目覚めるまでは
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あらすじ
再開発で社を失った路端の稲荷神は、生き延びるために人に化け、心霊探偵になった。 ――祈りも、欲望も、呪いも、まとめて引き受けるために。 これは人に化けた稲荷神と、神を信じない霊能者が怪異と人間の業の後始末をする、現代日本怪異譚。
本文
祠に、三本目の鳥居が増えた。
朱の色はまだ新しく、雨にも煤にも染まっていない。
刻まれた名を見て、創は思わず鼻で笑った。
――蜂須賀 皓星・里奈子。
「……蛇神から鳥居を寄進される日が来るとはな」
まったく、世も末だ。
しかもそれだけでは終わらなかった。
マンションのオーナーが、いつの間にか縦型のお賽銭箱を設置し、祠の脇には「稲荷大明神」と染め抜かれた赤い旗まで立っている。
誰が許可したのかは、考えないことにした。
最近はネット上もまた賑やかだ。
博多駅近くのお稲荷さん、マジでガチ。
縁結び効きすぎて怖い。
宝くじ当たった人いるらしい。
などと、好き勝手な噂が飛び交っている。
供え物は増え続けていた。
酒。
いなり寿司。
手作りの絵馬。
ときどき五円玉。
信心と願いが、雪のように降り積もっていく。
「……重くなってきたな」
創は、そう呟いて窓から目を離した。
その日の午後。
事務所のドアが、控えめに叩かれた。
「……はい」
創が声をかけると、ドアがきし、と開く。
立っていたのは、少年だった。
十歳前後。
ランドセルは背負っていない。
両手に、妙に重そうな荷物を抱えている。
「あの……」
少年は一歩だけ中に入り、深く頭を下げた。
「ここ、心霊の……相談するところですよね」
「そうだが」
創は、少年の様子を観察する。
目の下に薄い隈。
肩が少し落ちている。
緊張というより、疲労だ。
「……僕、坂上 紫苑といいます」
少年は、抱えていた袋をそっと机に置いた。
中から出てきたのは、いなり寿司。
発泡酒の缶。
そして、金属音のする貯金缶。
「……これ」
紫苑は、少しだけ顔を赤くした。
「家にあったやつです。あと……お小遣い、貯めました」
創は、しばらく黙ってそれを見ていた。
「相談内容は」
紫苑は、唇を噛んでから、はっきり言った。
「……両親が、おかしくなりました」
朔夜が、そっと視線を上げる。
「前は、仲が良かったんです」
紫苑は続ける。
「喧嘩なんて、ほとんどしなかった。でも……」
言葉を探すように、視線が泳ぐ。
「急に、お札とかお守りを集めるようになって」
両手を広げる。
「家じゅう、いっぱいで。壁も、ドアも、天井も」
創の眉が、わずかに動いた。
「それ以来、ずっと喧嘩してます」
「理由は?」
「……分かりません」
紫苑は首を振る。
「でも、夜になると……誰かと話してるみたいで」
声が、小さくなる。
「怒鳴ったり、謝ったり……」
朔夜が、静かに言った。
「君は?」
「……最近、体調が悪いです」
紫苑は、正直に答えた。
「お腹が痛かったり、頭が重かったり。学校も……」
創は、いなり寿司に視線を落としたまま言った。
「幽霊が見えるか」
「いいえ」
即答だった。
「でも……家、変です」
紫苑は、必死な目で創を見る。
「元に戻してほしいです。前の、父さんと母さんに」
沈黙が落ちる。
創は、椅子にもたれかかり、天井を一度見上げた。
過剰過ぎる”守り”……。
しばらく黙ったあと、創はようやく言った。
「……住所は?」
紫苑の顔が、ぱっと明るくなる。
「薬院駅から、歩いて十五分くらいです」
「今、家には誰もいないか」
「はい。両親、共働きで……」
創は、短く頷いた。
「分かった」
机の上のいなり寿司を、軽く指で押す。
「依頼を受ける」
紫苑の肩から、ふっと力が抜けた。
「……ありがとうございます!」
「勘違いするな」
創は、低く言う。
「これは、祓いの話じゃない。下手に触れば、もっと拗れる」
それでも、と付け加える。
「放っておく理由もない」
立ち上がり、上着を取る。
「まずは、家を見せてもらう」
朔夜も、黙って立ち上がった。
紫苑は、何度も頭を下げる。
「お願いします……」
創は、ふと少年の頭に手を置いた。
「――大丈夫だ」
その言葉は、慰めではない。
事実確認だった。
それでも、少年は笑顔を浮べて頷いた。
※※※
薬院駅から住宅街へ入ると、空気が少し変わった。
繁華街の余韻が消え、生活の音だけが残る。
洗濯機の回る音。
遠くの車の走行音。
夕方前の、少し落ち着いた時間帯だ。
「……こっちです」
紫苑が案内したマンションは、築十数年ほどの中規模のものだった。
オートロック付き。
外観は、ごく普通。
だが。
エントランスを抜けた瞬間、朔夜の歩みが、わずかに遅れた。
「……」
創は、何も言わない。
感じる。
重い。
祟りでも、呪いでもない。
もっと現実的で、湿った重さ。
エレベーターで上階へ上がる。
紫苑の部屋は、角部屋だった。
「ここです」
鍵を開ける音が、小さく響く。
ドアが開いた瞬間。
――異様だった。
玄関の壁一面に、札。
神社で配られるもの。
簡易的な魔除け。
家内安全、厄除け、交通安全。
向きも、高さも、統一されていない。
とにかく、貼れるだけ貼ったという印象だ。
「……これは」
朔夜が、言葉を探す。
「増えていきました」
紫苑はそう言って、慣れきった様子で靴を脱いだ。
「最初は、一枚だけだったんです。でも……」
リビングに入る。
カーテンレール。
照明のコード。
棚の取っ手。
お守りが、ぶら下がっている。
風が通るたび、かすかに擦れる音を立てる。
「……守られてる感じ、します?」
紫苑が、ぽつりと言った。
創は、即答しなかった。
代わりに、床に視線を落とす。
掃除は行き届いている。
生活は、破綻していない。
だからこそ、違和感が際立つ。
「……怖がってる家だな」
創は、低く言った。
「何かから、必死に」
紫苑は、何も言わなかった。
言えなかった、という方が近い。
朔夜が、ゆっくりと部屋を見回す。
「……霊は、いません」
断言だった。
「憑いてもいない。通った痕跡も、薄い」
紫苑が、ほっと息を吐く。
「じゃあ……」
「でも」
朔夜は、続けた。
「“いると思い込んでいる”気配は、強いです」
紫苑の指が、きゅっと握られる。
「夜になると……」
声が、震えた。
「ここに、誰か立ってるって……」
創は、リビングの中央に立ち、静かに言った。
「見えてないものを、見えてると思う」
一拍。
「それは、心霊じゃない」
紫苑が、顔を上げる。
「……じゃあ、何ですか?」
創は、答えなかった。
代わりに、キッチンへ目を向ける。
包丁立て。
引き出し。
冷蔵庫の扉。
すべてに、札が貼られている。
まるで、何かを入れないためのように。
「……最近、なくなった物はあるか?」
創がそう尋ねると、紫苑は少し考えてから首を振った。
「物がなくなる、っていうより……」
言い淀む。
「父さんと母さん、夜にゴミ出しに行くんです」
朔夜は一瞬だけ眉を動かしたが、何も言わない。
創も否定しない。
福岡市では、夜のゴミ出しはごく普通だ。
「回収の日以外もか」
創が、淡々と確認する。
「……はい」
紫苑は、小さく頷いた。
「曜日じゃない日も。もう出してあるのに、また」
「何を捨ててる」
「……分かりません」
声が、少しだけ低くなる。
「袋、軽い時もあります」
沈黙。
創は、キッチンの一角を見た。
ゴミ箱は、きちんと分別され、溢れてもいない。
生活は、管理されている。
だからこそ。
「……“処分”だな」
独り言のように、創が言う。
「え……?」
「生活ゴミじゃない」
創は続ける。
「気持ちの整理でも、信仰でもない。もっと即物的な――」
そこで、言葉を切った。
玄関の方から、足音が聞こえたからだ。
軽くはない。
だが、急いでもいない。
慣れた足取り。
「……ただいま」
男の声。
続いて、女の声。
「……紫苑?」
紫苑の肩が、びくりと跳ねる。
この時間に帰るはずがない。
だが、“異常”というほどでもない。
それが、余計に怖い。
創は、紫苑を背に庇うように半歩前へ出た。
朔夜は、視線を床に落としたまま、静かに言う。
「……霊はいません」
一拍。
「でも――」
声が、わずかに硬くなる。
「“何かを見ている人間”は、います」
鍵が回り、ドアが開く。
現れた両親の表情は、疲れているだけに見えた。
普通だ。
あまりにも。
だからこそ、創は確信する。
これは、怪異ではない。
怪異に縋った人間の、破綻の入口だ。
――そして。
その中心に、子どもがいる。
「紫苑、遅くなるって言っただろ」
父親が言った。
声は低く、疲れている。
叱る調子ではない。事実確認に近い。
「……連絡、しようと思ったんだけど」
紫苑は、小さく答えた。
母親が、そのやり取りに割って入る。
「今日は仕方ないでしょう」
柔らかい声だった。
だが、どこか余所行きだ。
「仕事、長引いたんだから」
父親が、頷く。
「そうだな」
創は、黙って二人を見る。
会話は成立している。
言葉は噛み合っている。
――だが、向いている方向が違う。
母親は、紫苑を見て話していない。
紫苑の右肩の少し後ろを見ている。
父親も同じだ。
視線が、紫苑の顔をかすめるだけで、定まらない。
創は、ゆっくりと一歩、前に出た。
「坂上さん」
父親が、ようやく創を見る。
いや、“見ようとする”。
「最近、何か困っていることは?」
「……いえ」
即答だった。
だが、母親が一拍遅れて口を開く。
「あります」
父親が、ぎくりと肩を揺らす。
「……あるでしょ」
母親は、微笑んでいる。
「だって、毎晩来るんですもの」
紫苑の喉が、鳴った。
「……誰が?」
母親は、首を傾げた。
「決まってるでしょう」
言葉を選ぶ様子もなく。
「“あの人”よ」
父親が、苛立ったように声を荒げる。
「言うなって言っただろ!」
「だって、いるもの」
母親は、穏やかに言い返す。
「ここに。ほら」
指差した先。
そこには、何もない。
だが……父親の視線は、確かにそこに吸い寄せられている。
「……見てるぞ」
父親が、低く呟いた。
「今日は、特に」
創は、朔夜を見る。
朔夜は、部屋の中央に立ったまま、ゆっくりと首を横に振った。
「……いません」
静かな声だった。
「この部屋には、幽霊はいない」
母親が、ぴたりと動きを止める。
「……何を、言って」
朔夜は、視線を上げない。
床を見る。
壁を見る。
天井を見る。
どこにも、居る様子がない。
「見えているのは」
朔夜は、はっきり言った。
「お二人の中だけです」
空気が、凍りつく。
父親が、笑った。
乾いた音だった。
「冗談は……」
「幽霊じゃありません」
朔夜は、言い切る。
「恨みも、未練も、痕跡もない」
一拍。
「――罪悪感。……違いますか?」
母親の目が、大きく見開かれる。
「そんな……」
父親の声が、震え始める。
「だって……だって、あれは……」
言葉が、続かない。
その瞬間。
定まらなかった父親の視線が、朔夜に突き刺さった。
初めて、はっきりと。
創の右手が、ぎし、と音を立てた。
握り締められている。
朔夜は、静かに息を吸う。
「これは、怪異じゃない」
確信だった。
「“見たくない現実”が、形を取っているだけです」
だから。
祓えない。
消せない。
向き合わなければ、終わらない。
創は、一歩前に出た。
「――ここから先は、俺の仕事だ」
その声は、低く、冷えていた。
両親の“視線”が、ゆっくりと――朔夜に向きを揃えた。
そして。
朔夜は、はっきりと理解した。
これは幽霊騒動ではない。
だからこそ、一番危険だ。
理性が壊れかけている人間ほど、危うい存在はないのだから。
※※※
母親の視線が、ふと彷徨った。
そして、何もいない空間を見る。
「……そこに」
母親が、息を吐くように言った。
「また、いる」
父親が、反射的に振り向く。
誰もいない方向へ。
「……嘘だろ」
声が、震えている。
「さっきはいなかった」
朔夜は、できるだけ刺激しない声音で言った。
「……落ち着いてください」
声を低く保つ。
「あなたたちが見ているのは――」
「言うな!!」
母親が、甲高く叫んだ。
一歩、踏み出す。
「それを言われると……!」
目が、ぎらりと朔夜を捉える。
「消える……!」
父親の呼吸が、急速に荒くなる。
「……そうだ」
そして、何かに納得したように、急に頷いた。
「消えるんだ……」
ゆっくりと、室内を見回す。
視線が、止まる。
棚の上。
重たい、陶器の置物。
父親の手が、それを掴んだ。
創が、叫ぶ。
「――やめろ!!」
遅かった。
父親は、躊躇なくそれを振り上げた。
狙いは、朔夜。
頭部。
鈍い音が、部屋に響いた。
骨と、陶器がぶつかる音。
朔夜の視界が、一瞬で白く飛ぶ。
身体が、崩れ落ちる。
床に叩きつけられた瞬間、呼吸が止まった。
「……っ」
声にならない音だけが、喉から漏れる。
血が、じわりと床に広がる。
母親が、呆然とそれを見下ろした。
「……あ」
だが、次の瞬間。
視線が、また宙に戻る。
「……静かになった?」
その言葉で、創の中の何かが完全に壊れた。
音が、消える。
感情が、落ちる。
代わりに立ち上がったのは、選んだものを傷つけられた存在の、本能だった。
創は、ゆっくりと立ち上がる。
右手が、痺れない。
むしろ――熱い。
「……触るな」
声は低い。
だが、部屋の空気が沈む。
父親が、はっと顔を上げる。
「……なんだよ、その目……」
言葉は、続かなかった。
身体が、床に押さえつけられる。
見えない圧。
肺が潰れそうな重さ。
母親も同時に、膝を折った。
「……あ、あ……?」
理解できない、という顔。
創は、朔夜のもとへ行く。
膝をつき、抱き起こす。
呼吸が、浅い。
意識が、ない。
「……朔夜」
返事は、ない。
創は、初めて――怒りを外に出した。
ゆっくりと、二人を見る。
「……そこにいる“何か”は」
一歩、触れられたくないだろう部分に踏み込む。
「お前たちが作った」
さらに一歩。
「罪の影だ」
母親が、嗚咽を漏らす。
「違う……あの人は……」
創は、遮る。
「もう、祈るな」
声が、冷え切る。
「祈りで隠せる段階は、とっくに過ぎてる」
父親が、震えながら叫ぶ。
「俺たちは……守ろうとしただけだ……!」
創は、答えない。
遠くで、サイレンが聞こえる。
誰かが騒ぎを聞きつけて通報したのだろう。
だが、創の関心は一つだけだった。
朔夜の呼吸。
救急隊が駆け込んでくる。
「重体です!」
「頭部外傷! 意識なし!」
担架に乗せられる朔夜。
血の跡が、床に残る。
母親が、かすれた声で言った。
「……まだ、見てる……」
視線は、今度は担架の方を向いていた。
創は、振り向かない。
ただ、低く言った。
「……それは一生、消えない」
救急車の扉が閉まる。
赤色灯が、夜を切り裂いていく。
創は、その光を見送った。
守ると決めたものを、守れなかった。
その事実だけが、胸に残る。
そして、この瞬間から、創はもう引き返せなくなってしまった。
※※※
消毒薬の匂いが、やけに鼻についた。
夜の救急病棟は、昼間よりも静かだ。
だが、静かだからこそ、音が際立つ。
モニターの電子音。
ストレッチャーのキャスターが床を擦る音。
誰かの小さな呻き声。
朔夜は、集中治療室に運ばれていた。
意識は戻らない。
頭部外傷。
脳震盪。
脳内出血は幸いにも大きくないが、打ちどころが悪かった。
「……いつ、目を覚ましますか」
創は、椅子に腰かけたまま訊いた。
医師は、カルテから視線を上げない。
「断言はできません」
淡々とした声だった。
「今日、明日かもしれないし……もう少しかかるかもしれない」
「……後遺症は」
「それも、今は」
医師は、そこで一度言葉を切った。
創を見る。
視線が、わずかに引っかかる。
「……ご家族ですか?」
「……身内だ」
即答だった。
嘘ではない。
が、説明はしない。
医師は、頷いた。
「付き添いは、最小限にしてください」
「分かってる」
その言葉に、医師の眉がほんの少し動いた。
――“分かっている”と言う割に。
創は、瞬き一つせずに、ガラス越しの朔夜を見ている。
長すぎる。
医師は、無意識に時計を見る。
深夜二時を回っていた。
「……失礼ですが」
医師は、声の調子をわずかに変えた。
「ご本人、睡眠は取られていますか」
「必要ない」
反射的な返答だった。
その瞬間。
医師の手が、止まる。
「……いえ」
すぐに言い直した。
「意味は、分かります。ただ……」
カルテを閉じる。
「人は、眠らないと壊れます」
創は、初めて医師を見た。
「壊れたら、どうなる」
「判断力が鈍ります。感情の制御が――」
「それだけか」
医師は、言葉を失う。
この男は、壊れることを前提にしている。
医師は、ゆっくり息を吸った。
「……あなた」
慎重に、言葉を選ぶ。
「付き添う立場としては、落ち着きすぎています」
創は、答えない。
「普通は、もっと……」
言葉が続かない。
パニックでも、取り乱しでもない。
だが、この静けさは、異常だ。
感情が“消えている”わけではない。
抑え込まれている。
それも、人間の限界を超えた圧で。
医師は、直感的に理解した。
――この人は、今、怒っている。
だが、それを表に出したら、
何かが壊れる。
「……今日は、ここまでにしましょう」
医師は、やや強めに言った。
「面会時間は過ぎています。ご自宅で休んでください」
創は、視線を朔夜から外さないまま言った。
「ここにいる」
「規則です」
「規則なら、金でどうにかなる」
その一言で、医師の背中に冷たいものが走った。
威圧ではない。
脅しでもない。
事実として言っている。
「……」
医師は、しばらく黙ったあと、低く言った。
「では、最低限の休憩を」
それ以上は、踏み込まなかった。
踏み込んではいけない、と本能が告げていた。
医師が去る。
夜が、戻ってくる。
創は、ガラスの前に立った。
ベッドに横たわる朔夜。
白いシーツ。
包帯。
規則正しい機械の音。
「……なあ」
小さく、声を落とす。
「俺は、お前を選んだ覚えはない」
答えは、ない。
「だが」
一歩、近づく。
「選ばなかった覚えもない」
右手が、わずかに痺れた。
だが、今は痛みを感じない。
代わりに。
何かが、奥で固まっていく感覚があった。
「……目、覚ませ」
命令ではない。
願いでもない。
事実の確認だ。
「お前がいないと」
一拍。
「――話が終わらん」
創は、ガラス越しに、静かに額をつけた。
その姿を、廊下の向こうから医師が見ていた。
説明はできない。
だが、確信だけがあった。
――この人は、人を待つ顔じゃない。
何かが“起きる”のを待っている顔だ。
そして、その“何か”が起きた時。
誰にも止められない。
医師は、そう感じてしまった。
それが、医療の範疇を超えた直感だとしても。
※※※
それは、雪崩のように始まった。
まず、稲だった。
朝まで青々としていた田が、一晩で変わった。
実りかけていた穂は、白く乾き、指で触れただけで崩れ落ちる。
病気ではない。
虫でもない。
水も、日照も、条件は揃っていた。
ただ、実らなかった。
次は、野菜だった。
畑一面が、同じ夜に駄目になった。
トマトは割れ、葉物は溶け、根菜は土の中で腐った。
農協の職員は首をひねり、
大学の研究員は原因不明と記録し、誰も「理由」を言葉にできなかった。
それでも、坂上家はまだ「不運」だと思っていた。
――思ってしまった。
嫁の腹の中の子が、流れた。
医者は首を横に振る。
「珍しくはありません」
だが、同じ週に、もう一人。
別の家系。
別の病院。
続いた。
三人目で、誰も言葉を発せなくなった。
事故ではない。
病気でもない。
“そうなった”だけだった。
高齢の身内が、倒れ始めた。
転倒。
心不全。
睡眠中の急死。
救急車のサイレンが、月に何度も鳴った。
葬式が終わらない。
香典が追いつかない。
親族会議は、罵声に変わった。
「お前のせいだ」
「いや、お前が――」
家族は、割れた。
逃げる者。
縁を切る者。
責任を押し付ける者。
そして、会社が潰れた。
資金繰りは、前月まで問題なかった。
だが、取引先が、同じ週に三社消えた。
理由は、ない。
「方針変更」
「再編」
「検討の結果」
銀行は、融資を止めた。
社長は、机に突っ伏して泣いた。
これが、わずか一ヶ月の出来事だった。
坂上家の本家は、ようやく異常を理解した。
祓いを求めた。
有名な神社。
地方の霊場。
山奥の社。
だが。
「……申し訳ありません」
「今回は……」
「うちでは、無理です」
どこも、断られた。
理由は、言わない。
言えない。
最後に訪れたのは、小さな神社だった。
年老いた神主が、話を聞き終えたあと、深く息を吐いた。
そして、怒った。
「――いったい、何をした」
机を叩く。
「これは祟りじゃない!」
声が震える。
「奪われているんだ」
坂上家の人間が、すがるように問う。
「だ、誰に……」
神主は、はっきり言った。
「稲荷様だ」
沈黙。
「豊穣と繁栄を司る神を怒らせた」
指を突きつける。
「これだけの速度で剥がされるのは、相当だぞ」
「謝れば……」
「謝り方が違う」
神主は、首を振った。
「供えればいいと思ったか。祈れば帳消しになると?」
冷たく言い放つ。
「正式に詫びるしかない」
「どこへ……」
神主は、答えなかった。
答えられなかった。
その夜。
坂上家の者の夢に、狐が立った。
朱でも、白でもない。
影のような姿。
金の瞳だけが、鋭く光っている。
声は、氷のように冷たい。
「――正式に詫びに来い」
逃げ場のない声だった。
「それまでは」
一拍。
「絶対に、許さねえ」
目が覚めた時、喉が焼けるように痛かった。
同じ夜、また一人、死んだ。
※※※
病院の個室で。
朔夜は、眠り続けている。
機械の音だけが、一定のリズムで鳴る。
創は、窓の外を見ていた。
右手が、じくりと痺れた。
創は、低く呟く。
「……これで、釣り合いだ」
声に、感情はない。
ただの事実確認だった。
稲荷神は、奪わない。
与えるのを、やめただけだ。
それだけの話だった。
※※※
坂上家の本家が、ようやく“調べ始めた”のは、不運が連続してから一ヶ月が過ぎた頃だった。
稲荷神に正式に詫びよと言われた。
しかし、どこの稲荷神へ?
そもそも、なにがあった?
そこで、本家は興信所を使った。
――身内を洗え。
調査の結果出てきたのは、末端の傍系の家だった。
福岡市内。
薬院駅からそう離れていないマンション。
殺人未遂事件。
そして、その直前に起きていた、殺人事件。
被害者は他人。
だが、加害者は確かに、坂上家の血だった。
「……時期が」
報告書を持つ手が、震えた。
事件の発生時期は、不運の始まりと、ぴたりと重なっていた。
だが。
「……稲荷?」
誰も、そこに繋げられなかった。
殺人。
未遂。
稲荷。
線が、結べない。
迷いに迷った末、本家は“本元”へ行くことを決めた。
伏見稲荷大社。
全国の稲荷の総本社。
ここなら、何かわかるはずだ。
清冽な気に包まれた参道を進み、正式な手続きを経て、事情を話した。
神主は、静かに聞いていた。
途中で遮らない。
驚かない。
ただ、最後まで。
話が終わると、神主は一度、目を閉じた。
そして、言った。
「……おそらく」
一拍。
「こちらではありません」
本家の人間が、息を呑む。
「福岡市です」
はっきりと。
「博多駅の近くに、最近、名の知れ始めた稲荷の祠がある」
ざわめき。
「そこに、正式に詫びるしかありません」
「正式に……」
「はい」
神主は、重く頷いた。
「中途半端な供えや祈願では、逆効果です」
「では……」
「私が同行します」
その言葉に、本家は深く頭を下げた。
数日後。
マンション敷地の裏手。
あの祠の前に、人が集まった。
坂上家本家一同。
黒い礼服。
重たい供物。
酒。
いなり寿司。
白米。
塩。
正式な形で整えられた祭具。
伏見稲荷大社から出張した神主が、祝詞をあげる。
声は、よく通る。
一字一句に、逃げがない。
許しを乞う祝詞。
詫び。
悔い。
今後の戒め。
すべてが、言葉にされた。
事務所の窓から、創はそれを見下ろしていた。
カーテン越し。
距離はある。
だが、何をしているかは、手に取るように分かる。
「……」
右手が、微かに痺れた。
創は、表情を変えない。
怒りは、もうない。
激情もない。
ただ、冷えている。
神主の祝詞が終わり、深々と頭を下げる一同。
誰も、創の存在に気づかない。
それでいい。
その時、背後で、かすかな音がした。
病院からの、通知音だ。
創は、スマホを見ない。
ただ、低く言った。
「……朔夜」
もし、このまま。
もし、目を覚まさなかったら。
祝詞が、どれほど美しかろうと。
詫びが、どれほど形式を整えようと。
それはでは、足りない。
創の声は、氷の底に沈んでいた。
「その時は――」
窓の外。
三本の鳥居が、風もないのに、わずかに鳴る。
「覚悟しとけ」
それは、脅しではない。
神が、人に告げる最終通告だった。
許されるかどうかは、まだ決まっていない。
決めるのは、目を覚ますかどうか――それだけだった。
※※※
意識が戻ったのは、事件から二ヶ月が過ぎた朝だった。
白い天井。
消毒液の匂い。
規則正しい機械音。
朔夜は、最初にそれらを認識した。
「……ここ……」
声は掠れていたが、確かに言葉だった。
ナースコールが鳴り、慌ただしい足音が近づく。
医師の声、看護師の声。
光を当てられ、名前を呼ばれ、指を動かすよう促される。
すべてに、朔夜はきちんと応じた。
遅れて、創が入ってきた。
普段と変わらない顔。
だが、目だけが違った。
確認するように、確かめるように、朔夜を見る。
「……創さん」
その一言で、創の肩から、わずかに力が抜けた。
「やっとか」
それだけ言って、あとは何も言わない。
神が、人の前で見せる感情としては、ずいぶんと不器用だった。
※※※
リハビリは、順調だった。
最初は、指先。
次に、腕。
立つ練習。
歩く練習。
倒れた理由が“物理的な外傷”だったことが、幸いした。
魂は削られていなかった。
医師は言った。
「回復は、非常に良いです。年齢と、精神状態が理由でしょう」
精神状態。
朔夜自身は、それに心当たりがあった。
――守られていた。
目を閉じている間も、ずっと。
創は、ほぼ毎日来た。
長居はしない。
だが、必ず顔を見て帰る。
何かを置いていくでもなく、祈るでもない。
ただ、いる。
それだけで十分だと、最初から知っているように。
※※※
一方で。
坂上家は、“許された”。
伏見から招いた神主を通じ、正式な謝罪は受け取られた。
これ以上の災いは、起きない。
――だが。
失ったものは、戻らなかった。
潰れた会社は、再建されない。
枯れた田畑は、すぐには息を吹き返さない。
流れた命は、戻らない。
離散した家族は、もう一度集まらない。
幻覚も、幻聴も、消えはしなかった。
むしろ。
罪を直視できるだけの正気が戻った分、より深く苦しむようになった。
神主は、最後にこう言ったという。
「赦しとは、元に戻すことではありません。続けることを、許されるだけです」
坂上家は、それを受け入れた。
受け入れるしか、なかった。
※※※
退院の日。
病院のロビーで、朔夜は立ち止まった。
外は、よく晴れている。
「……助かりました」
ぽつりと、言う。
創は隣で、腕を組んだまま答えた。
「当たり前だ」
少し間を置いて、朔夜が続ける。
「……神様って」
創の横顔を見る。
「ちゃんと、いるんですね」
創は、一瞬だけ視線を逸らした。
そして、鼻で笑う。
「さあな」
歩き出しながら、低く言う。
「ただ、少なくとも、人の覚悟を見てるやつはいる」
時塔心霊探偵事務所に、ようやく日常が戻ろうとしていた。
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