2-6 聖女の演説
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あらすじ
魔王亡き世界で、再び魔の時代が動き出す。 魔王ゼルヴァディスが討たれてから、六百二十八年。 平和を取り戻したアストラリア大陸では、三つの主要勢力が微妙な均衡を保ちながら共存していた。 しかし、今なお人の立ち入れない旧魔王領では、魔物たちが静かに活動範囲を広げ始めていた。 各地では怪しい薬が出回り、魔王を崇める新興宗教も勢力を増していく。 そんな異変をまだ知らず、自由交易都市に暮らす青年レオン・ヴェスタは、見知らぬ世界を求めて旅立つ。 やがて彼は、森の外へ憧れる若きエルフの癒し手フィリアと、その護衛リュシアに出会う。 三人の小さな旅立ちは、やがて国家、宗教、人間、魔物――大陸に生きる者すべてを巻き込む事変へ繋がっていく。 善と悪の境界が揺らぐ世界で、彼らは何を知り、何を選ぶのか。 これは、魔王亡き世界で再び動き始めた、魔の時代を巡る物語。
本文
新暦628年、4月12日。
朝。
宿場町の中央広場では、朝早くからギノマイ教の関係者たちが
慌ただしく動いていた。
木製の簡易壇が組まれ、その背後には白と金を基調にした
布が垂らされている。
布には女神教の紋章が描かれていた。
ただし、その形は女神を世界の根源と見るアルケー教のものとは
少し異なり、人から光が立ち上るような意匠が加えられている。
それは、ギノマイ教の思想を表す紋章だった。
人は、神へ成ることができる。
女神はかつて人であり、慈悲と犠牲と救済の果てに神へ昇華した存在である。
その教えを説くために、彼らはこの宿場町へ来ていた。
広場の端では教徒たちが椅子を並べ、通行人へ冊子を配っている。
旅人や商人たちは物珍しそうに足を止め、
冒険者らしい者たちは少し離れた場所で様子を見ていた。
準備が進む一方で、アリア・レイシアは宿の一室にいた。
白い聖女服に袖を通し、髪を整え、胸元の女神紋をまっすぐに直す。
鏡の前に立つ彼女は、昨日の夜、フィリアたちの前で涙ぐんでいた
少女とは別人のようだった。
清らかで、慎ましく、穏やかな、人々が望む聖女の姿。
その背後で、父と母が最後の確認をしている。
「冒頭は、昨日確認した通りだ。
まず、女神様の慈悲について語る。
それから、人が救いによって変わることができると伝えるんだ」
「はい」
「難しい言葉を使いすぎなくていいのよ。
アリアの声で語れば、きっと皆に届くわ」
「はい、お母さん」
声は落ち着いている。
少なくとも、そう聞こえるようにしていた。
父は満足そうに微笑む。
「大丈夫だ。しっかりね、アリア」
母も、そっとアリアの肩に手を置いた。
「女神様も、セラフィナ様も、きっと見守ってくださっているわ」
「……うん」
アリアは微笑む。
宿を出ると、宿場町の朝の空気は少し冷たかった。
石畳にはまだ夜露が残り、遠くの馬小屋から馬の鳴き声が聞こえてくる。
食堂の方からは朝食の匂いが漂い、通りでは旅支度をする商人たちが
荷を確認していた。
そのすべてが、アリアには遠く感じられた。
広場へ向かう足が重い。
胸の奥が詰まる。
手が冷たい。
喉が乾く。
息を吸っても、うまく肺に入ってこない。
アリアは頭の中で、いつもの言葉を繰り返した。
(私はアリアじゃない、私は聖女、私は皆が望む聖女)
(私は弱虫のアリアじゃない。私は聖女……)
何度も、何度も繰り返す。
いつから始めたのか、もう覚えていない。
人前に立つ前、儀式の前。
両親の期待に応えなければならない時。
教徒たちの祈るような視線を向けられた時。
自分を騙すために、アリアはその言葉を使うようになっていた。
私はアリアじゃない。
そう思えば、怖がらなくて済む。
弱音を吐かなくて済む。
皆が望む顔で、皆が望む言葉を口にできる。
やがて、広場が見えてきた。
すでに人だかりができている。
人数だけで言えば、王都で行った儀式や説法の方が多かったかもしれない。
だが、今日の緊張はそれとは違った。
王都で彼女を囲んでいたのは、ほとんどがギノマイ教徒だった。
最初からアリアを聖女として崇め、彼女の言葉をありがたく受け取る者たち。
そこは、言ってしまえばホームだった。
だが、今日は違う。
興味半分で足を止めた冒険者。
旅の暇つぶしに来た商人。
宗教に関心があるのかすら分からない民衆。
そして何より、広場の一角には、アルケー教徒と思われる者たちがいた。
彼らは、わざわざ目立つように修道服を着ていた。
白と青を基調にした、アルケー教の修道服。
女神を世界の根源、創造主、超越的存在と見る古い主流派の装い。
ただ聞きに来たのだろうか。
それとも、何か失態があれば非難するつもりなのだろうか。
いや、失態などなくても、野次を飛ばしてくる可能性さえある。
アリアの胸が、さらに強く締めつけられた。
そのまま壇上へ上がる。
両脇には父と母が立っている。
けれど、アリアはいつも一人だった。
誰かが助けてくれるわけではない。
誰かが失敗の汚名を肩代わりしてくれるわけでもない。
しくじれば、それは聖女の失墜になる。
両親の誇りも、教徒たちの期待も、
セラフィナの言葉も、自分が背負うことになる。
でも、アリアは小さく息を吸った。
(今は……一人じゃない)
(私には、応援してくれる友達がいる)
そう思い、聴衆の中へ視線を向ける。
人だかりの中に、地味な外套を羽織り、フードを目深に被った少女がいる。
その隣にはレオンとリュシアもいた。
フィリアが、こちらへ向かって小さく手を振っている。
目立たないようにしているつもりなのだろう。
だが、アリアにはすぐに分かった。
アリアは小さく微笑むと、前を向く。
「皆様」
声は、思ったよりもまっすぐ出た。
「本日は、女神様の御心について、お話をさせていただきます」
広場のざわめきが、少しずつ静まっていく。
アリアは練習通りに言葉を紡いだ。
女神の慈悲。
人が変わることができるという希望。
罪を抱えた者でも、誰かを救うために手を伸ばすことで、
自らもまた救われるという教え。
女神は遠い空の上で人を見下ろすだけの存在ではなく、
かつて人の痛みを知り、人の弱さを知り、
その果てに神へ昇った存在であるというギノマイ教の思想。
言葉は滑らかだった。
聴衆も聞き入ってくれているように見えた。
商人たちは腕を組みながらも黙って聞いている。
冒険者たちも、最初のような冷やかし半分の顔ではなくなっていた。
ギノマイ教徒たちは、誇らしげに頷いている。
アリアは途中で一度だけ、フィリアの方を見た。
フィリアは両手を握り、頑張れ、と言うように小さく何度も頷いていた。
それだけで、少しだけ勇気が出た。
演説は、無事に終わる。
そう思った。
だが、終わりが近づいた時。
聴衆の中から声が上がった。
「失礼。質問してもよろしいかな?」
広場の空気が変わる。
声を上げたのは、アルケー教の修道服を着た中年の男だった。
アリアは胸の奥が冷えるのを感じながらも、表情は崩さない。
「……どうぞ」
男は一歩前へ出た。
「聖女様は、この世界がどのようにして創造されたとお考えですか?」
ざわり、と聴衆が揺れた。
アリアは一瞬、呼吸を止めた。
この質問は、これまでにも度々アルケー教側から
投げかけられてきたものだった。
この世界を創造したのは女神である。
それはアルケー教の根源的思想であり、最も強力な理論武装でもある。
この世界があるから、人間がある。
つまり、この世界ができる前から存在していなければ、
女神は人間ではありえない。
女神が人であったというギノマイ教の教義は、世界創造の前提と矛盾する。
単純ではある。
だが、強力な論法だった。
返答を間違えれば、自らの教義を揺るがしかねない。
アリアは少しだけ息を吸う。
「それに答えるには、まず、無から有が生まれたのかどうかを
考える必要があるのではないでしょうか」
アルケー教徒の男が、ほう、と目を細めた。
アリアは続ける。
「女神が世界を創造したというお考えは、無から有が生まれた、
あるいは生み出されたという前提に立っているように思います。
ですが、その前提を私たちは確かめる術を持ちません」
この手の問いに対する、一つの答え方。
水掛け論へ持ち込むこと。
男はしばらくアリアを見ていた。
やがて、薄く笑う。
「確かに、そこを証明する手立てがない以上、
この問いをこれ以上続けるのは愚かしいことですな」
アリアは内心で小さく息を吐きかけた。
しかし、男はすぐに続けた。
「では、もう一問よろしいか?」
「はい」
「人が神になったというのなら、その神とは何だったのでしょうな」
アリアの胸が、また強く鳴った。
男は語調を少し強める。
「人が神になる過程で、何らかの神の力や神の意志が
あったのではないですか?
つまり、神は元から存在しており、あなた方の言う“神になった人”とは、
所詮、神の力を借りただけのまがい物なのではないですか?」
壇上で、アリアの父が顔色を変えた。
「無礼ですぞ!」
父の声が広場に響く。
「我らが信仰する女神を、まがい物などと貶めるのは!」
アルケー教徒の男は、肩をすくめた。
「おや、そう声を荒げないでいただきたい。
私の説は、今まさにそこの聖女様が証明しているのではありませんか?」
「なに……?」
男はアリアを見た。
「女神という超越的な存在があり、その加護を与えられた者がそこの聖女様。
そして、あなた方が祭り上げている存在でもありますよね?」
聴衆がざわつく。
「つまり、あなた方の神とはやはり、
女神の加護を借り受けた存在に過ぎないのではないですか?」
男はくくく、と小さく笑った。
父は憤り、母は不安げにアリアを見る。
アリアは壇上で立ち尽くしていた。
(どうしよう……)
表情には出していないつもりだった。
だが、心は大きく揺れている。
今にも、声が震えそうだった。
アルケー教徒の男は、さらに追い打ちをかける。
「それで、聖女様はどうお考えなのですか?」
アリアは口を開く。
だが、言葉が出ない。
男はわざとらしく首を傾げた。
「それとも、今ここで、ご自慢の加護の力で
女神様の魂でも召喚していただけるのかな?」
その言葉に、広場のざわめきが大きくなった。
アリアの加護。
魂招きの聖燈。
魂の残響を呼び寄せ、死者や遠き魂と一時的に接触する力。
その性質ゆえに、女神の魂とも接触できるのではないかと、
度々取り沙汰されてきた。
だが、実際には呼び出せずにいた。
アリアの加護には、呼ぶ対象と深く結びつく依り代が必要だ。
女神の魂を呼べるとしても、そんな依り代を用意できる者など、
いるはずもなかった。
「それは……その……」
アリアの声が小さくなる。
広場のざわめきが大きくなる。
ギノマイ教徒たちが不安そうに顔を見合わせる。
アルケー教徒たちは静かに様子を見ている。
冒険者たちの中には、面白がるような表情を浮かべる者もいた。
アリアの手が震え始める。
その時だった。
「なるほど」
聴衆の中から、別の声が上がった。
レオンだった。
彼は人混みの中から一歩前へ出る。
「確かに、あなたの言うことは一理あります」
アルケー教徒の男が眉をひそめた。
「……なんだ、君は?」
周囲の客たちがざわつく。
「おい、あいつ昨日、
広場でプラチナランク相手に大立ち回りしたやつじゃないか?」
「まじじゃねぇか。これは面白くなってきたな」
レオンは苦笑しながら軽く頭を下げた。
「失礼。どうしても気になってしまったもので」
そして、男を見る。
「ですが、あなた方のその論法も、結局は“無から有が生まれたのか”を
証明しなければならないのではないですか?」
「ふん」
男は鼻を鳴らした。
「無から有が生まれていようがいまいが、関係なかろう。
超越的な存在が世界が出来上がってから生まれていようがいまいが、
超越的な存在があり、後発的に人が神になったという論法は
間違いではないはずだ」
「いえいえ」
レオンは首を横に振る。
「結局、それは論点をずらしているだけで同じですよね」
「何?」
「神という存在がいた上で人が神になったのか。
それとも、神がいない状態で、人から神が生まれたのか。
それって、この世界が無から生まれたのかどうかと
同じ話じゃないですか?」
男の顔が少し歪む。
「ぐ……。だが、ならば何故、人は神という言葉を使い始めたのだ?
神という存在がいて、それを観測していたからなのではないか?」
「いやいや」
レオンは穏やかに返す。
「もし、人から神になった存在がいたとして、それはもう通常の
人間という枠には収まらない能力だったに違いないですよ」
聴衆が静かに耳を傾け始める。
「それこそ、あなた方が言うような超越的な存在に見えたはずです。
それを見た人々が、“神”という、人間とは別の枠を用意したに
過ぎないのではないですか?」
「屁理屈だろう、それは!」
男が声を荒げた。
レオンはあっさり頷く。
「その通り。これは屁理屈です」
男が一瞬、言葉に詰まる。
レオンは続けた。
「ですが、あなた方がこの論法を破る証拠を提示できない以上、
あなた方の意見も屁理屈です。そうではないですか?」
「貴様……!」
男の顔に怒りが浮かぶ。
その時、リュシアが静かに前へ出た。
「ここは痛み分けとして、引き下がられてはいかがですか?」
男は苛立った目でリュシアを見る。
「ここで証拠をどちらも提示できない以上、水掛け論になるだけでしょう」
「ええい! 次から次へとなんなのだ、お前たちは!」
男はリュシアを指差した。
「だいたい貴様に関してはエルフではないか!
宗教に興味などなかろう!」
「ありませんとも」
リュシアは平然と答えた。
「ですが、だからこそ中立な目で見られるのです」
広場が少しざわつく。
リュシアは聴衆へ向き直った。
「あなた方の論法は、なるほど一理あると思います。
ですが、やはり何かを証明するには足りていないと、
無関係な私もそう思いました」
そして、周囲を見回す。
「他の皆さんも、そうではありませんか?」
沈黙。
やがて、誰かが口を開いた。
「ああ、確かにな」
「どっちも決め手はないよな」
「まあ、水掛け論っちゃ水掛け論だ」
「聖女様を責め立てるほどの話じゃねぇな」
少しずつ、聴衆の空気が変わっていく。
レオンは密かにリュシアへ視線を向けた。
助かった。
そう伝えるように目を合わせる。
リュシアは小さく頷いた。
アルケー教徒の男は、歯を食いしばる。
だが、すぐに怒りを飲み込むように目を伏せた。
「……本日のところは、ここまでにしておきましょう。
ですが、この問いは、
いずれ改めて場を設けて問わせていただく」
そう言って、男は静かに踵を返した。
他のアルケー教徒たちもそれに続き、修道服を翻して広場から去っていく。
レオンはその後ろ姿を見送りながら、小さく息を吐いた。
「……助かった。これ以上続いてたら、俺の方が先に限界だったかもな」
その言葉に、近くにいた冒険者が小さく笑った。
アルケー教徒たちが去ると、
街頭演説にも自然と終わりの空気が流れた。
聴衆たちは口々に感想を言いながら散り散りになっていく。
ギノマイ教徒たちは、安堵したように壇の片付けを始めていた。
その中を、フィリアが駆け寄ってくる。
「すごいすごい! 二日連続でかっこいいレオン出ちゃったね〜!」
「いや〜、俺は煙に巻いただけで、大したことはしてないよ」
「そんなことないよ!」
フィリアは両手をぶんぶん振る。
「私なんて、険悪な雰囲気が流れ始めた時、あわわわわって
なってただけだもん。
レオンが前に出てなかったら、
アリアをいじめないで! って飛び出すところだったよ」
「あはは。それはそれで、見てみたかったかも」
「もう、笑いごとじゃないよ〜」
リュシアも歩み寄ってくる。
「やりますね、レオン。腕だけでなく、弁も立つとは」
「いやいや、リュシアもナイスサポートだったよ。助かった」
「いえいえ。私は流れに沿っただけです」
そう話していると、壇上からアリアとその両親が近づいてきた。
アリアの父が深く頭を下げる。
「皆さん、先ほどはありがとうございました。大変助かりました」
レオンは慌てて手を振った。
「いえいえ、大したことじゃないですよ。
皆さんの方がもっと良い回答ができていたかもしれませんし、
あれ以上こじれなくてよかったです」
「いやはや、我々としても突かれると弱いところを突かれていましたので、
本当にありがたかったです」
父は苦笑する。
「この子にとっても、良い勉強になったと思います。なぁ、アリア」
アリアは少し緊張した様子で頷いた。
「う、うん……。本当にありがとうございました、レオンさん」
「無事に終わってよかったよ」
レオンが笑う。
その横で、フィリアが前のめりに言った。
「よかったね〜、アリアちゃん!
アリアちゃんも堂々と演説してて、かっこよかったよ!」
アリアの顔が少し赤くなる。
だが、その前に、アリアの父が不思議そうにフィリアを見た。
「はて、そちらのお嬢さん?
どこかでお会いしたことがありましたかな?」
フィリアが固まる。
「あ」
リュシアが即座に一歩前へ出た。
「いえ、そのようなことはありません。
このお嬢様は誰にでも馴れ馴れしいのです。後で躾けておきます」
「あははは……」
フィリアは乾いた笑いを漏らした。
アリアの父は納得したように頷く。
「なるほど、そうなのですね」
そして、すぐに表情を明るくした。
「そうだ。これも何かの縁でしょう。
もしよろしければ、この後、食事でもいかがですか?」
「食事?」
「はい。初の王国外での街頭演説を終えたということで、
アリアを労う食事でもしようかと思っていたのです」
リュシアがすぐに口を開く。
「いえ、遠慮し――」
「はいはい!」
フィリアが勢いよく手を上げた。
「食べます食べま〜す!」
アリアの父は楽しそうに笑う。
「ははは、元気があってよろしいですな。それでは、ご参加ということで」
「はい!」
「申し訳ございませんが、少しお待ちいただけますかな?
片付けがありますので」
「は〜い!」
フィリアは満面の笑みで返事をした。
リュシアは深くため息をつく。
レオンはその横で苦笑した。
宿場町の朝は、まだ始まったばかりだった。