2節 連鎖の兆し
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
ある刑事の叙事詩 《夜の王国 ~選択と調整の病理~》
本文
## 【第1章 失われた日常】
### 【2節 連鎖の兆し】
午前九時。
東京はすでに、何事もなかったかのような顔で動き始めていた。満員電車、交差点を埋め尽くす人波、カフェのガラス越しに見える日常。昨夜、豊洲の水辺で一人の男が死んだことを、この街はまだ知らない。
小坂凌は警視庁捜査一課のフロアを歩きながら、その“温度差”を肌で感じていた。事件は起きた瞬間から被害者にとっては終わりだが、社会にとっては、ほんの一つのノイズに過ぎない。だからこそ、刑事は声を拾わなければならない。
「おはようございます」
朝霧が小走りで追いついてくる。スーツはまだ身体に馴染んでおらず、肩のあたりに硬さが残っている。それでも背筋は伸び、目だけは妙に真剣だった。
「お前、睡眠、取ってないだろ」
「小坂さんもですよね」
互いに苦笑し、並んで歩く。
昨夜から続く緊張が、二人の距離をわずかに縮めていた。
捜査会議室では、既にホワイトボードが更新されていた。被害者・**相馬 健二**。勤務先、家族構成、交友関係。どれも平凡だ。平凡すぎる。
「被害者の会社関係、洗いました」
若手刑事が報告する。
「内部不正、ハラスメント、リストラ関係……特筆すべきトラブルは見当たりません」
その言葉に、空気が少し緩む。
“やはり無差別か”という安堵が、無意識に広がる。
小坂は、その流れを断ち切るように口を開いた。
「相馬は、半年前に社内でコンプライアンス委員を務めていたな」
「はい。形式的な役職ですが」
「形式的でも、判を押す立場だ」
視線が集まる。
上司が小坂を見た。
「何が言いたい」
「まだ仮説ですが……誰かの人生を“是正”する側にいた可能性があります」
一瞬の沈黙。
だが、上司は首を横に振った。
「こじつけだ。裏が取れない話を広げるな」
会議はそのまま、無差別殺人線で進んだ。
小坂は、それ以上食い下がらなかった。今は時期が悪い。
会議後、朝霧が声を潜める。
「……納得してない顔ですね」
「顔に出てたか」
「かなり」
小坂は小さく息を吐いた。
「朝霧、被害者の家族対応、行けるか」
「え、私が?」
「遺族から話を聞く。警察が公式に動く前に、温度を知りたい」
一瞬、逡巡。
だが、朝霧はすぐに頷いた。
「行きます」
その即答に、小坂は一抹の不安を覚えた。
正義感が強すぎる。被害者側に感情移入しすぎる危険がある。
それでも、止めなかった。
今は、その“熱”が必要だと判断した。
昼過ぎ。
朝霧は一人で、相馬の自宅マンションを訪れていた。中層階、ファミリー向け。インターホン越しに応答したのは、若い女性の声だった。
「……はい」
「警視庁の者です。お時間、少しいただけますか」
沈黙の後、ドアが開いた。
現れたのは、二十代後半ほどの女性。目の下に隈があり、昨夜から泣き続けたことが一目で分かる。
「娘さんですか」
「……はい」
朝霧は一瞬、言葉に詰まった。
被害者のプロフィールには、“妹”と記載されていた。
小さな違和感。
だが、その場では、まだ意味を持たない。
その頃、小坂の携帯が震えた。
秘匿性の高い通信アプリ。
登録名は――“調整者”。
胸騒ぎを覚えながら、通話ボタンを押す。
「何者だ」
『――次は、もう少し分かりやすくしようと思います』
低く、感情の起伏を感じさせない声。
一瞬で、背筋が凍った。
「お前は、誰だ」
返答はなかった。
通話は、切れていた。
無差別ではない。
それを、犯人自らが証明しに来た。
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