言う。
「テリア女王陛下の知識は必要ですが、現場同行には慎重であるべきです。遠隔解析でも協力は可能では?」
テリア女王は不満そうだったが、何も言えない。
ロイが短く言った。
「私が行く」
アリスがロイを見る。
「あなたは行くと思ったわ」
ソルも言う。
「私も行く」
今度はロイドが反応する。
「ソル」
「トーマに関わる。私が行くべきだ」
レナがすぐに手を上げる。
「私も!」
ロイドが即答する。
「駄目です」
「早い!」
「シェイン王国の防衛も必要です。ノアたちの護衛もあります」
レナはぐっと言葉を詰まらせる。
「でも……」
トーマが言う。
「俺も行く」
その場の空気が止まった。
ロイドが厳しい目を向ける。
「危険です」
「分かってる」
「分かっているなら」
「でも、俺の名前がある場所だ。俺の過去に関わる場所だ。行かずに待つだけはできない」
ソルがトーマを見る。
「怖いか」
トーマは頷いた。
「怖い」
「それでも行くのか」
「ああ」
「一人で?」
「行かない」
トーマははっきり言った。
「ソルが行くなら、ソルと行く。ロイも行くなら、ロイとも。シェインだけじゃなく、三国で行くなら、その中で動く。勝手には行かない」
ソルは少しだけ目を細めた。
「なら、考える価値はある」
ロイドはため息をつく。
「あなたがそう言うことは予想していました」
「止めるか?」
「止めたいです」
ロイドは正直に言った。
「ですが、あなたが現場に行くことで剣や壁画が反応する可能性もある。調査上、必要になるかもしれません」
リンが微笑む。
「ベイルとしては、トーマくん本人が来るなら歓迎しますよ。もちろん護衛付きで」
ガーネが頷く。
「危険なら守る」
トーマはガーネを見る。
「ありがとう」
ガーネは短く言った。
「丈夫そうだから、たぶん守りがいがある」
「それは褒めてるのか?」
「褒めてる」
リンがくすりと笑う。
「ガーネなりには、かなり」
会議は一気に動き始めた。
三国共同調査。
目的地はベイル王国の古い地下闘技場跡。
参加候補は、シェインからソル、トーマ、ロイド。
テリアからロイ、アリス、遠隔支援としてテリア女王。
ベイルからリン、ガーネ。
レナはシェインに残り、ノアたちと城の防衛を担当することになった。
もちろん、レナは納得していなかった。
「私も行きたい!」
ロイドは言った。
「あなたには、ノアたちを守るという重要任務があります」
「重要任務……」
レナの耳がぴんと立つような顔になる。
「ノア、ミア、ユナを守るのは、あなたにしかできない役目です」
「私にしか……」
「はい」
レナは真剣な顔で頷いた。
「分かった! 守る!」
トーマは思った。
ロイドはレナの扱いがうまい。
いや、単純に本当のことを言っているだけかもしれない。
どちらにせよ、レナはやる気になった。
⸻
会議が一段落した後、トーマはノアたちに話すことになった。
場所は訓練場の隅。
ノア、ミア、ユナの三人が並んで座っている。
レナも近くに立っていた。
トーマは、できるだけ分かりやすく話した。
ベイルの地下闘技場跡で黒い羽根が見つかったこと。
古い壁画に、自分の名前が刻まれていたこと。
そこに黒い剣を持つ人物が描かれていたこと。
そして、調査のためにベイル王国へ向かう可能性が高いこと。
ノアは黙って聞いていた。
ミアは途中で何度も質問しそうになったが、ユナに袖を掴まれて我慢していた。
話し終えると、最初に口を開いたのはミアだった。
「つまり、トーマは昔のすごい人かもしれないってことか!」
「まだ分からない」
「でも壁画に名前があったんだろ? すごいじゃないか!」
ユナが冷静に言う。
「すごいけど、危ない」
「そうだな!」
「そこは勢いで納得しないで」
ノアはトーマを見た。
「行くの?」
「ああ。たぶん」
「怖い?」
「怖い」
トーマは隠さなかった。
ノアは小さく頷く。
「なら、名前を忘れないで」
「ノアたちの名前を?」
「うん。自分の名前も」
ミアがすぐに言う。
「私の名前も!」
ユナも静かに。
「私のも」
レナも胸を張る。
「私のもだ!」
トーマは少し笑った。
「忘れない」
ノアは少し不安そうに続けた。
「本当は、私も行きたい」
「ノアが?」
「うん。でも、たぶん足手まといになる」
「そんなことは」
ユナが静かに言った。
「今回は危険の種類が違う。記録とか記憶とか、私たちには対策が足りない」
ミアは悔しそうに拳を握る。
「じゃあ、ここで強くなるしかないな」
レナが大きく頷いた。
「そうだ! 私が鍛える!」
ユナが少し不安そうに見る。
「加減して」
「する!」
「本当に?」
「たぶん!」
「駄目そう」
ノアはトーマへ視線を戻した。
「帰ってくるよね」
トーマの胸に、あの声が蘇る。
──トーマ、行かないで!
今度は、目の前にノアがいる。
彼女は引き止めているわけではない。
ただ、帰ってきてほしいと言っている。
トーマは静かに頷いた。
「帰ってくる」
ノアは少しだけ安心したように笑った。
「うん」
ミアが叫ぶ。
「約束だぞ!」
「約束だ」
ユナが言う。
「破ったら怒る」
「分かった」
レナも言う。
「帰ってきたら訓練だ!」
「それは報酬なのか?」
「もちろん!」
トーマは笑った。
その笑いは、先ほどまでより少し軽かった。
怖さは消えない。
だが、帰る場所がある。
それは今のトーマにとって、大きな支えだった。
⸻
その日の夕方。
シェイン王国の高い屋根の上。
ロイが一人、遠くを見ていた。
隣にソルが上がってくる。
「また屋根か」
「見やすい」
「そうだな」
二人はしばらく無言だった。
夕陽が王城を赤く染める。
ロイが口を開く。
「ベイルの地下闘技場。嫌な場所」
「知っているのか」
「少し」
ソルはロイを見る。
「何がある」
「昔、強い者を閉じ込めて戦わせた場所」
「ベイルらしいな」
「古すぎる。今のベイルより前」
ロイは遠くを見る。
「記録喰いの壁画があったなら、ただの闘技場じゃない」
「罠か」
「たぶん」
ソルは静かに言う。
「それでも行く」
「うん」
「トーマを守る」
ロイは少しだけソルを見る。
「大事?」
ソルの表情がわずかに動いた。
「保護対象だ」
「それだけ?」
「……今はそれでいい」
ロイは少しだけ首を傾げる。
「ふうん」
ソルはロイを睨む。
「何だ」
「別に」
「その別には信用できない」
ロイはほんの少しだけ口元を緩めた。
「ソル、柔らかくなった」
「お前は前にもそれを言った」
「何度も言う」
「なぜ」
「面白いから」
ソルはため息をついた。
「お前も相変わらずだ」
ロイは頷く。
「うん」
そして、夕陽の中で短く言った。
「地下闘技場では、名前を忘れないで」
「トーマのか」
「みんなの」
ソルはその言葉の重さを理解した。
記録喰い。
記憶や存在を喰う影。
その本拠に近い場所へ行くなら、トーマだけが危険なのではない。
自分たちも、何かを削られるかもしれない。
「分かった」
ソルは言った。
「お前も忘れるな」
ロイは静かに頷いた。
「ソル」
「何だ」
「名前、呼んだ」
ソルは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「そうだな」
⸻
同じ頃。
荒野。
紅い旗の下で、セイレンはベイル王国の方角を見ていた。
ルークが隣で大剣を地面に突き立てている。
「ベイルに行く」
セイレンが言った。
ルークが顔を上げる。
「地下?」
「ええ。古い闘技場跡」
「知ってる」
「そうでしょうね。あなたの国だもの」
「暗い」
「それだけ?」
ルークは少し考えた。
「臭い」
「……まあ、古い地下ならそうでしょうね」
セイレンは紅い旗を握る。
「トーマたちも向かうはずよ。壁画を見つけたなら、必ず現地調査に行く」
ルークは大剣を持ち上げる。
「戦う?」
「まだ分からない」
「また?」
「ええ、また」
ルークは少し残念そうだった。
「でも、記録喰いがいるなら」
セイレンの声が低くなる。
「話は別。あれにトーマを喰わせるわけにはいかない」
「守る?」
「違う」
「また違う?」
「違うわ」
ルークは首を傾げる。
「難しい」
セイレンは苛立ったように息を吐いたが、すぐに黙った。
守る。
その言葉を否定するのは簡単だった。
だが、否定したところで、自分の行動がどう見えるかは変わらない。
トーマを試すと言いながら、記録喰いには喰わせたくない。
ノアを壊す気はないと言いながら、彼女の成長を見ている。
母を憎むと言いながら、母が変わるかどうかを見てしまう。
自分の中で、矛盾が増えている。
それが気に入らなかった。
「行くわよ、ルーク」
「うん」
「地下闘技場で、何が出ても油断しないで」
ルークの目が静かに変わった。
「うん」
その一言だけで、空気が戦場のものになる。
セイレンは赤い裂け目を開いた。
紅い旗が翻る。
「トーマ。あなたが何者なのか、私も見せてもらうわ」
二人は裂け目の向こうへ消えた。
⸻
翌朝。
三国共同調査隊が、ベイル王国へ向けて出発する準備を始めた。
目的地は、古い地下闘技場跡。
そこにある壁画。
黒い羽根。
そして、トーマの名。
世界から消されたはずの記録が、少しずつ姿を現し始めていた。
トーマは馬車に乗る前、王城を振り返った。
城門の上には、ノア、ミア、ユナ、レナが立っている。
ノアが手を振った。
ミアが大きく叫ぶ。
「絶対帰ってこいよー!」
ユナは小さく手を上げる。
レナは拳を掲げた。
「任せたぞ! でも無理するな!」
トーマは頷いた。
「行ってくる」
その声は、今の自分の名前を支えるように響いた。
トーマ。
まだ何者か分からない男。
けれど、帰る場所を持った男。
忘却の剣が、腰で静かに揺れた。
その先で待つ地下闘技場が、彼の失われた過去へ続く口を開けている。