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第二十一話 忘却の剣

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📅 公開日: 2026/11/6 📚 シリーズ: Reincarnation -Record of memories- 📝 7,045文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

遺した記録、貴方の記憶、その手で全て解き明かして。

本文

ベイル王国の古い地下闘技場は、王都の外れにあった。

今では誰も近づかない。

地上から見れば、そこはただの廃墟だった。

崩れた石門。

草に呑まれた階段。

半分埋もれた鉄柵。

かつて観客を迎え入れたであろう広場には、折れた柱が墓標のように並んでいる。

だが、本当の闘技場は地上にはない。

地下にある。

古い時代、強い者を閉じ込め、戦わせ、勝者だけを上へ戻した場所。

国ができるよりも前から存在したと言われる、血と歓声の底。

その入口に、調査隊は立っていた。

シェインから、トーマ、ソル、ロイド。

テリアから、ロイとアリス。

ベイルから、リンとガーネ。

そして、遠隔支援としてテリア女王の魔法通信陣が同行している。

「嫌な場所ですねぇ」

リンが微笑んだ。

いつものように柔らかな声だったが、目は笑っていなかった。

「ベイル王国にも荒っぽい場所は多いですが、ここは別です。強さを讃える場所ではなく、強さを消費する場所でした」

ガーネが低く言う。

「昔、戦士を檻に入れて戦わせた。死んでも記録に残らない者もいた」

「記録に残らない……」

トーマはその言葉に反応した。

腰の忘却の剣が、わずかに揺れる。

ロイドがすぐに見る。

「剣が反応していますか」

「少しだけ」

「無理に触れないでください」

「ああ」

ソルはトーマの横に立つ。

「名前を忘れるな」

トーマは頷いた。

「トーマ。ソル。ロイド。ロイ。アリス。リン。ガーネ」

ひとつずつ口にする。

今ここにいる者たちの名。

ロイが短く頷く。

「いい」

アリスは少しだけ腕を組んだ。

「私の名前も入ってたわね」

「いたからな」

「まあ、いいけど」

リンがくすりと笑う。

「私の名前を呼ぶ時、少し照れてもいいのですよ?」

「しない」

「残念」

その軽いやり取りすら、地下へ続く階段の前では薄く響いた。

まるで、闇が音を吸っているようだった。

ロイドが魔法灯を展開する。

青白い光が階段を照らす。

「行きましょう」

一行は地下へ降りた。

⸻

階段は長かった。

下へ。

下へ。

さらに下へ。

空気は一段ごとに冷たくなっていく。

壁には古い傷が残っていた。

爪痕。

剣痕。

焼け焦げた跡。

そして、何かを削り取ったような不自然な空白。

ロイドが壁を照らす。

「文字があった痕跡ですね」

アリスが顔をしかめる。

「削られてる?」

「いいえ」

ロイドは指で壁の縁をなぞる。

「削られたというより、ここだけ存在が薄い。石ごと記録を失っているように見えます」

ガーネが短く言う。

「記録喰い」

誰も否定しなかった。

トーマは壁の空白を見つめる。

そこには何もない。

なのに、目が吸い寄せられる。

何かがあった。

誰かの名前があった。

誰かの戦いがあった。

誰かの死があった。

だが、もうない。

消された。

忘れられた。

忘却の剣が、腰で小さく鳴った。

ちり、と。

金属音ではない。

もっと内側の音だった。

記憶の骨が軋むような音。

「トーマ」

ソルの声。

トーマは息を吸う。

「大丈夫だ」

「名前」

「トーマ」

自分の名を言う。

戻る。

ここは地下闘技場。

自分は調査隊といる。

一人ではない。

「進むぞ」

ソルが言う。

トーマは頷いた。

さらに下へ。

やがて階段は広い通路へ繋がった。

そこには、巨大な鉄格子が並んでいた。

檻。

かつて戦士たちが入れられていた場所。

いくつもの檻が、暗闇の奥まで続いている。

鉄格子には錆が浮き、床には古い鎖が転がっていた。

リンが低く言う。

「ここは待機区画です。試合前の戦士たちを閉じ込めていた場所」

トーマは檻を見た。

狭い。

人が一人、座れる程度の空間。

壁には無数の引っ掻き傷がある。

中には、文字のようなものも刻まれていた。

だが、その多くは途中で途切れている。

名前を書こうとして、最後まで書けなかったように。

ロイが一つの檻の前で止まる。

「ここ」

ロイドが魔法灯を近づける。

檻の奥、壁の低い位置に、黒い染みがあった。

その中心に、羽根の跡。

すでに羽根そのものは回収された後だが、そこには暗い魔力が残っていた。

ガーネが言う。

「最初の黒い羽根はここで見つかった」

トーマは檻の中を見る。

狭い空間。

壁に残る傷。

床に残る錆。

なぜか、胸が苦しくなった。

知らないはずの場所だ。

来たことなどないはずだ。

だが、足が重い。

ここを知っているような気がする。

いや、ここではない。

似た場所を。

暗い場所。

狭い場所。

誰かの泣き声。

鉄の匂い。

血の匂い。

「……っ」

トーマは額を押さえる。

視界が揺れる。

ソルが肩に手を置く。

「戻れ」

「トーマ」

自分の名前を言う。

まだ戻れる。

「ソル。ロイド。ロイ。アリス。リン。ガーネ」

名前を並べる。

声が少し震えていた。

リンが静かに言う。

「無理はしない方がいいですよ」

「でも、見なきゃいけない」

トーマは顔を上げる。

「ここに、俺の名前があったんだろ」

リンは目を細めた。

「ええ。この奥です」

ガーネが先導する。

一行は檻の通路を抜け、さらに奥へ進んだ。

⸻

闘技場の中心部は、円形だった。

巨大な地下空間。

天井は高く、ところどころ崩れている。

観客席らしき段差が円を描き、その中央に広い砂地がある。

砂は黒ずんでいた。

何百年、何千年経っても消えない血の名残のようだった。

「ここが主闘技場です」

リンの声が、空間に反響する。

「壁画はあちら」

彼女が指差したのは、観客席の最奥。

崩れた壁の裏に隠されていた石壁だった。

そこに、巨大な壁画があった。

拓本で見たものより、はるかに大きい。

黒い剣を持つ人物。

羽根のない黒い天使。

絡みつく黒い糸。

消えていく人々。

そして、欠けた文字。

トーマは壁画を見た瞬間、息が止まった。

拓本では分からなかった圧がある。

壁画の中の黒い剣士は、こちらに背を向けていた。

顔は描かれていない。

けれど、なぜか分かる。

これは自分だ。

理屈ではない。

名前でもない。

骨の奥が知っていた。

「トーマ」

ソルが呼ぶ。

「大丈夫……じゃない」

トーマは正直に言った。

「怖い」

ロイが短く言う。

「いい」

怖いと言える。

それだけで、まだ隙間は小さい。

ロイドが壁画の文字を確認する。

「拓本より詳細が見えます。欠落箇所はやはり多いですが……」

アリスが魔法灯を上げる。

「ここの文字、何か読める?」

ロイドはテリア女王へ通信を繋ぐ。

青白い魔法陣が浮かび、テリア女王の声が響いた。

『映像を送るのじゃ』

ロイドが壁画を映す。

通信陣越しに、テリア女王が息を呑む気配がした。

『これは……想像以上じゃな』

リンが問う。

「読めますか?」

『少し待て』

沈黙。

その間、闘技場の空気が重くなっていく。

トーマは壁画から目を離せなかった。

黒い剣士の前には、何かが描かれている。

大きな円。

その円の中に、無数の線。

世界を表しているのか。

記録を表しているのか。

そして、剣士はその円に剣を突き立てている。

守っているようにも見える。

壊しているようにも見える。

テリア女王の声が戻る。

『読める部分を繋ぐぞ』

全員が耳を傾ける。

『黒き記録を断つ者。世界より名を消されし剣士。彼は……』

そこで一度声が止まる。

『彼は、■■を殺し、世界を救い、最愛を失った』

トーマの心臓が、嫌な音を立てた。

最愛を失った。

「最愛……?」

声が掠れる。

ロイドが険しい顔で問う。

「最初の欠落部分は?」

『読めぬ。記録が喰われておる。じゃが、前後から見るに、殺した対象は極めて重要じゃ』

ソルが低く言う。

「神か」

『その可能性はある。だが、ゼロが倒した神とは別の名かもしれぬ』

トーマの頭が痛み始めた。

最愛を失った。

トーマ、行かないで。

少女の声。

血に濡れた手。

崩れた塔。

黒い空。

「……誰だ」

トーマは呟く。

「俺は、誰を失った」

その時だった。

闘技場の砂が、わずかに沈んだ。

ロイが短剣を抜く。

「来る」

次の瞬間、中央の砂地から黒い影が湧き上がった。

昨夜のものより大きい。

人の形に近いが、顔はない。

ただ、口だけがある。

黒い裂け目。

闘技場全体の空気が冷えた。

壁画の黒い天使が、ゆっくりと滲んで動いたように見えた。

ロイドが叫ぶ。

「防御陣形!」

ソルが前へ出る。

ロイが影の背後へ回り込むように消える。

ガーネが大斧を構え、リンがチャクラムを展開する。

アリスが魔法陣を張る。

トーマは剣に手をかける。

だが、抜かない。

抜いてはいけない。

影の口が開いた。

──戻ってきた。

声が、闘技場の石壁を震わせた。

──名を消した剣士。逃げた器。忘れた罪。

「黙れ」

ソルが踏み込む。

剣が影を斬る。

黒い体が裂ける。

だが、裂けた場所から無数の細い腕が伸びた。

腕は空中の文字へ絡みつく。

壁画に刻まれた古代文字が、一部黒く染まる。

テリア女王の通信が乱れた。

『まずい、壁画の記録を──』

声が途切れる。

ロイドが魔法陣を展開する。

「壁画保護! アリス、補助を!」

「分かってる!」

アリスの魔法が壁画を覆う。

リンのチャクラムが黒い腕を切断し、ガーネの大斧が影の胴を叩き潰す。

ロイが背後から短剣を突き立てる。

影が歪む。

だが消えない。

むしろ、攻撃を受けるたびに闘技場の空気が重くなる。

──記録を返せ。

影の声。

──お前が断った記録を。お前が殺したものを。お前が選んだ忘却を。

トーマの頭が割れそうになる。

「トーマ!」

ソルの声。

戻れ。

名前。

「トーマ……」

自分の名を言う。

だが、声が震える。

「ソル……ロイド……ロイ……」

名前を呼ぶ。

でも、遠い。

みんなの声が遠い。

闘技場の音が消えていく。

代わりに、別の音が聞こえる。

雨。

いや、血が落ちる音。

ぽた。

ぽた。

ぽた。

暗い塔。

崩れた床。

誰かが泣いている。

──行かないで。

少女の声。

誰だ。

顔が見えない。

見えそうで見えない。

トーマは頭を押さえる。

「やめろ……!」

影が笑う。

──見ろ。

闘技場の壁が消える。

いや、トーマの視界だけが別の場所へ引きずり込まれる。

崩れた塔。

黒い空。

地面に倒れている少女。

長い髪。

白い服。

胸元に広がる赤。

自分の手が、血に濡れている。

「違う……」

トーマは呟く。

「これは……」

少女の顔がまだ見えない。

だが、知っている。

知っているはずだ。

知らないままではいられない。

けれど、知ったら壊れる。

剣が震える。

鞘の中で、何かが目を覚ます。

──まだ足りない。

剣の声。

影の声が重なる。

──思い出せ。

トーマは膝をつく。

ソルが叫ぶ。

「トーマ! 名前を呼べ!」

名前。

名前。

自分の名前。

「トー……マ……」

声が途切れる。

自分の名前が、舌の上で崩れていく。

トーマとは誰だ。

空から落ちてきた男。

記憶のない男。

シェインに拾われた男。

忘却の剣を持つ男。

でも、壁画の剣士は誰だ。

最愛を失った男は誰だ。

何かを殺した男は誰だ。

「俺は……」

影が近づく。

ソルが斬る。

ロイが刺す。

リンが腕を切る。

ガーネが叩き潰す。

アリスが壁を張る。

ロイドが記録を守る。

みんなが戦っている。

トーマを守ろうとしている。

だが、トーマの中へ入った影は、誰にも斬れない。

──教えてやろう。

影が囁く。

その声は、耳元にあった。

いや、頭蓋骨の内側から聞こえた。

──お前が殺したもの。

トーマの心が、そこで止まった。

影の口がゆっくり開く。

そして、たった一言。

──ゼロ。

世界が凍った。

「……え?」

トーマは顔を上げた。

何を言われたのか、理解できなかった。

ゼロ。

英雄。

世界を救った男。

今も世界を復興のために駆け回っているはずの男。

その名が、影の口から出た。

お前が殺したもの。

ゼロ。

「嘘だ」

トーマは言った。

誰に向かって言ったのか分からない。

「嘘だ……ゼロは生きてる。世界を救った英雄だ。皆が知ってる。シェインも、テリアも、ベイルも……」

影は笑った。

──記録は、そう語る。

壁画の文字が黒く滲む。

──世界は、そう覚えている。

トーマの視界がまた歪む。

崩れた塔。

血。

白い服の少女。

そして、もう一つの影。

自分の前に立つ男。

背中だけが見える。

強い背中。

誰よりも強く、誰よりも遠い背中。

その男が振り返る。

顔は見えない。

でも分かる。

ゼロ。

トーマの手の中には、黒い剣。

刃が赤く濡れている。

「違う……」

声が出ない。

「違う、違う、違う……!」

影の声が優しくなる。

それが余計に恐ろしかった。

──お前は英雄を殺した。

トーマの心に亀裂が入る。

──だから世界はお前を忘れた。

亀裂が広がる。

──だから剣はお前を隠した。

何かが崩れる音がした。

石ではない。

骨でもない。

心だった。

トーマの中で、辛うじて立っていた何かが、音もなく折れた。

「俺が……」

喉が震える。

「俺が、ゼロを……?」

ソルが叫ぶ。

「聞くな! それは真実とは限らない!」

ロイドも声を張る。

「トーマ! 名前を!」

ロイが影を切り裂きながら言う。

「戻れ!」

アリスが叫ぶ。

「影の言葉を信じるな!」

リンがチャクラムを放つ。

「トーマくん、こちらを見なさい!」

ガーネが影を押さえ込む。

「立て」

声が届く。

届いているはずなのに、届かない。

トーマの中はもう、水の底だった。

みんなの声が遠い。

遠く、遠く。

泡になって消えていく。

トーマ。

その名前すら、薄れていく。

代わりに、剣の声がはっきりする。

──抜け。

低い声。

鞘の奥から。

骨の奥から。

記憶の底から。

──思い出せないなら、私が思い出してやる。

「やめろ……」

トーマは剣の柄を握っていた。

いつの間にか。

指が白くなるほど強く。

ソルが気づく。

「トーマ! 抜くな!」

ロイが走る。

「駄目」

ロイドが叫ぶ。

「全員、トーマを止めてください!」

ガーネが動く。

リンが糸のようにチャクラムを伸ばす。

アリスが拘束魔法を展開する。

ソルが最速で踏み込む。

だが、その瞬間。

トーマの周囲に、黒い波紋が広がった。

全員の足が止まる。

いや、止められた。

空間そのものが、トーマから遠ざけられたように。

トーマは剣を握る。

涙は出なかった。

悲鳴も出なかった。

ただ、目の中から光が抜けていく。

「ゼロを……俺が……」

壊れた声。

影が笑う。

──そうだ。

剣が囁く。

──違う。続きを見ろ。

影と剣。

二つの声が、トーマの中で絡み合う。

どちらが嘘で、どちらが真実か分からない。

分からない。

分からない。

分からない。

なら。

全部消してしまえばいい

その考えが浮かんだ瞬間、トーマの顔から表情が消えた。

ソルの声が裂ける。

「トーマ!」

トーマは鞘を握った。

そして。

忘却の剣を抜いた。

音はなかった。

金属が擦れる音も、刃が空気を切る音も。

ただ、世界から一枚、薄い膜が剥がれるような感覚があった。

黒い刃が現れる。

刃は光を反射しない。

闇でもない。

そこには何もなかった。

見ているだけで、自分が何者か分からなくなるような刃。

闘技場の壁画が震える。

黒い羽根が燃えるように散る。

影が歓喜した。

──抜いた。

剣が、笑った。

トーマの体がびくりと震える。

次の瞬間。

彼の瞳から、完全に色が消えた。

黒でもない。

白でもない。

空白。

ただの空白が、目の中に広がっていた。

「……」

トーマはゆっくり立ち上がる。

誰も動けなかった。

目の前にいるのはトーマのはずだった。

だが、違う。

立ち方が違う。

呼吸が違う。

気配が違う。

人ではなく、剣が人の形をして立っている。

ソルが歯を食いしばる。

「トーマ……?」

トーマだったものは、ソルを見た。

その目に、何もない。

そして口を開いた。

「名は不要」

声はトーマのものだった。

だが、トーマではなかった。

「記録は不要」

忘却の剣が、静かに黒い光を放つ。

「すべて、忘れればよい」

次の瞬間。

闘技場の中央から、黒い衝撃が広がった。

ソルが剣で受ける。

ロイが影へ逃げる。

ガーネが斧を地面に叩きつけ踏みとどまる。

リンがチャクラムで身を守る。

アリスが結界を張る。

ロイドが壁画の保護陣を強化する。

それでも、全員が吹き飛ばされた。

影は笑っていた。

だが、その笑いは長く続かなかった。

忘却の剣を持つトーマが、影へ視線を向ける。

空白の瞳。

「お前も」

声が響く。

「忘れろ」

剣が振られた。

ただ一振り。

影の体が裂ける。

いや、裂けたのではない。

影の一部が、存在ごと抜け落ちた。

影が初めて悲鳴を上げた。

──■■■■■■!

声にならない声。

記録喰いの残滓が、自分の記録を奪われている。

闘技場の空気が狂ったように震える。

ソルは立ち上がろうとする。

「止めろ……!」

だが、体が動かない。

黒い衝撃が全身を縛っている。

ロイが短剣を握り直す。

「まずい」

アリスが青ざめる。

「トーマが……」

リンの笑みは完全に消えていた。

「乗っ取られましたねぇ……」

ガーネが歯を食いしばる。

「止める」

「待て!」

ロイドが叫ぶ。

「……今近づけば、こちらの記録も削られます」

忘却の剣を持つトーマは、影を見下ろしていた。

その姿は静かだった。

恐ろしいほど静かだった。

怒りもない。

悲しみもない。

ただ、消す。

それだけの意思。

影が黒い腕を伸ばす。

しかし、トーマは剣を横に振る。

腕が消える。

影の叫びが闘技場に響く。

トーマの背後で、壁画が黒く光った。

文字が浮かび上がる。

欠けていた部分が、一瞬だけ蘇る。

だが、誰も読む余裕はなかった。

ソルだけが、その一部を見た。

彼は■■を殺し、世界を救い、最愛を失った。

欠けていた最初の文字が、黒い炎の中で一瞬だけ形を取った。

だが、次の瞬間にはまた喰われるように消えた。

ソルは目を見開く。

「今のは……」

言葉にならなかった。

忘却の剣を持つトーマが、ゆっくりこちらを振り返る。

その視線が、ソルに向く。

ソルの背筋に、初めて冷たいものが走った。

トーマ、いや────

──────これは敵だ。

今のトーマは、トーマではない。

だが、倒せばいい相手でもない。

守るべき者が、最悪の刃になった。

「トーマ……戻れ」

ソルの声は掠れていた。

空白の瞳が、彼女を見る。

そして、その口がわずかに動いた。

「トーマは忘れた」

剣が黒く鳴る。

「残ったのは、忘却だけだ」

その言葉と同時に、闘技場全体の魔法灯が消えた。

暗闇。

完全な暗闇。

その中で、忘却の剣だけが、黒く光っていた。

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