目覚めるまでは

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/1/5 📚 シリーズ: 時塔心霊探偵事務所 📝 11,194文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

再開発で社を失った路端の稲荷神は、生き延びるために人に化け、心霊探偵になった。 ――祈りも、欲望も、呪いも、まとめて引き受けるために。 これは人に化けた稲荷神と、神を信じない霊能者が怪異と人間の業の後始末をする、現代日本怪異譚。

本文

 祠に、三本目の鳥居が増えた。

 朱の色はまだ新しく、雨にも煤にも染まっていない。

 刻まれた名を見て、創は思わず鼻で笑った。

 ――蜂須賀 皓星・里奈子。

「……蛇神から鳥居を寄進される日が来るとはな」

 まったく、世も末だ。

 しかもそれだけでは終わらなかった。

 マンションのオーナーが、いつの間にか縦型のお賽銭箱を設置し、祠の脇には「稲荷大明神」と染め抜かれた赤い旗まで立っている。

 誰が許可したのかは、考えないことにした。

 最近はネット上もまた賑やかだ。

 博多駅近くのお稲荷さん、マジでガチ。

 縁結び効きすぎて怖い。

 宝くじ当たった人いるらしい。

 などと、好き勝手な噂が飛び交っている。

 供え物は増え続けていた。

 酒。

 いなり寿司。

 手作りの絵馬。

 ときどき五円玉。

 信心と願いが、雪のように降り積もっていく。

「……重くなってきたな」

 創は、そう呟いて窓から目を離した。

 その日の午後。

 事務所のドアが、控えめに叩かれた。

「……はい」

 創が声をかけると、ドアがきし、と開く。

 立っていたのは、少年だった。

 十歳前後。

 ランドセルは背負っていない。

 両手に、妙に重そうな荷物を抱えている。

「あの……」

 少年は一歩だけ中に入り、深く頭を下げた。

「ここ、心霊の……相談するところですよね」

「そうだが」

 創は、少年の様子を観察する。

 目の下に薄い隈。

 肩が少し落ちている。

 緊張というより、疲労だ。

「……僕、坂上 紫苑といいます」

 少年は、抱えていた袋をそっと机に置いた。

 中から出てきたのは、いなり寿司。

 発泡酒の缶。

 そして、金属音のする貯金缶。

「……これ」

 紫苑は、少しだけ顔を赤くした。

「家にあったやつです。あと……お小遣い、貯めました」

 創は、しばらく黙ってそれを見ていた。

「相談内容は」

 紫苑は、唇を噛んでから、はっきり言った。

「……両親が、おかしくなりました」

 朔夜が、そっと視線を上げる。

「前は、仲が良かったんです」

 紫苑は続ける。

「喧嘩なんて、ほとんどしなかった。でも……」

 言葉を探すように、視線が泳ぐ。

「急に、お札とかお守りを集めるようになって」

 両手を広げる。

「家じゅう、いっぱいで。壁も、ドアも、天井も」

 創の眉が、わずかに動いた。

「それ以来、ずっと喧嘩してます」

「理由は?」

「……分かりません」

 紫苑は首を振る。

「でも、夜になると……誰かと話してるみたいで」

 声が、小さくなる。

「怒鳴ったり、謝ったり……」

 朔夜が、静かに言った。

「君は?」

「……最近、体調が悪いです」

 紫苑は、正直に答えた。

「お腹が痛かったり、頭が重かったり。学校も……」

 創は、いなり寿司に視線を落としたまま言った。

「幽霊が見えるか」

「いいえ」

 即答だった。

「でも……家、変です」

 紫苑は、必死な目で創を見る。

「元に戻してほしいです。前の、父さんと母さんに」

 沈黙が落ちる。

 創は、椅子にもたれかかり、天井を一度見上げた。

 過剰過ぎる”守り”……。

 しばらく黙ったあと、創はようやく言った。

「……住所は?」

 紫苑の顔が、ぱっと明るくなる。

「薬院駅から、歩いて十五分くらいです」

「今、家には誰もいないか」

「はい。両親、共働きで……」

 創は、短く頷いた。

「分かった」

 机の上のいなり寿司を、軽く指で押す。

「依頼を受ける」

 紫苑の肩から、ふっと力が抜けた。

「……ありがとうございます!」

「勘違いするな」

 創は、低く言う。

「これは、祓いの話じゃない。下手に触れば、もっと拗れる」

 それでも、と付け加える。

「放っておく理由もない」

 立ち上がり、上着を取る。

「まずは、家を見せてもらう」

 朔夜も、黙って立ち上がった。

 紫苑は、何度も頭を下げる。

「お願いします……」

 創は、ふと少年の頭に手を置いた。

「――大丈夫だ」

 その言葉は、慰めではない。

 事実確認だった。

 それでも、少年は笑顔を浮べて頷いた。

※※※

 薬院駅から住宅街へ入ると、空気が少し変わった。

 繁華街の余韻が消え、生活の音だけが残る。

 洗濯機の回る音。

 遠くの車の走行音。

 夕方前の、少し落ち着いた時間帯だ。

「……こっちです」

 紫苑が案内したマンションは、築十数年ほどの中規模のものだった。

 オートロック付き。

 外観は、ごく普通。

 だが。

 エントランスを抜けた瞬間、朔夜の歩みが、わずかに遅れた。

「……」

 創は、何も言わない。

 感じる。

 重い。

 祟りでも、呪いでもない。

 もっと現実的で、湿った重さ。

 エレベーターで上階へ上がる。

 紫苑の部屋は、角部屋だった。

「ここです」

 鍵を開ける音が、小さく響く。

 ドアが開いた瞬間。

 ――異様だった。

 玄関の壁一面に、札。

 神社で配られるもの。

 簡易的な魔除け。

 家内安全、厄除け、交通安全。

 向きも、高さも、統一されていない。

 とにかく、貼れるだけ貼ったという印象だ。

「……これは」

 朔夜が、言葉を探す。

「増えていきました」

 紫苑はそう言って、慣れきった様子で靴を脱いだ。

「最初は、一枚だけだったんです。でも……」

 リビングに入る。

 カーテンレール。

 照明のコード。

 棚の取っ手。

 お守りが、ぶら下がっている。

 風が通るたび、かすかに擦れる音を立てる。

「……守られてる感じ、します?」

 紫苑が、ぽつりと言った。

 創は、即答しなかった。

 代わりに、床に視線を落とす。

 掃除は行き届いている。

 生活は、破綻していない。

 だからこそ、違和感が際立つ。

「……怖がってる家だな」

 創は、低く言った。

「何かから、必死に」

 紫苑は、何も言わなかった。

 言えなかった、という方が近い。

 朔夜が、ゆっくりと部屋を見回す。

「……霊は、いません」

 断言だった。

「憑いてもいない。通った痕跡も、薄い」

 紫苑が、ほっと息を吐く。

「じゃあ……」

「でも」

 朔夜は、続けた。

「“いると思い込んでいる”気配は、強いです」

 紫苑の指が、きゅっと握られる。

「夜になると……」

 声が、震えた。

「ここに、誰か立ってるって……」

 創は、リビングの中央に立ち、静かに言った。

「見えてないものを、見えてると思う」

 一拍。

「それは、心霊じゃない」

 紫苑が、顔を上げる。

「……じゃあ、何ですか?」

 創は、答えなかった。

 代わりに、キッチンへ目を向ける。

 包丁立て。

 引き出し。

 冷蔵庫の扉。

 すべてに、札が貼られている。

 まるで、何かを入れないためのように。

 「……最近、なくなった物はあるか?」

 創がそう尋ねると、紫苑は少し考えてから首を振った。

「物がなくなる、っていうより……」

 言い淀む。

「父さんと母さん、夜にゴミ出しに行くんです」

 朔夜は一瞬だけ眉を動かしたが、何も言わない。

 創も否定しない。

 福岡市では、夜のゴミ出しはごく普通だ。

「回収の日以外もか」

 創が、淡々と確認する。

「……はい」

 紫苑は、小さく頷いた。

「曜日じゃない日も。もう出してあるのに、また」

「何を捨ててる」

「……分かりません」

 声が、少しだけ低くなる。

「袋、軽い時もあります」

 沈黙。

 創は、キッチンの一角を見た。

 ゴミ箱は、きちんと分別され、溢れてもいない。

 生活は、管理されている。

 だからこそ。

「……“処分”だな」

 独り言のように、創が言う。

「え……?」

「生活ゴミじゃない」

 創は続ける。

「気持ちの整理でも、信仰でもない。もっと即物的な――」

 そこで、言葉を切った。

 玄関の方から、足音が聞こえたからだ。

 軽くはない。

 だが、急いでもいない。

 慣れた足取り。

「……ただいま」

 男の声。

 続いて、女の声。

「……紫苑?」

 紫苑の肩が、びくりと跳ねる。

 この時間に帰るはずがない。

 だが、“異常”というほどでもない。

 それが、余計に怖い。

 創は、紫苑を背に庇うように半歩前へ出た。

 朔夜は、視線を床に落としたまま、静かに言う。

「……霊はいません」

 一拍。

「でも――」

 声が、わずかに硬くなる。

「“何かを見ている人間”は、います」

 鍵が回り、ドアが開く。

 現れた両親の表情は、疲れているだけに見えた。

 普通だ。

 あまりにも。

 だからこそ、創は確信する。

 これは、怪異ではない。

 怪異に縋った人間の、破綻の入口だ。

 ――そして。

 その中心に、子どもがいる。

「紫苑、遅くなるって言っただろ」

 父親が言った。

 声は低く、疲れている。

 叱る調子ではない。事実確認に近い。

「……連絡、しようと思ったんだけど」

 紫苑は、小さく答えた。

 母親が、そのやり取りに割って入る。

「今日は仕方ないでしょう」

 柔らかい声だった。

 だが、どこか余所行きだ。

「仕事、長引いたんだから」

 父親が、頷く。

「そうだな」

 創は、黙って二人を見る。

 会話は成立している。

 言葉は噛み合っている。

 ――だが、向いている方向が違う。

 母親は、紫苑を見て話していない。

 紫苑の右肩の少し後ろを見ている。

 父親も同じだ。

 視線が、紫苑の顔をかすめるだけで、定まらない。

 創は、ゆっくりと一歩、前に出た。

「坂上さん」

 父親が、ようやく創を見る。

 いや、“見ようとする”。

「最近、何か困っていることは?」

「……いえ」

 即答だった。

 だが、母親が一拍遅れて口を開く。

「あります」

 父親が、ぎくりと肩を揺らす。

「……あるでしょ」

 母親は、微笑んでいる。

「だって、毎晩来るんですもの」

 紫苑の喉が、鳴った。

「……誰が?」

 母親は、首を傾げた。

「決まってるでしょう」

 言葉を選ぶ様子もなく。

「“あの人”よ」

 父親が、苛立ったように声を荒げる。

「言うなって言っただろ!」

「だって、いるもの」

 母親は、穏やかに言い返す。

「ここに。ほら」

 指差した先。

 そこには、何もない。

 だが……父親の視線は、確かにそこに吸い寄せられている。

「……見てるぞ」

 父親が、低く呟いた。

「今日は、特に」

 創は、朔夜を見る。

 朔夜は、部屋の中央に立ったまま、ゆっくりと首を横に振った。

「……いません」

 静かな声だった。

「この部屋には、幽霊はいない」

 母親が、ぴたりと動きを止める。

「……何を、言って」

 朔夜は、視線を上げない。

 床を見る。

 壁を見る。

 天井を見る。

 どこにも、居る様子がない。

「見えているのは」

 朔夜は、はっきり言った。

「お二人の中だけです」

 空気が、凍りつく。

 父親が、笑った。

 乾いた音だった。

「冗談は……」

「幽霊じゃありません」

 朔夜は、言い切る。

「恨みも、未練も、痕跡もない」

 一拍。

「――罪悪感。……違いますか?」

 母親の目が、大きく見開かれる。

「そんな……」

 父親の声が、震え始める。

「だって……だって、あれは……」

 言葉が、続かない。

 その瞬間。

 定まらなかった父親の視線が、朔夜に突き刺さった。

 初めて、はっきりと。

 創の右手が、ぎし、と音を立てた。

 握り締められている。

 朔夜は、静かに息を吸う。

「これは、怪異じゃない」

 確信だった。

「“見たくない現実”が、形を取っているだけです」

 だから。

 祓えない。

 消せない。

 向き合わなければ、終わらない。

 創は、一歩前に出た。

「――ここから先は、俺の仕事だ」

 その声は、低く、冷えていた。

 両親の“視線”が、ゆっくりと――朔夜に向きを揃えた。

 そして。

 朔夜は、はっきりと理解した。

 これは幽霊騒動ではない。

 だからこそ、一番危険だ。

 理性が壊れかけている人間ほど、危うい存在はないのだから。

※※※

 母親の視線が、ふと彷徨った。

 そして、何もいない空間を見る。

「……そこに」

 母親が、息を吐くように言った。

「また、いる」

 父親が、反射的に振り向く。

 誰もいない方向へ。

「……嘘だろ」

 声が、震えている。

「さっきはいなかった」

 朔夜は、できるだけ刺激しない声音で言った。

「……落ち着いてください」

 声を低く保つ。

「あなたたちが見ているのは――」

「言うな!!」

 母親が、甲高く叫んだ。

 一歩、踏み出す。

「それを言われると……!」

 目が、ぎらりと朔夜を捉える。

「消える……!」

 父親の呼吸が、急速に荒くなる。

「……そうだ」

 そして、何かに納得したように、急に頷いた。

「消えるんだ……」

 ゆっくりと、室内を見回す。

 視線が、止まる。

 棚の上。

 重たい、陶器の置物。

 父親の手が、それを掴んだ。

 創が、叫ぶ。

「――やめろ!!」

 遅かった。

 父親は、躊躇なくそれを振り上げた。

 狙いは、朔夜。

 頭部。

 鈍い音が、部屋に響いた。

 骨と、陶器がぶつかる音。

 朔夜の視界が、一瞬で白く飛ぶ。

 身体が、崩れ落ちる。

 床に叩きつけられた瞬間、呼吸が止まった。

「……っ」

 声にならない音だけが、喉から漏れる。

 血が、じわりと床に広がる。

 母親が、呆然とそれを見下ろした。

「……あ」

 だが、次の瞬間。

 視線が、また宙に戻る。

「……静かになった?」

 その言葉で、創の中の何かが完全に壊れた。

 音が、消える。

 感情が、落ちる。

 代わりに立ち上がったのは、選んだものを傷つけられた存在の、本能だった。

 創は、ゆっくりと立ち上がる。

 右手が、痺れない。

 むしろ――熱い。

「……触るな」

 声は低い。

 だが、部屋の空気が沈む。

 父親が、はっと顔を上げる。

「……なんだよ、その目……」

 言葉は、続かなかった。

 身体が、床に押さえつけられる。

 見えない圧。

 肺が潰れそうな重さ。

 母親も同時に、膝を折った。

「……あ、あ……?」

 理解できない、という顔。

 創は、朔夜のもとへ行く。

 膝をつき、抱き起こす。

 呼吸が、浅い。

 意識が、ない。

「……朔夜」

 返事は、ない。

 創は、初めて――怒りを外に出した。

 ゆっくりと、二人を見る。

「……そこにいる“何か”は」

 一歩、触れられたくないだろう部分に踏み込む。

「お前たちが作った」

 さらに一歩。

「罪の影だ」

 母親が、嗚咽を漏らす。

「違う……あの人は……」

 創は、遮る。

「もう、祈るな」

 声が、冷え切る。

「祈りで隠せる段階は、とっくに過ぎてる」

 父親が、震えながら叫ぶ。

「俺たちは……守ろうとしただけだ……!」

 創は、答えない。

 遠くで、サイレンが聞こえる。

 誰かが騒ぎを聞きつけて通報したのだろう。

 だが、創の関心は一つだけだった。

 朔夜の呼吸。

 救急隊が駆け込んでくる。

「重体です!」

「頭部外傷! 意識なし!」

 担架に乗せられる朔夜。

 血の跡が、床に残る。

 母親が、かすれた声で言った。

「……まだ、見てる……」

 視線は、今度は担架の方を向いていた。

 創は、振り向かない。

 ただ、低く言った。

「……それは一生、消えない」

 救急車の扉が閉まる。

 赤色灯が、夜を切り裂いていく。

 創は、その光を見送った。

 守ると決めたものを、守れなかった。

 その事実だけが、胸に残る。

 そして、この瞬間から、創はもう引き返せなくなってしまった。

※※※

 消毒薬の匂いが、やけに鼻についた。

 夜の救急病棟は、昼間よりも静かだ。

 だが、静かだからこそ、音が際立つ。

 モニターの電子音。

 ストレッチャーのキャスターが床を擦る音。

 誰かの小さな呻き声。

 朔夜は、集中治療室に運ばれていた。

 意識は戻らない。

 頭部外傷。

 脳震盪。

 脳内出血は幸いにも大きくないが、打ちどころが悪かった。

「……いつ、目を覚ましますか」

 創は、椅子に腰かけたまま訊いた。

 医師は、カルテから視線を上げない。

「断言はできません」

 淡々とした声だった。

「今日、明日かもしれないし……もう少しかかるかもしれない」

「……後遺症は」

「それも、今は」

 医師は、そこで一度言葉を切った。

 創を見る。

 視線が、わずかに引っかかる。

「……ご家族ですか?」

「……身内だ」

 即答だった。

 嘘ではない。

 が、説明はしない。

 医師は、頷いた。

「付き添いは、最小限にしてください」

「分かってる」

 その言葉に、医師の眉がほんの少し動いた。

 ――“分かっている”と言う割に。

 創は、瞬き一つせずに、ガラス越しの朔夜を見ている。

 長すぎる。

 医師は、無意識に時計を見る。

 深夜二時を回っていた。

「……失礼ですが」

 医師は、声の調子をわずかに変えた。

「ご本人、睡眠は取られていますか」

「必要ない」

 反射的な返答だった。

 その瞬間。

 医師の手が、止まる。

「……いえ」

 すぐに言い直した。

「意味は、分かります。ただ……」

 カルテを閉じる。

「人は、眠らないと壊れます」

 創は、初めて医師を見た。

「壊れたら、どうなる」

「判断力が鈍ります。感情の制御が――」

「それだけか」

 医師は、言葉を失う。

 この男は、壊れることを前提にしている。

 医師は、ゆっくり息を吸った。

「……あなた」

 慎重に、言葉を選ぶ。

「付き添う立場としては、落ち着きすぎています」

 創は、答えない。

「普通は、もっと……」

 言葉が続かない。

 パニックでも、取り乱しでもない。

 だが、この静けさは、異常だ。

 感情が“消えている”わけではない。

 抑え込まれている。

 それも、人間の限界を超えた圧で。

 医師は、直感的に理解した。

 ――この人は、今、怒っている。

 だが、それを表に出したら、

 何かが壊れる。

「……今日は、ここまでにしましょう」

 医師は、やや強めに言った。

「面会時間は過ぎています。ご自宅で休んでください」

 創は、視線を朔夜から外さないまま言った。

「ここにいる」

「規則です」

「規則なら、金でどうにかなる」

 その一言で、医師の背中に冷たいものが走った。

 威圧ではない。

 脅しでもない。

 事実として言っている。

「……」

 医師は、しばらく黙ったあと、低く言った。

「では、最低限の休憩を」

 それ以上は、踏み込まなかった。

 踏み込んではいけない、と本能が告げていた。

 医師が去る。

 夜が、戻ってくる。

 創は、ガラスの前に立った。

 ベッドに横たわる朔夜。

 白いシーツ。

 包帯。

 規則正しい機械の音。

「……なあ」

 小さく、声を落とす。

「俺は、お前を選んだ覚えはない」

 答えは、ない。

「だが」

 一歩、近づく。

「選ばなかった覚えもない」

 右手が、わずかに痺れた。

 だが、今は痛みを感じない。

 代わりに。

 何かが、奥で固まっていく感覚があった。

「……目、覚ませ」

 命令ではない。

 願いでもない。

 事実の確認だ。

「お前がいないと」

 一拍。

「――話が終わらん」

 創は、ガラス越しに、静かに額をつけた。

 その姿を、廊下の向こうから医師が見ていた。

 説明はできない。

 だが、確信だけがあった。

 ――この人は、人を待つ顔じゃない。

 何かが“起きる”のを待っている顔だ。

 そして、その“何か”が起きた時。

 誰にも止められない。

 医師は、そう感じてしまった。

 それが、医療の範疇を超えた直感だとしても。

※※※

 それは、雪崩のように始まった。

 まず、稲だった。

 朝まで青々としていた田が、一晩で変わった。

 実りかけていた穂は、白く乾き、指で触れただけで崩れ落ちる。

 病気ではない。

 虫でもない。

 水も、日照も、条件は揃っていた。

 ただ、実らなかった。

 次は、野菜だった。

 畑一面が、同じ夜に駄目になった。

 トマトは割れ、葉物は溶け、根菜は土の中で腐った。

 農協の職員は首をひねり、

 大学の研究員は原因不明と記録し、誰も「理由」を言葉にできなかった。

 それでも、坂上家はまだ「不運」だと思っていた。

 ――思ってしまった。

 嫁の腹の中の子が、流れた。

 医者は首を横に振る。

「珍しくはありません」

 だが、同じ週に、もう一人。

 別の家系。

 別の病院。

 続いた。

 三人目で、誰も言葉を発せなくなった。

 事故ではない。

 病気でもない。

 “そうなった”だけだった。

 高齢の身内が、倒れ始めた。

 転倒。

 心不全。

 睡眠中の急死。

 救急車のサイレンが、月に何度も鳴った。

 葬式が終わらない。

 香典が追いつかない。

 親族会議は、罵声に変わった。

「お前のせいだ」

「いや、お前が――」

 家族は、割れた。

 逃げる者。

 縁を切る者。

 責任を押し付ける者。

 そして、会社が潰れた。

 資金繰りは、前月まで問題なかった。

 だが、取引先が、同じ週に三社消えた。

 理由は、ない。

 「方針変更」

 「再編」

 「検討の結果」

 銀行は、融資を止めた。

 社長は、机に突っ伏して泣いた。

 これが、わずか一ヶ月の出来事だった。

 坂上家の本家は、ようやく異常を理解した。

 祓いを求めた。

 有名な神社。

 地方の霊場。

 山奥の社。

 だが。

「……申し訳ありません」

「今回は……」

「うちでは、無理です」

 どこも、断られた。

 理由は、言わない。

 言えない。

 最後に訪れたのは、小さな神社だった。

 年老いた神主が、話を聞き終えたあと、深く息を吐いた。

 そして、怒った。

「――いったい、何をした」

 机を叩く。

「これは祟りじゃない!」

 声が震える。

「奪われているんだ」

 坂上家の人間が、すがるように問う。

「だ、誰に……」

 神主は、はっきり言った。

「稲荷様だ」

 沈黙。

「豊穣と繁栄を司る神を怒らせた」

 指を突きつける。

「これだけの速度で剥がされるのは、相当だぞ」

「謝れば……」

「謝り方が違う」

 神主は、首を振った。

「供えればいいと思ったか。祈れば帳消しになると?」

 冷たく言い放つ。

「正式に詫びるしかない」

「どこへ……」

 神主は、答えなかった。

 答えられなかった。

 その夜。

 坂上家の者の夢に、狐が立った。

 朱でも、白でもない。

 影のような姿。

 金の瞳だけが、鋭く光っている。

 声は、氷のように冷たい。

「――正式に詫びに来い」

 逃げ場のない声だった。

「それまでは」

 一拍。

「絶対に、許さねえ」

 目が覚めた時、喉が焼けるように痛かった。

 同じ夜、また一人、死んだ。

※※※

 病院の個室で。

 朔夜は、眠り続けている。

 機械の音だけが、一定のリズムで鳴る。

 創は、窓の外を見ていた。

 右手が、じくりと痺れた。

 創は、低く呟く。

「……これで、釣り合いだ」

 声に、感情はない。

 ただの事実確認だった。

 稲荷神は、奪わない。

 与えるのを、やめただけだ。

 それだけの話だった。

※※※

 坂上家の本家が、ようやく“調べ始めた”のは、不運が連続してから一ヶ月が過ぎた頃だった。

 稲荷神に正式に詫びよと言われた。

 しかし、どこの稲荷神へ?

 そもそも、なにがあった?

 そこで、本家は興信所を使った。

 ――身内を洗え。

 調査の結果出てきたのは、末端の傍系の家だった。

 福岡市内。

 薬院駅からそう離れていないマンション。

 殺人未遂事件。

 そして、その直前に起きていた、殺人事件。

 被害者は他人。

 だが、加害者は確かに、坂上家の血だった。

「……時期が」

 報告書を持つ手が、震えた。

 事件の発生時期は、不運の始まりと、ぴたりと重なっていた。

 だが。

「……稲荷?」

 誰も、そこに繋げられなかった。

 殺人。

 未遂。

 稲荷。

 線が、結べない。

 迷いに迷った末、本家は“本元”へ行くことを決めた。

 伏見稲荷大社。

 全国の稲荷の総本社。

 ここなら、何かわかるはずだ。

 清冽な気に包まれた参道を進み、正式な手続きを経て、事情を話した。

 神主は、静かに聞いていた。

 途中で遮らない。

 驚かない。

 ただ、最後まで。

 話が終わると、神主は一度、目を閉じた。

 そして、言った。

「……おそらく」

 一拍。

「こちらではありません」

 本家の人間が、息を呑む。

「福岡市です」

 はっきりと。

「博多駅の近くに、最近、名の知れ始めた稲荷の祠がある」

 ざわめき。

「そこに、正式に詫びるしかありません」

「正式に……」

「はい」

 神主は、重く頷いた。

「中途半端な供えや祈願では、逆効果です」

「では……」

「私が同行します」

 その言葉に、本家は深く頭を下げた。

 数日後。

 マンション敷地の裏手。

 あの祠の前に、人が集まった。

 坂上家本家一同。

 黒い礼服。

 重たい供物。

 酒。

 いなり寿司。

 白米。

 塩。

 正式な形で整えられた祭具。

 伏見稲荷大社から出張した神主が、祝詞をあげる。

 声は、よく通る。

 一字一句に、逃げがない。

 許しを乞う祝詞。

 詫び。

 悔い。

 今後の戒め。

 すべてが、言葉にされた。

 事務所の窓から、創はそれを見下ろしていた。

 カーテン越し。

 距離はある。

 だが、何をしているかは、手に取るように分かる。

「……」

 右手が、微かに痺れた。

 創は、表情を変えない。

 怒りは、もうない。

 激情もない。

 ただ、冷えている。

 神主の祝詞が終わり、深々と頭を下げる一同。

 誰も、創の存在に気づかない。

 それでいい。

 その時、背後で、かすかな音がした。

 病院からの、通知音だ。

 創は、スマホを見ない。

 ただ、低く言った。

「……朔夜」

 もし、このまま。

 もし、目を覚まさなかったら。

 祝詞が、どれほど美しかろうと。

 詫びが、どれほど形式を整えようと。

 それはでは、足りない。

 創の声は、氷の底に沈んでいた。

「その時は――」

 窓の外。

 三本の鳥居が、風もないのに、わずかに鳴る。

「覚悟しとけ」

 それは、脅しではない。

 神が、人に告げる最終通告だった。

 許されるかどうかは、まだ決まっていない。

 決めるのは、目を覚ますかどうか――それだけだった。

※※※

 意識が戻ったのは、事件から二ヶ月が過ぎた朝だった。

 白い天井。

 消毒液の匂い。

 規則正しい機械音。

 朔夜は、最初にそれらを認識した。

「……ここ……」

 声は掠れていたが、確かに言葉だった。

 ナースコールが鳴り、慌ただしい足音が近づく。

 医師の声、看護師の声。

 光を当てられ、名前を呼ばれ、指を動かすよう促される。

 すべてに、朔夜はきちんと応じた。

 遅れて、創が入ってきた。

 普段と変わらない顔。

 だが、目だけが違った。

 確認するように、確かめるように、朔夜を見る。

「……創さん」

 その一言で、創の肩から、わずかに力が抜けた。

「やっとか」

 それだけ言って、あとは何も言わない。

 神が、人の前で見せる感情としては、ずいぶんと不器用だった。

※※※

 リハビリは、順調だった。

 最初は、指先。

 次に、腕。

 立つ練習。

 歩く練習。

 倒れた理由が“物理的な外傷”だったことが、幸いした。

 魂は削られていなかった。

 医師は言った。

「回復は、非常に良いです。年齢と、精神状態が理由でしょう」

 精神状態。

 朔夜自身は、それに心当たりがあった。

 ――守られていた。

 目を閉じている間も、ずっと。

 創は、ほぼ毎日来た。

 長居はしない。

 だが、必ず顔を見て帰る。

 何かを置いていくでもなく、祈るでもない。

 ただ、いる。

 それだけで十分だと、最初から知っているように。

※※※

 一方で。

 坂上家は、“許された”。

 伏見から招いた神主を通じ、正式な謝罪は受け取られた。

 これ以上の災いは、起きない。

 ――だが。

 失ったものは、戻らなかった。

 潰れた会社は、再建されない。

 枯れた田畑は、すぐには息を吹き返さない。

 流れた命は、戻らない。

 離散した家族は、もう一度集まらない。

 幻覚も、幻聴も、消えはしなかった。

 むしろ。

 罪を直視できるだけの正気が戻った分、より深く苦しむようになった。

 神主は、最後にこう言ったという。

「赦しとは、元に戻すことではありません。続けることを、許されるだけです」

 坂上家は、それを受け入れた。

 受け入れるしか、なかった。

※※※

 退院の日。

 病院のロビーで、朔夜は立ち止まった。

 外は、よく晴れている。

「……助かりました」

 ぽつりと、言う。

 創は隣で、腕を組んだまま答えた。

「当たり前だ」

 少し間を置いて、朔夜が続ける。

「……神様って」

 創の横顔を見る。

「ちゃんと、いるんですね」

 創は、一瞬だけ視線を逸らした。

 そして、鼻で笑う。

「さあな」

 歩き出しながら、低く言う。

「ただ、少なくとも、人の覚悟を見てるやつはいる」

 時塔心霊探偵事務所に、ようやく日常が戻ろうとしていた。

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作者について

絢雲 蒼雪

絢雲 蒼雪

ホラーとファンタジーが好物! 小野不由美といえば十二国記ですが、個人的には残穢が好きです。 超ビビリのくせに読破。 怖くてガチで1週間寝付けなかった。 映画も観たよ。 もちろん十二国記も...

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