第五十二話 北西へ向かう視線
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
遺した記録、貴方の記憶、その手で全て解き明かして。
本文
ベイル王国の地下書庫は、昼間でも外の光がほとんど届かない。古い地図を傷めぬよう、棚の間には熱を持たない魔法灯が置かれ、乾いた紙と革表紙の匂いが静かに漂っていた。
リンは机に広げられた地図を覗き込み、頬に指を添えた。昨夜、鏡に映った自分は一拍遅れてチャクラムを置いた。背後に落ちた黒い羽根は、振り返ったときには消えていた。誰かの幻惑だとしても、気づかないうちに術をかけられたのは愉快ではない。
「珍しいですねぇ。知らないことがあるのは楽しいはずなのに、今回は少々気分が悪いです」
「少々、ですか」
向かいで古地図を重ねていたカノンが、淡々と聞き返す。狙撃手らしく、彼女は地図に記された街道と高低差を一つずつ比べていた。二枚の地図には、おおよそ同じ山並みが描かれている。ただし北西の荒野だけは、道の曲がり方が違っていた。
「こちらの古い図では、山脈の手前に街道があります。でも新しい図では、途中から道が途切れています」
「新しく道がなくなることもありますよ。崖が崩れたとか、誰も通らなくなったとか」
「それなら、廃道になった理由が残るはずです」
カノンは街道の端を指でなぞった。道が消えているだけではない。古い図には橋の印があるのに、橋が架かるはずの川が新しい図にはなかった。どちらかの測量が間違っているのか、写した人間が何かを省いたのか。今は判断できない。
「この辺りですか」
「たぶん」
「ずいぶん曖昧ですね」
「予感に正確さを求めないでくださいな」
「リンさんなら、もっと自信満々に言うかと思いました」
「では、間違いなくここです」
「今決めましたよね」
リンは笑ったが、その表情は長く続かなかった。机の脇に置いた小さな鏡には、確かに自分が映っている。手を動かしても遅れはなかった。それがかえって気にかかる。昨夜だけ、鏡が何かを知っていたように思えた。
「何が見えたんですか」
「私自身です」
「鏡に?」
「ええ」
「それは普通では」
「笑っていなかったのですよ」
カノンは手を止めた。リンは相手を動揺させるときも、冗談を言うときも、容易に笑顔を崩さない。その顔が鏡の中で先に強張った。未来を見たなどという都合のよい話より、自分の知らない恐怖が姿を借りたようで気味が悪かった。
「鏡の私は、私より先に何かを恐れていた。その理由を、まだ掴めていません」
地下書庫の扉が開き、重い足音が近づいた。ベイル女王とガーネだった。女王は余計な挨拶を求めず、地図の前へ立つ。
「見つかったか?」
「異変の方角は、おそらくこの地域です。ただし、街道の記録が一致しません」
カノンの説明を聞いた女王は、古地図の一点へ視線を落とした。その顔から一瞬だけ表情が消える。ガーネは黙って入口を守り、リンも女王の反応を見逃さなかった。
「ご存じなのですか?」
「昔、何かあった場所だ」
「何かとは?」
「記録が残っていない」
「女王様の記憶には?」
女王は地図から手を離さなかった。大きな盾を構えて敵に突き進むときでさえ、彼女は迷いを隠さない。だが今は、握り締めた手の中に何があるのか、自分でも確かめられずにいるようだった。
「あるような気がする。誰かがいた。強い者が」
「敵ですか」
ガーネの短い問いに、女王は首を振る。
「分からん。味方だったかも思い出せん。ただ、そこへ行かせてはいけない者がいた。それだけが残っている」
「その者の名前は?」
答えはなかった。リンは女王の目が一度だけ地図から外れ、誰もいない棚の奥を見たことに気づいた。
「準備をしろ」
「調査隊を出すのですね」
「我も動く。剣が消えた以上、地図の間違いで済ませるわけにはいかん。ただし国境を越えるのは三国の連絡が取れてからだ。兵を先走らせるな」
「同行する」
ガーネは簡潔に答えた。カノンも弓の具合を確かめるために立ち上がる。リンは鏡から視線を離し、腰に収めたチャクラムの留め具を確かめた。
「では、皆さんが怖がって逃げないよう、心を整えて差し上げましょう」
「まず自分を整えろ」
女王が即座に返す。
「これは手厳しいですねぇ」
「鏡を気にしすぎだ。お主は不安になると、笑い方が綺麗になる」
リンは目を瞬かせた。そんなところまで見られていたとは思わなかった。
「……それは、初めて知りました」
いつもの柔らかな微笑みは、今度こそ少しだけ歪んだ。
──
テリア王国では、研究室の窓が朝から開け放たれていた。アリスの机には五色の魔法花が並んでいる。炎、氷、風、雷、光。属性も魔力の与え方も異なる花が、揃って同じ方向へ首を傾けていた。
「もう! 何なのよ、これ!」
アリスは炎の花を持ち上げ、根元の魔力を断つ。花は一度しおれたが、別の小さな魔力を流すと再び開いた。そして何事もなかったように北西へ向いた。
「私の魔力に反応してるなら、こっちを向くはずでしょ!」
試しに窓を閉めても、風の花は動きを変えなかった。外から吹く風ではない。術式の向きを入れ替えれば短い間だけ従うものの、ほどなく元へ戻る。アリスは結果を紙に書き、別の花で同じ操作を繰り返した。
「まだ花に怒っておるのか」
背後から声がして振り返ると、テリア女王が扉にもたれていた。
「怒ってません!」
「その割には魔力が荒れておるぞ」
「これは花が勝手に動くから!」
「花に怒っておるではないか」
「……女王様までからかわないでください!」
女王は笑ったが、アリスの記録へ目を落とすと表情を改めた。手のひらに薄い星膜を展開する。王国を守る結界と同じ系統の術式が、細かな光を含んで浮かび上がった。
表面に走る模様が、アリスの見ている前で僅かに片側へ引かれる。
「女王様の結界まで……?」
「正確には、ワシが今出した膜じゃ。王都を覆うものが動いたわけではない。じゃが、妙な反応なのは確かじゃな」
「どこから引かれているんですか」
「北西じゃろう。術式が何かに触れたのかもしれぬ」
女王は星膜を傾けた。薄い光の表面を、赤い筋が横切る。アリスははっとして身を乗り出した。
「その形、見覚えがあるわ。セイレンの術式に似てる」
「似ておる。本人のものかは分からぬがな」
「セイレンが北西にいるってこと?」
「その可能性はある。あやつが何を追っておるかは知らぬ」
アリスは女王の横顔を見た。セイレンの名が出ると、女王はいつも少しだけ言葉を慎重に選ぶ。研究室で何があったのか、すべてを教えられたわけではない。それでも二人の間に、簡単には埋まらない距離があることは分かっていた。
「連絡してみたんですか」
「昨日も試した。返事はない」
「それじゃあ、迎えに行くしか」
「迎えに行くと言えば、あやつは逃げるじゃろう。ワシらが勝手に連れ帰れる相手でもない」
女王は赤い筋へ指を近づけたが、触れはしなかった。代わりに膜を薄く広げ、揺れの方向だけを確かめて閉じる。
「それでも行くんでしょう」
「誰のことじゃ」
「女王様です。国の結界が反応してるなら、放っておけないでしょう」
「……お主も分かってきたではないか」
アリスは花をまとめ、持ち運べる小さな術式へ組み替え始めた。炎は明かり、氷は足場、風は煙払い。普段なら一気に派手な魔法へ組み上げるところだが、今日はそれぞれを別に保った。
「アリス。お主は王都で待て」
「嫌です」
「即答か」
「トーマたちも動くんでしょう。あの人、危ないことに首を突っ込むのは得意なんだから」
「最近は少し慎重になったと聞いておるぞ」
「少しだけです! 気づいたら一人で行こうとするんだから、止める人は多い方がいいのよ!」
女王は楽しげに目を細めた。
「心配なのじゃな」
「違います!」
「まだ何も言っておらぬぞ」
「言いました!」
抗議の声に合わせて花が大きく開き、アリスは慌てて魔力を抑えた。女王が笑う。いつもと変わらないやり取りだったが、窓の向こうの空を見たとき、その笑みが消えた。
北西の低い空に、星に似た一点の光が見えていた。昼間に見えるはずのない光は、瞬きのあと輪郭ごと黒く沈んだ。
「今の、見ました?」
「見た」
「星が消えたの?」
「そうとは限らぬ。空に何かが映っただけかもしれん」
女王は星膜を再び広げた。表面の模様はすでに正常へ戻っている。
「じゃが、見たものは記録しておけ。後から見間違いだったと分かるなら、それでもよい。何も残さぬ方が厄介じゃ」
アリスは机の紙へ時刻を書き添えた。女王は北西から目を離さないまま、通信係を呼ぶよう命じた。
──
シェイン王国の医務室では、ノアが寝台の端に腰かけていた。地下封印区画で体調を崩したわけではなかったが、トーマから聞いた白い服の少女の話が頭から離れず、昨夜はあまり眠れなかった。
トーマは窓際の椅子を引き寄せ、手にした記録帳を閉じた。剣が消えたことも、封印術師たちが何を守っていたか忘れてしまったことも、まだ夢のように感じられる。頬を叩いて自分の名前を呼んでくれたレナの声だけが、妙にはっきりしていた。
「まだ、あの感じがする?」
「うん。昨日より少し近い気がする」
「剣のこと?」
「分からない。記録喰いとも違うかもしれない」
ノアは胸に手を置き、うまく言葉を探した。自分の魔力は落ち着いている。それなのに、遠くで鳴る鐘の振動だけが身体の奥へ伝わってくるような感覚があった。
「一つじゃないの」
「何が?」
「近づいてるもの。いくつもあるみたい。でも……中心にいるのは、一人のような気がする」
トーマは記録帳を開きかけて、やめた。ノアの顔は疲れている。分からない感覚を無理に言葉へ押し込めたくはなかった。
「その人の顔は見える?」
「見えない。黒い羽根とか、剣みたいなものが周りにある気がするだけ。誰かが操っているのかどうかも、分からないよ」
「そっか」
トーマは隣へ座り直し、彼女の手を握った。剣が消えてから、どうしても北西のことが気にかかる。理由を問われれば説明できない。それは身体が勝手に動いたときとよく似た、馴染みのない確信だった。
「その人は、こっちへ来るのかな」
「違うと思う」
「違う?」
「私たちを呼んでるような……ううん、呼ばれてると感じるだけ。言葉は聞こえてないの」
「どこへ?」
ノアは窓の外を見た。庭の木々の向こう、遠い山並みへ視線が向かう。
「始まった場所」
トーマが黙ると、ノアは慌てて付け加えた。
「何が始まったのかは分からないよ。私の思い込みかもしれない」
「分かってる。今のは、ノアがそう感じたんだな」
彼が笑うと、ノアは少しだけ表情を和らげた。
「トーマは、行くの?」
即答はできなかった。消えた剣を放っておきたくはない。地下で聞いた少女の言葉も気になる。けれどそこへ行けば何が待っているのか、誰にも分からない。
「行かないって言ってほしい?」
ノアは首を振った。
「嘘になるから。でも、一人では行かないで」
「行かない」
「本当に?」
「ノアにも、皆にも話す。止めた方がいいときは、ちゃんと聞く」
「置いていかない?」
「ああ。置いていかない」
ノアは彼の手を握り返す。手のひらの上に小さな防御膜が浮かんだ。帰星と名づけたその膜は、いつもどおり淡い光を揺らすだけだった。そこに特別な答えが現れることはない。
「約束ね」
「ああ」
扉が開き、ロイドが入ってきた。彼は二人の様子を確認してから、三国の地図と昨夜の通信記録を机へ広げた。
「ベイルとテリアから連絡がありました。北西の同じ一帯で、それぞれ別の異常が確認されています」
「剣を見つけたのか?」
「いいえ。場所の特定もできていません。ただ、互いに相談していない段階から同じ方角を調べていたのです」
ロイドは地図に三つの小さな印を置いた。一つはベイルの地図から消えた街道、一つはテリアの花が向いた方向、もう一つはノアが窓から示した方角を伸ばした線だった。三つの線は、ぴたりと同じ地点を指しているわけではない。それでも北西へ伸びた線は、地図上のひとつの空白地帯を挟むように集まっていた。
「その空白に何があるんだ?」
「分かりません。だからこそ、決めつけず調べる必要があります」
「俺たちも行ける?」
ロイドはトーマを見た。
「まだ許可は出ていません。三国で調査の範囲を決め、同行者と退路を確保してからです。あなたもノアさんも、まず休養を優先してください」
トーマは窓の外へ目を向けた。理由のない焦りが湧いたが、昨日の自分ならそのまま立ち上がっていただろう。今は、手を握るノアの温度がそれを引き留めている。
「分かった。決まるまで待つ」
ロイドは少し驚いたように眼鏡を直し、それから頷いた。
「その約束も、記録しておきます」
──
三国から離れた荒野では、乾いた風が赤い旗を鳴らしていた。
セイレンは旗の柄に巻かれた古い布を確かめ、傷んだ結び目を締め直していた。地面には細い赤い線が幾重にも刻まれている。昨日の夜、黒い影が近づいた方向にだけ、線が深く残っていた。
ルークは少し離れた岩の上に座り、大剣の刃を布で拭いている。彼女が刃の表面を傾けると、空の灰色が鈍く映った。
「きつい」
「何が」
「鞘の留め具」
「自分で締めたんでしょう。緩めればいいじゃない」
ルークは留め具を見下ろして少し考えたが、そのままにした。
「これでいい」
「なら言わないで」
セイレンは立ち上がり、旗の石突きを地面へ突き立てた。赤い術式が砂の上を走り、浅い円を描く。進路を塞ぐための線だったが、どこまで効くかは相手次第だ。昨夜の影は、形を持たないように見えながら、踏み込む直前に確かな重みを生んでいた。
「来る」
ルークが剣を背負い直す。
「ええ。今までと同じ相手ではないわ」
「テリアより強い?」
セイレンの眉が僅かに動いた。
「比べる意味がない」
「ゼロより?」
今度は返事が遅れた。セイレンは遠い山の影を見つめたまま、旗の布を握り直す。
「それを確かめるために、私たちはここにいる」
「トーマも来る?」
「来るでしょうね。剣を失ったと聞けば、じっとしていられないでしょう」
「前より重い」
「何が」
「トーマ」
ルークは短く答えた。かつて忘却の剣に支配されていたトーマを、彼女は正面から受け止めたことがある。剣の力がどれほど大きくても、あのときのトーマは、自分でその重さを引き受けていなかった。
「今は、名前が増えたからかな」
「……そうね」
セイレンは小さく息を吐いた。レッドフラッグスに所属する二人は、三国の命令で動いているわけではない。トーマを助けに来たわけでも、女王から何かを命じられたわけでもなかった。ここまで来たのは、自分たちが追っていた異常がこの荒野へ続いていたからだ。
「先に言っておくわ。今回は、殺すつもりで戦う」
「いつも」
「いつも以上に」
ルークは笑うのをやめ、大剣の柄へ手をかけた。
「分かった」
「剣を持っているからといって、トーマではない。影を纏っているからといって、記録喰いとも限らない。見た目で決めるな」
「うん」
セイレンは足元の赤い線を確かめた。ルークが踏み込む道だけは空けてある。広い荒野で彼女の剣を振るわせるなら、それだけは塞げない。
黒い雲のようなものが、遠方の地面に沿って近づいてきた。風は右から左へ吹いているのに、それは逆へ流れている。セイレンは旗を構え、ルークが前へ出た。
「何が出てきても、止める」
「止める」
二人の前で黒い輪郭が膨らみ、一枚の羽根が空中に浮いた。それは落ちる前に消え、どこからともなく低い声が響く。
「赤い旗」
セイレンの目が細くなった。
「まだ残っていたか」
ルークは一歩だけ前へ出る。
「知ってる声?」
「……分からない」
知らないと断言できなかった。声の奥に、幼いころ聞いた硬い扉の音や、母の研究室の冷たさに似たものが混じっている気がする。けれどそれは記憶ではなく、恐怖が勝手に繋げたものかもしれない。
「私のことを知っているなら、姿を見せなさい」
赤い線が荒野の上へ浮き上がる。雲の奥の声は返事をせず、小さく笑った。
セイレンは旗を振り上げる。
「今度は、何も奪わせない」
ルークが大剣を抜いた。砂を踏む音がひとつ響き、二人は黒い雲へ向かって動き出した。