1節 豊洲、夜の水辺
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
ある刑事の叙事詩 《夜の王国 ~選択と調整の病理~》
本文
## 【第1章 失われた日常】
### 【1節 豊洲、夜の水辺】
東京湾から吹き上げる夜風は、生ぬるく、潮の匂いを含んでいた。
豊洲の再開発地区。整えられた歩道と無機質な高層ビル群は、深夜にもかかわらず、どこか人工的な明るさを保っている。その光が、今夜はやけに現実感を欠いて見えた。
小坂 凌は、規制線の内側に立ち、運河沿いの遊歩道を見下ろしていた。
街灯に照らされた水面が、わずかに揺れている。そのすぐ脇で、男が一人、仰向けに倒れている。すでにブルーシートは掛けられていたが、輪郭だけで十分だった。死体という存在は、いつも周囲の空気を変える。
「争った形跡は、ほぼありません」
鑑識の声が背後から届く。
小坂は短く頷いた。
「刃物は?」
「まだ見つかっていません。ただ、切り口はきれいです。ためらいがない」
プロの仕事だな、と誰かが小さく呟いた。
小坂はその言葉を聞き流し、視線を足元へ落とした。被害者の胸元、ブルーシートの端から、白い紙片が覗いている。
「……あれは?」
鑑識が一瞬、言葉を詰まらせたあと、ピンセットで紙を引き抜いた。
折り畳まれたコピー用紙。そこに、黒のインクで短い一文が印字されている。
『これは罰ではない。調整だ』
小坂は、その文字を黙って見つめた。
挑発でも、愉快犯の悪戯でもない。そう直感的に感じた。言葉の選び方が、あまりにも冷静すぎる。
「メッセージ、ですかね……」
若い鑑識が不安そうに言う。
小坂は答えず、周囲を見渡した。防犯カメラ。街灯。人通りの少ない時間帯。だが、完全な死角は存在しないはずだった。
――にもかかわらず、犯人の痕跡は、ほとんど残っていない。
「無差別……ですか?」
今度は別の声。
振り返ると、少し離れた場所に、朝霧 葵が立っていた。新品のスーツに身を包み、規制線の向こうを落ち着きなく見つめている。現場に立つのは、これでまだ数えるほどだ。
「まだ分からない」
小坂は静かに答えた。
朝霧は、その言葉にわずかに肩を強張らせた。
「でも、被害者は会社役員ですよね。金銭トラブルも、恨みも、今のところ……」
「“今のところ”だ」
遮るように言うと、朝霧は口を閉ざした。
小坂は、再び運河へ視線を戻す。夜景に溶け込むように、ここはあまりにも整いすぎている。人が死ぬ場所としては、出来すぎている。
胸の奥に、微かな違和感が残っていた。
理由は説明できない。ただ、これを「通り魔」で片づけていいとは、どうしても思えなかった。
正義だの、悪だの。
そういう言葉以前に、もっと乾いた意図が、この現場には漂っている。
小坂は、紙片の言葉を、もう一度だけ思い返した。
――調整。
その意味を、まだ誰も理解していない。
---
--audio-start:{"audioId":"audio_1768288269824_gomdcik9w","audioType":"bgm","title":"調整の影22kHz","url":"https://pub-7da1aad0507b426ab7d774c64067bff3.r2.dev/audio/2026/01/68fe041f4cc950c2ddb1ab3a/bfd31318-1621-4d4e-a075-a8bc914c0364.opus","duration":191.36,"settings":{"volume":80,"fadeIn":2,"fadeOut":2,"loop":false}}--
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。