1節 豊洲、夜の水辺(続)
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
ある刑事の叙事詩 《夜の王国 ~選択と調整の病理~》
本文
## 【第1章 失われた日常】
### 【1節 豊洲、夜の水辺(続)】
現場を離れる直前、小坂はもう一度、運河沿いの遊歩道を見回した。足跡はほとんど残っていない。清掃が行き届き、人工芝と舗装路が混在するこの一帯は、痕跡を拒むように整えられている。人の生活が削ぎ落とされ、事件が起きても“汚れ”が残りにくい場所だ。
――選ばれた、という感覚があった。
被害者がここに呼び出されたのか、通りかかったのか。その違いは大きい。だが、どちらにせよ犯人は、時間と場所を正確に把握していた。偶然の匂いは薄い。
「小坂さん」
朝霧が一歩近づいてきた。夜風に髪が揺れ、緊張のせいか、呼吸が浅い。
「無差別じゃない、ってことですか」
問いは直球だった。
小坂は少し考え、言葉を選ぶ。
「可能性の話だ。現時点では、断定できない」
「でも……」
朝霧は唇を噛み、規制線の向こうに視線を走らせた。集まった野次馬は少なく、スマートフォンを構える者もまばらだ。深夜という時間帯が、まだ事件を“消費”させていない。
「もし、狙われたんだとしたら……理由がある、ってことですよね」
小坂は否定も肯定もしなかった。
理由――それは、刑事にとって最も厄介な言葉だ。理由がある犯罪は、感情を呼び込む。感情は判断を鈍らせ、組織を揺らす。
「朝霧」
「はい」
「被害者の経歴は?」
「五十代。中堅企業の役員。家族あり。トラブルは、今のところ報告なしです」
“今のところ”。
その言い回しに、二人の視線が一瞬だけ重なった。
捜査本部は、霞が関の庁舎内に設けられた。無機質な蛍光灯の下、ホワイトボードには簡潔な事実だけが並ぶ。発見時刻、死因、凶器不明、犯行声明めいた紙片。上層部は早期解決を口にし、広報は無差別殺人の可能性を示唆する。
小坂は椅子に腰を下ろし、資料に目を通しながら、あの言葉を頭の中で反芻していた。
――調整。
それは、裁きではない。
罰でもない。
秩序を保つための、作業。
そんな冷たい響きが、言葉の裏に潜んでいる。
「小坂」
上司の声に顔を上げる。
「この線で行く。無差別だ。世論を刺激する言い方は避けろ」
「……了解しました」
返事はしたが、胸の奥に小さな棘が刺さったままだ。
無差別。便利な言葉だ。考える手間を省き、恐怖を一括りにできる。
だが、現場の空気は、そんな単純さを拒んでいた。
捜査本部を出ると、廊下の自販機前で朝霧が待っていた。紙コップのコーヒーを両手で包み、落ち着きなく視線を泳がせている。
「……納得、してないですよね」
小坂は苦笑にもならない表情で肩をすくめた。
「刑事は、納得より先に動く仕事だ」
「でも、納得しないまま動くの、嫌じゃないですか」
真っ直ぐな問いだった。
小坂は、返す言葉を探しながら、彼女の横顔を見た。理想をまだ手放していない目だ。羨ましさと、危うさが同時に浮かぶ。
「嫌だよ」
短く答える。
「だから、考え続ける」
朝霧は、その言葉を噛みしめるように頷いた。
その夜、小坂は帰宅せず、資料を洗い直した。被害者の会社。過去の訴訟。内部告発の噂。どれも決定打にはならない。だが、点は確実に増えていく。
法で裁けない何か。
記録に残らない傷。
それらを、誰かが“数えている”としたら。
時計は午前四時を回っていた。
窓の外、東京の灯りは、まだ眠らない。
小坂は資料を閉じ、静かに息を吐いた。
この事件は、始まったばかりだ。
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