舞茸みたいなもの
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あらすじ
再開発で社を失った路端の稲荷神は、生き延びるために人に化け、心霊探偵になった。 ――祈りも、欲望も、呪いも、まとめて引き受けるために。 これは人に化けた稲荷神と、神を信じない霊能者が怪異と人間の業の後始末をする、現代日本怪異譚。
本文
土曜日の午後。
時塔心霊探偵事務所のテレビでは、競馬中継が流れていた。
『本日のメインレースは混戦模様。どの馬にもチャンスがあります』
「混戦な」
創は競馬新聞を畳み、腕を組む。
「こういう時ほど、変な夢を見るなよ。軸は固めて、手堅く行く」
人気どころを中心に組んだ馬券を、指で軽く叩いた。
「欲を出すとロクなことにならん」
『スタートしました!』
馬群が一斉に飛び出す。
創は、最初は落ち着いて見ていた。
直線に入るまでは。
『――外から一気に来たのは!』
「……?」
創の眉が、ぴくりと動く。
大外。
評価を切った馬だ。
『一着! 大外の――』
「……嘘だろ」
二着、三着も、創の買い目からきれいに外れていく。
電光掲示板に、確定が出た。
「……」
創は無言でテレビを見つめたまま、湯呑みに手を伸ばす。
中身は、もう冷めている。
一方。
朔夜は、少し離れたところでスマホを見ていた。
「……当たりました」
「は?」
創が振り返る。
朔夜は、画面を差し出した。
「3連単です」
創は、しばらく理解できなかった。
「……お前、それ、何基準で買った」
「勘です」
「は?」
「なんとなく、です」
あまりにも淡々と言われて、逆に言葉が出ない。
「……お前、競馬なめてんのか」
「そういうつもりは」
創は、天井を仰いだ。
「……テナント料……」
「貸し、ですね」
静かな追い打ち。
「……覚えとけ」
そんなやり取りができる程度には、日常は戻ってきていた。
※※※
夕方。
時塔心霊探偵事務所のモニター付きインターホンが鳴った。
短く、一度。
創は画面を見る。
そこに映っていたのは、若い女性だった。
二十歳前後。
大学生だろう。
服装は普通だが、肩に力が入っていて、落ち着きがない。
応答ボタンを押す。
「……何の用だ」
『あの……』
少し、間を置いてから。
『心霊の……相談を』
「内容による」
即答だった。
モニター越しでも、女性が一瞬たじろぐのが分かる。
『変なものが……見えるんです』
創は、ため息をひとつ吐いた。
「入れ」
ロックを解除する。
ほどなくして、事務所のドアが開いた。
「失礼します……」
女性は小さく頭を下げ、一歩だけ中へ入った。
その動きが、妙に慎重だった。
――すでに、何かを怖がっている。
創はそう判断した。
※※※
女性は、ソファの端に腰を下ろした。
背筋を伸ばしているが、膝の上で指先が落ち着きなく絡まっている。
緊張というより、嫌なものを思い出している仕草だった。
「……彼氏なんですけど」
少し、声を落とす。
「一ヶ月くらい前から……背中に変なものが、見えるようになって」
創は何も言わず、続きを待った。
「最初は気のせいだと思いました。疲れてたし」
苦笑する。
「でも……何回見ても、同じで」
「どんなものだ」
「……その」
言い淀んでから、はっきり言った。
「舞茸、みたいな」
創の眉が、わずかに動く。
「舞茸?」
「はい……」
女性は頷く。
「彼の背中の後ろに、でかい舞茸が生えてる、みたいな感じで」
慌てて手を振る。
「ちゃんと見えてるわけじゃないんです。ぼんやり、影みたいで」
「でも?」
「形が……どうしても、舞茸っぽいんです」
困ったように笑うが、目は笑っていない。
「ひらひらしてて、重なってて……揺れると、ぞわっとして」
その瞬間。
朔夜が、わずかに視線を伏せた。
湯呑みを持つ手が、止まる。
――違う。
幽霊の気配じゃない。
冷えも、重さも、怨念特有の尖りもない。
だが。
生理的に近付きたくない何かが、確かにそこにある。
「……いつも、彼の後ろですか」
朔夜が静かに尋ねる。
「はい。離れない感じで……」
女性は、小さく声を落とす。
「最近、彼もおかしいんです。ぼーっとしてる時間が増えて」
「体調は」
「悪いって言います。眠れないし、夢も変だって」
朔夜は、創の方を見ない。
ただ、確信だけが胸に落ちた。
――これは、幽霊じゃない。
――祓ってどうにかなる類でもない。
創は、女性の顔を一通り見てから、机の上に視線を落とした。
「それで、祓ってほしいと」
「……はい」
女性は、すがるように言う。
「気味が悪くて……消えるなら、何でもします」
創は、しばらく黙っていた。
競馬中継の音が、まだテレビから流れている。
外れ馬券の山が、脇に寄せられている。
やがて、創は立ち上がった。
「……分かった」
女性の顔が、ぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「勘違いするな」
創は、低く言った。
「祓えるとは言ってない」
女性の表情が、少し曇る。
「だが」
創は続ける。
「見ないと話にならん」
そして、事務所の窓の方を顎で示した。
「裏の祠に」
一拍。
「酒と、いなり寿司置いてけ」
「……え?」
「マストだ」
創は淡々と言う。
「それが、こっちの最低条件」
女性は一瞬戸惑ったが、すぐに何度も頷いた。
「分かりました……用意します」
創は背を向けながら、ぽつりと呟く。
「……舞茸、ねえ」
朔夜は、何も言わなかった。
ただ。
背中に、嫌な予感だけが、じわりと広がっていた。
※※※
大博通り沿いのカフェは、ピークを過ぎても人が多かった。
昼下がりの店内には、コーヒーの香りと低めのBGM、会話のざわめきが混じっている。
創はブラックを、朔夜はラテを前にして座っていた。
「……来たな」
創の声は、周囲の音に溶けて目立たない。
入口のガラス戸が開き、依頼人の女子大生が入ってくる。
そのすぐ後ろを、彼氏の浜梨 昴が続いた。
二十四歳。
背は高く、服装も清潔感がある。
だが、顔色は悪く、肩が落ちている。
――そして。
朔夜の視界にだけ、異物があった。
浜梨の背中から生えるように、無数の青白い右腕が広がっている。
骨のない腕。
筋肉も輪郭も曖昧な、半透明の腕達。
一本一本が勝手に動き、掴もうとも、引き寄せようともせず、ただ「そこに留まろう」と蠢いている。
(……舞茸)
最初に思い浮かんだ言葉が、それだった。
だが次の瞬間、朔夜は理解する。
(幽霊じゃない)
恨みはない。
怒りもない。
感情の方向が、どこにも向いていない。
あるのは、ひたすらに、消えたくないという圧だけだ。
依頼人と浜梨が創達の座る席についた。
依頼人が落ち着かない様子で言う。
「ほら……ああいう感じなんです」
もちろん、彼女には腕は見えていない。
浜梨の背後にあるものを、ぼんやりと捉えているだけだ。
「最近、ずっと体調が悪くて」
浜梨が言う。
「肩が重いし、変な夢も見るし……なにか憑いてるなら、取ってほしいです」
その言葉に反応するように、腕の群れがざわりと揺れた。
だが、敵意はない。
拒絶もない。
ただ、離されることへの本能的な抵抗。
「簡単に言うな」
創は、低く言った。
「これは“取る”って話じゃない」
「……え?」
浜梨が眉をひそめる。
「じゃあ、なんなんですか」
創は、コーヒーを一口飲んでから続けた。
「お前、最近じゃない。この二ヶ月くらいの間に、何かあっただろ」
浜梨は首を振る。
「思い当たることは……」
「本当に?」
創は、視線を逸らさない。
「大したことじゃなくていい。忘れてるくらいの出来事でもいい」
少し間があった。
浜梨は、困ったように視線を落とし、やがて口を開いた。
「……関係あるか分からないですけど」
声が、少し低くなる。
「元カノが、死にました」
依頼人が、息を呑む。
「一ヶ月半くらい前です。自殺だったって聞きました」
創の表情は変わらない。
「理由は」
「分かりません」
浜梨は首を振った。
「遺書もなかったらしいし……別れたのも、二年前です」
朔夜が、静かに問う。
「線香をあげに行ったりは」
「……行ってません」
浜梨は、少し気まずそうに言った。
「行った方がいいですか?」
創は、即答した。
「今は動くな」
「え?」
「下手に触ると、拗れる」
創は、はっきり言った。
浜梨の背後で、腕の群れがわずかに膨張する。
喜びでも、怒りでもない。
ただ、観測されていることへの反応。
創は、そこでようやく核心を突く。
「その元カノ。生きてる頃、妙な趣味はなかったか」
「妙な……?」
「呪いだの、魔術だの」
浜梨の目が、見開かれた。
「……ありました」
小さく、しかしはっきり言う。
「YouTubeで、そういう動画を上げてたって聞きました。タブー検証とか……」
朔夜の背筋が、すっと冷える。
「……やめ方、知らなかったタイプですね」
創が、低く続ける。
「そして死んだあとも、やめなかった」
浜梨が、言葉を失う。
「……恨まれてる、ってことですか」
創は、首を横に振った。
「違う」
即答だった。
「これは、恨みじゃない」
一拍、置いて。
「好奇心だ」
浜梨が、固まる。
「幽霊になったら、呪いはどうなるのか」
創は、淡々と語る。
「生きてる人間に、何が起きるのか」
背後の腕が、ゆっくりと蠢く。
まるで、答え合わせをするかのように。
「対象が、たまたま元彼だっただけだ」
創の声は、冷たかった。
「悪意はない。だからこそ、タチが悪い」
浜梨の喉が、鳴った。
「……じゃあ、俺は」
「器だ」
創は、はっきり言った。
「そして今は、もう祓えない段階に入ってる」
ざわめくカフェの中で、その言葉だけが、重く落ちた。
創は立ち上がる。
「元カノの名前と住所を教えろ」
「……何をするんですか」
「聞き込みだ」
朔夜も、すでにスマホを手にしている。
「幽霊は多い。ああいうのは、すぐ噂になる」
創は、浜梨を見下ろした。
「覚悟しろ。これは“助かるかどうか”の話じゃない」
舞茸のような腕の群れが、その言葉に、静かに脈打った。
――まるで、続きを楽しみにしているかのように。
※※※
博多の夕方は、まだ賑やかだ。
大博通りから少し外れた道でも、通勤帰りの足音や、自転車のベル、店のドアが開く音が途切れない。
「この辺りだな」
創が立ち止まる。
朔夜は、何も言わずスマートフォンを取り出した。
画面を点ける必要はない。
耳に当て、軽く頷く。
「……はい、今その話してます」
通話中を装う。
それだけで、周囲から見れば“仕事の電話をしている若者”だ。
実際には。
視線の先、街路樹の影に――いる。
作業着姿の中年男性の幽霊。
腕を組み、ぼんやりと道路を眺めていた。
「すみません」
幽霊が、ぴくりと反応する。
「ん?」
朔夜は、電話口に話しかけるような調子で続ける。
「最近、この辺で変な人、見ませんでした? 夜中とか」
「変な人?」
男の幽霊は、首を傾げた。
「幽霊なら毎日変だがな」
朔夜は、軽く笑う仕草をする。
傍目には、電話相手の冗談に笑っているようにしか見えない。
「二十代前半の若い女性です。なにか、儀式のようなこと、してませんでしたか?」
「ああ……」
男の表情が変わる。
「あの若い女の子か。見た見た」
朔夜は、小さく頷く。
「頻繁に見かけますか?」
男は、通りの向こうを指した。
「おう。ここのとこ、毎日夜中に行ったり来たりしてた。寺だ」
創が、すっと一歩前に出る。
「どの寺だ」
「名前は知らん。小さい寺だ」
それで十分だった。
朔夜は、軽く頭を下げる仕草をして通話を切るふりをする。
次。
マンションのエントランス脇。
ベンチに腰掛けた老女の幽霊。
朔夜は再びスマホを耳に当てる。
「……ええ、今ちょうど聞いてて」
電話口に説明する風を装いながら、老女に向けて口を動かす。
「夜中に、お寺で行ったり来たりしている女の子を見ませんでしたか?」
「あら……」
老女は、すぐに思い出したように微笑んだ。
「見たわ」
「若い人ですか」
「ええ」
老女は、空を見上げる。
「生きてるみたいだったけど……違ったわね」
「何をしてました?」
「門から入って、本堂まで歩いて、手を合わせてたわ」
老女は、指で道筋をなぞる。
「何度も、ちゃんと」
朔夜の指が、わずかに強くスマホを握る。
「何回やっていたか、数、分かります?」
「百よ」
キッパリした回答だった。
創が、低く呟く。
「……お百度参りだ」
最後。
寺の裏手。
石垣の影に、若い男の幽霊がしゃがみ込んでいる。
創が、距離を詰める。
「ここ、最近うるさくなかったか?」
「あー……」
男は、だるそうに顔を上げる。
「女が歩き回ってたな。夜中」
「生きてるように見えました?」
「いや」
男は首を振る。
「もう、こっち側だ」
顎で示す。
「でもさ、変なんだよ」
「変、ですか?」
「ちゃんと本堂で手ぇ合わせてた」
男は、少し笑う。
「幽霊にしては、礼儀正しすぎ」
朔夜は、静かに通話を終えるふりをした。
スマホを下ろし、創を見る。
「……揃いました」
「だな」
創は、寺の門を見た。
小さな寺。
だが、願いをかけるには、ちょうどいい大きさ。
「行くぞ」
「はい」
朔夜は、スマホをポケットにしまう。
周囲の人間には、何も見えていない。
ただ、仕事の電話を終えた二人組が歩き出しただけだ。
だが。
この先で待っているのは、百の祈りと、育ちすぎた“結果”。
二人は、寺の門をくぐった。
※※※
寺は、小さかった。
博多の喧騒から一歩外れただけの場所にある、古い寺だ。
夜でもなく、昼でもない。
境内には人の気配がなく、街の音だけが遠くに滲んでいる。
「……ここだな」
創が、門の前で足を止めた。
朔夜は、すぐに分かった。
いる。
門から本堂までの短い参道。
その上を、何度も何度も歩いている。
朔夜は、反射的にスマートフォンを耳に当てた。
「……ええ、今ちょうど着きました」
通話を装う。
その視線の先。
若い女がいた。
二十歳そこそこ。
大学生くらいの年齢。
服装は地味で、髪も無造作だ。
――だが。
足音が、しない。
彼女は、門の前で立ち止まる。
一礼する。
一歩、踏み出す。
本堂へ。
賽銭箱の前で、きちんと手を合わせる。
深く深く頭を下げ、祈る。
それが終わると、踵を返し、また門へ戻る。
一。
二。
三。
無駄がない。
雑さもない。
完全に作法を理解しているお百度参りだった。
「……まるで生きてるみたいですね」
朔夜が、低く言う。
「いや」
創は、即答した。
「もう、完全に向こう側だ」
女は、こちらに気づいていない。
いや、正確には興味がない。
彼女にとって重要なのは、祈りの儀式だけだ。
創が、一歩前に出た。
「――おい」
声をかける。
女は、ぴたりと足を止めた。
ゆっくりと、振り向く。
「あ」
声は、軽かった。
驚きも、怯えもない。
「見えてる人、初めてじゃないけど」
女は、にこりと笑った。
「神主さんとかお坊さん? それとも、そっち系?」
「どれでもねえ」
創は、距離を詰める。
「何をしてる」
「お百度参り」
即答だった。
「呪い」
あっけらかんと言う。
朔夜の喉が、わずかに鳴る。
「……誰を、ですか?」
「元カレ」
女は、首を傾げる。
「あ、別に恨んではないよ?」
当然のことのように続ける。
「ただ、気になって」
「何がだ」
「幽霊が呪ったら、どうなるのか」
創の目が、細くなる。
「それで?」
「思ったより、面白かった」
女は、楽しそうだった。
「最初は、ちょっとした違和感だけだったのに」
指を折る。
「次は、影が増えて、その次は、形になって、今は――」
視線を、空中に向ける。
「ちゃんと“集まってる”」
朔夜は、はっきりと理解した。
――悪意がない。
――怨恨もない。
だからこそ、歯止めがない。
「……止める気は?」
朔夜が、恐る恐る聞く。
「ないよ」
女は、笑った。
「次、誰にしようかなって考えてる」
その瞬間。
空気が、変わった。
創の足元から、冷えが広がる。
「――ここまでだ」
低い声。
女は、きょとんとした。
「え?」
「お前は」
創は、迷いなく言った。
「残しちゃいけねえ」
女の表情が、ようやく曇る。
「成仏?」
「違う」
一歩。
創が、踏み込む。
「祓う」
女は、初めて後ずさった。
「ちょ、待って」
「待たねえ」
創の背後で、朱の気配が立ち上がる。
神でも、人でもない。
だが、裁く側の存在。
「好奇心で人を壊すやつは」
手を伸ばす。
「次も、必ずやる」
女が、笑顔を作ろうとする。
「でもさ、死んで――」
最後まで、言わせなかった。
創の手が、空を掴む。
女の輪郭が、一瞬で崩れた。
叫びもない。
抵抗もない。
霧が、風に散るように。
存在そのものが、削ぎ落とされ霧散していく。
――成仏ではない。
――行き先は、ない。
ただ、消滅。
境内が、静まり返る。
何事もなかったように。
朔夜は、しばらく動けなかった。
「……今の」
喉が、ひりつく。
「初めて、ですよね」
「ああ」
創は、淡々と答えた。
「これでもう二度と、出てこねえ」
空を見上げる。
「だからこそ、選んだ」
祈りの道は、そこで途切れていた。
百には、届かなかった。
だが。
結果は、もう十分すぎるほど残っていた。
創は、踵を返す。
「帰るぞ」
朔夜は、頷いた。
創の背中が、少しだけ重かった。
この夜。
世界から一つ、好奇心だけで人を壊す存在が消えた。
――だが。
“舞茸”は、まだ生きている。
※※※
事務所に戻った創は、椅子に腰を下ろすと、間を置かず電話を取った。
番号は、すでに登録されている。
呼び出し音は、二回で切れた。
『……はい』
依頼人の声だ。
疲れ切っている。
「俺だ」
一言で、相手が息を呑むのが分かった。
「彼氏とは、別れろ」
前置きはない。
『……え』
「辛いのは分かる」
創は、淡々と続ける。
「だが、今優先すべきはお前の身だ。情を挟む余地はねえ」
受話器の向こうで、嗚咽を噛み殺す音がする。
「思い出の品は、全部処分しろ。お焚き上げか、売却だ」
『……そんな』
「あれは、縁を媒介に増える」
声が、低くなる。
「一つでも残せば、巻き込まれる」
一拍。
「どんなに苦しくても、まずは生き残れ」
最後に、釘を刺す。
「あの“舞茸”に近づくな。もう、人間の手に負える段階じゃない」
通話は、そこで切れた。
創は、受話器を戻し、天井を見上げた。
「……これでいい」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
※※※
数日後。
浜梨 昴は、約束の時間きっかりに現れた。
だが、朔夜はドアが開いた瞬間に察した。
増えている。
背中から生える“それ”は、以前の比ではなかった。
無数の青白い右腕。
絡み合い、重なり合い、まるで一つの巨大な菌床のように蠢いている。
浜梨自身は、ひどく静かだった。
虚ろな目。
焦点が合っていない。
「……来ました」
声に、覇気がない。
創は、立ったまま言った。
「悪いが」
はっきりと。
「もう、俺の手には負えねえ」
浜梨は、瞬き一つしない。
「祓えない。抑えることもできない」
淡々と告げる。
「月蓮寺の住職には、話を通してある」
浜梨の瞳が、わずかに揺れた。
「……寺、ですか」
「ああ」
「俺がお前にできるのは、そこまでだ」
嘘は、言わなかった。
「行ってみろ」
それ以上、言うことはなかった。
※※※
月蓮寺では、住職・児玉 真一郎を中心に、僧侶たちが交代で経を上げていた。
昼も夜もない。
浜梨の周囲には、常に人の気配があった。
だが。
“舞茸”は、日に日に大きくなった。
経をあげ続けても、腕は増え、絡まり、浜梨の輪郭を覆っていく。
浜梨自身の言葉は、次第に減った。
返事が、遅れる。
名前を呼ばれても、反応が鈍い。
人格が、削られていく。
そして、ある朝。
僧侶たちが交代に入った、ほんの隙。
浜梨 昴は、消えた。
境内の外。
門の外。
どこにも、いない。
すぐに捜索が始まった。
だが、結果は同じだった。
見つからない。
器ごと、消えた。
事務所で、その報告を受けた創は、黙って聞いていた。
電話を切り、しばらく無言で座っている。
やがて、ぽつりと呟いた。
「……だろうな」
朔夜が、静かに問う。
「……終わり、ですか」
創は、首を横に振った。
「いいや」
窓の外を見る。
夕暮れの街。
「また、どこかで必ず会う」
声が、低く沈む。
「その時は」
一拍。
「総力戦だ」
事務所に、沈黙が落ちた。
“舞茸”は、消えていない。
ただ、次の場所へ移っただけだ。
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