第11話 この世界の主人公とは-レンの不安
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あらすじ
神環ノ縁~和風ソシャゲのモブ神主に転生したので巫女たちと縁を繋いで穢れを祓います~ - 第11話 この世界の主人公とは-レンの不安
本文
水の音が、耳の奥を叩いていた。
神域。水神の庵。
かつて霊涙れいるいの聖座と呼ばれたこの湿地帯は、年に三度しか陽が差さないと伝えられる、永雨の地である。
八雲たちは、新たな神域調査の一環としてここを訪れていた。とはいえ、初日の探索を終えたばかりの今は、仮設の布屋根と薪火の灯る庵の中、各々が疲れを癒していた。
濡れた衣を乾かし、簡素な粥を啜る音。
湿った空気に混じる火の爆ぜる音。
その静けさの中に、違和感は確かにあった。
「……レンが、戻っていない?」
八雲が声を低くしたのは、綾音が湯飲みを静かに置きながら発した言葉を、すぐに理解したからだった。
「一度、湧き水を汲みに行くと言って出たのですが、もう一刻以上が過ぎています」
「私もすぐ追ったが、雨脚が強くて……音の反響が濃すぎる。気配が掴みにくい」
玲の語調も硬い。彼女が焦ることは稀だ。
八雲は、すでに上衣を羽織りかけていた。
「行く。場所の見当は?」
「下手の水源斜面。苔が滑りやすい。単独で降りるには危険」
「なおさら放ってはおけないな」
響は何も言わなかった。
ただ、小さく目を伏せ、手元の鈴をそっと指で押さえた。今、八雲は誰のところへ向かうのかを、その沈黙の仕草だけで理解していた。
◇ ◇ ◇
雨は絶え間なく降り続いていた。
森の葉を叩く音、地を這う水流の音。遠くで鳥が鳴いたような気がしたが、それすら音の壁にすぐかき消された。
八雲は足元を確かめながら、斜面を下る。
足の裏から泥の冷たさが伝わり、雨衣を伝う水滴が鎖骨の裏へと滑り込んでいく。
そして、それは、不意に現れた。
木々の狭間、霧の向こう。
水辺に続く岩の先端に、ひとり立つ女の影。黒髪が雨に濡れ、肌着の輪郭が透けている。
ふり向いた顔には、笑みがあった。
だが、その笑みは、晴れていなかった。
「……八雲さん」
声は、震えていなかった。
けれど、それが作られた声だということを、八雲は一瞬で悟った。
「レン……どうした、そんなところで」
「ん。……ごめんね、すぐ戻るつもりだったんだけど、ちょっと……声が出なくてさ」
「声が?」
「……何か、言いたいことがあるはずだったのに、言葉にならないっていうか。そういうとき、わたし……ひとりになりたくなるの、クセで」
苦笑と共に、レンが少しだけ肩をすくめる。
「……寒いだろ。戻るぞ」
「うん。戻る」
だが、レンの足は動かない。
そして彼女は、ぽつりと口を開いた。
「ねぇ、八雲さん。わたしって、役に立ってる?」
八雲は、その言葉に立ち止まる。
「……どうして急に」
「わたし、巫女じゃないし、戦えないし、力も不安定。でも、響ちゃんはすごいよね。音で空間が震えて……綾音さんは、もうとっくに覚悟を決めてる。玲さんだって、戦場で背中預けていいって思える人」
「レン……」
「ねえ、わたしって、選ばれてるの? それとも、空いてた席に、たまたま座っただけ?」
その声には、明るさの仮面を剥いだ素の声優・朝比奈美央の声音があった。ヒロインの声ではなく、ひとりの女の震える喉から出た音だった。
八雲は、答えなかった。
否、答えられなかった。
だがその代わり、手を差し出し、レンの濡れた肩にそっと触れた。
レンは、ぴくりと小さく震える。
「……こんな濡れてるのに、抱きしめたら、風邪ひくよ」
「それでも、構わない」
八雲はそれだけを言って、彼女を包み込むように抱いた。
雨音が、ふたりの距離を包む。
そして、レンは小さく囁いた。
「……じゃあ、今夜、わたしの声を……ちゃんと聞いてね、八雲さん」
雨が降り続けるなか、ふたりは庵へとゆっくり歩を戻していった。
それは、今夜交わされる声と声の交感の前奏だった。
◇ ◇ ◇
その夜。
庵の内部は、雨の音に包まれていた。
濡れた外衣を乾かすために吊るした布の下、薪の火が赤く瞬く。八雲は簡易寝具を二組分敷き、石臼で温湯をこしらえていた。
隣の空間では、綾音と響が静かに休んでいる。玲は見張りを買って出て外にいるが、霧の深い湿地では誰の気配も読みづらい。
だから、ここにはふたりだけ。
「……八雲さん、あの、さ」
湯を両手で掬っていたレンの声が、火に溶けるように届いた。
「あたしさ、ずっと思ってたんだよ。声優って、誰かの心に届くように喉を使う仕事でさ。でも……八雲さんの前だと、うまく出ないこと、あるの」
「……それは、本当の声だからじゃないか」
「うん……」
頷きながら、レンは膝を抱え、濡れた足先を手で拭った。
火に照らされた肌は柔らかく濡れていて、白い襦袢の中に隠された身体のラインが、布越しにくっきりと浮かんでいた。
「ねえ……触れて、ほしい」
その言葉は、極めて静かだった。
八雲は立ち上がり、湯を置いてから彼女の傍に座る。
レンは、身体をわずかにこちらへ傾けた。
「さっき、外で言ったこと、ほんとは……怖かったから言えたの。選ばれないって思うのが、怖かった」
彼女の声は、ささやきだった。
それでいて、切実だった。
「でも今、こうして……八雲さんがそばにいてくれるなら……わたし、声じゃなくても、ちゃんと触れてもらえるって思えて……」
八雲は、彼女の頬に手を添えた。
指先に伝わる体温。
そこには、決して演技ではない、本物の熱があった。
「……触れるぞ」
「うん……」
◇ ◇ ◇
やがて、ふたりは静かに結ばれた。
レンの声は、震えていた。
それは彼女が演技で使うヒロインボイスではなかった。もっと浅く、もっと素朴で、身体の奥から浮かび上がってしまったような、素の声だった。
八雲は彼女を抱きしめ、その震えを受け止め続けた。
声が出なくても。
喉が詰まっても。
それでも伝わると、彼女自身が信じた夜だった。
そして朝が来たとき。
レンの声は、確かに戻っていた。
だがそれは昨日より、わずかに低く、しかし確かに、腹の奥から出ていた。
◇ ◇ ◇
雨は、まだ降っていた。
だが、耳に入るそれは、夜の雨とは違っていた。軽やかで、やわらかく、まるで誰かの呼吸のように静かだった。
八雲は、まだ眠るレンの背に手を添えたまま、浅い呼吸を重ねていた。
その体温は、確かに隣にあった。
彼女は、もう音で評価される女ではなかった。
声が震えてもいい。
出なくても、喉が詰まっても、それでも伝わると、彼女自身が信じたのだ。
レンが小さく身じろぎする。
「……ふにゃ……八雲さん……おはよ……」
眠たげな声だったが、音が戻っていた。
そしてその声は、昨日より、わずかに低く、しかし確かに、腹の奥から出ていた。
「おはよう、レン」
「んー……声、出てる?」
「ああ。ちゃんと、届いてる」
彼女は目を閉じたまま、唇を少し吊り上げた。
「じゃあ、もう少し……寝てもいい……?」
「ああ」
八雲は優しく頷き、彼女の額にキスを落とす。
◇ ◇ ◇
その数刻後。
雨脚が少し弱まり、庵の外では、綾音と響が朝食の準備を進めていた。響は黙々と飯を蒸し、綾音は火の管理を担っている。
その静けさのなか、庵の戸が静かに開いた。
「……おはよー……」
声がした。
その声に、響がわずかに顔を上げる。
「レン、さん」
「うん。ただいま……って言うのも変か。でも、朝の挨拶……久々に自分の声で出せた気がしてさ」
レンは濡れた髪をひとまとめにし、火のそばへと座った。
その動作ひとつひとつに、疲労はある。
けれど、後ろめたさはなかった。
綾音が、湯を注いだ椀をそっと渡す。
「おかえりなさいませ。八雲の女として」
レンは一瞬だけ、目を見開いた。
が、すぐに、頬を緩めて笑う。
「……はいっ」
響はそのやり取りを見ながら、ぽつりと呟いた。
「声って、いいな」
「……うん?」
「私、ずっと音でしか伝えられなかったから……声って、自由だなって。雨みたいに、泣いても、震えても、誰かの耳に届くから」
レンは、少し考えたように目を細め、そして言った。
「じゃあ、わたしがその分、響ちゃんの声の代わりになるよ」
「……え?」
「響ちゃんが思ってること、わたしが言葉にする。だってわたし、八雲さんに抱かれてようやくわかったんだ。声って、伝わるって信じることなんだよ」
響は、何も言わなかった。
けれど、湯気の向こうで、彼女の頬がほんのり赤くなっていた。
そしてその時。
庵の柱に凭れていた玲が、くすっと小さく笑った。
「やっと群れになったわね」
「群れ?」
「女たちが、同じ男を想うとき、本当の群れになる。群れは、時に争う。だけどそれ以上に……互いに、歩調を合わせ始めるのよ」
その言葉に、レンも、響も、綾音も、静かに頷いた。
雨は、まだ続いていた。
けれど、その音はもう、孤独ではなかった。
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