第五十話 見知らぬ自分の足音
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あらすじ
遺した記録、貴方の記憶、その手で全て解き明かして。
本文
トーマとソルの訓練は、約束した翌日には行われなかった。
医務室での検査を終えても、ロイドが許可しなかったからだ。身体に怪我はなく、魔力量にも筋力にも急激な変化はない。にもかかわらず、レナとの模擬戦では、習った覚えのない技を迷いなく使っていた。ソルを相手にすれば、ほんのわずかな判断の遅れが大きな事故に繋がる。
「私も確かめる必要はあると思っています。ですが、今すぐ剣を交える理由にはなりません」
朝の記録室でロイドはそう言い、訓練計画を机の上に広げた。紙には時刻と担当者、使用する器具、それぞれの中止条件まで細かく書き込まれている。
「ずいぶん準備したんだな」
「昨日の結果を見てから、必要だと判断しました。トーマ、あなたは何をしようとしたか分からないままレナの関節を押さえました。止められたのは大切なことですが、次も同じように止められる保証はありません」
トーマは言い返せなかった。あのとき掌に残った感触を、今でも鮮明に覚えている。レナの身体を崩す角度も、あと少し力を加えれば肩を傷めると分かった瞬間も、自分が考え出したものではなかった。
机の反対側で話を聞いていたソルが、短く頷く。
「では、何をする」
「まずは反応の順序を調べます。敵を倒す訓練ではなく、動くものを見て避ける訓練です」
「それなら私も参加できる?」
ノアが問いかけた。前夜はうまく眠れなかったらしく、目元に少し疲れが残っている。それでも、トーマを一人にしたくないという気持ちが声に表れていた。
「もちろんです。ただし、ノアさんも異変があれば知らせてください。自分の感覚を無理に思い出そうとする必要はありません」
ノアは頷いた。トーマは彼女へ視線を向け、昨日の夜に見たものを話してくれたことを思い出す。崩れた塔、暗い空、黒い鞘を持つ誰かの背中。夢と呼ぶには短く、記憶と呼ぶには曖昧な景色だった。
「俺の動きに何か関係があっても、分からないうちは決めつけないでおこう」
「うん。私も、そう思う」
ロイドは二人を見てから記録板を閉じた。
「では始めましょう。今日は、勝つ必要のない訓練です」
──
訓練場には、柔らかな布を巻いた球が十個並べられていた。ミアが試しに一つを拾い、軽く投げてみると、球は砂の上で小さく跳ねた。
「これなら当たっても痛くないな!」
「だからといって、顔を狙っていいわけじゃない」
ユナが球を受け取る。糸を使って球の軌道を操る役目は彼女だった。レナは投球位置に目印を置き、ソルは壁際から全体を見ている。トーマは短棒を持たず、訓練場の中央へ立った。
「避けられた数より、どの瞬間に動き始めたかを重視します」
ロイドの合図で、最初の球が飛んだ。トーマは肩を引いて避ける。二つ目は足元へ、三つ目は胸の高さへ。四つ目を避けたところで重心が崩れ、続けて来た球が腕をかすめた。
十個のうち、避けられたのは六個だった。
「そんなものか?」
レナが少し意外そうに言った。
「昨日は私の攻撃を全部かわしたのに」
「人が動くのと球が飛ぶのとじゃ、違うのかもしれない」
トーマは息を整えながら答えた。自分でも、その違いが何なのか分からない。ただ、球には肩も足もなく、次に何をするか読み取る手掛かりが少なかった。
二日目は八個。三日目には十個すべてを避けた。ロイドは毎回、球の位置も順番も変えていた。ユナが糸を引く強さも一定ではない。それでもトーマの足運びは日ごとに小さくなり、無駄に跳ねることがなくなっていった。
四日目、ロイドは球を十三個に増やした。正面から五つ、左右から三つずつ、背後から二つ。時間差をつけて投げれば、一つを避けた先に別の球が来る。
「全部避けられなくても、止まらずに最後まで動いてください」
「分かった」
「行くよ」
ユナの指が動いた。細い糸に導かれた球が、いくつもの方向からトーマへ向かう。
最初の二つを見たところで、視界の端に次の軌道が入った。右へ逃げれば左からの球に当たる。前へ出れば背後の球が肩を打つ。そう考えたはずなのに、足はもう半歩右へ動いていた。
頭を下げ、左肩を引く。足元の球を跨いだ勢いで身体を横へ滑らせる。背後からの二つは振り向かず、その間に生まれる狭い隙間を通った。
最後の一つが頭上から落ちる。
トーマは見上げなかった。伸ばした右手で球を受け止めたとき、ようやく自分の足が止まっていることに気づいた。
「全部避けたぞ!」
ミアが両腕を上げた。レナも思わず一歩踏み出し、ユナは動かしていた糸をゆっくり緩めた。
「昨日より速い」
「私のときより動きがいい!」
嬉しそうな声が重なったが、トーマは手の中の球を見ていた。最後の球を掴んだ位置は、自分の目には映っていなかった場所だ。
「もう一度」
ロイドが言った。
「同じ数です。ただし、順番を変えます」
結果は同じだった。二度目も一つも当たらなかったが、トーマは一度目と同じ場所を通らなかった。球が飛んでくる先へ身体を逃がすのではなく、球の通り道が重ならない場所へ、先に隙間を作っているようだった。
「初日は、球を見てから避けていた」
ソルが壁から離れた。
「今日は違う。来る場所を知っている動きだ」
「予測が上手くなったということでしょうか」
「それだけなら、見えない球は掴めない」
ロイドは記録板へ目を落とした。ユナが動かした糸には目立った乱れがなく、あらかじめ決まった順番をトーマに教えた者もいない。
「俺が、どこに来るか知ってたってことか?」
「お前ではない」
ソルはトーマの足元を見た。
「身体が、だ」
トーマは球を握り直した。その言い方が、昨日から胸に刺さっている。身体だけが知っている。では、自分の知らないところで、いったい誰がそれを覚えたのだろう。
──
「もう一度構えろ」
ソルが目の前に立った。腰の剣には手を触れず、右手を軽く上げる。
「今度は私が触れる」
「ソル。直接訓練はまだ許可していません」
ロイドの声がすぐに飛ぶ。
「攻撃ではない。触れるだけだ」
「あなたがそう言って、攻撃にならなかったことが何度ありますか?」
ソルは少し考えた。
「少ない」
「自覚があるなら控えてください」
レナは二人の間を見比べ、落ち着かない様子でいる。
「俺はやってみたい」
トーマが言うと、ロイドの眉が寄った。
「あなたも簡単に受け入れないでください」
「危なくなったら止める。昨日も止められたから」
「それが次もできるか調べているのです」
言い返せなくなったトーマへ、ソルが目を向ける。
「十秒だ。互いに武器は持たない。私から触れるだけにする」
ロイドは深く息を吐いた。ソルが立つ位置を確認し、距離を三歩に定める。ノアには防御膜を用意してもらい、ユナとレナには外側で待つよう指示した。
「強化魔法も攻撃も禁止です。私が止めたら、理由を聞く前に離れてください。十秒で必ず終了します」
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「その返事、流行しているのですか?」
ソルは答えなかった。トーマは思わず少し笑ったが、緊張が消えたわけではない。ソルの目の前に立つと、さっきまで握っていた球の感触さえ遠のいた。
「始めます」
ソルの右手が、ゆっくりとトーマの肩へ伸びた。
戦闘とは呼べないほど緩やかな動きだった。避ける必要すらないはずなのに、左足が後ろへ下がる。上体が捻れ、伸びてきた手の外側へ身体が移った。右手はソルの手首へ触れ、ほとんど力を入れずに進路を変えていた。
ソルの左手が胸元へ向かう。トーマはその下へ入り、肩を彼女の脇へ差し込んだ。腰を落とせば相手を前へ崩せる位置だったが、ソルが足を踏み替えて距離を保つ。
「三秒」
トーマの背後へ回ろうとするソルへ、肘が自然に上がる。首筋を守った動きからそのまま腕を絡めようとしたとき、彼は自分の指が関節の向きまで把握していることに気づいた。
「五秒」
ソルが一歩引けば、トーマも一歩出る。彼女が右へ回ると、反対側から進路を塞ぐ。足が地面に着く前の小さな重心移動を、頭より先に身体が拾っていた。
「七秒」
ソルの表情から、わずかな余裕が消えた。次の瞬間、彼女の指が速度を増した。額に触れるだけの一手だが、初めの動きよりはるかに速い。
トーマは避けなかった。
両足の幅が自然に狭まり、腰が起きる。両手を身体の前へ軽く出した。拳は握らず、指先にも力が入っていない。短棒を持つ構えでも、誰かに教わった防御の姿勢でもなかった。
右の掌が、ソルの胸元へ向く。
ソルの足が止まった。彼女の指はトーマの額まであとわずかの距離にある。触れようと思えば届く。なのに、それ以上踏み込まなかった。
「十秒! 終了です!」
ロイドの声で、トーマは我に返った。自分の手がどこへ向いているのか、初めて気づいたように見下ろす。
「今、俺……何をしようとした?」
「それを聞きたいのは私だ」
ソルは数歩下がった。呼吸は乱れていないが、視線だけはトーマの掌から離れない。
「魔法だったのか?」
「通常の術式は確認できませんでした」
ロイドが答える。
「それでもソルさん、止まった」
ユナの声に、レナが目を見開いた。ソルは首を振る。
「止まったのではない。止まるべきだと思った」
「なぜだ?」
トーマが尋ねると、ソルはすぐには答えなかった。
「死ぬとは思わなかった。だが、あのまま触れていれば、何かを壊されていた気がした」
「何を?」
「分からない」
それ以上、誰も言葉を続けられなかった。トーマが掌を下ろすと、ソルの肩からもようやく力が抜けた。何も放たれていない。傷も残っていない。それなのに、彼女が危険を感じたという事実だけが、訓練場に残っていた。
──
ノアが膝をついたのは、その直後だった。
「ノア!」
トーマが駆け寄るより早く、小さな防御膜が彼女の肩の前で揺れた。膜はすぐに消え、ノアは胸元を押さえたまま深く息を吸う。ユナが隣にしゃがみ、ロイドも記録板を置いて近づいた。
「痛むところはありますか?」
「ううん……違うの。さっきの構えを見たら、また、あの感じがして」
トーマは彼女の前に膝をついた。
「昨日と同じ?」
「少し違う。昨日は分からないのが怖かった。でも今は……知ってる気がする」
「どこで見たんだ?」
ノアは目を閉じた。答えを探すほど、遠くの景色が指の間からこぼれていく。顔の見えない背中、伸ばされた手、それを見上げていた自分。けれど思い出そうとすると、そこにいたはずの人の輪郭が薄れてしまう。
「分からない。でも、怖くないの」
「怖くない?」
「うん。安心する。……でも、悲しい」
トーマの胸が詰まった。自分の手を見て、ノアが安心する理由が分からなかった。ソルが何かを壊されそうだと感じたのと、彼女が抱いた懐かしさ。その二つが同じ姿勢から生まれたとは、とても思えない。
「その向こうにいる人が、いる気がするの」
「人?」
「今のトーマじゃない、誰か。でも、トーマと関係ない人でもない気がして……」
ノアの声が小さくなる。トーマは答えを急がせず、彼女の手を包んだ。冷えた指が少しずつ温かくなるまで、二人はそのままでいた。
「変なこと言ってごめんね」
「謝らなくていい。俺だって、自分の動きを説明できないんだから」
ノアはほんの少し笑った。それから、トーマの右手へそっと触れる。
「その手、怖くないよ」
「……ソルは、何かを壊す手だって思ったみたいだ」
「でも、それだけじゃない」
ノアは顔を上げた。
「壊すためだけの手じゃない。……忘れないで」
なぜそう思ったのか、彼女自身にも分からなかった。ただ、今それを言わずにいたら、大事なものを一つ置き去りにしてしまう気がした。
トーマはその言葉を胸の中で繰り返した。知らない戦い方が自分の中にあるとしても、今ここで誰に触れ、誰を守るかまで、過去に決めてもらう必要はない。
「分かった。俺も、忘れない」
ソルは二人を見てから、ロイドへ向き直った。
「続きは後だ」
「今日は終了です」
「次は武器を持つ」
「続きは後と言った直後に、何を決めているのですか」
「確認が必要だ」
「必要でも、今は許可しません」
ロイドが言い切ると、ソルは少しだけ不満そうな顔をした。それでもノアの様子をもう一度確かめ、黙って頷いた。
──
その後の訓練は、さらに細かく管理された。
レナとの再戦では、互いに許された速度だけで動き、トーマは二十秒ほどの間に三度の有効打を取った。しかし、レナの足を払おうとした瞬間、自分から動きを止めた。彼女がまだ体勢を立て直していないことに気づいたからだ。
「今なら取れたぞ!」
「取れたけど、危なかった」
「そっか。じゃあ私も、もっと上手く止まる!」
レナは悔しがりながらも笑った。その日の記録には、勝敗より先に、トーマが自分で攻撃を取りやめたことが書き込まれた。
ユナの糸を避ける訓練では、目を閉じたまま十六本のうち十五本をかわした。最後の一本が左手首に巻きつくと、トーマは思わず息を吐いた。ユナも糸を解きながら、少しだけ肩の力を抜く。
「全部避けなくてよかった」
「どうして?」
「避けられないものがあるって、分かるから」
トーマはその意味を考えた。失敗できるなら、そこには自分の知らない限界がある。限界があるなら、気をつけることもできる。何もかも無意識にこなせてしまうより、その方が今は救いだった。
ロイドは戦う相手のいない試験も用意した。崩れかけた建物から人を助けるにはどう動くか。敵が降伏したとき、味方をどこへ置くか。退路を塞がれた場合、誰を先に逃がすか。
トーマは配置を考える前に立つ場所を選べた。守る対象を背後に固めず、横へ逃げられる道を残し、敵役の人形が近づく方向を自然に塞いだ。ロイドは何度も条件を変え、ミアやレナにも別の動きをさせたが、そのたびにトーマは新しい位置を選び直した。
「戦い方だけではないですね」
ロイドが記録板を見つめる。
「集団で動くときの判断まで、以前とは違っています」
「俺、そんなこと習った覚えはない」
「覚えがないことと、経験していないことは別です。ですが、今はどちらとも断定できません」
遠くから射撃を受ける想定では、短棒で弾くより先に壁や地形を使って射線を外した。大きな盾を持つ相手に見立てた人形には、正面から力を競わず、重心が動いた瞬間だけ横へ踏み込んだ。幻影を混ぜた訓練では、見た目ではなく、砂の沈みと風の向きから本当の位置を探した。
「それ、私のやり方だ!」
レナが嬉しそうに言い、ミアは「私も知ってるぞ!」と張り合った。トーマも、仲間から教わったことが役立ったのだと思うと少し嬉しかった。
けれど、ロイドは簡単には頷かなかった。初めて見る動きを一度で覚えるだけなら、優れた観察力と呼べるだろう。トーマはそこからさらに、別の技と結びつけ、元から知っていたかのように使ってしまうのだ。
訓練の終わりに、ソルが短棒を片づけるトーマへ近づいた。
「何を覚えているのか、少し分かったか」
「いや。できることは増えたけど、誰に教わったのかは分からない」
「私にも、まだ分からない」
ソルは珍しく、言葉を選ぶように間を置いた。
「お前の動きには、誰かの背中を追って身につけたような癖がある。だが、追いつこうとする動きではない。最初から、その場所に立っていた者の動きに見える」
トーマは返事ができなかった。遠いところに立つ誰かの背中を、ノアは見たと言っていた。自分はその人を知らないのに、足だけが知っているのだろうか。
「次は剣を持って試す?」
トーマが尋ねると、ソルは首を振った。
「ロイドが許すまではしない。それより、お前が自分で動きを選べるか確かめろ」
その言葉を聞いて、トーマは少しだけ安心した。相手がソルだからこそ怖いのではなかった。ソルが自分と同じように、知らない力よりも今の判断を大切にしてくれることが分かったからだ。
──
夜、トーマは記録帳を開き、今日の失敗を書き足していた。
十三個の球を避けたことより、一本の糸に捕まったこと。知らない技を使ったことより、危ないと思って手を止められたこと。その順番に書き直すと、同じ一日の記録が少し違って見えた。
扉が控えめに叩かれ、ノアが顔を覗かせた。眠る前に、今日の様子を聞きに来たのだという。トーマが席を空けると、彼女は椅子へ座り、机の上の記録帳を眺めた。
「自分で止めたこと、ちゃんと書いてるんだね」
「ああ。勝ったことだけだと、また同じことをしそうだから」
「私は、今日の手のことを忘れたくないな」
「壊すためだけの手じゃない、って?」
「うん」
ノアは頷き、窓の外へ目を向けた。星は雲の間から少しだけ見えていた。昨日と同じ夜空なのに、彼女はもう、見えない誰かの背中を探そうとはしなかった。
「分からないことは、明日も分からないかもしれないね」
「そうだな」
「でも、今日のことは覚えていられる」
トーマは記録帳の余白に、もう一行書き加えた。『ノアが、俺の手を怖くないと言った』。自分だけが知らない昔のことを、無理に追いかける必要はない。いつか向き合わなければならないとしても、今の仲間に背を向けてまで確かめることではなかった。
廊下へ戻るノアを見送ったあと、トーマは右手を持ち上げた。掌を開いても、そこから何かが放たれる気配はない。机の上の灯りが、指の間を静かに照らしている。
自分の知らない誰かの動きを、身体が覚えている。けれど、その手をどう使うかだけは、これからも自分で決めたい。
そう思いながら、トーマは記録帳を閉じた。