第5話「押されて泣くな」
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
この世界では、おしくらまんじゅうを経験したことがない人間は、「おしくらまんじゅう貞」と呼ばれ、馬鹿にされる。 佐野悠太も、そんな未経験者の一人だった。 おしくらまんじゅうをしたことがあるかどうか。 それだけで人間の価値が決められるような社会に、疑問を抱きながらも、周囲の目を気にして生きている。 そんな佐野が、ある日、思いがけない出会いを経験する。 おしくらまんじゅうをしない人間は、本当に恥ずかしいのか。 奇妙な世界を舞台に、偏見と同調圧力を描く、不条理な社会風刺小説。 ■佐野悠太(さの ゆうた) 主人公。男性。おしくらまんじゅう未経験者。気が弱く、周囲の目を気にしやすい性格。 「おしくらまんじゅう貞」と呼ばれて馬鹿にされており、未経験であることに引け目を感じている。 おしくらまんじゅうそのものに強い興味はなく、経験の有無で人間を評価する社会に疑問を抱いている。 公園で偶然出会った黒田健吾と宮本美咲と親しくなり、 仲間たちとの交流を通して少しずつ考え方を変えていく。 ■黒田健吾(くろだ けんご) 男性。おしくらまんじゅう未経験者。正義感が強く、思ったことをはっきり口にする性格。 自分が未経験であることを恥じておらず、未経験者を馬鹿にする社会の風潮に強い怒りを抱いている。 公園で佐野が馬鹿にされている場面に遭遇し、差別的な発言をした人々に言い返す。 その後、佐野や宮本と意気投合する。 行動力があり、3人の中では最も積極的な人物。 ■宮本美咲(みやもと みさき) 女性。おしくらまんじゅう未経験者。落ち着いた性格で、物事を冷静に考える。 女性にもおしくらまんじゅうの経験を求める社会の風潮に疑問を持っている。 経験するかどうかは個人の自由であり、他人が口を出すことではないと考えている。 公園で佐野と黒田のやり取りを目撃し、会話に加わる。 感情的になりやすい黒田を落ち着かせることもあり、3人の意見をまとめる役割を担う。 ■高橋修一(たかはし しゅういち) 男性。故人。おしくらまんじゅう未経験者。 生前は物静かな人物だったが、未経験者への差別に強い問題意識を持っていた。 「おしくらまんじゅう貞」と呼ばれて繰り返し馬鹿にされ、 経験の有無によって人間の価値が決められる社会に疑問を抱くようになった。 数年前、未経験者への差別に抗議するために食事を断ち、餓死した。 生前に自分の考えを語った映像メッセージを残しており、その言葉が佐野たち3人に大きな影響を与える。 ■高橋和子(たかはし かずこ) 女性。高橋修一の母親。穏やかで口数の少ない性格。 数年前に息子を亡くし、修一が生前に残した映像メッセージを大切に保管している。 佐野、黒田、宮本の3人が訪ねてきた際、息子の遺志を知ってもらいたいと考え、映像を見せる。 息子の死について多くを語ることはないが、未経験者への差別がなくなることを願っている。
本文
高橋和子の家を出たあと、
佐野悠太、黒田健吾、宮本美咲の三人は、しばらく無言で歩いていた。
数年前、おしくらまんじゅう未経験者への差別に抗議し、餓死した高橋修一。
その男性が残した映像の言葉が、三人の頭から離れなかった。
「すごい人だったな」
最初に口を開いたのは黒田だった。
「ああいう人がいたなんて、知らなかったよ」
「私もです」
宮本が答えた。
「もっと早く知りたかったですね」
佐野は黙ってうなずいた。
修一の言葉が、何度も頭の中で繰り返されていた。
『あなたは、恥ずかしい人間ではありません』
『あなたには、何も欠けていません』
佐野は、これまで自分がおしくらまんじゅう貞であることを、
どれほど気にしてきたかを思い出した。
誰かがおしくらまんじゅうの話を始めると、なるべく黙っていた。
経験を尋ねられそうになると、話題を変えた。
未経験だと知られれば、笑われる。
だから、できるだけ知られないようにしてきた。
しかし、知られないようにすること自体が、
未経験であることを恥ずかしいと思っている証拠だった。
「僕は、ずっと逃げていたのかもしれません」
佐野が言った。
「何から?」
黒田が尋ねた。
「自分がおしくらまんじゅう貞だってことからです」
佐野は少し考えてから続けた。
「別に悪いことをしているわけじゃないのに、何となく後ろめたくて。
経験者の前では、自分が劣っているような気がしていました」
「それは、周りがそう思わせてきたんだろ」
黒田が言った。
「そうかもしれません。
でも、僕自身も、いつの間にかその考え方を受け入れていたんです」
宮本が静かにうなずいた。
「私も、似たようなところがあります」
「宮本さんも?」
「はい。おしくらまんじゅうをしたことがないと言うと、
女性として魅力がないんじゃないかと思われることがあります」
宮本は苦笑した。
「だから、未経験だと知られないようにしていた時期もありました」
「馬鹿げてるよな」
黒田が言った。
「背中と尻を押し合ったことがないだけで、
どうしてそんな思いをしなきゃならないんだ」
三人は、以前出会った公園に向かった。
公園には、いつものように人々が集まっていた。
広場では、男女が背中を合わせていた。
「おしくらまんじゅう、押されて泣くな!」
掛け声が響き、二人が楽しそうに押し合っている。
佐野は、その光景を眺めた。
「楽しそうですね」
宮本が言った。
「そうですね」
佐野が答えた。
「別に、あの人たちが悪いわけじゃないんですよね」
「もちろんだよ」
黒田がうなずいた。
「俺だって、おしくらまんじゅうを禁止しろなんて思ってない」
「大事なのは、そこだと思います」
宮本が言った。
「おしくらまんじゅうをする自由も、しない自由も、両方尊重されるべきなんです」
佐野は、修一の言葉を思い出した。
する自由があるのなら、しない自由もあるはずだ。
「それに、同性同士でする自由だってありますよね」
佐野が言った。
「そうです。
異性としなければ経験者として認められないという考え方も、おかしいと思います」
宮本は続けた。
「そもそも、誰と何回おしくらまんじゅうをしたかなんて、
他人が評価することじゃありません」
「まったくだ」
黒田は腕を組んだ。
「でも、そういう当たり前のことが、なかなか通じないんだよな」
三人はベンチに腰を下ろした。
しばらく、広場のおしくらまんじゅうを眺めていた。
やがて黒田が口を開いた。
「なあ、俺たちも何かしないか?」
「何かって?」
佐野が尋ねた。
「差別をなくすための活動だよ」
佐野は驚いた。
「活動ですか?」
「ああ。高橋修一さんは、あれだけ真剣に差別をなくそうとしていたんだ。
俺たちだって、何かできることがあるはずだろ」
宮本が考え込んだ。
「例えば、どんなことですか?」
「そうだな……。
インターネットで意見を発信するとか、差別に反対する人を集めるとか」
「それなら、できるかもしれませんね」
宮本が言った。
「ただ、誰かを攻撃するような活動にはしたくありません」
「どういうこと?」
「おしくらまんじゅう経験者を敵にする必要はないと思うんです」
黒田は黙って聞いていた。
「経験者の中にも、未経験者への差別に反対している人はいるはずです。
大切なのは、経験者と未経験者を対立させることではなく、
経験の有無で人を差別しない社会を目指すことだと思います」
黒田はしばらく考えた。
「なるほどな。それはそうだ」
佐野もうなずいた。
「僕も、そのほうがいいと思います」
「じゃあ、まずは俺たちの考えを文章にしてみるか」
黒田が言った。
「何を書くんですか?」
「決まってるだろ。おしくらまんじゅう貞を馬鹿にするなってことだよ」
宮本が微笑んだ。
「もう少し丁寧な表現にしましょう」
「例えば?」
「おしくらまんじゅうの経験の有無によって、
人間の価値を判断しないでください、とか」
「長いな」
「でも、伝わりやすいと思いますよ」
三人は笑った。
佐野は、ふと思いついた。
「『押されて泣くな』って、ありますよね」
「おしくらまんじゅうの掛け声か?」
黒田が尋ねた。
「はい。
でも、僕たちみたいな未経験者は、
押される以前に、馬鹿にされて泣かされているんですよね」
宮本がうなずいた。
「確かに、そうですね」
「だから、押されて泣くなじゃなくて、馬鹿にされても泣くな、なのかなって」
黒田が笑った。
「いや、泣いたっていいだろ」
佐野は少し驚いた。
「え?」
「馬鹿にされて悔しかったら、泣いたっていいんだよ。
問題なのは、泣くことじゃなくて、馬鹿にする連中のほうだろ」
佐野は、しばらく黒田を見つめた。
そして、笑った。
「そうですね」
宮本も微笑んだ。
「泣いてもいいし、怒ってもいい。ただ、自分が悪いと思う必要はないんですよね」
三人は再び話し合った。
まずは、未経験者への差別に反対する文章をインターネットに公開すること。
その文章では、
おしくらまんじゅうをする自由と、しない自由の両方を尊重するよう訴えること。
そして、同じ考えを持つ人たちにも、声を上げてもらうこと。
大きな活動になるかどうかは分からなかった。
世間から笑われるかもしれない。
また、おしくらまんじゅう貞の負け惜しみだと言われるかもしれない。
それでも、三人は始めてみようと思った。
「じゃあ、決まりだな」
黒田が言った。
「はい」
宮本が答えた。
佐野もうなずいた。
そのとき、広場から再び掛け声が聞こえた。
「おしくらまんじゅう、押されて泣くな!」
楽しそうな笑い声が響いた。
佐野は、その光景を見つめた。
以前なら、異性とおしくらまんじゅうをしている人々を見るたび、
自分だけが取り残されているような気がしていた。
しかし、今は違った。
あの人たちは、あの人たち。
自分は、自分。
おしくらまんじゅうを経験したからといって、人間として偉くなるわけではない。
経験していないからといって、劣っているわけでもない。
そんな単純なことに、ようやく気づくことができた。
「佐野さん」
宮本が声をかけた。
「どうしました?」
「何だか、表情が明るくなりましたね」
「そうですか?」
「はい。初めて会ったときとは、ずいぶん違います」
黒田もうなずいた。
「最初は、ずいぶん自信がなさそうだったもんな」
佐野は照れくさそうに笑った。
「お二人のおかげです」
「いや、俺たちは別に大したことしてないよ」
黒田が言った。
「でも、これからは一緒にやっていこうぜ」
「はい」
三人は立ち上がった。
夕暮れの公園を、穏やかな風が吹き抜けていた。
佐野は空を見上げた。
この世界は、すぐには変わらないだろう。
おしくらまんじゅう貞という言葉も、簡単にはなくならないだろう。
それでも、もう以前のように、ただ黙って馬鹿にされるつもりはなかった。
自分には仲間がいる。
同じ疑問を抱き、同じ願いを持つ仲間がいる。
佐野は二人を振り返った。
「僕、もう隠さないことにします」
「何を?」
黒田が尋ねた。
「自分がおしくらまんじゅう貞だってことです」
宮本が微笑んだ。
「それでいいと思います」
佐野は大きく息を吸った。
そして、晴れやかな表情で言った。
「おしくらまんじゅう貞で、何が悪い」
(第5話・完)
『おしくらまんじゅう貞』完