1節 豊洲、夜の水辺(終)
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
ある刑事の叙事詩 《夜の王国 ~選択と調整の病理~》
本文
## 【第1章 失われた日常】
### 【1節 豊洲、夜の水辺(終)】
午前五時過ぎ。
庁舎の窓から見える空が、わずかに白み始めていた。夜と朝の境界は曖昧で、どちらにも属さない時間帯だ。小坂はその色合いが嫌いではなかった。物事がまだ定義されていない、仮の状態。その隙間に、真実は顔を出す。
机に置かれた資料の束。その一番上に、現場写真があった。水辺に横たわる被害者の姿は、どこか整然としている。暴力の痕跡はあるが、激情は感じられない。殺すこと自体が目的ではない――そう語りかけてくる。
小坂は写真を裏返し、目を閉じた。
刑事になった理由を、思い出す。
特別な動機があったわけではない。理不尽な事件を見て、憤ったわけでも、家族を失ったわけでもない。ただ、“見過ごされるもの”が嫌だった。声を上げられない人間が、秩序の名の下に切り捨てられる構図が。
だが今、目の前にいる犯人は、その構図を逆手に取っている。
「……調整、か」
呟きは、蛍光灯の音に吸い込まれた。
ドアがノックされ、朝霧が顔を出した。少し疲れた様子だが、目は冴えている。
「小坂さん、被害者のスマホ解析、進展ありました」
「何が出た」
「事件当日の夕方、怪しい通話が一本。通話時間は三十秒ほどです」
小坂は即座に立ち上がった。
「内容は?」
「録音はありません。でも、位置情報からすると……被害者は、その後まっすぐ豊洲に向かっています」
呼び出された。
その事実が、静かに確定した。
「発信元は?」
「通話相手は“調整者”という登録名ですが――」
朝霧は一瞬、言葉を切った。
小坂が視線を向ける。
「“調整者”?」
「はい。しかし、秘匿性の高い通信アプリが使われており、発信元は特定できませんでした。サイバー犯罪対策課も解析を試みていますが、手がかりは得られていません」
「完全に一方的な連絡ということか」
小坂の背筋に、冷たいものが走った。
点が、線になりかけている。
「朝霧。この情報、上には?」
「まだです。判断を仰ごうと思って」
一瞬の沈黙。
組織の判断は早い。だが、早すぎることもある。芽の段階で摘まれれば、真実は永遠に埋もれる。
「……俺が行く」
「え?」
「報告は俺がする。その前に、もう少し洗おう」
朝霧の顔に、迷いと安堵が同時に浮かんだ。規則違反だと分かっている。だが、彼女は頷いた。
「はい」
庁舎を出る頃、東京は完全に朝に切り替わっていた。通勤客が行き交い、事件の匂いは薄れていく。だが、街の表情が平穏であればあるほど、小坂の胸はざわついた。
この街には、数えきれない“不均衡”がある。
それを是正しようとする者が現れたとき、刑事は何を守るべきなのか。
法か。
秩序か。
それとも、人か。
小坂は立ち止まり、ビルの谷間から昇る朝日を見上げた。
眩しさに目を細めながら、心の奥で決意が固まっていく。
――この事件は、単なる殺人ではない。
思想だ。歪んだ正義だ。
そして、その正義と向き合う覚悟が、自分にはある。
携帯が震えた。
新たな着信通知。
登録済みの相手。
だが、小坂はなぜか、その画面から目を離せなかった。
物語は、静かに次の局面へと踏み出す。
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