第五十三話 塔に響く一言
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あらすじ
遺した記録、貴方の記憶、その手で全て解き明かして。
本文
北西の荒野を越えた先に、三国のどの地図にも描かれていない谷があった。
切り立った岩壁に囲まれた谷底には、都市が広がっている。街道が門へ続き、民家と尖塔を持つ建物が並び、石橋が水のない運河を跨いでいた。城壁の内側には市場や広場まであったが、そこに人影は一つも見えない。
昼の光が雲の隙間から降りても、都市の色は変わらなかった。建物を造る石そのものが黒いわけではない。壁面や屋根に張りついた薄い影が光を吸い込み、窓の奥を見通せなくしている。旗も、店先の吊り看板も、動かなかった。
街道の脇には馬車が止まっていた。手綱は地面へ落ち、荷台には空の木箱が積まれている。車輪は轍に沈んでいる。だが馬を繋いだ痕跡はなく、車の周囲にも足跡がない。
市場の台には皿や秤が並んでいた。どれも整然としている。別の通りでは、家の戸が半ば開いたままになっていた。内側には食卓があり、椅子が四脚置かれ、そのうち一脚だけが引かれている。食器には埃さえ積もっていなかった。
壁に掛けられた肖像画は、顔の部分だけが暗く滲んでいた。机に伏せられた手紙には宛名を書くための空白があり、封をする蝋まで残っている。それなのに、差出人を示す文字はない。書棚の本を開けば紙はどれも白く、頁を繰る音だけが、住人のいない部屋に乾いて響いた。
暮らしの形だけが、残されている。
都市を放棄したのか、住人がどこかへ去ったのか。片づけられなかった物が多すぎた。そして人々が突然消えたのだとしても、彼らがここにいたことを伝える記録まで失われた理由が分からなかった。
街の中央には、水の涸れた噴水広場があった。石畳の中央に立つ像は剣を握る姿をしていたが、右手の窪みに肝心の剣はない。削り取られた傷はなく、頭部の前面は最初から形を与えられなかったように滑らかだった。
足元の銘板には黒い染みが広がっている。読める文字はほとんどなく、隅に一字だけが残っていた。
零。
その字の上を、黒い羽根が舞った。風もないのにゆっくりと回り、石畳へ触れると、濡れた紙の文字が消えるように輪郭を失った。
同時に、鐘が鳴った。
低く重い音が空の通りを渡り、閉まった窓の向こうまで響いていく。二度目の鐘で建物の影が僅かに動き、三度目には路地の壁に、誰かが手をついたような黒い跡が浮かんだ。四度目、広場に落ちていた本の頁に文字が現れた。
『忘れろ』
その命令は、次の瞬間には白紙へ戻っていた。
五度目の鐘に応えるように、噴水の底から黒い水が湧き始めた。水は縁を越えて広場へ流れず、細い束となって空へ伸びる。何本もの流れが屋根を伝い、街の中心にそびえるひときわ高い建物へ集まっていった。
──
その建物は、街並みから浮いて見えた。細長い直方体を幾つも積み重ねたような外壁には無数の窓が開いていたが、そのどれにも明かりはない。地上の入口には扉の代わりに大きな円形の穴があり、縁には三国で使われるものとは違う古い記号が刻まれていた。
星に似た形、剣のように交差する線。途中で削られた文字の痕。何が記されていたかは分からない。
黒い水は外壁を昇り、屋上の縁で煙のようにほどけた。
その先に、一人の人物が立っていた。
黒い外套が全身を覆い、顔の大半を隠している。外套の奥では二つの赤い光が目のように揺れていたが、背丈も年齢も判然としない。右手には、古い鞘に収められた一本の剣が握られていた。
忘却の剣。
シェイン王城の封印室から消えた、あの剣だった。
剣の鞘には、記憶の中のものと同じ傷が走っている。封印が壊れた痕跡もないのに、今はこの人物の手にあった。剣の周囲には幾つもの影が集まり、人の腕や獣の頭に似た形を作っては崩れていく。黒い羽根も混じり、外套の裾を通り抜けていた。
影は剣を奪おうとしない。持ち主を襲う様子もない。まるで、その場から離れないように見張っているかのようだった。
人物はしばらく街を見下ろしていた。顔のない像、誰も歩かない道、何かを待つように開いた戸。その一つ一つを確かめるように、ゆっくりと首を動かす。
「変わらない」
声は低く、男とも女ともつかなかった。懐かしさを感じさせても、感情は読み取れなかった。
「何も、変わっていない」
鞘の中で剣が鳴る。人物の左手が持ち上がり、指先に青白い光が浮かんだ。薄い膜のような輪郭はノアの小さな守りの魔法に似ていたが、中心に暗い点があり、その光が何の術式なのかは分からない。
光の表面に、遠く離れた場所の景色が映った。
シェインの訓練場。レナの攻撃を避けるトーマ。ソルを前にして開かれた右の掌。胸元を押さえるノア。記録を取るロイドと、二人を見守る仲間たち。
次に現れたのは、地図を囲むベイル女王とガーネ、古い街道を指し示すカノン、鏡へ視線を向けるリンだった。場面が切り替わると、テリア女王の手の上で光の膜が揺れ、アリスの五色の魔法花が一斉に北西へ傾いた。
最後に、乾いた荒野に立つ赤い旗と、その脇にいる二人の姿が映る。
「集まり始めたか」
人物は囁き、指を僅かに曲げた。景色がひとつずつ砕ける。その間にも、外套の周りでは黒い羽根が増え続けていた。
「名前を持つ者」
光の欠片に、トーマが映った。
「名前を繋ぐ者」
ノアの顔が現れて消える。
「名を残す者。名を守る者。名を憎む者」
ロイド、テリア女王、セイレンの姿が、重なることなく順に揺れた。最後にルークが映ったとき、人物は言葉を止めた。赤い光が、その一点に留まる。
やがて左手を閉じると、青白い光は消えた。塔の上には、鞘の中で微かに鳴る剣と、影だけが残った。
──
荒野を覆っていた黒い雲が、ゆっくりと地面へ降りてきた。
セイレンは旗を横へ払った。昨日から地面に引いてあった赤い線が浮かび上がり、近づく影の前に壁を作る。ルークはその外側で大剣を振りかぶり、影が線に触れる瞬間を待った。
黒い塊が縮まり、腕のようなものを伸ばした。赤い線に触れると、表面に焼けたような亀裂が走る。セイレンが術式を狭めたところへ、ルークの大剣が振り下ろされた。
岩が割れるほどの一撃だったが、手応えは薄い。影は斬られた場所から黒い羽根にほどけ、剣の両脇で再び集まろうとする。
「二つに分かれる」
「見えてる!」
セイレンは旗を地面へ突き立て、左右へ伸びる進路を同時に封じた。ルークは剣を引き戻し、右へ寄った影を横薙ぎに払う。切り裂かれた羽根は今度こそ砂へ落ちたが、石の隙間に染み込むように消えていった。
二人とも、その場からすぐには動かなかった。消えても、危険が去ったとは限らない。
「もういない?」
「分からない。ここには見えないわ」
セイレンは呼吸を整え、足元の術式を確かめようとした。
そこで、異変に気づいた。
赤い線が消えている。戦闘で砕かれたわけではなかった。影が触れていない後方の線まで、地面から跡形もなく失われていた。砂の上へ残した旗の石突きの穴も消え、そこにいた証拠を探すことができない。
「……喰われた」
ルークがしゃがみ、砂に掌を押し当てる。手を離すと今つけたばかりの手形は残ったが、少し離れた場所には、先ほどまで二人が歩いていた足跡がなかった。
「私たちの跡がない」
「今つけたものは残る。消されたのは、それより前のものね」
セイレンは自分の旗を握り直す。布には傷があり、柄には使い込んだ跡がある。旗そのものは確かにここにある。にもかかわらず、それが立っていたことを示す地面の痕だけが消えていた。
「離れた場所から、こちらを見ているものがいるかもしれない」
「塔?」
「まだ塔と決まったわけじゃない。でも、方角は同じよ」
ルークは遠くの黒い雲を見上げた。
「行く?」
「ええ。先に行く」
「トーマより?」
「当然でしょう」
「競争?」
「違う」
「競争」
ルークはほんの少し笑った。セイレンはそれを否定する代わりに、赤い線を一本だけ引き直す。今度は足元ではなく、旗の柄へ細く巻きつけた。次に同じことが起きたとき、何が失われたか確かめるためだった。
「こちらが向かう前に、私たちの痕跡を消そうというのね」
「怒った?」
「ええ」
「殺す?」
「殺す。……その前に、正体は確かめるわ」
セイレンは旗を担ぎ、ルークが歩き出すのを待った。今ここで他国へ知らせを送っても、何を説明できるだろう。術式が消え、足跡がなくなった。それ以上の証拠はない。だからといって、三国の指示を待つ理由もなかった。
二人は並んで歩き出す。赤い旗の先が北西を指している。風は東から吹いているのに、旗の布はそれに逆らって張りつめていた。
──
同じ夜、トーマは見知らぬ街の夢を見た。
目の前には黒い家々が並び、道の中央に顔のない像が立っていた。噴水に水はなく、石畳には数え切れないほどの名前が刻まれている。どれも読めないと思ったのに、一つだけ自分の名前を見つけた。
トーマ。
その隣には、黒く塗りつぶされた文字があった。目を凝らせば分かる気がした。膝をついて指を伸ばすと、背後から声がした。
「まだ、振り返らないで」
白い服の少女が立っていた。顔は見えないが、小さな手が震えているのが分かる。少女はトーマではなく、通りの向こうにそびえる高い建物を見ていた。
「君は誰?」
返事はなかった。
「ここはどこなんだ?」
少女は首を振る。答えを知らないのか、答えられないのかも分からない。ただ、彼女が指差す先を見たとき、トーマは息を呑んだ。
高い建物の屋上に、黒い外套の人物が立っている。その手には鞘に収まった忘却の剣があり、足元から黒い羽根が舞い上がっていた。遠すぎて顔など見えないはずなのに、向こうも自分を見ている気がした。
「来てる」
少女の声はかすれていた。
「何が?」
「あなたの記憶」
「俺の?」
「違う」
少女は苦しそうに首を振った。
「あなたが、捨てた記憶」
その言葉を聞いた途端、トーマの右手が上がった。剣の柄を握るような形で指が曲がり、身体が勝手に塔へ向かおうとする。足を止めようとしても、次の一歩を踏み出す感覚だけが先に生まれた。
「駄目!」
少女が腕にしがみついた。細い指は冷たいのに、そこに触れられた瞬間、トーマはようやく自分の足を止められた。
「今はまだ。一人で来ないで」
「でも、あそこに剣がある」
「次は……」
言いかけた少女の手が、さらに強く震える。
「次は、戻れなくなる」
街の鐘が鳴った。遠い屋上から影が溢れ、通りの隙間を埋めていく。トーマは少女の手を握り返そうとしたが、その前に白い姿が黒い羽根に隠された。
「待って!」
伸ばした指は空を掴んだ。
耳元で、知らない声がした。
「思い出せ」
──
トーマは寝台の上で飛び起きた。窓の外はまだ暗く、机の魔法灯は消えている。息を吸うと喉が痛み、右手を開いたとき掌に赤い跡が残っていることに気づいた。
剣の柄を強く握り締めたような跡だった。寝ている間に何かを掴んだのかもしれない。だが部屋に剣はなく、枕元の短棒にも触れた様子はない。
トーマは水を飲もうとして、机の記録帳が開いているのを見つけた。眠る前に閉じたはずの頁だ。近づくと、昨日までなかった文字が黒いインクで書き込まれていた。
『始まりの都市へ。』
字の形は自分のものではない。書き込まれたばかりかどうかも分からず、インクには指で触れなかった。トーマは記録帳を持ち上げ、頁を閉じないまま扉へ向かう。
そのとき、隣室から悲鳴が聞こえた。
「トーマ!」
彼は足音を抑える余裕もなく廊下へ飛び出した。
ノアの部屋では、彼女が寝台の上で胸を押さえていた。近くの部屋で休んでいたミアとユナが先に駆けつけ、ユナは毛布を掛け直している。ミアは入口に立つトーマを見ると、慌てて場所を空けた。
「大丈夫か、ノア!」
「トーマ……私、見たの」
「何を?」
「誰もいない街。黒い家が並んでて、すごく高い建物があった」
トーマは一歩近づいた。同じ夢なのかもしれない。しかし、先に自分の見たものを教えてしまえば、ノアが何を見たのか分からなくなる。
「ほかには?」
「屋上に誰かがいた。顔は見えなかったけど、剣を持ってた気がする」
「……俺も見た」
ノアが顔を上げる。トーマは記録帳を開き、黒い文字を見せた。彼女はしばらくそれを見つめてから、自分の机へ視線を向けた。そこには魔法の訓練帳が開いていた。
『帰る場所は、ここではない。』
帰星の術式を書き留めた頁の下に、同じ黒いインクで一行が増えていた。
「誰が書いたんだ?」
ミアが尋ねたが、誰も答えられなかった。ユナは二冊の帳面の間へ細い糸を張り、触れずに距離を測る。文字から魔力が噴き出す様子は見えない。それでも、むやみに手でなぞるのは危険だった。
「ロイドさんを呼ぶ。今はそのままにして」
ユナが通信具へ手を伸ばす。ノアは帳面の文字を見つめ、ゆっくりと首を振った。
「違う」
「何が?」
「帰る場所。私は、ここでいい」
ノアはミアとユナを見て、それからトーマへ目を向けた。まだ涙が残っていたが、声ははっきりしている。
「みんながいるから。私が帰りたいのは、ここだよ」
掌に、小さな守りの膜が浮かんだ。ノアが帰星と名づけた光は、いつものように穏やかに揺れている。その光が黒い文字を消したわけではない。けれどノアは目を逸らさず、もう一度同じ言葉を口にした。
「ここでいい」
トーマは彼女の前に膝をついた。自分の記録帳に残された『始まりの都市へ』という言葉が、何かを急がせようとしているように思える。だがノアの顔を見れば、今すぐ一人で飛び出すことなどできなかった。
「一人で行かない」
「うん」
「夢も文字も、皆に話す。勝手に決めない」
「約束ね」
「ああ」
ノアはトーマの袖を握り、少し考え込んだ。
「ねえ、トーマ。あれは、こっちへ来るんじゃない気がするの」
「どういうこと?」
「待ってるの。私たちが行くのを」
窓の外には、夜明け前の暗い空が広がっていた。トーマは夢の街と、動き出そうとした自分の足を思い出した。少女が止めなければ、あのままどこへ向かったのだろう。
「……俺も、そんな気がする」
──
夜明け前の作戦室には、仲間たちが集まっていた。二冊の記録帳は机の中央に置かれ、ロイドが文字を写し取っている。原本を持ち出す前に、今の状態を複数の記録に残すためだった。
「同じ場所の夢を見たことは重要です。ただし、誰かが同じ映像を見せた可能性もあります。夢の内容だけで、現地に剣があると決めるわけにはいきません」
「でも、剣はあったんだ」
「夢の中には、です」
ロイドがそう返すと、トーマは頷いた。今は、その区別が必要だった。
机の上には三国から届いた地図が重ねられている。消えた街道、魔法花が向いた方角、封印室の記録に抜けた七秒間。それぞれが同じ原因を示しているとは限らなかった。それでも、北西のある一帯には、説明のつかない空白が集まっている。
「ここです」
ロイドは古地図の端へ、小さな黒い点を記した。
「何がある?」
レナが顔を近づける。
「分かりません」
「また分からないのか!」
「はい。ですが、地図に何も記されていないという事実は、確認できます」
「じゃあ、調べれば分かるな!」
「調べるために、まず帰れる方法を用意するのです」
ソルは腕を組み、地図の脇へ立った。
「行くか」
トーマは全員の顔を見た。夜中に駆けつけたミアとユナ、まだ目元に疲れのあるノア。自分が行きたいからといって、皆を無条件に連れていけるわけではない。
「俺は行きたい。けど、一人では行かない。皆が危ないと思うなら、準備ができるまで待つ」
「私は行くぞ!」
ミアがすぐに手を挙げる。
「ミア。返事より先に、何を持っていくか考えて」
ユナが指摘すると、ミアは首を傾げた。
「短槍と食べ物!」
「足りない」
「じゃあ、もっと食べ物!」
レナが笑い、ようやく部屋の緊張が少しだけ解けた。ノアも小さく息を吐く。
「私も行きたい。でも、ロイドさんが決めた休み方はちゃんと守るよ」
「それを聞けて安心しました」
ロイドは地図の脇にある空白へ、調査のための条件を書き込んだ。同行する者の人数、退路の確認、三国からの情報、連絡手段、そして無理に先へ進まないための中止基準。
「三国合同の調査隊を提案します。ベイルとテリアからも準備を始めるとの連絡がありました。正式な許可と編成が決まるまで、単独行動は禁止です」
「分かった!」
レナが胸を張る。
「本当に分かっていますか」
「たぶん!」
ロイドは額に手を当てた。その仕草を見て、トーマは少し笑った。何が待っているのか分からない北西へ向かうとしても、ここにいる仲間たちの声まで失ってよい理由はなかった。
ソルが地図を見つめたまま言う。
「何が待っていても、戻る」
トーマは頷いた。
「ああ。皆で戻ろう」
──
名前のない都市の空は、まだ暗かった。
中央の高い建物では、黒い外套の人物が鞘に収めた剣を持ち上げていた。朝の光は谷の縁に届き始めている。それでも、屋根に張りついた影を照らすことはできない。
街の奥から、足音が聞こえた。
一つ、また一つ。誰も歩いていない道を、何かが近づいてくる。家の戸が揺れ、空白の本が勝手に開く。顔のない像の足元を、黒い羽根が幾枚も横切った。
鞘の中で剣が三度鳴る。低い鐘の音がそれに応え、都市の影が一斉に蠢いた。
人物は谷の向こう、まだ誰も姿を見せていない荒野へ顔を向けた。何かを待ち続けていた者が、ようやく約束の時間を告げようとするように、ほんの僅かに唇を動かす。
時は来た──────