間違いじゃない
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
アルバルト王国 貴族たちが多く住むとても華やかなこの王国 でもその裏にはたくさんの闇がある そんな王国で暮らす少年少女のちょっとした暮らしを描く日記 どうぞ最後までご覧ください
本文
扉の外に、人影があった。
灯りを持った従僕が頭を下げ、その脇に、見覚えのある黒い髪があった。アルだった。屋敷の前まで戻ってきていたのだ。
「はやいな」
シリルが、半分笑って言った。
「馬車を出したのが先か、俺の足が先か、ってところだな」
アルは、扉の向こうからユノを見て、それからシリルのほうへ目を移した。夜会の広間で肩を叩いたときと同じ、力を入れない目だった。けれど、その目がシリルの手とユノの手の重なりに一瞬だけ止まって、すぐに外れた。
「降りるぞ。足元、暗いからな」
手を貸すでもなく、先に立って、石段の下で待っている。兄というのは、そういうものなのだとユノは思った。何も言わずに、そこにいる。
「シリル様」
「うん」
「今日は、ありがとうございました」
短い言葉しか出てこなかった。言いたいことは、まだ胸の奥で形にならないまま、いくつも重なっていた。シリルは、それを急かさなかった。
「こちらこそ。……気をつけて」
ユノが扉をくぐると、夜の空気が頬に冷たかった。屋敷の門の灯りが、石畳の上に丸く落ちている。振り返ると、シリルはまだ馬車の中からこちらを見ていた。手を上げるでもなく、ただ見ていた。扉が閉まる。
馬車が動き出す音が、遠ざかっていく。
「ユノ」
アルが、並んで歩きながら言った。
「なんでございますの」
「今日、屋敷に客が来てる」
ユノは、足を止めた。
「……客」
「ああ。昼に、使いが来た。ロナート家から」
石畳の上で、自分の靴の音だけが、やけに大きく聞こえた。ロナート。アリス・ロナート。第6話の広間で、微笑みを崩したまま退いていった女が、夜会が終わってすぐ、翌日の昼ではなく、その日のうちに動いた。
「誰が」
「三女のほうじゃない。……母親だ」
アルは、前を向いたまま続けた。
「父上は、まだ帰ってない。俺が応対した。向こうは、夜会のことを、ずいぶん詳しく知ってた。誰がどこに立って、誰が何を言ったか、までな」
ユノは、自分の手を見た。さっきまでシリルの指が重なっていた場所が、まだ少し温かい気がした。
「何を、求められたんですの」
「表向きは、挨拶回りだ。ご令嬢同士、仲良くしたいと。……だが、その割には、聞くことが細かかった」
アルは、そこでようやく妹のほうを向いた。レッドダイヤモンドの瞳が、門の灯りを拾って、静かに光っている。
「ユノ。お前、アリスに何か言ったか」
「……言いましたわ。望んでおります、と」
「それだけか」
「それだけ、ですわ」
アルは、しばらく黙って、それから、短く息を吐いた。
「なら、たぶん、それが気に入らなかったんだろうな」
門をくぐると、屋敷の玄関の灯りが目に沁みた。昼とは違う、落とした灯りの色だった。階段の手すりに手をかけたところで、アルが、後ろから声をかけた。
「今日は、もう休め。母上には、俺から話しておく」
「お兄様」
「なんだ」
「……わたくし、何か、間違えましたでしょうか」
アルは、答えなかった。代わりに、二、三段、階段を上ってきて、ユノの頭の上に、そっと手を置いた。庭園で紅茶を差し出したときと同じ手だった。
「間違えてない。……お前が自分で言ったんだろ。だったら、間違えてない」
手が、離れる。
「ただ、これから先、その言葉の値段を、いろんな奴が勝手に決めたがる。それだけだ」
ユノは、うなずいた。うなずいて、階段を上った。途中で一度だけ振り返ると、アルはまだ下に立っていて、灯りの下で、こちらを見上げていた。
自室の扉を閉めて、灯りを一つだけ残した。窓の外では、門の灯りがまだ揺れている。馬車は、もう見えなかった。
手のひらを見る。シリルの指の温度は、もう残っていなかった。けれど、握り返したときの感触だけは、まだはっきりと手の中にあった。
明日、ロナート家の夫人が来る。表向きは、挨拶回り。ご令嬢同士、仲良くしたいと。
ユノは、灯りを消す前に、机の上の手帳を開いた。白い頁の一番上に、短く書いた。誰かに見せるためではなく、自分が忘れないための言葉を。
望んでおります、と。わたくしが。
書き終えて、ペンを置いて、それから、少しだけ笑った。夜会の広間で言ったときより、ずっと静かな声で。