第12話 綾音の決意と神環の縁
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あらすじ
神環ノ縁~和風ソシャゲのモブ神主に転生したので巫女たちと縁を繋いで穢れを祓います~ - 第12話 綾音の決意と神環の縁
本文
霧が、濃かった。
山間の神域にある古い社の縁側。昼であるにもかかわらず、陽は届かず、草木の輪郭さえ曖昧だった。
だがその霧の中に、ひとつ、くっきりとした気配があった。
都の気。
「相里家の命により、御迎えに上がりました。巫女姫、綾音様」
その声は、明確な威圧を持って空気を割った。
八雲たちの庵の入り口に立っていたのは、黒衣の若い神職だった。薄く整った眉。青白い肌。神官装束の着こなしは完璧で、細部にいたるまで貴族の余裕がにじんでいた。
彼の名は、相里真蔵。
綾音と同じ五家・相里の血筋を持ち、都の本殿にて神環継承儀式の監査役を務める人物である。
綾音は、その名が告げられた瞬間から、口元の笑みを微かに凍らせていた。
「ご足労、感謝いたします。真蔵様」
「礼には及びません。姫は都のものです。都が姫を迎えに参るのは、自然なこと」
淡々と返す声には、感情が欠片も含まれていない。だがそれは冷酷とは違った。むしろ、綾音という存在を機能として扱っていることへの確信からくる、構造的な冷たさだった。
「……ご命令の内容、承りました。帰還命令と……もう一つは?」
「綾音様と臣下第一家・西園寺家との婚姻交渉の継続確認。現在、神環宮では御母堂様より正式な許諾の通達が届いております」
その言葉に、レンが眉をひそめる。
響も、小さく口を開きかけ。
だが、八雲が一歩進み、二人を制するように軽く手を上げた。
綾音が、それに気づく。
そして、小さく、頭を下げた。
「わたくしより、都へ伝言をひとつ。綾音は、神環の流れに従い、ただしく応じる。ただし、結論を出すには一夜の猶予をいただきたく、よろしゅうございますか」
「……姫の思案であれば、異議はありません」
真蔵が一歩下がり、静かに退出する。
その背中が消えた瞬間、綾音は手の中の湯呑を、そっと置いた。
陶器の底が、卓に小さくぶつかる音が鳴った。
それは、彼女の平静が崩れはじめた証だった。
レンが声をかけようとするが、綾音は微笑で遮った。
「ごめんなさい。今夜は、わたくし、ひとりにしていただけますか」
「綾音さん……」
「大丈夫。……これは、わたくしの問題です。八雲様にも、できましたら、夜更けまで、お待ちいただけますか」
八雲は、ただ頷いた。
綾音の目が、ほんの少し揺れていた。それは、彼女が姫ではなく綾音として、誰かを頼るために絞り出した視線だった。
そして、その夜。
八雲は、綾音が張った結界の内へと、ただひとり足を踏み入れる。
◇ ◇ ◇
夜は、霧よりも静かだった。
火は焚かれていない。灯りも、結界内に持ち込まれていない。だが、八雲は迷わずその空間を見つけた。
結界は、外からは透明だが、内側に立つ者にだけ微かに音として気配を伝える。
まるで、呼吸のように。
「……入っても、よろしいでしょうか」
その声に、帳の向こうから返ったのは、声ではなく、沈黙だった。
だが、それは拒絶ではなかった。
応答なき肯定。
だから八雲は、音もなくその布をくぐった。
その先にいたのは、姫ではなかった。
濃紺の夜衣。髪はほどかれ、肩に落ちるままに。頬は上気し、唇はわずかに潤んでいる。背筋は凛と伸びているのに、どこか頼りなさが滲む姿。
それは、綾音だった。
彼女は、目を合わせなかった。
ただ、床に座し、脚を折って、掌を重ねていた。
「……八雲様」
やがて、囁くような声が落ちる。
「わたくしは、いえ、綾音は……この身に名前を抱いて生きてまいりました」
「巫女姫という名か」
「はい。姫は選ばれるもの。姫は触れられないもの。そして、姫は、女ではない。そう、教えられてきました」
その言葉には、冷静な語り口の奥に、確かな熱があった。
「でも、あなたに触れられた日から、わたくしのなかで何かが音を立てて変わり始めたのです」
八雲は黙って耳を傾けていた。
綾音は言葉を選ぶように、小さく息を整えてから続けた。
「レンさんが声を失ってなお女であろうとした日、響さんが音しか持たずに抱かれた日。……そして、わたくしが名前を脱ぎ捨てたいと初めて思った今夜」
彼女は、ゆっくりと八雲を見上げた。
「……どうか、姫ではないわたくしを、今夜だけでいい、抱いてくださいませんか」
その言葉は、あまりに、静かだった。
だがその一音は、今まで八雲が聞いたどんな戦いの叫びよりも深く、確かに胸を撃ち抜いた。
「……名を、呼んでも?」
「どうか……綾音と、女として、抱いてください」
彼女の背筋は、凛と伸びたままだった。
だが、その目元は、涙に濡れていた。それは、悲しみではなかった。名を捨て、仮面を脱いだ綾音という一人の女が、初めて誰かに触れてほしいと願った、解放の涙だった。
八雲はその名を、静かに呼ぶ。
「……綾音」
その名が、結界の内に、やわらかく、けれど確かに響いた。
綾音の指先が、小さく八雲の袖を掴んだ。
その仕草が、抱擁の許しだった。
そして、夜が深くなるほどに、姫ではない綾音という名の女の輪郭が、八雲の手の中でほどかれていく。
◇ ◇ ◇
「……綾音」
再び名を呼んだ瞬間、彼女の肩が小さく揺れた。
その揺れは、緊張の証ではなく、許しの合図だった。八雲の掌が、そっと彼女の頬へと伸びる。指先が肌に触れると、綾音の瞳が、細く閉じられる。
その睫毛の長さ。
潤む黒曜の瞳の奥に宿る、抑えてきた熱。
それらすべてが、綾音という名を持つ、ひとりの女の証明だった。
「……肌が、熱いな」
「はい……この服を選んだのも、今日のわたくしの意思です」
綾音は、自ら夜着の紐に指をかけた。
滑らかな布が、静かにほどける。胸元から覗く白い肌は、どこか傷つきやすい陶磁器のようで、それでいて、触れればすぐに音を立てて壊れてしまいそうな、ひとりの女の柔らかさを孕んでいた。
八雲はゆっくりとその肩へ手を添え、そっと、彼女の身体を寝具のうえへと横たえる。
抗う力はなかった。
だが、それは服従ではない。
委ねるという選択。
綾音の指先が、八雲の手の甲をなぞった。
「……八雲様。今日は、綾音と呼んでくださらないと、反応できません」
その声音は冗談めいていたが、そこに籠められた意図は明確だった。
「分かった。……綾音」
八雲は名を呼びながら、彼女の頬に手を添える。
「……姫のわたくしなら……こんなふうに触れられることも、決して許しませんでした」
「でも、今は綾音だ」
「……はい」
やがて、ふたりは静かに結ばれた。
綾音は、自分という名を持つ女として、八雲に抱かれた。
姫としてではなく。
巫女姫としてでもなく。
ただ、綾音という、ひとりの女として。
その夜、結界の内で交わされた言葉は少なかった。
けれど、触れ合う温もりと、重なり合う呼吸の中で、綾音という女は確かに生まれ変わった。
名を呼ばれ、名を持つただの女として、この世に存在を許された夜だった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
霧は、まだ薄く残っていた。
だが、空は昨日よりも高く、どこか、澄んでいた。
庵の前庭に、整列する都の随行者たち。
その中央に、黒衣のまま立つ特使、相里真蔵。
「で、ございますか?」
彼の声は、どこまでも冷静だった。
目を細めながら、綾音の言葉を反芻している。
「はい。わたくし、綾音は、都への帰還命令を辞退いたします」
「理由は?」
「ここが、わたくしの居場所だからです」
その声は、静かだった。
だが確かに、誰にも屈しない、ひとりの女の声だった。
「相里綾音は、巫女姫であると同時に、ひとりの女として、ひとりの男に選ばれました。それを、自ら受け入れました。だからこそ、今、都の道ではなく、彼と在る道を選びます」
その言葉に、真蔵のまなじりがわずかに動いた。
「……彼とは、まさか、宮司・八雲殿のことか」
「はい」
「それは、一時の情欲ではなく?」
綾音は、否定しなかった。
ただ、真っすぐに応じた。
「そうであっても結構。けれど、それがわたくしの願いである以上、すでにそれは巫女姫の意志ではなく、綾音のものです」
次の瞬間だった。
霊気が、揺れた。
風がないのに、衣が揺れる。
空気がひりつく。
そこにいた誰もが、はっきりと感じた。綾音の身体から、巫女姫とは異なる質の神気が、静かに、しかし確かに、立ち上っていた。
それは、巫女姫ではない、ひとりの霊的媒介者としての誕生だった。
真蔵は、目を細めたまま言葉を絞る。
「……霊格が、変わった……?」
「違います。気づかれましたか?」
綾音の声に、ほのかに微笑が混じった。
「名を捨て、名で抱かれた女には、もう別の神環が宿るのです」
「よろしゅうございますか。真蔵様」
それまで黙っていた八雲が、初めて言葉を発した。
「綾音は、もはや都の器ではありません。神環の女であり、わたしの巫女です」
沈黙が落ちた。
数息のあいだ、真蔵は何も言わず、空を見た。
そして、一歩、後退する。
「……都に報告いたしましょう。綾音様……相里綾音は、神環に選ばれたと」
そう言って、彼は踵を返す。
従者たちが静かに列を成し、霧の奥へと姿を消していった。
風が吹いた。
綾音の髪が揺れ、八雲の袖に指先が触れる。
「……言ってしまいました」
「後悔は?」
「ありません。でも、今だけ……この手に、綾音と呼んでいただけますか」
八雲は頷き、彼女の手を取り、その甲に、そっと口づけた。
「綾音」
その名は、神環ではなく、都でもなく、愛によって響いた名だった。
◇ ◇ ◇
静けさのなかに、風が流れていた。
都の特使一行が去った神域の片隅で、まだ雨は完全に上がっていない。それでも、空気は澄んでいた。
まるで誰かが深く息を吐いたあとのように。
空も、木々も、すべてが息を整えたような感触だった。
庵の縁に腰掛けた綾音は、夜着の上から白い外衣をまとい、小さな湯呑を両手で包んでいた。八雲は隣で無言のまま、彼女の所作を見守る。
言葉はない。
けれど、彼女の姿に姫の面影はなかった。
肩の力が抜け、口元には、作らない微笑がある。
それはまぎれもなく、綾音だった。
「……あの方は、報告するのでしょうね。綾音は男に抱かれたと」
「報告するだろうな。神気が変質したと」
綾音は、苦笑いを浮かべた。
「それでも構いません。わたくしの神気が変わったのだとして、それは、あなたに触れられた結果です」
「……すまない。重荷を背負わせたな」
「いいえ、八雲様」
彼女は八雲の袖をそっと掴み、淡く潤んだ瞳で見上げる。
「あなたと在るという重みなら、喜んで背負います」
そのやり取りを、陰から見つめる影が三つ。
庵の柱に凭れるように立つ玲。
食事を配膳していた響。
そして、空になった椀を持ったままこちらを覗き込むレン。
それぞれが、言葉にしないまま、それでも確かに、綾音という女の変化を見ていた。
レンが最初に動いた。
小さく笑いながら、盆を手に縁へと近づく。
「おかえり、綾音さん」
綾音は、僅かに瞬きしてから、微笑で応じる。
「ただいま、レンさん」
「なんていうか、雰囲気変わったね。姫からオンナになったというか」
「……やっぱり、分かりますか」
「うん。声が違う。……喉じゃなくて、お腹から響いてる音になってる」
レンは笑いながらも、どこか羨ましげに呟いた。
続いて玲が、器用に腕を組んだまま、片眉を上げる。
「綾音様。戦う姫は捨てたんですか?」
「いえ。戦うために、姫を脱ぎました」
その答えに、玲はにやりと笑った。
「……気に入りました」
響は、湯の表面をそっと見つめたまま言う。
「……綾音さんの音、さっきの空に流れてた。なんだか、決まった音じゃない感じがして……うらやましかった」
綾音は、驚いたように目を見開き、そして、静かに頷いた。
「では今度、あなたの音と、わたくしの声で、一つの旋律を作りましょう」
その言葉に、響がほのかに笑う。
そして、沈黙のなか、女たちは座を囲んだ。
それぞれが、八雲に触れ、それぞれが、八雲に抱かれ。
だが互いに、何かを壊すことなく、繋がりとしてこの空間に在る。
誰かの声が、誰かの音に重なり、誰かの静けさが、誰かの心を包む。
その中心に、八雲がいた。
媒介者ではなく。
女たちの縁を受け入れる男として。
雨が、やんだ。
風が、湿った葉をなでていた。
そしてその夜、綾音は八雲の隣に身を横たえ、そっと耳元で囁く。
「綾音という名を、もう一度……わたくしだけのために」
八雲はその名を、迷わず呼んだ。
「綾音」
そして、その名の響きは。
夜の闇に吸い込まれることなく、ずっとふたりのあいだで、優しく鳴り続けていた。
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