佐藤さん
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あらすじ
再開発で社を失った路端の稲荷神は、生き延びるために人に化け、心霊探偵になった。 ――祈りも、欲望も、呪いも、まとめて引き受けるために。 これは人に化けた稲荷神と、神を信じない霊能者が怪異と人間の業の後始末をする、現代日本怪異譚。
本文
モニター付きインターホンが鳴ったのは、夕方前だった。
短く、一度だけ。
創は競馬新聞から目を上げ、モニターを見る。
画面に映っていたのは、見知らぬ男だった。
年齢は四十前後。
無精ひげは整えられているが、どこか生活感が薄い。
服装は地味だが、妙に清潔で、どこか浮いた人物だった。
創が応答ボタンを押す。
「……何だ」
『児玉 真彦と申します』
声は穏やかだった。
『民俗学をやっていまして。こちらに、少し変わったご相談が』
「心霊相談か」
『いえ。人探し……でもない』
一拍。
『“佐藤さん”を探しています』
創の指が、わずかに止まった。
「……誰だそれ」
『身元不明で客死した人を呼ぶ警察の隠語で、同時に人ではないものの名です』
創は、ため息を一つ吐く。
「入れ」
ほどなくして事務所のドアが開き、児玉が入ってくる。
きちんと一礼。
視線は室内を一通り見回すが、落ち着かない様子はない。
変人だが、礼は知っている。
創はそう判断した。
「座れ」
「失礼します」
児玉は腰を下ろし、革張りの鞄を膝に置いた。
「まず言っておきます」
児玉が、前置きもなく切り出す。
「私は呪物コレクターです」
朔夜が、わずかに眉を上げる。
創は、何も言わない。
「困っていましてね」
児玉は苦笑した。
「描きたいんですよ。“佐藤さん”を」
「描く?」
「ええ。絵のモチーフとして」
児玉は鞄を開け、慎重に中から何かを取り出した。
――革手袋。
右手用だけ。
年季の入った黒革。
だが。
テーブルに置かれた瞬間、空気が変わった。
朔夜の背筋が、ぞくりと粟立つ。
見えないはずの“輪郭”が、そこにある。
創は、目を細めた。
「……なるほどな」
児玉は、手袋に触れないよう、指先を浮かせたまま言う。
「これは、佐藤さんの“一部”です」
朔夜が、はっきりと顔を上げる。
「……一部?」
「ええ」
児玉は頷いた。
「突然死した大学生が握り締めていたんです。彼は一人暮らしでしたが、身元は分かっています。ごく普通の学生です」
「じゃあ、そいつが佐藤さんじゃ……」
「違います」
即答だった。
「彼は、最後に――佐藤さんから、これをむしり取ったんです」
沈黙。
朔夜の視線が、革手袋から離れない。
創が、低く言う。
「……現実に、立ち現れてたってことか」
「はい」
児玉は、淡々と続ける。
「夢の中の存在だった佐藤さんは、その時“こちら側”にいました」
「で、大学生は」
「抵抗した」
児玉はそう言った。
「逃げ切れなかった。でも、掴んだ。握り締めたまま、死んだ」
革手袋を、ちらりと見る。
「だからこれは、貴重なんです」
創が、鼻で笑う。
「呪物コレクターらしい言い方だ」
「事実ですから」
児玉は悪びれない。
「欠損したままの妖は、不安定になる。だから佐藤さんは、まだ完全ではない」
朔夜が、静かに口を開いた。
「……だから、特徴が分からない?」
「そう」
児玉は、少しだけ悔しそうに言う。
「描こうにも、姿形が掴めない。分かるのは“佐藤さん”という名前と、あれが妖だということだけ」
「困ってる、っていうのは……」
「創作的に、です」
即答だった。
狂人だ、と朔夜は思った。
だが、筋の通った狂人だ。
児玉は、革手袋を丁寧に鞄へ戻す。
「祓ってほしいとは言いません」
「だろうな」
「特徴を教えてほしい。それだけでいい」
児玉は、別の包みを取り出す。
手作りのいなり寿司。
未開封の高級日本酒。
そして、封筒。
「礼儀です」
「受けるとは言ってない」
「構いません」
児玉は、にこりと笑った。
「納めてください」
創は、しばらく黙って児玉を見ていた。
やがて、ぽつりと言う。
「……あんた、もう一度“佐藤さん”に目をつけられたら、助からんぞ」
「でしょうね」
児玉は、あっさり答えた。
「でも、それでも描きたい」
立ち上がり、深く一礼する。
「では。今日は顔見せということで」
ドアの前で、ふと振り返る。
「ちなみに」
「なんだ」
「私が生きているのは、努力と偶然の産物です」
児玉は、淡々と言った。
「次は、分かりません」
そう言って、帰っていった。
ドアが閉まる。
長い沈黙。
朔夜が、ぽつりと呟く。
「……佐藤さん、夢だけじゃ済まないかもしれませんね」
「済むわけねえ」
創は、革手袋のあった位置を見る。
微かに、異質な気配の斬新が残っていた。
※※※
夢だと気づくまでに、時間はかからなかった。
――だが、目は覚めない。
創は、知らない部屋に立っていた。
天井は低く、蛍光灯が一つ。
白い壁には、長年拭き取られなかったような薄い染みがある。
学生の部屋だ、と直感で分かる。
狭いワンルーム。
ベッド、机、床に置かれたリュック。
開きっぱなしのノートパソコン。
そして。
床の中央に、若い男が倒れ込むように座り込んでいた。
二十歳前後。
一人暮らしの大学生だ。
息が荒い。
喉が、ひくひくと鳴っている。
まだ、生きている。
若者の右手が、異様なほど固く握り締められていた。
黒い、右手用だけの、革手袋。
創が一歩、近づいた瞬間だった。
部屋の奥。
クローゼットの影が、ありえない角度で歪んだ。
影が、立ち上がる。
人の形をしている。
だが、どこか決定的に欠けている。
右腕の先が、途中で途切れている。
“あるはずの部分”が、存在していない。
それでも。
それが、そこに在ることだけは、はっきり分かる。
――佐藤さん。
名前が、思考の奥に直接落ちてきた。
音はない。
だが、視線だけが、若者に向けられている。
逃げ場はない。
若者の喉から、掠れた声が漏れた。
「……やだ……来るな……」
佐藤さんが、一歩踏み出す。
床が、きしんだ。
歩いただけなのに、部屋全体が軋む。
若者は、必死に右手を振り上げた。
何かを掴むように。
何かを、引き剥がすように。
――ずぶり。
肉でも、布でもない。
空気を裂く、不快な音。
佐藤さんの“欠けた右腕”から、さらに何かがもぎ取られる。
若者は、革手袋を握り締めたまま、その場に崩れ落ちた。
今度は、完全に動かない。
目は開いているが、焦点は合っていない。
部屋が、静まり返る。
佐藤さんが、立ち尽くす。
欠けたまま。
未完成のまま。
その“顔”が、こちらを向いた。
創は、はっきりと感じた。
――見られている。
「……創さん」
声がした。
朔夜だ。
振り向くと、朔夜も同じ部屋に立っていた。
顔色は悪いが、意識ははっきりしている。
「これ……同じ夢ですね」
「ああ」
二人とも分かっていた。
これは個人の夢じゃない。
共有されている。
佐藤さんの視線が、二人へ向く。
今度は、値踏みするように。
数を数えるように。
創の指先が、現実と同じ痺れを伝えてきた。
「……期限、ありますね」
朔夜が低く言う。
「一か月だ」
創は即答した。
その瞬間。
佐藤さんが、一歩、こちらへ踏み出した。
世界が、闇に沈む。
※※※
湯呑みの中身は、もう冷めていた。
朔夜は、それを分かっていながら口をつけず、机の一点を見つめていた。
「……期限が一か月なのは、分かりました」
静かな声だった。
「佐藤さんが完全に現実に出る前に、対処しなきゃいけないってことも」
そこまで言って、言葉が止まる。
「でも」
顔を上げる。
「具体的に何をどうすればいいかが、分からないんです」
夢は、ただ怖かっただけじゃない。
条件があることも、期限があることも、はっきり示されていた。
だが。
その条件を、どう満たせばいいのかが見えない。
「身元不明の客死者をどうにかしろ、っていうのは分かります。でも」
朔夜は、正直に続けた。
「誰を探せばいいのか。どこから手を付ければいいのか。そもそも、それで佐藤さんが止まるのか。何一つ、具体像が掴めなくて」
創は、しばらく黙って聞いていた。
競馬新聞を畳み、机の端に寄せる。
「……つまり」
創は言う。
「条件は見えたが、手順が分からん、と」
「はい」
朔夜は即答した。
創は、椅子にもたれかかった。
「なら、順番に噛み砕く。佐藤さんのルールは、こうだ」
一拍置く。
「身元不明の客死者を一人、特定すれば逃げられる」
朔夜は、黙って頷く。
そこまでは理解している。
創は続けた。
「じゃあ次だ。“身元不明”ってのは、誰にとって不明だ?」
朔夜は、少し考えてから答える。
「……警察、ですか」
「そうだ」
創は頷いた。
「記録上、名前が分からない。引き取り手がいない。それだけだ」
指を一本立てる。
「だがな。本人にとってまで、身元が不明なわけじゃない」
朔夜の目が、わずかに見開かれる。
「……死んだ本人は、覚えてる」
「そういうことだ」
創は淡々と言う。
「名前も、住んでた場所も、家族の顔も、忘れる理由がねえ」
朔夜の中で、視界が少し開く。
「……でも」
すぐに現実が追いつく。
「警察も特定できなかったんですよね? 一ヶ月で特定できるでしょうか?」
「警察は“記録”を追うが。俺たちは、“記憶”を追える」
「記憶を、追う?」
「幽霊だよ。やつらの方が、かえって覚えてることが多い。暇だからな」
創は肩をすくめる。
「特に、身元不明の客死になるような現場は、生きてる人間より幽霊の方が詳しい」
朔夜はようやく展望が見えた。
「じゃあまずは、身元不明の客死の現場を洗い出す?」
「そうだ。最近のものが早いだろうな」
創は立ち上がる。
「二人分、必要だ。期限は一か月。遠回りしてる暇はない」
朔夜はスマホを握りしめた。
※※※
最初の現場は、博多区の外れだった。
再開発の波から少し取り残された、マンションと古い住宅が混じる一角。
新築の白い建物の裏手に、まだ取り壊されていない古いアパートが残っている。
「……ここですね」
朔夜が、スマートフォンを確認しながら言った。
「半年前。孤独死。発見まで時間がかかって、身元不明扱い」
「典型的だな」
創は、周囲を一瞥した。
人の気配は少ない。
だが――視えない連中は、やたらと多い。
電柱の影。
自転車置き場の端。
空き缶の積まれた脇。
幽霊たちが、所在なさげに集まっている。
「……ああ、あの人か」
朔夜が、小さく呟いた。
視線の先。
アパートの外階段の下に、座り込む男の幽霊がいる。
年齢は五十代前後。
作業着姿。
肩を落とし、両手を膝に置いたまま、じっと地面を見ている。
朔夜は、スマホを耳に当てる仕草をした。
側から見れば、電話中だ。
「すみません」
声を落として話しかける。
「ここで、亡くなった方ですよね」
男の幽霊が、ゆっくり顔を上げた。
「ああ……まあ、そうだな」
声に、怒りはない。
諦めきった調子だ。
「名前、覚えてますか」
「当たり前だろ」
幽霊は、少しだけ苦笑した。
「忘れる理由がねえ」
朔夜は、息を整える。
「教えてもらってもいいですか」
男は、少し考えてから答えた。
「……山内 恒一」
その瞬間。
空気が、わずかに動いた。
創の指先に、微かな痺れが走る。
「山内……」
朔夜が、すぐに復唱する。
「漢字は?」
「山に、内側の内。恒例の恒に、一」
「年齢は?」
「五十四。建設会社勤め」
「家族は?」
男は、少し黙った。
「……妹が一人。今は北九州だ」
その言葉で、決定的な線が繋がった。
朔夜は、静かに頷く。
「ありがとうございます」
「……あんた、変わってるな」
男の幽霊が言う。
「皆、いなくなった後の話なんて、聞きたがらねえ」
「必要なんです」
朔夜は、短く答えた。
その背後で。
野次馬しにやってきた幽霊の一人が、ぽつりと呟いた。
「……ああ、やっぱ名前あったんだ」
「呼ばれたな」
「これで、向こう行けるんじゃない?」
ざわめきが、ゆっくりと静まっていく。
創は、その変化をはっきり感じていた。
重く、澱んでいた気配が、少しだけ薄くなっている。
「……一人目だな」
低く、確かめるように言う。
その瞬間。
遠くで、何かが“離れた”感覚がした。
夢で感じた、あの視線。
背中に貼りつくようだった圧迫感が、ほんのわずか、後退する。
完全ではない。
だが、確実に。
「……効いてます」
朔夜が、静かに言った。
「佐藤さん」
創は、空を仰いだ。
「約束は守られる、ってことだ」
まだ、期限は残っている。
方法は、見えた。
二人は、無言でその場を後にした。
背後で、山内 恒一の幽霊が、小さく頭を下げていた。
名前を呼ばれた死は、もう”佐藤さん”ではなかった。
※※※
最初の身元特定が終わった翌日。
時塔心霊探偵事務所の空気は、わずかに変わっていた。
重苦しさが消えたわけじゃない。
だが、闇雲ではなくなった。
「……一人、いけた」
創が、湯呑みを手に言う。
「なら、もう一人もやれる」
「問題は、時間ですね」
朔夜はスマホを操作しながら答えた。
「現場を一つずつ当たってたら、間に合わない」
「だからだ」
創は、ちらりと窓の外を見る。
「今回は“人間側”の情報は捨てる」
「幽霊側に振り切る」
その言葉に、朔夜は少しだけ笑った。
「……ですね」
視える者同士の、暗黙の了解。
やり方は、決まっている。
※※※
場所は、博多区と中央区の境目。
再開発で姿を変えつつある地域だ。
古い建物が壊され、新しいマンションが次々と建っている。
つまり――
「死にやすい」
朔夜が、率直に言う。
「事故も、孤独死も、記録が追いつかない」
「で、幽霊は?」
「多いです」
視線を巡らせる。
工事用フェンスの上。
電柱の影。
閉鎖された駐輪場。
透けた人影が、十や二十じゃない。
しかも、妙にざわついている。
「お、来た来た」
「例の二人だ」
「今日は何の用?」
完全に、歓迎ムードだった。
朔夜はスマホを耳に当てる。
側から見れば、通話中の青年。
実際は――聞き込み開始。
「すみません」
声を落として言う。
「最近、身元不明で亡くなった人、知りませんか」
途端に、幽霊たちの目が輝いた。
「出た!」
「探偵ごっこだ!」
「俺知ってる!」
「私も!」
一斉に、声が重なる。
創は、半歩下がってその様子を眺めた。
「……暇つぶしに最適、って顔してんな」
「はい。すごく」
朔夜は、軽く手を上げた。
「一人ずつ、お願いします」
「じゃあ俺から!」
前に出てきたのは、若い男性の幽霊だった。
二十代前半。
工事現場のベスト姿。
「三ヶ月くらい前。あそこの旧アパート」
指差す先は、すでに更地だ。
「夜中に倒れて、そのまま。救急も来たけど、誰も身元分かんなくて」
「名前、聞いたことありますか」
「本人が言ってた」
幽霊は、得意げに言う。
「『俺、藤原だよ』って」
朔夜の指が、止まる。
「……苗字だけ?」
「フルネームも言ってた」
幽霊は、少し考える。
「藤原 健斗。年は四十手前。独身」
――来た。
「家族は?」
「母親が生きてたはず。疎遠って言ってた」
次々に、情報が積み上がる。
他の幽霊も口を挟む。
「酒飲みだった」
「でも仕事は真面目」
「倒れた日、雨だったよな」
朔夜は、すべてをスマホに打ち込んでいく。
記憶の断片。
だが、十分すぎる。
「……足ります」
小さく呟いた、その瞬間。
空気が、また動いた。
昨日よりも、はっきりと。
背中に感じていた“数えられる視線”が、すっと減る。
「……あ」
朔夜が、顔を上げる。
「離れました」
創も、はっきり分かった。
夢で感じた圧迫感。
あれが、消えた。
「二人目だ」
低く言う。
幽霊たちが、ざわめく。
「おお?」
「成功?」
「これで終わり?」
朔夜は、微笑んだ。
「ええ。ありがとうございました」
「また来る?」
「暇な時に」
「絶対来て!」
幽霊たちの探偵ごっこは、大成功だった。
その場を離れながら、朔夜が言う。
「……佐藤さん、完全に手を引きましたね」
「だな」
創は、空を見上げる。
「身元を与えられた死は、もう材料にならん」
佐藤さんは、成立条件を失った。
呆気ないほど、シンプルな結末。
「……児玉さんに、報告はしますよね」
「する」
創は即答した。
「依頼の範囲内だ」
数秒の沈黙。
朔夜は、慎重に言葉を選ぶ。
「でも……たぶん、がっかりします」
「ああ」
創は、苦笑にもならない表情で答えた。
「直接は、会ってねえからな」
佐藤さんは、成立条件を失っただけだ。
姿形を現す前に、霧散した。
特徴も、癖も、声も、動きも。
描けるほどの情報は、何一つ残らなかった。
「描きたかったのは、“佐藤さんそのもの”でしょうし」
「だろうな。だから、描けない」
「……代わりに、あの革手袋、描くかもしれませんね」
「一部だけ残った、未完成の妖。児玉好みだ」
創と朔夜は並んで歩き出す。
「魔に魅入られた人間はな」
創が、低く独り言のように言う。
「完成形より、欠けたままの方を好む」
朔夜は、それ以上何も言わなかった。
佐藤さんは、去った。
だが。
革手袋は、まだこの世にある。
そしてきっと、児玉 真彦はそれを見つめながら、“描けなかったもの”を描こうとするだろう。
それが、あの男の業だから。
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