第四十九話 身体が覚えていたもの
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あらすじ
遺した記録、貴方の記憶、その手で全て解き明かして。
本文
テリア王国での合同訓練から数日が過ぎ、シェイン王国にはいつもの朝が戻っていた。
三国の旗が並んだ訓練場はもう遠い。あの日、キリカとミアが最後まで勝負の続きを言い合い、ルチアがフィナを叱り、メルがそれを笑って見ていたことを、トーマは今もよく覚えている。国境を越えて帰る馬車の中でも、ノアは七人で交わした言葉を何度も思い返していた。誰がどんな魔法を使い、誰と組んだときにどんな失敗をしたのか。彼女の手帳は、いつの間にか小さな字でいっぱいになっていた。
帰国してからも、その賑やかさは少しだけ続いている。ミアは食堂でキリカの罠の話を持ち出しては、自分なら次は踏まないと言い張り、ユナはそのたびに「まず足元を見て」と返す。ロイドは大会と合同訓練の記録を整理し、レナは新しく覚えた急停止を誰かに見せたくて仕方がないらしかった。ソルだけは普段と変わらず、朝早くから剣を振っている。
トーマも、そんな日常の一部になろうとしていた。忘却の剣は今も三国の管理下で封じられたままだ。彼が手にしているのは訓練用の短棒で、素手の動きも少しずつ教わっている。地下闘技場で自分を見失って以来、強くなることよりも、まず自分の意思で止まれるようになることを大切にしてきた。
だからこそ、その朝の出来事を、彼は後になってもうまく説明できなかった。
──
「トーマ!」
城の訓練場へ入ると、砂を蹴る音とともにレナが駆け寄ってきた。勢いよく走っていた彼女は、トーマの数歩手前で踵を滑らせ、両足を踏み替えてぴたりと止まる。細かな砂が靴の周りに広がったが、上体はほとんど揺れていなかった。
「どうだ! 止まれたぞ!」
「上手くなったな。前よりずっと安定してる」
「もっと褒めていいぞ!」
「かなり上手くなった」
「よし!」
レナは満足そうに拳を握った。少し離れた場所で準備運動をしていたミアも手を振る。
「レナ、今のすごかったぞ!」
「昨日より二歩短い」
ユナが何気なく付け加えると、レナはますます嬉しそうになった。
「二歩もか! そうだろう、そうだろう!」
訓練場の端では、ノアが手のひらほどの小さな防御膜を浮かべていた。厚みを変えるたびに膜の表面が淡く揺れ、隣に立つロイドが魔力の流れを記録している。ソルは離れた一角で剣を納めたところだったが、こちらの騒ぎには気づいているようだった。
レナはトーマの持つ短棒を見つけると、目を輝かせた。
「今日は私と訓練しよう!」
「また走る訓練?」
「違う! 戦う訓練だ!」
「俺と?」
「そうだ! 大会の後から、トーマは前より強くなったってロイドが言ってた!」
「正確には、動作の習得速度が上昇していると説明しました」
ロイドは記録板から顔を上げた。
「同じだ!」
「かなり違います」
以前なら相手の出方を待たずに飛び出していただろうが、今はトーマの返事を待っていた。大会で負け、何度も訓練を重ねるうちに、彼女なりに変わったのだ。
「危なくなったら、すぐ止める。それでよければ」
「もちろんだ!」
トーマが答えると、ロイドは記録板を抱えて二人の間に入った。
「では模擬戦として行います。有効打を三度取った方の勝利です。ただし、打撃は寸止め。関節への負荷が大きい技も禁止します。危険があれば私の判断で直ちに中断します」
「先に三回触ればいいんだな!」
「正確には、有効な攻撃を」
「分かった!」
「……回数だけは合っていますね」
ミアが笑い、ユナは静かに首を振った。ノアは防御膜を消してトーマに近づく。
「トーマ、無理しないでね」
「ああ。勝ち負けより、ちゃんと動けるか確かめたい」
「うん。私も見てるから」
ソルが二人を見た。
「レナ。速さに任せて突っ込むな」
「分かってる!」
「トーマ。相手の動きをよく見ろ」
「分かった」
当たり前の注意だった。そのはずなのに、トーマは短棒を握り直したとき、指に奇妙な馴染みを覚えた。自然と握る位置まで変わっていた。
──
「始め」
ロイドの声が落ちた瞬間、レナが地面を蹴った。
最初の数歩は真っ直ぐだった。だが、トーマが正面へ短棒を向けると、レナは右足を軸に鋭く方向を変え、彼の左側へ回り込む。以前なら勢いが余っていた切り返しだったが、今は次の一撃へ繋ぐための踏み込みになっている。
「一回!」
レナの手刀が肩へ迫った。トーマは短棒を持ち上げようとして、間に合わないと思った。
その瞬間、膝が沈んだ。
手刀は頭の上を抜け、髪をわずかに揺らす。避けようと考えるよりも早く、身体が動いていた。自分がなぜその姿勢を取ったのか理解できないまま、トーマは目を見開く。
「え?」
レナも驚いたが、攻撃は止めなかった。振り抜いた腕を畳み、今度は肘を背中へ落とそうとする。視線は追いついていない。それなのに、トーマの右手は短棒を背後へ回し、肘の進路を塞いだ。
乾いた音が響く。
「うわっ!」
レナは弾かれた腕を引き、後方へ跳んだ。トーマも一歩退いたが、背中に冷たい汗が流れていた。肘が来る場所を見たわけではない。音を聞いて判断したとも思えなかった。ただ、そこへ来ることを知っていた。
「今のどうやったんだ!」
「……分からない」
「もう一回やれ!」
「分からないって」
「じゃあ私がもう一回攻撃する!」
レナは楽しそうに笑っている。トーマは答える間もなく、次の踏み込みを受けた。
正面から見せかけて右へ、さらに左へ。レナが新しく覚えた緩急は見事だった。彼女の姿を目で追おうとすれば間に合わない。トーマは無意識に視線を下げ、砂を踏む足と、肩が向く方向を捉えた。
息を短く吸う。短棒の先が低く落ちる。
レナの軸足が移る直前、トーマは棒を砂へ軽く突き立て、彼女の進路を横切らせた。
「えっ?」
レナは咄嗟に足を上げた。棒に引っかかって転んだわけではない。だが、踏み込むはずだった一歩を失い、身体がわずかに浮いた。トーマの左手がその手首に触れ、勢いを横へ逃がす。レナは受け身を取って砂に転がり、起き上がるより早く短棒の先が肩のすぐ手前で止まった。
「有効打、一」
ロイドの声が聞こえた。
トーマは手を離し、レナの顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「大丈夫! 今の、何だ?」
「……俺にも分からない」
手首に触れたときの角度、相手の勢いを逃がす方向、受け身を取れるだけの余裕。どれも初めて試したはずなのに、間違える気がしなかった。そのことが、勝った事実よりも気になった。
「もう一回!」
レナが跳ね起きると、ロイドが片手を上げた。
「待ってください。今の動作を確認します」
「後でいい!」
「よくありません」
ソルが近づいてきた。彼女はトーマの手首と足の位置を見てから、ロイドに言った。
「続けさせろ。ただし、速度は上げるな。もう一度同じことが起きるか見たい」
ロイドは少し迷ったが、二人の呼吸が整っていることを確かめると頷いた。
「次に危険な動きがあれば、そこで終了します」
「分かった!」
レナは今度こそ、しっかり返事をした。
──
二度目の攻防では、レナはすぐに仕掛けなかった。距離を保ったまま周囲を回り、何度も足を止めては方向を変える。トーマが短棒を動かすたびに間合いを測り直し、簡単には踏み込まない。
トーマはその慎重さに、むしろ戸惑った。レナが動き出す瞬間を待っていると、視界に入りきらない位置から砂を蹴る音がする。以前なら慌てて振り返っていたはずだった。
しかし今は、振り返るより先に身体が半歩前へ出た。背後から伸びてきたレナの拳が空を切る。トーマは反撃しようとして、右腕がすでに上がり始めていることに気づいた。
まずい、と思ったときには短棒がレナの胸元へ向かっていた。
彼は咄嗟に手首を緩める。棒の先は寸前で止まった。レナも足を止めたまま、目の前の短棒を見下ろしている。
「……二回目、です」
ロイドの判定には、先ほどまでとは違う緊張があった。
「トーマ、今のは止められたな」
ソルの問いに、トーマは頷いた。
「ああ。でも、途中まで自分で動かしてなかった」
「分かった。続けるなら、自分が何をするか意識しろ」
「……やってみる」
レナは短棒の先を見たあと、深く息を吐いた。
「まだ二回だな。次は私が取る!」
彼女は速度だけに頼らなかった。正面から一度踏み込んで止まり、トーマが反応した瞬間に横へ跳ぶ。短棒で拳を受けられると、次は低い蹴りで足元を狙った。トーマは軸足を引いて避けたが、その着地に合わせてレナが肩を押し込んでくる。
初めて体勢が崩れた。
「取った!」
レナの手が胸へ伸びる。トーマも、今度こそ避けられないと思った。
だが、左手が勝手に動いた。相手の腕を掴み、膝を曲げて懐へ入り、押し込まれた力を真下へ落とす。彼が習ってきた短棒の受け方とは違う、素手で相手を制する動きだった。
レナの膝が砂に触れた。トーマは彼女の肩を押さえかけ、そこへかかる力にぞっとした。これ以上続ければ、訓練で許される範囲を越える。その怖さに指を緩め、短棒の先だけを首元から離れた位置へ向けて止めた。
「そこまで!」
ロイドが二人の間へ踏み込んだ。
「三回目の有効打を認めます。勝者、トーマ」
トーマはすぐに手を放した。レナは一瞬だけ膝をついたままでいたが、顔を上げると、驚くほど明るい声を出した。
「すごい!」
「……負けたのに嬉しいのか?」
「悔しい! でも、すごいものはすごい!」
レナは立ち上がって砂を払い、トーマの肩を叩きかけて、その表情を見て手を止めた。
「トーマ。勝ったのに、嬉しそうじゃないな」
答えようとしても、うまく言葉にならなかった。彼女を倒せたことよりも、最後に自分の手がどこへ力を加えようとしていたのか、そればかりが頭に残っている。
「……俺、あの動きは知らないんだ」
ソルが静かに尋ねた。
「今の技を、誰に習った」
「誰にも。……たぶん」
「たぶん?」
「考える前に動いた。どうすれば倒せるか、身体だけが知ってたみたいで」
ロイドは記録板へ視線を落とした。
「以前の試合で見た技術に似た部分はあります。ですが、どれも同じではありません。まして、これほど自然に組み合わせられるとは……」
トーマは短棒を見つめた。握り方を少し変えるだけで、知らない使い方がいくつも浮かんでくる。
忘却の剣に意識を奪われたときのことを思い出した。あのときは、自分が何をしているかさえ分からなかった。今日は違う。何が起きているか分かっているし、止めようとも思えた。けれど、その違いだけで安心してよいのか、トーマには判断できなかった。
「もう一度、確かめたい」
「駄目です」
ロイドは即座に答えた。
「あなたの呼吸が乱れています。今は勝敗より状態確認を優先します」
「俺は大丈夫だ」
「その『大丈夫』を確認するのが私の仕事です」
「ロイドの言う通りだ!」
レナまで頷いた。
「私ももう一回やりたいけど、トーマの顔が変なんだ。まず休め!」
トーマは思わず苦笑する。普段は止められる側の彼女にまで心配されるとは思わなかった。
そのとき、ノアが小走りで近づいてきた。彼女は胸元に片手を当て、もう片方の手でトーマの袖を掴む。
「トーマ……」
「ノア。どうした?」
「分からないの。さっき、トーマが動いたとき……胸の奥が、引っ張られるみたいになって」
「痛いのか?」
「ううん。痛くない。でも、遠くから誰かに呼ばれたような気がしたの」
ロイドの表情が引き締まった。
「声が聞こえたのですか?」
「声じゃないと思う。言葉も分からなかった。ただ、知ってる感じがして……怖かった」
ノアの指先は冷たかった。トーマはその手を包み、彼女が落ち着くまで待った。自分の知らない動きがノアの不安まで呼び起こしたのかもしれない。そう考えると、急に胸が苦しくなった。
「……ごめん」
「謝らないで」
ノアは小さく首を振った。
「トーマが悪いって決まったわけじゃないよ。私も、ちゃんと知りたい」
彼女の声は震えていたが、その手は離れなかった。
──
医務室での検査に、異常を示す数値は現れなかった。
トーマの筋力や魔力量が突然増えたわけではなく、外傷もない。ノアにも熱や魔力暴走の兆候は確認できなかった。ロイドは結果を読み上げたあと、模擬戦の記録を机へ広げ、訓練場で撮った動作の記録と照らし合わせていた。
「最初の回避ですが、攻撃が当たる位置を十分に確認する前に身体が沈んでいます。その後も、普通なら反応が遅れるはずの角度へ、先回りした動きが見られました」
「偶然じゃないのか?」
レナが尋ねた。
「一度ならそう考えます。三度とも異なる状況で起きていますから、単純な偶然と片づけることはできません」
「俺、急に強くなったってことか?」
「そうとも言い切れません」
ロイドは首を振った。
「レナが訓練用の出力を守っていたこと、あなたが最後に動きを止められたこと、どちらも結果に関わっています。実戦で同じことができるとは限りません。それに、技術の由来が不明なままなのは問題です」
レナは少し残念そうに口を尖らせたが、すぐに胸を張った。
「じゃあ、もっと速くなればいいな!」
「同じことを繰り返す前に、今日の負け方を考えて」
ユナが返すと、レナは真面目な顔で頷いた。ミアまで隣で何度も頷いているのが、少しおかしかった。
ソルは壁際に立ち、しばらく黙っていた。
「トーマ」
「何だ?」
「次は私が相手をする」
ロイドがすぐに顔を上げる。
「ソル。今日のところは」
「今日ではない。準備ができてからだ」
ソルは落ち着いた声で続けた。
「レナの速さへの対応だけでは、何を覚えているのか分からない。別の剣筋を見せれば、反応も変わるかもしれない」
「危険があるなら、中止しますよ」
「分かっている。私が止める」
そう答えた彼女を見た瞬間、トーマの視線が勝手に動いた。腰の剣、肩の位置、踏み込める距離。ソルがまだ何も構えていないのに、どこへ入れば剣を避けられるかという考えが、次々と浮かんでくる。
そのうちの一つが、彼女の腕を強く折る形に繋がると気づき、トーマは思わず目を逸らした。
「今、何を見た」
ソルが尋ねた。
「……何も」
「違う。私の動きを読もうとしていた」
「考えてないんだ。考えたくもなかった」
ソルの目が細くなる。剣士としての警戒と、教える側の慎重さが同時に浮かんでいた。
「なら、なおさら確かめる必要がある。ただし、今は休め」
ロイドは記録板を閉じた。
「次の訓練は条件を決めてからです。トーマもノアも、今日は無理をしないこと。何か思い出したり、身体に違和感が出たりした場合は、必ず報告してください」
「分かった」
トーマが答えると、ノアも小さく頷いた。彼女の顔色は少し戻っていたが、袖を掴んだ手だけはまだ離れていなかった。
──
夜になって、トーマは自室の机に向かった。
開いた記録帳には、テリア王国での合同訓練を書き留めたページが残っている。ミアとキリカの言い争い、メルの笑い声、ルチアとフィナのやり取り。読み返すと、あの夕暮れの砂の匂いまで思い出せる気がした。
その次の白いページに、彼は今日の出来事を書き始めた。レナと三度打ち合い、三度とも有効打を取ったこと。レナの動きが以前よりずっとよくなっていたこと。そして、自分は習った覚えのない技を使ったこと。
筆を止めて、左手を見る。
同じ手だ。短棒を握り、仲間と食事をし、今日の記録を書く手。それなのに、戦いになった途端、自分の知らない動きがそこから現れる。
「……俺は、何を覚えているんだろうな」
誰に向けたでもない問いが、部屋の静けさに落ちた。記録帳に答えはない。彼はしばらく迷ったあと、最後の一行を書き足した。
『勝てたことより、止められたことを覚えておきたい。』
窓の外で、風が枝を揺らした。
トーマが顔を上げたとき、黒い羽根のようなものが一瞬だけ夜空を横切ったように見えた。立ち上がって窓を開いたが、そこにあったのは静かな庭と、遠くの城壁だけだった。
見間違いかもしれない。それでも、テリア王国の訓練場で見た黒い影が頭をよぎる。
彼は窓を閉め、記録帳へ戻った。今ここにいる自分を確かめるように、仲間の名前を順に書いていく。ノア、ミア、ユナ、ロイド、レナ、ソル。今日も全員が無事だった。その事実を、今は何より大切に思った。
──
同じ夜、ノアもなかなか寝つけずにいた。
胸の奥に残る感覚は、痛みでも魔力の乱れでもなかった。トーマがレナの腕を取った瞬間、知らない場所から自分の名前を呼ばれたような気がした。それが本当に誰かの声だったのかさえ、今では分からない。
ノアは寝台の上で膝を抱えた。手を伸ばし、小さな守りの膜を浮かべてみる。自分で「帰星」と名づけた、帰る場所を見失わないための光。膜はいつもどおり淡く輝くだけで、何かを教えてはくれなかった。
「……トーマ」
名前を口にすると、少しだけ息が楽になった。
目を閉じかけたとき、ふいに知らない景色がよぎった。崩れた塔と、暗い空。遠くに立つ誰かの背中。その手には、見覚えのある黒い鞘があった。
けれど、振り返った顔は見えない。トーマだったのか、それとも別の誰かなのか、判断できるほど長い光景ではなかった。
ノアが目を開けると、そこは見慣れた寝室だった。防御膜は手のひらの上で静かに揺れている。
「……誰?」
問いに答える声はなかった。
ノアは膜をそっと消し、毛布を引き寄せる。怖さはまだ残っていた。それでも、明日になったらトーマに話そうと決めた。分からないものを、一人だけで抱えていたくはなかった。