4節 境界線のこちら側(終)
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
ある刑事の叙事詩 《夜の王国 ~選択と調整の病理~》
本文
## 【第1章 失われた日常】
### 【4節 境界線のこちら側(終)】
神田の夜は、思った以上に静かだった。
古い雑居ビルが立ち並ぶ通り。飲食店の明かりはすでに落ち、路地にはエンジン音も、人の気配もない。足音だけが、やけに大きく響く。
「位置、まだ動いてます」
朝霧がスマートフォンを確認しながら言う。
「ビルの中……上階です」
小坂は立ち止まり、周囲を見渡した。
この場所を選んだ理由。
逃げ場の少なさ。
視線の遮断。
――罠だ。
「焦るな」
「でも……」
「相手は、“追われる側”の動きを計算してる」
朝霧は唇を噛み、頷いた。
二人はビルの裏手に回り、非常階段を見つけた。鉄製の段を踏むたび、微かな軋みが夜気に溶ける。
三階。
四階。
そのとき――
上階から、低い悲鳴が落ちてきた。
「――っ!」
朝霧が走り出そうとするのを、小坂が腕を掴んで止める。
「単独で行くな」
「でも、今の声……!」
「分かってる。だから――二人で行く」
五階。
扉は、半開きだった。
中は、簡易的な事務所のような空間だった。古いデスク、積まれた段ボール、剥がれかけた壁紙。照明は一つだけが点いている。
その中央に、男がいた。
――縛られている。
椅子に座らされ、口元にはガムテープ。目は恐怖で見開かれ、必死に何かを訴えようとしている。
「警察だ!」
小坂が叫ぶ。
次の瞬間、照明が落ちた。
暗闇。
同時に、背後で風を切る音。
「伏せろ!」
小坂が朝霧を突き飛ばした。
金属音が、壁を叩く。
ライトを点けると、床にナイフが転がっていた。
――投げた。
犯人は、すでに“ここ”にいない。
「……逃げられた」
朝霧の声が震える。
小坂は、縛られた男に駆け寄り、ガムテープを剥がした。
「大丈夫ですか」
「た、助けて……あいつ、あいつは……」
男は、震えながら指差した。
デスクの上。
そこに、一枚の紙が置かれている。
『裁くべき者は、裁かれなかった』
小坂は、紙を手に取った。
もう、偶然ではない。
七年前の事件と、同じ匂い。
――同じ思想。
犯人は、ずっと前からここにいる。
警察が見逃し、
社会が放置した“歪み”を、
静かに数え続けてきた。
「小坂さん……」
朝霧が、かすれた声で呼ぶ。
「これ、挑発ですよね」
「ああ」
小坂は、紙を畳んだ。
「そして、宣言だ」
犯人は告げている。
次は、もう“未遂”では終わらせないと。
パトカーのサイレンが、遠くから近づいてくる。
助かった命。
だが、失われなかっただけだ。
この先に待つものは、もっと重い。
小坂は、無意識に拳を握り締めていた。
過去の後悔。
今の責任。
そして、これから選ばされる決断。
正義は、境界線のこちら側にある。
だが、一歩間違えれば、簡単に向こう側へ落ちる。
朝霧は、助け出された男を見つめていた。
「……間に合いました」
「そうだな」
小坂は答えた。
「だが、戦いは始まったばかりだ」
犯人は、彼らを見ている。
どこかで、必ず。
その視線を受け止めながら、
小坂凌は、静かに覚悟を固めた。
――今度こそ、見逃さない。
---
(第2章へ続く)